使徒行伝

26 新しい歩みが
使徒 9:10−19
イザヤ 52:7−12
T ダマスコにて

 前回、9:1-9で、迫害者サウロとして登場してきたパウロにご自身を現わされたイエスさまと、「祈りと断食」のうちに悩みぬいているパウロの様子を見ましたが、イエスさまは、彼をご自分の働き人に用いようと、ご計画を実行に移されます。今朝は9:10-19からです。

 「さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、『アナニヤよ』と言われたので、『主よ、ここにおります』と答えた」(10)と、サムエルの故事(Tサムエル記3:3-10)に倣うかのように、アナニヤが登場して来ます。今朝のテキストでは、肝心のパウロについては、最後の18-19でほんの少し触れられているだけで、イエスさまのことは別にして、ほとんどアナニヤの記事で埋め尽くされています。まるで、彼が主役のようです。実は、後に、パウロがこの時のことを回顧しながら話している記事が二度(22、26章)ありますが、一回目(22章)では、アナニヤに敬意を表しながら丁寧に印象深く彼のことを話しているのに、二回目(26章)では、アナニヤについては全く触れていません。そんなアナニヤに、ここでルカがなぜこんなに拘ったのか、気になるところです。

 アナニヤは、イエスさまから指示を受けました。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです」(11-12) ところが、幻のうちに現われたお方をイエスさまと認めたからでしょうか。彼は、極めて率直な疑問を投げかけました。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を祭司長たちから授けられているのです」(13-14) そんな迫害者のところに私を遣わし、彼の目を直そうとされるのですか? この時はパウロのあの事件から3日も経っており、きっと、パウロが何らかの事故で、目が見えなくなっているといううわさが広まっていたと思われます。パウロが大祭司の認可を受け、これから猛烈な勢いで迫害が始まるであろうと知っていたくらいですから、その辺りの情報が筒抜けになっていたとしてもおかしくはありません。そんな情報は、洩れなくアナニヤに届いていました。彼は、ダマスコのユダヤ人クリスチャンの中心にいたと言っていいでしょう。恐らく彼は、迫害が始まる以前からダマスコに移住していたと思われますが、もしかしたら、ダマスコのユダヤ人クリスチャンたちから、指導者、或いはまとめ役として要望されて来たのかも知れない、と想像するのです。


U 溢れる信仰告白を

 そんなアナニヤでしたから、ダマスコ在住のクリスチャンたちの安全を考え、それがイエスさまへの抗議?になったのではないか。迫害者パウロと接触するのは危険であると。しかし、イエスさまは言われます。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです」(15-16) イエスさまがパウロを選び、またアナニヤを選んだことは、「主」であるお方の一方的な行為でしたから、そのことについての説明は一切いらないと思うのですが、それでもイエスさまは、パウロを選んだ目的をアナニヤに説明されるのです。それこそが、アナニヤを選ばれた理由なのでしょう。それは、迫害者から福音宣教の器に変身したパウロが、ダマスコのクリスチャンたちに受け入れられるための備えでした。パウロが福音の宣教者として立ったのは主の御旨によるのだと、その証言のために、アナニヤは立てられたと言えるのではないでしょうか。そのアナニヤの証言があって、ダマスコのクリスチャンたちは、極めて短期間のうちにパウロを仲間として受け入れました。それが、「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた」(19b)という、淡々とした短い記述になったと思われます。

 ですから、アナニヤとパウロとの間には、ものものしい会話は何もありません。イエスさまが言われたことを納得したアナニヤは、何も異論を唱えずに、もしかしたらいのちに関わる訪問でしたが、パウロのところに出かけて行きました。短く「そこでアナニヤは出かけて行った」(17)とある中に、彼の覚悟が伝わって来るようです。その覚悟があったからでしょうか。アナニヤはパウロにくどくどと説明する必要を感じなかったようです。アナニヤのことばは、パウロの回顧部分(22章)には、主の証人への招きのことばが入るなど、もう少し詳しいのですが、ルカはその部分さえも削除し、極めて簡潔にこう言わせています。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」(17) 彼にとって、イエスさまが保証してくださった、それがすべてだったのです。それは、アナニヤと彼に重ね合わせた、ルカの溢れるような信仰告白だったのではないでしょうか。


V 新しい歩みが

 このフレーズの結末に来て、ようやく本来の主役・パウロの記事に戻ります。「するとただちに、サウルの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた」(18-19a) 「うろこのような物が落ちて」とは、パウロの目が見えなくなったのは、強い光に照らされて障害を起こしたのではなく、表面を塞がれていただけであって、前回、それは主のご介入によることであると触れました。「うろこ」が何なのか、そんな詮索は不要でしょう。「目が見えるようになった」のは、アナニヤが彼の上に手を置いて(17)「見えるようになりなさい」(22:13)と言ったからで、それはパウロに、「アナニヤという者が来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見た」(12)と、イエスさまが言われたことに基づいています。見えなくなったと同様に、見えるようになったことも主の御業によるのだと、この短い記述は、そこに力点が置かれているのでしょう。このフレーズの何もかもが舌足らずのように短いのは、行間には「主」がいらっしゃる、聞くべきところを間違わないようにという、ルカの思いが込められているようです。

 その短い、舌足らずのような証言が続きます。「彼は立ち上がってバプテスマを受けた」とこれは、わずかにパウロの回顧記事に、「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」(22:16)とあるだけで、多分、その通り、アナニヤの勧めがあってのことと思われますが、この9章のフレーズでは、イエスさまもアナニヤも全くそのことには触れていない出来事です。恐らく、イエスさまとの出会い直後から暗闇の世界に閉じ込められ、徹底的にイエスさまのことを考え悩みぬいた祈りと断食の3日間が、パウロにこの決断をさせたのでは、と想像します。イエスさまの御名によってバプテスマを受ける、それがキリストを信じる者のしるしであると、収集可能な情報として、迫害者らしく注意深く、そんなしるしを持つ人たちをターゲットに捕縛していましたから、彼はその意味を十分知っていました。彼の決断は、その本当の意味でのしるしを、自分に刻み込むことでした。迫害者としての罪、いや、もっともっと根本的な、自分の神さまの前における罪がイエスさまによって赦されたのだと、お会いした十字架のお姿に接して悩みぬいたすえの、彼の結論・決断でした。それは、彼の信仰の告白に他ならず、恐らく、他の誰よりも深く刻み込まれたそのしるしは、彼が死と隣りあわせになることを示しています。その死と生の意味をも含め、ロマ書などに書き上げられる彼の贖罪論や救済論などが、この短い決断の中に込められているのでしょう。「食事をして元気づいた」とは、これも極めて断片的な記述ですが、イエスさまを信じる信仰の告白をして、彼の新しい者としての歩みが始まったと、まことに見事に言い得ているではありませんか。