使徒行伝

30 すべての者の主は
使徒 10:23−43
詩篇  96:7−13
T 新しい出会いが

 イエスさまがコーディネイトされ、ペテロとコルネリオが出会おうとしています。
 ユダヤ人の宗教に強く心惹かれながらも改宗しきれないでいるコルネリオ。彼は、イエスさまから遣わされた御使いからペテロを招きなさいと言われ、ペテロのもとに3人の使者を送りました。一方、ペテロは、地上のあらゆる四つ足の動物やはうものや鳥などが天から降ろされ、「これを食べなさい」と言われます。彼は「汚れた物を食べることは出来ない」と拒否しますが、イエスさまから、「神さまがきよめた物をきよくないと言ってはならない」と諭されました。折しも3人の使者たちがヨッパのペテロが滞在している家に到着し、「それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した」(23)と、今朝のテキストが始まります。

 異邦人に対するユダヤ人の基本的な考え方は、自分たちを「神さまの選びの民・聖なる民」とするのに対し、自分たち以外の者(異邦人)を「神さまから遠く離れた者・汚れた者」とすることでした。従って、ユダヤ人にとって異邦人との同席は、決して許されることではありません。そもそも異邦人とは、自国人(たとえば、日本人)から見た外国人というのではなく、「ユダヤ人対非ユダヤ人」という、ユダヤ人の構図の中で生まれた言い方なのです。ユダヤ人の家の前にはきよめの洗盤があって、外出から帰ってきた時、そこで身をきよめてから家に入るという習慣がありました。それは、もしかしたら知らない間にどこかで異邦人と接触したかも知れないという、「汚れ」に起因するものでした。ここに、彼らの選民意識(特権階級意識)の理不尽さが、浮かび上がって来るではありませんか。恐らく、イスラエルが、圧倒的優位にある軍事力を背景に、パレスチナ人の居住する地区を寸断するように高い壁を作ったり、ガザ地区などに繰り返し空爆を行ない、高性能の戦車部隊で蹂躙したりと、現代におけるイスラエルの対パレスチナ問題にも、その理不尽さが顔を覗かせていると受け止めていいでしょう。

 ところが今朝のテキストでは、その冒頭の部分でさえ、ペテロ側とコルネリオ側は、自分の「家」に相手を招き入れ、自分もまた相手の「家」に入ることを否定しない、というところから始まっています。ユダヤ人と異邦人との間に横たわる問題を、「問題」とは感じさせない中で二人が出会いました。


U 新しい啓示を

 「その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、『お立ちなさい。私もひとりの人間です』と言った。それからコルネリオとことばをかわしながら家にはいり、多くの人が集まっているのを見て、彼らにこう言った。『ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人でも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました』」(24-28) ペテロのこのメッセージは、初対面のあいさつだったのでしょうか。短いながら、極めて重要な案件に触れていると感じられます。10章に語られるペテロの二回のメッセージ(28、34-43)の、まず一回目、28節を見ていきましょう。

 恐らく、ペテロの到着を待っていた多くの人たちの中には、何人ものユダヤ人も含まれており、彼ら(ユダヤ人と異邦人)は、コルネリオを中心に親密な交わりを培っていました。そんな彼らが、御使いから「招きなさい」と命じられたペテロを迎え、ひどく緊張していたとしても当然でしょう。もしかしたら、自分たちの在り方が否定されるのではないかと、ペテロを出迎えた時、コルネリオは「ひれ伏して拝んだ」ほどでした。このあいさつはきっと、そんな緊張を解きほぐしたのではないかと想像します。コルネリオの案内で、ごく自然に家の中へ入って行ったペテロは、集まっていた人たちの一番の関心事に、単刀直入に踏み込みます。ユダヤ人が異邦人の家に入り込むなど、従来では考えられないことでした。ところが、ペテロは彼ら異邦人と(彼らと親密にしている)ユダヤ人たちに、「どんな人でも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならない」という、神さまからの啓示を受けたと言い切ったのです。ペテロが見た幻は食べ物のことでしたが、今や彼は、それがユダヤ人と異邦人を隔てる垣根のことであると、分かってきたのでしょう。「私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがない」と、食べることを拒否したペテロがコルネリオの家に足を踏み入れたのは、神さまの啓示によるのであると、その変化の中心が明らかにされました。それこそが、ペテロが見た幻の中身でした。きっとペテロは、自分の見た幻のことに触れたのではと思われます。しかし、ルカはそれを省き、神さまの啓示こそペテロとコルネリオの出会いの中心にあるべき、と位置づけました。それは、コルネリオがペテロを招いたいきさつの中にも取り上げられています。「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております」(33)


V すべての者の主は

 コルネリオがこの出会いを、神さまの新しい啓示に触れるためであったと理解していたかどうかは分かりませんが、少なくともルカは、コルネリオに御使いを送ったことも、ペテロに幻を見せたことも、イエスさまのなさったことだとし、二人の出会いの意味をその点に絞っているようです。コルネリオをしてペテロの話しを聞こうとさせているそれは、そこに、「神さまがきよめた物をきよくないと言ってはならない」という、新しい啓示が提供されているからに他なりません。ルカは今、その新しい啓示=福音をコルネリオとともに、「汚れた人たち(異邦人)」に聞いて欲しいと願っているのです。

 ペテロは口を開きました。第二のメッセージです。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また、悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています」(34-43) ここには読者であるユダヤ人への配慮が溢れていますが、そのことについて説明の必要はありません。このメッセージは、イエスさまを中心に語られているからです。ペテロの話しは、イエスさまの十字架とよみがえりを中心とする、福音に移ってきました。中でも「イエスさまの名をもって罪の赦しが受けられる」と言われることは、福音のエッセンスとして覚えなければならないでしょう。ルカは、その福音によって異邦人とユダヤ人が一つになるのでなければ、その親しい交わりも意味がないと言っているようです。福音とは、イエスさまを第一とする生き方、と聞かなければなりません。神さまの新しい啓示とは、イエスさまそのものなのですから。