使徒行伝

14 聞け。そうすれば
使徒 5:17−32
イザヤ 55:1−5
T 主のわざの発端が

 前回の挿入句(12-16)でルカは、教会内部に向けてこそ問題提起をしましたが、外部の人たちにとって教会は、著しい成長ばかりが目につくものだったのたでしょう。教会の交わりに「ひとりも加わろうとはしなかった」(13)と言われる、「ほかの人・敵意を持つユダヤ人」に、祭司や長老たちが含まれていることは言うまでもありません。彼らは、前回のペテロとヨハネの迫害に続いて、使徒たち全員をターゲットに、迫害の手を拡大させていきます。「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕え、留置場に入れた」(17-18) 彼らは、恐らく元大祭司アンナスの一門で、イエスさまエルサレム入城以来、敵として登場して来た人たちでしたが、使徒行伝では、パリサイ人たちよりはるかに強硬な迫害者になっています。「ねたみに燃えて」とその理由が上げられていますが、それは、使徒たちの言動が、民衆の熱い支持を得ていたことに対してと思われます。彼らはユダヤ最高議会の一員という権力者でしたが、その地位は、民衆に支持されてではなく、世襲によって、或いは同僚の推薦によって、更に端的に言うならば、金銭を用いて確保したものです。しかし、暴動など民衆の動向いかんによっては、その座を傷つけ、失脚することもあり得るのです。権力の座を狙う者たちは多いのですから。民衆の反感を引き起こさない。それが権力の座を維持するための、彼らの重要な関心事でした。ですから、使徒たちを捕らえたまではいいのですが、さて、民衆に支持されている彼らをどうするのか、そこまでは決めていなかったのです。それに、もう夕方でしたから、とりあえず彼らを留置場に入れ、翌日を待つことにしました。

 その夜、事件が起きました。「主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた」(19-21) 大祭司たちが裁判を始めようと、彼らを議会に引き出すために役人を獄舎に遣りますと、彼らがいない。番人は所定の位置に詰め番をしているのですが、中は空っぽなのです。当惑している大祭司たちのもとに、報告が届きました。「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、牢の外に立って、人々を教えています」(25)


U 大切な一事のために

 恐らく大祭司たちは、使徒たちに神さまを冒涜する者というレッテルを貼り、民衆から引き離してしまいたかったのでしょう。パリサイ人たちがイエスさまを民衆から引き離すのに成功した、同じ戦法を用いようとしたのでしょうか。いかなる理由であれ、彼らが神さまの名のもとに秩序づけている、ユダヤ人社会をかき回す者は、神さまの敵対者なのです。ところが事態は、大祭司たちが描いた方向、つまり使徒たちを裁判にかけて有罪とし、社会的に葬り去ってしまおうと目論んだ、それとは逆の方向に向かって進み出していました。使徒たちを牢屋に入れてひと安心と思っている間に、神さまが関与している(とは頑として認めたくなかった)と思わずにはいられない、出来事が起こったのです。彼らの権威の代表でもある、守衛長自身が先頭に立って、宮に出て行きました。そして今度は、丁重に使徒たちを議会に連れて来ました。「人々に石で打ち殺されることを恐れたからである」(26)とありますが、それは、神さまに近いのは使徒たちであり、彼らに敵対する大祭司たちが神さまを冒涜する者たち、と民衆が考え始めたことを指しています。何気ない挿入句ですが、ここでは、大祭司たちも主役が神さまであることに気づき始めたと、暗示しているようです。

 ところで、主の使いが、使徒たちを助け出すために牢の扉を開いたわけではない、ことに注目しなければなりません。主の使いは「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言い、迫害のさなかに、「このいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と、迫害の原因となったイエスさまを、なおも語り続けることを要求したのです。「いのちのことば」とはまさに、十字架上で私たちの罪を赦し、よみがえって私たちのいのちの希望となってくださった、イエスさまの福音に他なりません。大切なことは、その一事だけです。使徒たちは、その一事(福音)のために召され立てられた人たちでした。だからこそ、牢から助け出されたのに、自分たちの身の安全を確保しようとはせず、命じられた通りに神殿に出て行き、権力者たちに禁じられた福音を語り続けたのです。ゲッセマネの園でイエスさまが捕らわれた時、自分たちにも危害が及ぶとばかりに逃げ出してしまった人たちが、今度は、自分たちがターゲットにされていることを承知でなお、いのちの危険に頓着せず、迫害と真っ正面から向き合おうとしている。ですから彼らは、再び逮捕されたことにもあわてふためくことなく、有罪を覚悟し、迫害する者たちのところに戻ってきました。


V 聞け。そうすれば

 裁判が始まります。「あの名によって、教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか」(28) 大祭司たちは、用心深く、イエスさまの名を表に出そうとはしません。自分たちがその血の責任を引き受けたわけではない(民衆・「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」マタイ27:25)という思いがあったのでしょうか。にもかかわらず、彼らはその血の報復を恐れているようです。それは、神さまご自身から来るものでした。彼らが民衆を恐れるのは、表面上のことだけであって、もしかしたら、自分たちは神さまに敵対する者になっているのかも知れないと、裁く者の座に着いて使徒たちを告発しながら、不安にさらされている彼らの姿が浮かび上がってきます。

 使徒たちの答えは、「人に従うより、神に従うべきです」(29)と、単純明快でした。彼らは初めから、神さまがこの迫害という事態にご計画をお持ちだと疑っていません。これは、大祭司たちが、権力の座、民衆への媚び、神さまへの恐れと、その心があちこちに揺れ動いていることと、極めて対照的な言い方になっています。それはもちろん、使徒たちのことばとしてルカの資料にあったものでしょうが、ローマでこの書を執筆しているルカが、近づきつつある迫害の時代に向けて、異邦人世界の全教会の信仰者たちに覚えてもらいたいと願った、クリスチャンの立ち方ではなかったかと思われます。それは、多様な価値観の中を揺れ動いている、現代の私たちも聞くべきことばではないでしょうか。「人よりも、神さまに従うべき」と。

 使徒たちのことばが続きます。「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのこと(事実・言葉)の証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です」(30-32) 使徒たちにとって、今、彼らを裁こうとしている大祭司たちさえも、「敵」ではなく、イエスさまの福音を聞くべき人々となっています。もし彼らがその勧めを受け入れ、神さまの前で罪を悔い改め、イエスさまを救い主として信じるなら、神さまの御国の民として迎え入れられる。イエスさまが「(いのちの)君」であり「救い主」であることは、ルカの「このお方以外にいのちの救いはない」というメッセージ(3:11-26)で触れました。そのメッセージは、現代の私たちにも語られているのです。彼は、師パウロとともに世界各地を巡り、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Uテモテ4:1-2)、と聞いて来ました。それがこの使徒たちの証言に重なっている。「聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」のです。