使徒行伝

39 恵みのことばに
使徒 14:1−7
イザヤ  59:21
T 主に遣わされて

 前回、ピシデヤのアンテオケにあるユダヤ人会堂で、パウロの説教に対し、異なる二つの反応を示した人たちのことを見ました。一方は、もっと聞きたいと願う主に異邦人改宗者で、多くは福音を素直に受け入れ、イエスさまを信じた人たちですが、もう一方には、激しく反発する人たちがいました。テキストにはユダヤ人とあるだけですが、それはユダヤ教伝道者のグループで、多分、エルサレムから派遣されて来た人たちであろうと思われます。そのユダヤ人たちが、彼らの働きの実である、町の貴婦人や有力者たちを扇動してパウロとバルナバを迫害し、その地方から追い出したのです。それは彼らの「ねたみ」からであったと、ルカの鋭い洞察を聞きましたが、「(追われたふたりは)彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った」(13:51)と、ルカは彼らの足跡を辿ります。「足のちりを払い落として」とは、イエスさまが弟子たちを町々村々に送り出された時の注意事項(ルカ9:5、10:10-11)ですが、その町で彼らの身についた最後のもの、無価値なちりさえも払い落とす、つまり、完全な決別をすることで、「あなたがたの土地も、あなたがたも汚れている」と宣言するのです。ルカ9:5には「人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい」とありますので、恐らく、それは最後の審判に向けた神さまへの告発、という意味を持つのであろうと思われます。ふたりは彼らを拒否したユダヤ人に決別し、つまり、主から遣わされた者としてのけじめをつけて、新しい土地へと移動します。

 そこはイコニオム。ピシデヤ地方の東隣りにある、ルカオニヤ地方の主要都市です。そこはローマの軍事道路が通っていて、交通の要所として知られていたそうですが、パウロたちはその帝国道路を、伝道戦略の重要な手段として用いていました。彼らがピシデヤ地方から東を目指したのは、多分、母教会・アンテオケへの帰還を考えてのことではなかったかと思われます。「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をすると、ユダヤ人もギリシャ人も大ぜいの人々が信仰にはいった」(14:1) とあります。「安息日にユダヤ人会堂で」、この働き方は、キプロス島巡回以来、彼らの常套手段になっていたのでしょう。数日だけの、通過点のつもりだったイコニオムで、しかし、意外と好ましい反応が得られたことから、「ふたりは長らく(数ヶ月?)そこに滞在」(3)しました。「大ぜいの人々が信仰にはいった」とあるのは、その報告なのでしょうか。


U 苦難の日々にも

 イコニオムの会堂には、ピシデヤ・アンテオケのユダヤ人伝道者グループから連絡があったのでしょうか。「しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに悪意を抱かせた。それでもふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てた」(2-5) ルカは、ピシデヤ・アンテオケの「(福音を)聞く者」と「反発する者」とを繰り返し並べながら、その二派の様子をだんだんと明らかにする手法を、ここでも用いています。「兄弟たち」とあるのは、パウロやバルナバだけでなく、新しくイエスさまの弟子となった、イコニオムのクリスチャンを指しているのでしょう。反発する者たちの様子を拾い出してみますと、イコニオムのユダヤ人たちの、ピシデヤ・アンテオケのユダヤ人伝道者グループと同じような、新しい党派とその代表たるパウロに対する激しい敵意が感じられます。石打ちの刑、イコニオムでは、パウロたちの脱出により実現しませんでしたが、ルステラでの記事にはこうあります。「アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した」(14:19) 「石打ち」は神冒涜の罪による処刑でしたが、市外でという律法規定を逸脱していますので、怒りにまかせての暴挙としか言いようがありません。ルステラにも同種のユダヤ人がおり、それでこんな乱暴なことが出来たのでしょうか。この後、パウロたちはデルベやペルガなど他の町々に行き、福音を伝えているのですが、何故か詳しい記事にはなっていません。きっと、この第一回伝道旅行の様子を記録した資料・紀行文(パウロの筆による?)自体が、非常に簡潔なものだったからと思われます。にもかかわらず、ルカは、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラと三つの町で起こった迫害の、次第にエスカレートしていく様子を描いています。恐らく、別々の資料を用いながら、相当部分を彼が編集したであろうと想像するのですが、何のためだったのでしょうか。

 この記事をルカは、およそ20年後のローマで執筆しているのですが、その数年後に、皇帝ネロの迫害が起こります。イエスさまを信じる者たちに襲いかかるであろう苦難の日々を、ルカは凝視していたと言えるでしょう。22節に「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない』と言った」とあるのは、今まさに広がりつつある、異邦人教会へのメッセージが込められていると聞こえてくるのです……。


V 恵みのことばに

 第二回伝道旅行に出かける時に、パウロからバルナバに提案がありました。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」(15:36) ピシデヤのアンテオケやイコニオム、ルステラも二度目の訪問先に加えられていますので、激しさを増していく迫害の最中にもかかわらず、教会が存続しているであろうと期待されていたことが分かります。事実、16:1-5には、その地方に諸教会が立ち続けている様子が描かれていますので、アンテオケの母教会に止まっていた数年(2~3年)の間に、その地の諸教会から何回も便りが届いていたのかも知れません。「反発する者」と「聞く者」の二派に分かれたイコニオム、他の多くの町々も同じような状況だったろうと思うのですが、パウロたちが去った後も、反発する者たちからの圧力は、陰に陽に新しい教会を苦しめていたのでしょう。そのような中で、まだ出来て間もない教会にとって、パウロとのつながりは、福音との絆ではなかったかと想像するのです。

 ルカはそんな人たちの群れを「教会」と呼んでいますが、きっとそこには、「しっかり立ち続けなさい」という、励ましの意味が込められていたのでしょう。このルカ第二文書は、彼らに読んでもらうためでもあったのです。もちろん、反発する者たちにとってこの新しいグループは、キリスト教会などという別のものではなく、ユダヤ教のちょっと風変わりなグループ、としか映っていなかったでしょう。しかし、福音に触れた人たちは、「自分たちは断じてユダヤ教ではない。イエスさまを信じる者たちである」という確乎たる信仰に立っていましたから、集会もユダヤ人会堂(シナゴグ)を離れ、群れの誰かの「家」で持たれていました。いわゆる「家の教会」です。

 そんな、いかにも頼りなげな小さな教会が、それでも立ち続けて来られたのは、パウロが「彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだね」(23)たからであり、そんな「キリスト教会」としての集まりとともに、主ご自身が彼らを助けてくださったことが、何よりの力であったと言えるでしょう。「主は彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた」(3)とあるのです。教会では、恵みのことば・神さまのことばだけが、そのことば・イエスさまの福音だけが語られるのです。そして私たちは、「教会は主ご自身によって立てられるものである」と覚えなくてはなりません。恵みのことばだけに生かされる者になりたいと願います。