使徒行伝

10 恐れつつ主に
使徒 4:23−31
詩篇  2:1−12
T 初代教会の祈りに

 「釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」(23) 前回のテキスト4:1-22は、まだ迫害と言えるほど強固なものではありませんが、ペテロとヨハネが彼らへの招きとして語った福音を理解しながらも、それには断じて組みしないという、祭司長や長老たちユダヤ教指導者の、頑迷な姿勢を浮き彫りにするものでした。「今後イエスの名によって語ってはならぬ」と何度も繰り返し、サンヒドリンの権威を笠に恫喝した彼らの態度に、ペテロとヨハネは、強烈な迫害の始まりを敏感に感じ取ったのでしょう。そのことを報告しなければならないと、釈放されたふたりが向かった先は、仲間が集まっていたところでした。そこはきっと、イエスさまと一緒に最後の晩餐を摂った、マルコの母マリヤの家の屋上の間ではなかったかと想像します。そこには、逮捕されたふたりを案じながら祈っている、ガリラヤ時代からの古い友人たちの姿が浮かんでくるようです。仲間という言い方は、当時のイエスさまを信じる者たち全般を指すものでもありますが、ここでは、特に親しい者たちといった、そんなニュアンスが感じられます。

 彼らの報告を聞いた人たちは、心を一つにして神さまに向かい、声を上げて言いました。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です」(24) これは彼らの祈りであると聞いていいでしょう。「主よ」とこれは、奴隷に対する主人、平民に対する君主という意味のことばで、新約聖書ではわずか10回しか用いられていない用例の一つですが、10回の用例は、例外なく比較的遅い年代のものに見られ、ヘレニズム文化の影響であろうと指摘されています。また、まだ教会で行われる「公同の祈り」といったものがなかった頃に、天地の創造主に向かって信仰の告白をしつつ呼びかけるという、旧約聖書(イザヤ37:16など)の定型が導入されていることも、恐らく、もともとは使徒たちの素朴な祈りだったものに、ルカの手が加えられていると見ていいのではないでしょうか。そこに込められた、ルカのメッセージを聞いていきたいと願います。


U 救いのご計画は

 「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ』 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました」(25-28) ここに引用されたのは詩篇2:1-2ですが、メシア(油注がれた者)ということばは、この詩篇に由来すると言われ、ユダヤ人には古くからメシア詩篇として知られてきました。この祈りで使徒たちは、ヘロデ(アンティパス)とピラトを地の王たちと指導者たちの代表とし、彼らが手を組んでメシアたるイエスさまを十字架につけた、と指摘しているのです。ヘロデとピラトは、どちらもユダヤの最高位は自分にあると自負していましたから、普段は相手を認めようとはせず、「互いに敵視していた」(ルカ23:12)ほどですが、イエスさまに反抗するために、「その日仲良く」(同12)なりました。そして、そんな関係は、サドカイ派の人たちとパリサイ派の人たちとの間にも起こっています。彼らは決して認めようとはしませんが、ここに言われる「異邦人」と「もろもろの民」は、そんなヘロデやピラトを利用してイエスさまを苦しめた、サドカイ派の祭司長やパリサイ派の長老たち・ユダヤ人指導者ではないか、という告発ではなかったでしょうか。彼らユダヤ人は、自分たちを神さまの選びの民と誇り、他の民族と諸国民を神さまから遠く離れた異邦人と呼んで、汚れた者扱いをしていましたが、そんな彼らユダヤ人は断じて神さまの民などではないと、汚れた者の中に数えられていたルカの、悲痛な声が聞こえて来るようです。イエスさまによる救いという福音を基準に、この詩篇第二篇が読まれたのです。その新しい基準の目で見るなら、彼らユダヤ人指導者たちの暴挙さえも、神さまのご計画の中にあるではないかと、この祈りは初代教会の確信を伝えてきます。

 きっと、そんな使徒たちの確信に、ルカは、自分たち異邦人教会が確立しなければならない、信仰の基盤を重ね合わせているのでしょう。教会が誕生して間もない時代のことで、教会は周囲の人たちからはユダヤ教の一派と見られ、教会内ですら、ユダヤ人信者の律法主義にかき回されていました。彼らはユダヤ人というだけで指導者を気取り、教会内に派閥と争いの種を持ち込んでいました。そんなユダヤ人を、それでも教えの先達として受け入れる異邦人クリスチャンたちに、イエスさまを信じる信仰に立つ者こそ新しい選民であり、神さまの民なのだと励ましているのです。神さまの救いのご計画は、ただイエスさまの福音の中にあるという、ルカの力強いメッセージが聞こえてきます。


V 恐れつつ主に

 この祈りは、もう少し続きます。聞いていきましょう。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」(29-30) ここから、彼ら初代教会の人たちが志した信仰姿勢を、現代の私たちもそのように受け止めていかなければならないと教えられます。ペテロとヨハネは、一晩拘束された上、不当な裁判の被告として引き出され、罰するすべがなかったので、さんざんに脅かされて釈放されました。そのことを「彼らの脅かしをご覧になり」と神さまに訴えているのですが、まず第一に、この集会が迫害対策の議論を沸騰させる場にはなっていないことを受け止め、神さまに委ねる祈りこそ、教会の歩む方向であると肝に銘じなければなりません。ともすれば、私たち現代の教会は、日本の教会が第二次大戦時に政府の締め付けを受けて妥協の道を選んでしまった、その同じ轍を踏むひ弱さを持っているのではないかと危惧しています。迫害なんて過去のこと、では済まない時代の足音が、少しづつ近づいているではありませんか。「転ばなければいのちに関わる」というほどのものではないかも知れませんが、現代という時代は、確実に、いろいろな形でキリストの愛から私たちを引き離そうとする、サタンの動きが進行している時代である、と言っていいでしょう。

 この祈りにルカがどれくらい手を加えたか分かりませんが、この祈りから、彼の恩師パウロの教えが聞こえて来るようです。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。……しかし私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ8:35-39) 主とともに歩む。この祈りには、そんな信仰者の生き方が語られているのではないでしょうか。困難の中にあっても、「みことばを語らせてください。あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈った初代教会の、ひたすら神さまに向かう前向きな信仰姿勢、その姿勢を学んでいきたいと願います。そこに、主・聖霊が助け主として関与(31)してくださる。今朝の箇所も、「足なえのいやし」に端を発した出来事の顛末記なのかも知れませんが、ルカは、教会が歩んでいくべき方向を決定づけるものとして、この記事を顛末とは切り離して取り上げました。人の集まるところで、何らかの組織化が行われるのは自然なことですが、そんな動きが表面化する前に、真っ先に動かれたのは聖霊なるお方でした。それを見極めた初代教会とルカ。それは、現代の私たちも見上げるところではないでしょうか。