使徒行伝

12 サタンとの戦いに
使徒  5:1−11
創世記  3:1−6
T 福音に招かれながら

 「ところが……」と、今朝のテキストはこんなことばで始まります。これは、今朝のテキストが、その前のバルナバの記事(4:36-37)を受け、それとは正反対の、ふたりの人物の献げものに焦点を合わせているためなのしょう。バルナバは外国生まれでしたから、教会が「地の果てまで」(1:8)福音を伝えていくために、その必要をよくわきまえた上で、「土地」を売ってその代金を献金したのではないかと、前回そのことに少しだけ触れました。その献金には、彼のイエスさまを信じる信仰が前提になっていることは言うまでもありません。しかし、「献げる」ということの意味を、教会に加わった誰もが、バルナバのように理解しているわけではありませんでした。いや、むしろ理解していないばかりか、献げる人たちが圧倒的に少なかった。だから、「献げた」人たちのことが記事にされた、と思われるのです。そして、献金が貧しい人たちに分配されていることだけが、教会の大半の人たちの献金理解になっていたのではと想像します。もしかしたら、理想的な共同生活の中に、献げた人たち(ふたりの主人公を含む)の中にも、自分たちが貧しい仲間たちを支えてやるのだという、そんな意識が芽生えていたのかも知れないと感じてしまうのです。ペテロたちの語ったメッセージに感動して教会に加わったものの、イエスさまを信じる信仰・福音ということを、本当の意味で理解していない人たちが多かったであろうことは否定出来ません。福音を理解するための教会訓練を受ける機会に乏しく、教師となる人たちの数も少ない。誕生して間もない初代教会には、そんな訓練の積み重ねが不足していました。

 「アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(1-2)というこの記事の主人公・アナニヤとサッピラも、福音の中心を飲み込めないまま教会に加わった一人ではなかったかと思われます。しかし、そのことが恐ろしい結果を招いたのでしょうか。彼らの名前が資料として残っていたことは、初代教会がこの出来事を重く受け止めていたことを示しており、ルカもまたこれを異邦人教会の中心問題の一つとして取り上げました。その意味で、この人たちは現代の私たちであり、この記事は教会の極めて現代的な問題をはらんでいると言えるでしょう。何が問題の中心であったのか、見極める必要があると考えます。私たちの信仰理解のためにも。


U 犯罪者として

 出来事はこうです。アナニヤの差し出した献金を見て、ペテロが言いました。「どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(3-4) そして、「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った」(5-6)と、ルカは恐ろしい結末を紹介しています。しかもアナニヤだけでなく、妻のサッピラにも同様の結幕が待ち受けていました。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私(ペテロ)に言いなさい」「はい。その値段です」「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい。あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します」(8-9) すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えてしまいます。そして、アナニヤを埋葬して戻って来た青年たちは、彼女が死んでいるのを見て、運び出し、夫のそばに葬りました(10)。

 ペテロの強い詰問に、アナニヤとサッピラは尋常ではない死を迎えます。そして驚いたことに、彼らの埋葬の記事を読みますと、それは普通ではないほどのスピードで行われています。アナニヤの死は、妻のサッピラに知らされていませんし、集会内で葬式のたぐいも行われた形跡がありません。青年とは、教会内のさまざまな雑用(3K)を受け持った人たちのことで、それは恐らく教会外から持ち込まれた習慣でした。彼らだけに二人の埋葬をさせたのは、彼が処刑された犯罪人として扱われたからなのでしょう。その埋葬は、犯罪者用の墓地ではなかったかと推測する人もいるほどです。

 福音理解のための教会訓練の不足に触れましたが、これは、いわば教会側の問題です。にもかかわらず、彼らは死をもってその間違いを償わなければなりませんでした。そこには悔い改めのチャンスさえも与えられていない、という指摘さえあります。記事が極端に短縮されている点を考慮しても、これはイエスさまの教えに反するもので、極めて不当な扱いではないかという声が、これまでもずっとくすぶり続けてきました。その声を跳ね返すべく、これはペテロに大使徒の権威を纏わせるための記事であるとか、「心と思いを一つにしていた」教会共同体に反した彼らは、断じて赦されることのない聖霊に逆らう罪を犯した、などという見解がありますが、どうも、的はずれの気がしてなりません。


V サタンとの戦いに

 恐ろしくショッキングな記事なのに、詳しいことは何もかも省かれ、非常に短くまとめられています。しかし、いくつかの点でルカは、そのメッセージを聞き取る手がかりを散りばめているようです。

 一つは、アナニヤには彼の断罪が死であるとは告げられていないのに、サッピラの記事では、アナニヤ以上に強い響きで断罪が告げられ、死の予告さえもされているということです。そして、公式の場に女性の名前が出て来ることは、ユダヤ人社会では珍しいことですが、この書で表に出て来た女性としては、イエスさまの母マリヤ(1:14)に続いて二人目です。そして、この記事では、どうもサッピラのほうに比重が置かれているようです。アナニヤにはなかったペテロとの会話さえ、サッピラにはあるのです。

 そのサッピラから見ていきましょう。「持ち物」(1)とあることばは、新共同訳では「土地」となっており、彼らも非常な金持ちだったことを物語っています。そして、彼女もその土地を売って献金することに同意していますので、彼女も教会のメンバーだったのでしょう。それにしては、最初にアナニヤだけが教会に来て、彼女は家にとどまっています。「同意」は、その財産にサッピラの所有権も絡んでいたことを暗示させてくれますが、それだけに、夫の後からついて行ってでも、献金を喜ぶ使徒たちを見たいのが普通の素直な感覚ではないでしょうか。ところが、彼女は出て来ません。ようやく、アナニヤの埋葬から3時間後にやって来ました。夫が教会に献金を届けに行ったことは承知していましたから、帰りが少々遅くてもわざわざ出て来る必要はないと思うのですが、彼女が教会に来たのには、夫が使徒たちから歓待を受けているのではないか、なら自分もその恩恵にという、彼女の名誉欲が見えるような気がしてなりません。初めに夫といっしょに来なかったのは、後ろめたい気持ちがあったからでしょうか。ある人たちは、サッピラがアナニヤに悪知恵を注ぎ込んだのであろうと考えています。それにしても、私たちの普通の感覚に映って来る彼らは、何も特別に問題のある人たちではなく、私たちと同じく平凡な普通人だったと思われるのですが。

 ところで、主人公はサッピラではなく、あくまでもアナニヤでした。ルカはこれを、神さまが創造された最初の人・アダムとエバになぞらえているのではと感じられます。創世記3章では、蛇(サタン)に誘惑されたエバが「食べなさい」とアダムを罪に誘い、人間に罪が入って来ました。教会時代のイエスさまの福音、これをルカはイエスさまによる「新しい世界の創造」と位置づけ、イエスさまは私たちをそこに招こうとしていると主張して来ましたが、そこに入り込んで来る罪、サタンが私たちを自分の陣営に入れるべく、主から引き離そうとしている危険性、を警告していると聞かなければなりません。それこそが聖霊に逆らう罪なのでしょう。アナニヤとサッピラが犯した罪も、サタンの手に陥った結果だったと聞きますと、ペテロが力を込めて「サタンよ。斥け」(参照:マタイ4:10)と戦った戦いを、現代の私たちもと願わされるではありませんか。「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが……」(5、11)とは、この事件が信仰をもって受け止められたことを意味しているのでしょう。