使徒行伝

38 恵みの時代に
使徒 13:42−52
イザヤ 49:6−13
T もっとみことばを

 パウロの説教は、現代教会の礼拝説教感覚では、決して「分かりやすい、やさしいお話」とは言い難い、むしろ、旧約聖書からの引用を中心とした、難解な説教と言っていいでしょう。しかし、ピシデヤ・アンテオケの聴衆は、これを非常に新鮮なメッセージと受け止め、もっと聞きたいと願いました。海外の、しかも、たくさんの異邦人改宗者が集う会堂でのことです。当時の礼拝説教が、語る者、聞く者にとって、こんなにもレベルの高いものだったことに驚かされます。「ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた」(42-43)とあります。「同じことについて話してくれるように」とは、その理解をもっと深めたいという願いがあってのことと思われます。そしてパウロが、ついて来た人たちに「いつまでも神さまの恵みにとどまっているように」と勧めたことばは、まるで教会の人たちへの祝福のように聞こえます。それは、メッセージの中心・「イエスさまの福音」が、話し手のほぼ期待通りに受け止められたことを意味しているようです。彼らはこの難解な説教から、確実に福音を聞き取ったのです。パウロが神さまのことばを取り次いだ。それがこの結果なったということなのでしょう。現代の教会は、果たして、これほど質の高いレベルでの、<みことば=神さま>を見つめた、みことばの取り次ぎをしているだろうか。反省する必要がありそうです。

 ルカは、このメッセージから、この町に二つの結果が生まれたと報告します。
 「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」(44)「しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」(45)と、全く異なる二つの方向を向いた人たちのことです。これは、イエスさまの招きに対し、かつて人々が取った二種類の態度を再現するものでした。福音書の中に、ルカは何回もそんな記事を紹介しています。そう聞きますと、今更同じ繰り返しを何のために……と思うのですが、奇妙なことに、この記事をルカは、わざわざ二段階に分けて紹介しているのです。二段階とは、44-45節を序文に、同じことを46-52節でより詳しく、本文記事として紹介しているということです。もちろん、時間的事情の推移もあるのでしょうが、それにしてもルカは、二つの姿勢を何回も並べています。何か意図があったと思われますので、丁寧に探ってみましょう。


U みことばの前で

 ユダヤ人の反発を耳にしたパウロとバルナバは、恐らく会堂内の礼拝の席で、彼らに向かって宣言しました。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです」(46)

 初めに、反発の態度を取ったユダヤ人グループから見ていきましょう。
 彼らの反発は、「ねたみ」からであったとルカは記します。ある注解者は、このグループが、ユダヤ教への改宗を勧める、伝道に従事していたのだろうと推測しています。彼らが長い年月を費やして来たその働きに、パウロはたった一度の説教で、こんなにもたくさんの異邦人を獲得した。そのことに「ねたみ」を覚えたとしたら、なるほどと言えなくもありません。しかし、パウロは彼らにこう言ったのです。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのである」と。神さまのことばの前で、「何人の信者を獲得したか」という「伝道」は、全くその価値を失ってしまう。それは、ユダヤ教を人間の造り上げた諸宗教の一つに成り下げてしまうことだと、パウロは彼らの根本的問題点を指摘しました。ルカはそれを良く理解したからこそ、彼らの「ねたみ」を見抜いたのでしょう。彼らは神さまの前に出て、みことばを聞かなければならなかった。「神さまのみことば」という表現で、イエスさまの福音を彼らにも聞いて欲しいという、パウロの願いがにじみ出ているようです。それは、イエスさまの願いでもありました。パウロは、そんなイエスさまの願いを引き継いだのです。

 しかし彼らは、「神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出し」(50)ました。貴婦人たちや町の有力者たちは、恐らく彼らの働きの実と思われますが、彼らはそんな実りさえ棒に振ってしまいました。「あなたがたは神さまのみことばを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」と、パウロの断罪は非常に厳しいものですが、それは、福音を単なる人間の宗教に貶めた結果、と言えなくもありません。


V 恵みの時代に

 次ぎに、パウロのメッセージを素直に受け入れた、異邦人たちに目を向けてみましょう。
 「見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである』」(46-47) きっと二回目であるこの礼拝では、先週のような長いメッセージは語られませんでした。ただ短く預言者イザヤのことばが引用されます。その原文を読んでみましょう。「主は仰せられる。『ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする』」(49:6) これはイザヤ書の40章以降に散りばめられている、有名な「神のしもべの章句」に属するところで、「あなた」は「神さまのしもべ」を指しているのですが、パウロはその後半を引用し、しかもこの「あなた」は自分たち(パウロとバルナバ)だと、極めて大胆な適用をしています。どういうことなのでしょうか。

 これは本来、イエスさまに向かって語られた使命です。ご降誕時に、エルサレム神殿で幼子イエスさまに向かってシメオンは、「異邦人を照らす啓示の光」と賛美しました。その使命をパウロは、イエスさまから受け継いだと言っているのです。彼が自分を「使徒」としているのは、その意味においてなのでしょう。ユダヤ人から騒乱罪で訴えられ、囚人となったパウロが、皇帝に上訴し、ローマに護送される少し前に、総督フェストと王ヘロデ・アグリッパの前で弁明する機会が与えられました。その弁明の中でパウロは、イエスさまにお会いしたダマスコでのことに触れます。「わたし(イエスさま)は、この民と異邦人の中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(26:17-18) パウロは、イエスさまの代理人として語りました。「あなた」はまさに自分たちだったのです。

 「異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった」(48) 「永遠のいのち」という言い方は、使徒行伝ではここと46節の、二回しか用いられていません。反発したユダヤ人が失ったイエスさまの祝福を、異邦人が受け継いだのです。彼らの信仰は本物でした。「こうして、主のみことばは、この地方全体に広がった」(49)とあります。彼ら異邦人クリスチャンが、福音を宣べ伝える者となったからなのでしょう。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(52)とルカは付け加え、異邦人教会時代への移行が、パウロの働きとともに本格化し始めます。それは、ルカが長いこと待ち望んでいた時代でした。いや、世界中の異邦人(日本人の私たちも含む)が待ち望むべき時代と言えるでしょう。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」(イザヤ49:8)と言われる、主イエスさまを見上げたいですね。