使徒行伝

23 恵みと祈りによって
使徒 8:9−25
哀歌 2:17−19
T ピリポと魔術師シモン

 地の果てまでを目指して新しい歴史を歩み始めたキリスト者の群れに、神さまのお働きもあり、ピリポが登場してきます。前回の8:1-8での、ルカのメッセージです。そのピリポの記事が続きます。8章ではピリポが中心人物ですが、なぜかその最初に、ピリポ関連の記事として、魔術師シモンが取り上げられます。サマリヤの町でのことです。

 「ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた」(9) 古代社会に魔術はつきものでした。魔術師(マゴス)は、霊能者のたぐいだったのでしょう。魔術師は、神々との交流をするシャーマンであり、一種の預言者でもありました。呪文を唱えるなどして、人々の病気や不幸を癒すところから、人々の尊敬を集めていたようです。もっとも、ペルシャのマゴスは占星術に長けた科学者でしたから、一口に魔術と言っても、その内容は一様ではありません。マゴスは手品(マジック)の語源ですので、大半は不思議に見えることを行なって、人々を煙に巻いていたのでしょう。このシモンはどんな魔術師だったのか、少し後の教父たちがその伝説を伝えています。サマリヤ出身の殉教者ユスティノスは、「悪霊を使って魔術を行なった大魔術師」と伝え、聖書のラテン語訳を完成させたヒエロニムスは、彼が「神に等しい人間」であると言っていたと伝えていますが、伝説によれば、彼は宗教混合者(グノーシス主義?)と見られるようです。今朝のテキストでは、彼のことをサマリヤの町の人たちが「小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、『この人こそ大能と呼ばれる神の力だ』と言っていた」(10)「人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである」(11)とありますので、手品めいたことを得意になって誇示していたものと思われます。「大能と呼ばれる神の力」とはユダヤ的表現なのでしょうが、シモンが自分を全能の神さまになぞらえるほどだったと、ルカの皮肉な目は、その威勢の大きかったことを強調しています。

 魔術師シモンの説明にこんなにも行を割いているのは、それがサマリヤでのピリポの働きに結びついているからなのでしょう。「しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。シモン自身も信じてバプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇跡が行われるのを見て、驚いていた」(12-13)と、魔術師シモンは、その町における神々の守護者とは思われないような素直さをもって、クリスチャンの仲間入りをしています。


U 使徒たちと魔術師シモン

 普通、シモンのような立場の宗教家であれば、彼の立場を危うくするような新しい宗教が自分のエリヤに入り込んで来た場合、論争を仕掛けるか、あるいは、民衆が新しい宗教に移っていくのを阻止するような行動に出ると思うのですが、シモンにそんな行動は見られません。それどころか、伝道者ピリポに自分から近づいて、町の人たちと同じように、バプテスマ(洗礼)を受けています。宗教の鞍替えをしたと言ってもいいほどの、「大能と呼ばれる神の力」と称された宗教家とは思えない、変身ぶりです。それだけピリポの働きの大きさが強調されているのかも知れませんが、実は、1:8に記されるキリスト教史のタイムテーブルで、「サマリヤ」が上げられているにもかかわらず、そのサマリヤの宣教活動や成果はほとんど語られず(5-8節、12節、25節に、例外的に語られている)、ただ、このシモンの記事だけが大きく取り上げられています。ユダヤとは仲が悪かったサマリヤでしたし、世界伝道に至る単なる通過点として、サマリヤは軽んじられたのでしょうか。そんなことはありません。これまでユダヤ人エリヤだけに限定されていた「福音」が、かつての同胞・北イスラエル王国とは言え、今は全くの「外国」であるサマリヤに伝えられたと、エルサレムの使徒たちにその報告が届くやいなや、彼らはすぐにペテロとヨハネをサマリヤに送り込んだことからも、サマリヤが決して軽んじられていなかったことは明らかでしょう。

 しかし、このシモンにもう一つの記事が加えられます。使徒ペテロとヨハネが介入して、シモンの信仰が本物ではなかったと、明らかになった出来事(14-24)です。彼は、使徒たちが福音を信じた人たちのために祈り手を置くと「彼らは聖霊を受けた」(17)ことに感銘を受け、使徒たちのところにお金を持ってやって来ました。「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」(19) それはすぐに使徒たちによって、「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前は、このことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれない。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることがわたしにはわかっている」(20-23新共同訳)と叱責されてしまいますが、しかし、それを聞いたシモンは意外なほど素直に、「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください」(24)とへりくだっています。こう見ますと、シモンが何故そんなに厳しく叱責されなければならなかったのか、不思議です。これらの記事に込められたルカのメッセージはどこにあるのか、聞いていかなければなりません。


V 恵みと祈りによって

 ルカの目はどこに(誰に)向いているのでしょうか。シモンに? それともピリポに? あるいは使徒たちにでしょうか? これまで絶えず彼の目が、初期キリスト教会の歴史を通して、すでに立ち上げられつつある異邦人教会に向けられていたことを思い出して頂きたいのです。その目は、ここでも全くぶれていません。彼が目を向けているのは、福音なのです。その福音を見つめる目でシモンを見、ピリポを見、使徒たちを見ている。シモンは福音に抵抗しなかったのではなく、福音に抵抗できなかった。いや、抵抗したかも知れないが、その抵抗は何の効果もなかった。パウロの時のように(9:1-10)……。ルカはそのことをよくよく承知し、シモンほどの人物でも、福音の前では一人の素直な求道者に過ぎないのだと、異邦人教会を扉の隙間から覗いているような人たちに向かって、このメッセージを発信したのではないでしょうか。

 シモンは、現代の私たちです。初めて福音を聞いた時、私たちはどんなに頑固に抵抗したことでしょう。信じた後にも、立ち位置を間違えて様々な失敗を繰り返したことなど、まさに重なって来るではありませんか。それでも今なお、キリスト者の一人に数えられていることを想うとき、ただただ主の恵みと、兄弟姉妹のとりなしの祈りを思わされます。シモンは、そのあわれみに包まれている私たちなのでしょう。ピリポは福音の種を蒔いてその発端をつくり、ペテロとヨハネが刈り取りました。その足と口とは、主がお用いくださった器でした。ピリポは8章の主人公として、ステパノに続く福音の証人という重要な役割を担いながら、ほんのさわりの部分にしか登場して来ません。しかしルカは、その役割をよくよく承知しながら、シモンに関する複数の記録を、サマリヤ伝道の歴史の重要なひとこまと位置づけ、このようにまとめ上げることで、他のことがらを削除したのではないかと想像します。発端はピリポ、刈り取りはペテロとヨハネと言いました。「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた」(12)と始まって、「このように、ペテロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリヤの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」(25)と締めくくられます。その間に、悩んだり苦しんだりしながらも、主の恵みを頂いてみことばに出会っていく私たちが登場して来る。これが福音の広がりであると覚えたいですね。