使徒行伝

4 主の霊を注がれて
使徒  2:14−21
ヨエル 2:28−32
T 教会からの発信として

 五旬節の日、聖霊降臨の出来事と、弟子たちがいろいろな言語で話し始めたことに続いて、ペテロの二番目の説教が始まります。二回に分けて見ていきましょう。今朝は21節までです。

 ペテロとともに、11人の使徒たちも立ち上がりました。それは、彼らが公衆の面前でイエスさまの証人であることを明らかにし、その証言に共同の責任を負った行為と言えましょう。ペテロの説教ではありましたが、これは弟子たち全員からのメッセージでもあるという思いを込めて、彼らは立ち上がったのです。そこに、教会で語られるメッセージは、説教者個人を超え、教会の人たち全員から教会の外に向かって発信されるメッセージであり、それはイエスさまご自身がお語りになっているものだという、ルカの思いが込められているのではないでしょうか。メッセージは、ただ聞くだけのものではないのです。ルカは、そのことを、何よりも教会の人たち、特に、彼が愛してやまない異邦人教会の人たちに知ってもらいたいと願い、その思いが、ともに「立って」というこの記事ににじみ出ているようです。ペテロが用いたことばは、恐らく、東方の共通語・アラム語でしたが、彼は立って話し始めました。ユダヤの習慣では、聖書を読むときには立ち、話は座ってするのが普通でしたから、これはギリシャ語圏の習慣であり、読者、つまり異邦人教会の人たちを念頭に置いてのこととお分かり頂けるでしょう。

 「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません」(14-15) ペテロは、「甘いぶどう酒に酔っているのだ」(13)と嘲った人たちに、「今は朝の9時だから、酔っているわけではない」と答えることから始めます。弟子たちがいろいろな言語で一度に語り出した時、それを異様なことば(異言)と聞いた人たちも、次第に、それは自分たちのことばであると分かって来ましたが、ユダヤ生まれの他国語を知らない人たちは「異言」を撤回せず、それが「酔っているのだ」という嘲りになったと思われます。「朝の9時」とは、神殿に詣でて祈る、そんな時間です。今、弟子たちは神殿に場所を移しているのでしょう。酔っぱらって祈りに来る人はいません。そうではなく、これは預言者ヨエルが言っていたことであると、ペテロはヨエルのことばを引用しました。


U 救いのご計画・最終章

 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火とたち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(17-21) これはヨエル書からの引用ですが、いくつかの違いがありますので、原典のほうも開いてみましょう。新共同訳からです。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(3:1-5、新改訳では2:28-32) その違いのまず第一ですが、ペテロは、ヨエル書原典で「その後」となっているところを「終わりの日に」(17)、「恐るべき日」を「輝かしい日」と言い換えました。それは、聖霊降臨という出来事ばかりでなく、イエスさまによる救いの出来事そのものが、終末のことなのだという認識を示しています。「恐るべき」は裁きを、「輝かしい」は救いを想定しているのです。ですから、「また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火とたち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる」(19-20)と、奇妙にも思えるほどの天変地異への言及も、あの十字架の日の出来事に重ね合わせてみますと、奇妙ではなくなってきます。イエスさまが十字架におかかりになっている間、「そのときはすでに12時ごろになっていたが、全地が暗くなって、3時まで続いた。太陽は光を失って」(ルカ23:44-45)いました。その日、過越の空にかかった満月も血のように赤く見えたということも「十分あり得ることである」と、或る聖書注解者は述べています。イエスさまの出来事は、神さまによる救いのご計画の、まさに最終章なのです。


V 主の霊を注がれて

 ペテロとヨエル書の違いの二つ目ですが、「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とあります。ヨエル書原典では、「わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」とあり、微妙な違いに見えるかも知れませんが、ユダヤの伝統では、終末には、ユダヤ社会を構成するすべての人、「奴隷の男女」(最下層階級の人たち)にすら神さまの霊が注がれ、預言者になるというものでした。ところが、ペテロの言い換えは、「わたしのしもべ、はしため」なのです。この「しもべ、はしため」が、神さまの霊を受けて主の救いを語り伝える、新しい主の民を指していることは明らかでしょう。きっと、ペテロも従来のその教説を学んでいました。しかし今、救いのご計画で神さまは、「新しいわが民」を望んでおられる。私たちは主の霊を注がれ、その招きの光栄に浴したのだと、これは確信的な言い方になっています。

 三番目に取り上げたいのは、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」というところです。表面的には違いではないのですが、ヨエル書の「主」は、出エジプト記3:15にある神さまの呼び名・ヤハヴェを指し、ペテロの「主」という言い方は、明らかにキリストを指していると見ていい。それは信仰者の、「救いはキリストによってのみ、恩寵によってのみ、信仰によってのみ」という告白であり、後の宗教改革者たちの告白に相当する、と言えるのではないでしょうか。

 また、相違点ではありませんが、もう一つ問題が残っています。「預言」ということです。ユダヤには古くから、恍惚状態の中での理解不能な発話「異言」や、より意識的知的なことば「預言」という文化がありましたから、現代の私たちには奇妙に感じられる黙示文学・預言者のことばも、馴染みあるものだったと思われます。もちろん、ペテロもその文化を良く知っていました。ですから今、「酔っている」と聞いた人たちが、これを異言として異議を唱えたのに対し、ペテロはこれは預言だと主張しているのです。預言は意識的知的メッセージですが、特に神さまからのメッセージを取り次ぐ時、それは「預言」と受け止められていました。聖霊に満たされた弟子たちが話していたことは、イエスさまの十字架とよみがえりのことで、まさに神さまからのメッセージでした。今、新しい主の民が誕生しつつある。彼らは主の霊に助けられながら、主の十字架とよみがえりの証人として、主の救いを「預言」している。これが、伝道者が預言者と呼ばれる所以です。この意識は、現代の私たちも、しっかり持っておかなければならないことではないでしょうか。

 もう一つ触れておきたいと思いますが、このペテロのメッセージは、ルカの手が加わって完成したということです。それは、この書全体についても言えることですが、初期教会から時間と空間を超えた私たちに、福音の奥義を継承して欲しいと願う、そんなルカのメッセージが聞こえてくるようです。従来の旧約聖書理解を超えたところでの、初期キリスト者たちの福音形成の戦いを、私たちも継承していきたいではありませんか。