使徒行伝

32 主に聞き従うことを
使徒 11:1−18
箴言 22:17−21
T 古い価値観のままに

 今朝のテキスト(11:1-18)は、ペテロがカイザリヤに駐屯しているローマ軍百人隊長コルネリオの家に赴き、彼ら異邦人に洗礼を授けたこと(10章)を聞き知ったところから起こった、エルサレム教会のとまどいとペテロの弁明、そして、教会が異邦人信仰者を受け入れていく経過を語ったものです。これはルカ最大の関心事でした。それだけに、これは「経過」を単純に語ったものではなく、ここには、教会歴史の重要な分岐点であるという、ルカの意識が色濃く盛られていると感じます。たとえば、ペテロの弁明部分は、10章の出来事を短くまとめた反復でありながら、見事なまでに「経過」を意識して組み立てられた論理的な弁明になっており、導入部分には、初期教会が抱えていたいくつもの問題点も込められているようです。できるだけ丁寧に見ていきましょう。

 「さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、『あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした』と言った」(1-3) この導入部分に、「ユダヤにいる兄弟たち」が上げられています。エルサレム教会のことですから、エルサレムと近郊の人たちを含んでいるのは当然で、教会の全構成員を指していると思われます。しかし、そこに「使徒たち」が並べられているのは、ルカに特別な関心があってのことと感じられます。きっとそこには、一部の人たち・「割礼を受けた者たち」(2)と呼ばれた人たちが含まれていることが意識されており、それは、恐らく彼らが、その信条である律法主義をクリスチャンになってなおそのまま引きずっているパリサイ人や律法学者であって、教会で使徒たちと並ぶほどの強い発言力を持っていたからと思われます。彼らは、「異邦人たちが神のみことばを受け入れたことを聞いた」時に、それとは全く無関係なこと、「(ペテロは)割礼のない人々といっしょに食事をした」と非難することで、異邦人が自分たちの権力を誇示出来るエリヤ(教会)に無制限に入って来ることを、たくみに牽制したと考えていいのではないでしょうか。彼らがイエスさまを追い落とした時にも、そんな策謀が働いていました。そんなことに知恵を絞る、それは彼らの得意分野でした。


U 宗教裁判の席に

 教会がいくらかの歴史を重ね、メンバーが多種多様になってきますと、彼らのようにイエスさまの弟子となる以前の価値観に拘り、その価値観のまま発言するようになる。そして、しばしばその発言が力を持つ。現代の教会にも起こり得ることでしょう。誕生から20~30年経って、そんな状況下にあったエルサレム教会です。律法主義者たちの強い発言力は、ペテロを一種の宗教裁判に引き出しました。そこに、指導者の座を求める彼らの欲望に絡んで、教会における権威の問題が浮上してきたのではと思われます。彼らにとって、「使徒職」の存在は目障りだったに違いありません。そのほとんどが、無学な(筈の?)ガリラヤ人だったからです。ペテロが律法に違反したことは、彼ら律法主義者たちが、教会で指導者の座を確保する絶好の機会だったわけです。今や、教会はパレスチナの外にまで広がり、権力志向の人たちにとって、相当魅力ある集団になっていたことも見逃せません。

 そこで、ペテロの弁明が始まります。まずは出来事の説明からです。「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、わたしのところに届いたのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい』という声を聞きました。しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません』と言いました。すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない』というお答えがありました。すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます』と言ったというのです。そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったとおなじように、彼らの上にもお下りになったのです」(5-15)


V 主に聞き従うことを

 このペテロの説明は、10章にあった出来事のより詳細な繰り返しですので(いくつかの相違点はある)、これは、ペテロが時間をかけることで、起こった事柄をより明確に理解し、整理したということなのでしょう。この弁明はペテロ自身のもので、編集の手は加えられておらず(むしろルカの編集は10章の記事に施されている)、ルカはただ「(ペテロが)事の次第を順序正しく説明した」(4)と記しました。それは、ペテロに同行してエルサレムまで来ていた、6人(12・新共同訳)の証言があってのことと思われます。彼らはヨッパの皮なめしシモンの家の集会のメンバーで、ペテロといっしょにコルネリオの家に行き、そこで一部始終を見聞きした人たちでしたから、このような宗教裁判では、十分に証人の役割を果たす資格を持っていました。ユダヤでは通常、証人は20才以上の男子2人でしたが、6人はその三倍です。彼らの証言に、非難者たちは異議申し立てをすることが出来ません。

 ところでペテロの弁明は、「なぜ異邦人といっしょに食事をしたのか」という最初の問題点には答えていないばかりか、そのことには触れようともしていません。それは、彼の弁明を聞いていた人たちにとっても同じでした。初めから「異邦人と食事……」は、非難者たちが問題を提起するための方便のようなもので、異邦人が洗礼を受けて教会に加わって来るということ自体が問題の中心なのだと、全員に分かっていたからでしょう。この席には、ほとんどの教会員が集まっていたと思われます。その人たちが、「この言葉を聞いて静まり」(18・新共同訳)ました。非難者を含め、そこにいたすべての人々を「静まらせた」のは、10章にはない弁明の後半部分と思われます。ペテロはこう締めくくりました。「私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を彼らにお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう」(16-17)

 教会の方向を決定する大切な場面で、「あなたたちは神さまがなさろうとしていることを妨げるのか」と、ペテロの皮肉が聞こえて来るようです。神さまはすでに決定されたのだ、私たちは従うだけであると、ペテロの力強いメッセージの前で、人々は「静まった」のです。ルカが「みことばに耳を傾ける」ことこそ《もっとも大切》なことであると主張した、10章における彼の最大のテーマが思い起こされるではありませんか。「それでは、神は、いのちに至る食い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(18)と人々は、神さまが決められた方向を向いて、神さまを賛美しました。教会が向かうべき、「地の果てまで」(1:8)という新しい方向が決定したのです。この賛美には、ルカも加わっているのでしょう。ところで、ユダヤ人の古い意識はとりあえず消し去られましたが、教会には、そのような問題が繰り返し頭をもたげて来た歴史が多々あります。この初代教会の人々とともに、宗教改革など信仰の先輩たちが、みことばを聞き続けることでその危機を乗り越えて来たことを覚え、私たちもそうありたいと願わされます。