使徒行伝

3 主の証人として
使徒 2:1−13
イザヤ    6:8
T 主への信頼がT 五旬節の日に

 弟子団の新しい働きが始まる前に、ルカは1章で、使徒行伝の中心主題とも言える、二つのことを取り上げました。一つは、昇天されたイエスさまが霊なる神さまとして弟子たちとともにいるということ、使徒行伝は、イエスさまご自身のお働きの第二期なのです。そしてもう一つは、弟子たちの信仰です。良いことも悪いことも主に委ねて生きる、それがイエスさまとともに生きる者たちの根本的な姿勢であると、使徒行伝を貫いて、その信仰に生きようとする弟子たちの姿が見られます。それは特に、迫害の中で、いのちを賭して主の証人たろうとしている彼らの中に、凝縮されているようです。その中心主題のもとで、弟子たちの活躍の時がやって来ました。

 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」(1-4) 聖霊降臨と言われる出来事です。五旬節(ギリシャ語でペンテコステ)は、初期ユダヤ教では「七週の祭り」とか「小麦刈りの初穂の祭り」と呼ばれ、過越祭翌日(日曜日・イエスさまよみがえりの日)の「除酵祭」から、50日目に持たれた祝祭日でした。

 その日、まず最初に、二つのしるしを伴って聖霊が弟子たちに下りました。二つのしるしとは、「激しい風が吹いて来るような響き」と「炎のような分かれた舌」のことですが、彼らはその風と炎を彼らが感じた印象として語り、実際に聞き、見たものは、「響き」と「舌」であったと証言しています。このややこしい言い方の中に、彼らの証言の中心が二つ込められていると、これは聞いたルカの証言でもあるのでしょう。整理して聞きたいと思います。まず第一のことですが、「激しい風」や「炎」は「〜のような」ものだったと、弟子たちがその時のことを思い出しながら証言に付け加えたというのではなく、彼らがその響きを聞いた時、それは「激しい風」の音そのものであり、彼らの上にとどまった舌を見た時、それは炎であると感じたと、彼らが感じたそのままを証言したものであると聞かなければなりません。「激しい風」と「炎」はどちらも神さまのご臨在を伴うもので、旧約聖書には、モーセの召命(出エジプト3:2-6)やエリヤの逃避行(T列王19:11-13)などに、何回もこの表象が記されています。


U 神さまの息吹が

 「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」(4) 続いて、弟子たちは聖霊に満たされました。激しい風のような音が家全体に響き渡り、炎のように分かれた舌が弟子たち一人一人の上にとどまった、それは、「みなが聖霊に満たされた」という出来事と区別することが出来ない、一つのことなのでしょう。しかしルカは、それをまるで別のことのように記しています。それは、聖霊に満たされる時に必ずそんな表象を伴う、と誤解されないためではなかったかと思われます。「聖霊のバプテスマ」とか「聖霊降臨」と聞きますと、つい一部の人たちのエクスタシー的騒がしさを思い浮かべてしまうのですが、聖書の中でこのような表象を伴った出来事は、この時ただ一回だけでした。以後、弟子たちの聖霊体験は、「聖霊に満たされた」とあるだけで、具体的なことは何も記されいません。聖霊体験と言われるものは、必ずしもこのような不思議を伴うものではないと、覚えておかなければなりません。むしろ、私たちの内面に深く沈み込んだ「内的体験」こそ、聖霊降臨の現代形なのではないでしょうか。

 ともあれ弟子たちは、聖霊に満たされたという出来事を、自分たちへの神さまのご臨在と受け止めました。「天から」「上から」とは、そのことを物語っています。彼らは、天から激しい風が吹いて来たような響きを聞き、炎のように分かれた舌が彼らの上にとどまったことを、神さまの息が吹きかけられたと感じたのでしょうか。それは、彼らが新しいいのちに生きる者とされた、という理解でした。神さまの息吹が人を造られた(創世記2:7)のです。ユダヤ人はそのことを、彼ら民族の根元的起源であるとよくよく承知していました。新しいいのちに生きる者となった、その理解は彼らの中で、まだぼんやりとした輪郭でしかなかったかも知れませんが、少なくとも、聖霊降臨という体験は、弟子たちにとって、イエスさまの言われた「力」(1:8)が自分たちの上に注がれた、約束の出来事でした。それは彼らが、イエスさまの出来事を、希望と受け止めたことを意味しています。つい先日まで、イエスさまを見失って絶望していた者たちが、新しい希望に歩み始めたのです。


V 主の証人として

 イエスさまの出来事、それは十字架とよみがえりでした。イエスさまは私たちの罪を贖うために十字架に死んでくださいましたが、それが終焉ではありませんでした。「よみがえり」と聞きますと、生き返りと考えがちですが、古いいのちがそのまままた朽ち果てるものとして息を吹き返したのではなく、イエスさまは、永遠に生きる新しいいのちによみがえられたのです。ですから、それは弟子たちの希望となり得たのです。聖霊降臨を、「神さまの力」が注がれたという弟子たちの理解に触れましたが、それはイエスさまの「力」でした。新しいいのちに生きる者とされたということは、イエスさまのよみがえりを初穂に、弟子たちもその希望に連なる者とされた、と聞かなければなりません。そして彼らはすぐに、他の人たちもその希望を共有して欲しいと願い始めました。それは主のご命令でもありました。神さまを見失い、希望が失われたその時代に、彼らは、同胞の人たちが救いを求めてもがいていることを良く知っていました。彼ら自身もそんな一人だったからです。

 誰も救い主を知らぬまま、滅びへの道を歩んで欲しくない。そんな願いに応えるかのように、聖霊は炎のように分かれた舌となって彼ら一人一人の上にとどまりました。「舌」は、11節で「国ことば」と訳されているように、ことばを意味しています。聖霊に満たされた弟子たちは、他国のことばで話し始めました。激しい風のような音は、彼らが集まっていた家で鳴り響きましたが、その物音は周囲の人たちにまで届いたようです。「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た」(5-6)とあります。彼らは、弟子たちが話しているのを聞いて言いました。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方に住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレネ人とアラビヤ人なのに……」(7-11)と驚き惑っています。中には、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」(13)とあざける人たちもいました。しかしルカは、彼らの新鮮な驚き(3回)を通して、真ん中にユダヤを挟んで並べられた、東方と西方の九つの地方名と七つの民族名に、五旬節の日の奇跡の証人という役割を担わせているのでしょう。今まさに誕生しようとしているキリスト教会の新しい仲間として、それはまだ(改宗者を含む)ユダヤ人だけでしたが、ルカは、彼らが地の果て(1:8)から加わった人たちだと言っているのです。彼らは弟子たちの不思議を通してイエスさまの福音に触れ、弟子たちが話した「他国語」は、イエスさまご自身のことでもありました。ヨハネの証言に、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(1:1、14)とあります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」(ロマ10:17)というパウロのことばを、感じさせてくれるではありませんか。