使徒行伝

1 主のご臨在のもとに
使徒  1:1−11
イザヤ 61:1−3
T 第二文書の執筆に

 ルカの第二文書に入ります。この表題の「使徒行伝」は、ルカによるものではありませんが、古くから用いられて来ましたので、その伝統を引き継ぐことにします。「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました」(1:1-2) 「前の書」はルカ第一文書・福音書のことですが、その24章の終わり部分に、イエスさま最後の命令と昇天の記事があり、それがこの使徒行伝1章に重ね合わされています。第一文書の続きとして、第二文書が書かれたのです。その間に40日という期間が入り、重なり具合は少々大雑把ですが。恐らく、ユダヤ人に告訴されたパウロが皇帝に上訴し、ローマに到着したパウロ一行が二年間自費で借りた家に住み、監視付きながら伝道していた(使徒28:30-31・61~2年頃)その頃、この第二文書が執筆されたのではと考えられています。以前からの知人であったテオピロにこの書を献呈することで、この書の付加価値を高め、ローマの知識人たちにも読んでもらえるよう願ったのかも知れません。ローマには本屋さんもあって、出版(手書きで少部数)も可能でした。教養ある人たちは、自分の本を世に出すルートを持っていたようです。パウロやルカも、テオピロ(恐らく仮名)を通してそのようなルートを確保していたのかも知れない、と想像するのは行き過ぎでしょうか。

 ともあれ、ルカはこの第二文書の執筆に取りかかります。「イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」(3)と彼は、イエスさまがよみがえられてから昇天までの40日間の出来事を、この短い文章でまとめています。「40日間」とはこの書だけの証言ですが、ルカは、40日間の詳細を記すことより、昇天の出来事に比重を置いたのでしょう。イエスさまよみがえりの出来事は、いくら証拠を並べ立てても、「信じない人」を説得することは出来ないと、科学者(医者)ルカは良く知っていました。「イエスさまはよみがえられた」と、その事実が大切であり、証拠を並べ立てることは、逆に事実を白々しいものにしてしまう。神さまのご計画を人間が証明する、それは不確かというより、不可能と言えるでしょう。それよりルカは、彼が活動しているその時代に、イエスさまは何をしておられるのか、そのことの方にずっと関心を寄せています。昇天は、その辺りのイエスさまを如実に語ってくれるようです。


U 主の証人として

 昇天当日のことなのでしょう。ルカは、イエスさまと弟子たちとの会話を記しました。「集まったとき(「食事を共にしているとき」・米国標準訳欄外注)」(4)とありますから、恐らく、ルカ24:36-49のような状況が、この40日間に何度もあったと思われます。弟子たちにとって、よみがえりのイエスさまとともにいることが、普通になり始めていたのでしょう。ところが、イエスさまは、彼らに別れを告げようとしておられます。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」「主よ。今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか」「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(4-8) 福音書の学びの最後で、再生した弟子団の働きがエルサレムから始まる。イエスさまの十字架とよみがえりから新しい出来事が始まると言い換えると、なぜ「エルサレム」なのかが分かると触れました。この第二文書は、弟子団の新しい歩みの記録なのです。

 イエスさまは、その新しい歩みが、父なる神さまの約束・聖霊のバプテスマを受けるところから始まる、と宣言をされたのでしょう。残念ながら弟子たちは、イエスさまの言われることを、全く理解しませんでした。ですから、「国を再興してくださるのですか」などと、とんちんかんな、ユダヤ人の旧態依然とした願望を持ち出しています。しかしイエスさまは、「聖霊が臨まれるとき、あなたがたは力を受け、わたしの証人となる」と言われたのです。弟子団の再生は、イエスさまの「十字架とよみがえり=福音」の証人になるという、目的あってのことでした。


V 主のご臨在のもとに

 それは、弟子たちがイエスさまの全権委任を受けつつ、「使徒」として働くことでした。この「使徒」は、あの12人(ルカ6:13-16)だけではなく、ステパノやピリポ、バルナバ、パウロ、そして個々の異邦人教会(パウロ文書では女性も)さえも、そこに名を連ねているようです。反面、12人の大半について、何も語られていません。「使徒」ということばが、新しい意味を持つようになったからではないでしょうか。それに関してですが、「聖霊のバプテスマ」について、もう一つ踏み込んでおかなければなりません。イエスさまは、「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」(ルカ3:16)という、バプテスマのヨハネの証言を踏襲されたのです。しかも、「あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と受動態を用いることで、そこに神さまがいらっしゃると宣言しておられる。そうすることで、イエスさまが使命のために父なる神さまから聖別されたように、弟子たちも福音の証人として神さまから聖別されるのだと、今、聖霊の新しい働きの始まりを告げられたのです。しかもここには、ルカの証言が、美しい綾織りのように織り込まれています。彼は第一文書で、ヨハネの証言をイエスさまによる聖別(聖霊のバプテスマはイエスさまが授ける)と記しましたが、それを今、神さまによる聖別としているのです。イエスさまが、神さまご自身として弟子たちに関わり始める、と聞こえて来ます。

 使徒行伝を学んでいく時に、何よりも覚えておかなければならないことは、第一書におけるイエスさまご自身のお働き(第一期)が、第二書にイエスさまご自身のお働きの(第二期)として継続されているというルカの意識が、全編を通して流れていることです。弟子たちが待たなければならなかった約束の「聖霊」は、弟子たちが新しい歩みを始める出発点になりました(2章)。弟子たちは、聖霊の助けを得て、新しい使徒に任命される。これは、イエスさまご自身のお働きの継続であるという、ルカの意識の中心と見ていいでしょう。イエスさまと聖霊は、不可分な統一体をなして働いていかれるのです。

 オリーブ山の一画に、一群の昇天教会が建っています。そこからだったのでしょうか。「こう言ってから(1:6-8)、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると見よ。白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に上って行かれのをあなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになります』」(9-11) 昇天されたイエスさまが、私たちの知らないどこか遠い世界に旅立ってしまわれた、と聞いてはならないでしょう。ただ、見えなくなられたのです。同じ状況が変貌山での出来事(9:34-36)にありますが、そこで強調されたのは、神さまのご臨在でした。神さまとイエスさまと聖霊。呼び方に違いはありますが、唯一のお方です。神さまご自身としてイエスさまは、霊をもって私たちのすぐそばにいらしゃる、とルカは聞いたのです。そのお方の助けを頂きながら、今、この現代の私たちも、新しい働きを志すことが出来るのではないでしょうか。期待したいではありませんか。