使徒行伝

37 御腕を高く上げて
使徒 13:26−41
詩篇 16:1−11
T 信仰の告白を

 16-41節のパウロの説教は、第一部、第二部、第三部と三つに区分していいと思われますが、前回はその第一部、25節までをみました。今回は、第二部(26-37)と第三部(38-41)を取り上げます。

 第一部でパウロは、救い主イエスさまをバプテスマのヨハネに証言させ、このお方は、「ある」という名前を持つ神さまご自身であると、彼の神学を展開します。しかし、それは思惟だけの冷たい理論ではなく、パウロは自分自身を、「ある」お方とは対照的な、「ない」者とする信仰告白をし(ヨハネは「その方のくつのひもを解く値打ちもない」と表現した)、そのことを中心に据えて、第一部を閉じました。「兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているです」(26)と第二部が始まりますが、「救いのことば」は、イエスさまご自身を指しているのでしょう。第二部は、第一部でイエスさまをどう迎えるのかとパウロが導かれた信仰告白、その告白を、あなたがたは「ある」お方イエスさまに献げるのか、という問いかけをもって始まったと聞かなければなりません。「アブラハムの子孫の方々」とはユダヤ人を、「神を恐れかしこむ方々」は異邦人からの改宗者を指すと思われますが、その双方に向かってパウロは、「兄弟の方々」と呼びかけているのです。そこには、パウロ自身と現代の私たちも加えていい…と思われますが、イエスさまに「わが主、わが神」という告白を献げるのか?という問いかけは、この「兄弟たち」に対してなのです。

 ところが、その信仰告白に、真っ向から逆らった者たちがいます。「エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。そして死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました」(27-29) エルサレムのユダヤ人たちがやり玉に上げられたのは、もちろん、イエスさまを十字架にかけた直接責任者という意味もありますが、今、パウロのメッセージを聞いている、このデアスポラのユダヤ人に対しても、さまざまな通達を送り、指導者然としてあれこれ指図して来る、「ユダヤ教本部」を念頭に置いてのことと思われます。かつてのサウロは、その権威を少しも疑わず、律法のエキスパートとなるべく、エルサレムに留学して来たのですが、イエスさまにお会いして福音に目が開かれ、彼らの権威がどんなに神さまのみことばから遠いものであるか、分かって来たのでしょう。


U いのちの主を!

 「みことば」は、エルサレムの長老たちからの通達によって判断・解釈するものではなく、イエスさまの福音にもとづいて理解し、聞き従うものである。これが、クリスチャンとなったパウロの基本姿勢でした。彼らは敵意からイエスさまを十字架につけてしまったのですが、実は、彼らがイエスさまにしたことのひとつひとつが旧約聖書に預言されており、それらがことごとく彼らの手によって成就していったのだと、パウロは語っているのです。それはまさに、神さまのご計画通りでした。しかし、それが神さまの手によるものであったとしても、彼らは差し伸べられた神さまの救いの手を拒否した、その事実が帳消しになったわけではありません。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます……」(マルコ14:21)とあるように、彼らはイエスさまの血の責任を取らされることになる。彼らが国を失って放浪の民となったのも、その意味においてではないでしょうか。それは、イエスさまの十字架からわずか40年後のことでした。このメッセージの最後の部分には、「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである」(41)と、引用文のような一節がありますが、これは預言者ハバククの「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい」(1:5)とあるところを、福音の光に照らして理解した、パウロからのメッセージなのです。それは、「預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい」(40)とあるように、(時代を超えて)このメッセージを聞く者たちに、彼らエルサレムのユダヤ人指導者と同じ道を歩まないようにという勧めであり、同じ道を歩むならば、破滅への道を選ぶことになる、という警告と聞かなければなりません。それは、いのちの主を拒否することに他ならないからです。

 きっと、これを執筆しているルカ自身も、このメッセージを聞きながらの執筆なのでしょう。


V 御腕を高く上げて

 パウロは語り初めから《イスラエルの国が建てられたのは、御腕を高く上げられた、神さまのお働きあってのことである》と主張していました。イスラエル建国史=救済史という、このメッセージ第一部(16-25)の主題の中心には、神さまがいらっしゃる。それがこのメッセージを通しての、骨太の中心線でした。今、主題が救い主イエスさまに移ったメッセージ第二部(26-37)においても、依然として神さま(父なる神さま)のお働きが続いていると、その論点は変わりません。いや、むしろ、イエスさまの出来事において神さまのお働きが凝縮されている、と言っているように感じられるのです。

 「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです」(30)と、パウロは福音の中心に迫っていきます。イエスさまの出来事は、恐らく、エルサレム指導者たちの都合のいい筋立てで、遠くデアスポラの人々にまで伝わっていました。中には、「イエスさまは仮死であって、死んだわけではない」という説(現代まで何度も繰り返されて来た)も含まれる。29節でイエスさまの埋葬にまで触れたのは、そんな風説を一蹴するためと思われます。それほど、「よみがえり」が信じがたいことだったからでしょう。パウロは使徒たちなど先輩と自分をも含めて証人を上げますが(31-32)、しかし、そんな証人たちよりも、(旧約)聖書にある神さまの約束(詩篇2:7、イザヤ55:3、詩篇16:10)を紹介しながら、イエスさまのよみがえりには、神さまご自身が関わられたのだと力を込めます。「朽ち果てない」とは、普通、「新しいいのち」によみがえったと理解されますが、むしろ、「神さまご自身のいのちに満たされた」と言い換えていいのではと思う。ダビデが「朽ち果てた」のとは全く違う次元で語られているのです。神さまは、ご自身が有しておられる力のありったけを、イエスさまのよみがえりに注がれたということなのでしょう。ですから、イエスさまは「朽ちない新しいいのち」によみがえった。それほどの力を込めなければならないほど、イエスさまの「死」は重かったということなのでしょうか。いや、私たちの罪が、それほどに重かったと言わなくてはなりません。その「重み」をはねのけて、イエスさまはよみがえられました。神さまが「御腕を高く上げ」られたことも、お分かり頂けるでしょう。

 第三部(38-41)でパウロが「罪の赦し」を掲げるのは、その理解のもとでです。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」(38-39) 律法が私たちを罪から解放できないのは、神さまとイエスさまがなさったこの罪の重さとの戦いを、「〜しなさい。〜してはならない」と自分自身の範疇にしてしまうことによっては、戦いぬくことができないからではないでしょうか。御腕を高く上げ、神さまはイエスさまのよみがえりに全力を注がれました。イエスさまも、私たちの罪の重さのために苦しみ、その罪を背負ってくださった。そのお方(唯一の主)が私たちの主であり、救い主であると覚えたいのです。