新・福音と宗教


第二部 福音と宗教

六章 キリスト教
3、日本のキリスト教

 日本に最初にキリスト教が伝来したのは、「キリスト教」という明確な形ではなく、飛鳥・奈良時代に渡来した、仏教諸派の教説にキリスト教の影響ではと思われるもの(浄土思想に、「ただ念仏申さば救わるべし」とあるその中に、恩寵の神さまの影が見えるなど)があったが、恐らくそれは、中国に入ったキリスト教(景教、ネストリウス派・キリスト教異端として西方教会から退けられた)一派の教えか、それとも、シルクロードのどこかで仏教と接触した「東方キリスト教」の片鱗ではないかと想像される。

 しかし、そのような痕跡はキリスト教信仰としては認識されず、日本人の宗教文化の中に吸収、消化されてしまった。日本人はこのような吸収、消化が得意な民族である。それは、一時期脚光を浴びたイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」に見られる日本的キリスト教で、「日本教」ではないかという提題に凝縮される。「日本人Vsキリスト教」という問題提起は、現代に至るまで日本人の中に変わらず存在し続けている。
 しかし、キリスト教の日本伝来は、そのようなキリスト教的な幻の断片ではなく、1549年にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリシタンという、歴史に刻まれた日本最初のキリスト教である。
 ともあれ、「日本人の宗教としてのキリスト教」を見ていこう。

(1)キリシタン時代

 史実に見る日本最初のキリスト教は、十六世紀戦国時代末期の1549年に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日したことに始まる。
 いわゆるキリシタン時代である。
 この時から、ローマ・カトリック教会を国教とする西欧諸国は、植民地政策の競争もあり、多くの宣教師を日本に送り込んで来た。
 東方キリスト教はずっと遅く、ロシア正教が東京・お茶の水にニコライ堂を建てただけで、他は確認されていない。
 ザビエルの日本滞在はわずか二年余りだったが、上陸した鹿児島から各地を巡回した後、京都に上り、多くの人たちをキリスト教に導いた。だが彼は、日本人の優秀さに驚嘆し、日本人を獲得するにはそのルーツ中国を知らねばならないと、中国に渡るためにマラッカで中国伝道の準備をしていたが、熱病のため亡くなった。
 だが、ザビエルの日本伝道報告はポルトガルやスペインで大きな反響を呼び、多くの宣教師たちが日本伝道を志して渡来した。彼らは九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得し、ザビエル以降約40年は「布教の時代」と呼ばれる。その頃のキリシタン人口は約二十万人と伝えられるが、全国の総人口が二千万人の時代に、驚くべき数字である。
 当時の覇者・織田信長は、西欧文明をもたらす者として、彼らを南蛮寺(教会)やセミナリオ(神学校)を作って優遇した。また、九州のキリシタン大名たちは、伊藤祐益ら13~14歳の七人の少年使節をバチカンに派遣し、彼らはローマ教皇に謁見後、ポルトガル、スペイン、イタリアなどヨーロッパ各地を歴訪し、行く先々で非常な歓迎を受けた。
 世界の仲間入りをと願う、当時のキリシタンの熱い思いが伝わって来るではないか。
 ところが、1687年に豊臣秀吉が突如発動したキリシタン宣教師追放令によって、その活動期は暗転する。
 もっとも、宣教師たちが修道士服を脱ぎ捨て、公然たる活動を遠慮するなどが好感を持たれたのか、この禁教令はさほど実害をもたらさなかった。
 なぜこの禁教令が出されたか、その経緯を説明しよう。
 従来の日本伝道は、教皇グレゴリウス十三世により、イエズス会(ポルトガル)に限るとされていたが、スペインのフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが使節として来日して秀吉から好遇を得て、宣教師増派を求めて京阪で公開伝道を開始した。それに危機感を募らせたイエズス会の宣教師たちが、「国禁を犯すもの」としてフランシスコ会に警告し、両派の反目がポルトガル、スペイン両国の利害対立にまで及んだ。その抗争に秀吉の怒りが爆発し、フランシスコ会員26人を捕らえ、長崎郊外の立山で十字架刑に処した。
 世に知られる26聖人の殉教である。
 以後、キリシタン禁教は、日本の国策として徳川幕府に引き継がれ、キリスト教に対する民衆の偏見が、現代にまで定着している。
 一人の宣教師の思慮の足りなさが、これほどの結果を生んだ。植民地政策という国策が宣教師の判断を狂わせたとしたら、それはもうイエスさまの福音ではなく、キリスト教も宗教のレベルでしかない。
 しかし、秀吉のキリシタン禁教政策は、厳しいところもあったが、総じて部分的・限定的なものであった。だが、秀吉後の徳川幕府は、国をあげて徹底的にキリシタン弾圧をし、多くの信徒や聖職者が殉教していった。
 江戸幕府が採用したキリシタン撲滅作戦は、全国民を仏教寺院の檀家として登録させる、「寺請制度」という極めて巧妙なもので、寺院活用を思いついたのは、家康が熱心な仏教徒(浄土宗)だったからだろう。
 檀家制度にはもちろんキリシタンも含まれるから、キリシタンたちは寺院の証明書がなければ、葬儀も旅行も町内会の行事参加も・・・と、市民生活が出来なくなった。しかも、幕府は報奨金を出してキリシタン訴人を奨励し、踏み絵まで考え出した。かつて手に取った踏み絵は、多くの人たちに踏まれて、黒ずんで薄汚れていた。
 そのような下地を整えながら、家康は1614年(慶長19)にキリシタン大追放令を発布した。全国から長崎に集められた外人宣教師と信徒400余人が、マカオとマニラに追放され、さらに京阪の信徒71人が津軽に流罪された。
 この大追放令後、キリシタンたちは地下に潜伏するようになった。いわゆる隠れキリシタンである。表向きは仏教徒だが、密かに倉などに集まり、マリヤ像などを囲んで礼拝を行なっていた。灯籠に火を入れると、ある角度でマリヤの姿が壁に映し出される、そんな石灯籠を倉敷で見たことがある。古い庄屋の屋敷千坪を、岡山のある教団が教会のために購入したものだった・・・
 倉には逃走用の隠し扉まであった。

 何が秀吉や家康をそれほどまでキリシタン嫌いにしたのだろうか。
 秀吉の場合には、ポルトガルとスペインの熾烈な争いが日本国内に持ち込まれたことで、外国人たちが自国を土足で踏み荒らしたことに対する怒りだったと想像はつくが、家康の場合は、そんな単純なことではない。家康の執拗で用意周到なキリシタン迫害には、潔癖な仏教徒が他宗教を嫌う以上の原因があったと思われる。それは、キリシタン放置は日本統治に恐ろしい障害をもたらすという、恐怖ではなかったか。
 ここまで家康を追い込んだキリシタンへの恐怖意識は、恐らく、その時期は欧州各国がアフリカやアジヤや南米に植民地獲得を競っていた最初期で、ポルトガルとスペインの植民地政策がもろに顔を出したことによるのだろう。キリスト教は当時、欧州白人第一主義の先兵になっていた。詳しいことは避けるが、欧州の白人たちは、有色人種にかなりひどいことをやっていて、宣教師たちも、知らず知らずにその片棒を担いでいたのだろう。
 そんな世界情報が為政者・秀吉や家康に届いていたとしたら、その植民地政策阻止は当然だろう。
 欧州から見て東端にある小さな島国にも、そんな情報はかなり正確に届いていた。
 彼ら為政者たちが、欧州の白人たちの鋭い牙に食い荒らされないように警戒したとしても、不思議ではない。彼らの主君・織田信長は、宣教師たちからそんな世界情報を仕入れていたのだから・・・

 だが、彼らは、キリシタンたちの誠実で豊かな愛に触れることはなかった。
 もし彼らの信仰と愛に触れ、真の神さまを覚えていたなら、全く違った状況になっていたのではないか。残念と言わざるを得ない。
 そして、宣教師と名がつくほどの者なら、こうしたことの善悪を判断する知恵と教養は身につけておきたいと思わされる。それは、キリスト者全員に課された課題ではないか。

 ずいぶん前のことだが、山陰地方のキリシタン遺跡巡りをしたことがある。多くは、寺院所領墓地の一角にある彼ら葬りの場所だったが、長く差別されていたからか、奥まったところに、他とは別の墓地が朽ち果てるように放置されていた。よく見ると、戒名の墓石にかすかに十字が刻まれて、キリシタンの痕跡が残っていた。迫害の中で信仰を守り抜き、従容として殉教していった人たちに、キリシタン墓地に葬られた人たちが重なって来る。そのほとんどが、貧しい農民だった。彼らは、領主より「でうす」(天主)や「さんたまりや」を重んじたのである。虐げられて貧しく、失うものを何一つ持たなかったからだろうが、そんな人たちの中に、純粋なキリシタン信仰が育っていた。
 それほど人を惹きつける宗教は、日本には存在していなかった。日本古来の宗教とされる神道には、それがアニミズムだったとしても、神々への誠実な信仰を培った昔日の面影はなく、仏教からも、民衆に先駆けて悟りを開こうとする魅力は失われていた。神道も仏教も、すでに貧しい民衆からは乖離しており、しばしば発生する新興宗教も、最初の頃の魅力は時間とともに色あせていた。唯一、キリシタンの信仰のみが輝いていたから、為政者たちがその輝きを恐れたのではないかと強く感じた。

 キリシタン史の中で驚嘆すべきことは、彼らの殉教だけではない。
 度重なる殉教と追放にも日本伝道をあきらめず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会・・・が送り込んだ宣教師たちは、何度も日本潜伏を図り、実際に潜伏して平均4~5年を伝道のために働き、ついに発覚して殉教、というケースが非常に多かったと報告されている。彼らはひそかに各地の隠れキリシタンを巡回し、そこで新しい受洗者を・・・という働きをしていたから、地下にもぐった隠れキリシタンには、細々ながら、密かな連絡網があったのだろう。貧しくて無学な者たちの内にある信仰の力強い生命力に、驚嘆させられる。

 禁教令から約250年後の幕末1865年3月に、出来上がったばかりの長崎・大浦天主堂で、フランス人ベルナール・プティジャン神父の元に、隠れキリシタンたちが現われて信仰告白を行い、その後続々と隠れキリシタンたちが現われた。「信徒発見」のニュースが、彼らが祈りと洗礼と種々の典礼暦を守っていたことと合わせて、欧米でセンセーショナルに伝えられた。
 生き残った隠れキリシタンの多くは、カトリック教会に合流したが(その数およそ一万人)、まだ禁教令が解かれたわけではなかった。明治維新政府も禁教令を継続し、依然として投獄や拷問や流刑など、キリシタン弾圧は全国規模で行われていた。


(2)プロテスタント史

1、夜明け


 明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは、1873(明治6)年、欧米諸国から猛烈な抗議を受けてのことである。
 キリシタン禁教札が撤去されたと伝わると、欧米から、プロテスタント諸派の宣教師たちが大挙渡来した。
 日本がキリスト教の挑戦にどう応えるか、もう一度のチャンスを神さまから突きつけられたと見る教会史家がいるが、まさにその通りだろう。
 日本の近代化に深い影響力を及ぼしたキリスト教は、おもにプロテスタントだった。以後、それに留意しながら見ていくことにする。
 神戸にいる筆者にはとても惹かれる逸話だが、吉野丈夫著「神戸と基督教」に載っているので、まずそれを紹介しよう。
 米国ボストンの町に、ウイリアム・ローブスというクリスチャン実業家がいた。彼は自宅を開放して月一度の「世界伝道祈祷会」を行なっていたが、ある日の集会で、祈りの後に献金を募ることになり、何げなく手許にあった竹籠で献金が集められたが、その時献げられた27ドル8セントの献金を「どの国の伝道に用いようか」との問いに、竹籠が日本製だったことから、「日本のために」と提案され、以後、献金はすべて日本伝道のために積み立てられ、総額4000ドル以上になったと言われる。やがて、宣教団体「アメリカン・ボード」が、神戸最初のプロテスタント宣教師として若きD.C.グリーン夫妻を送り出すことになり(明治3年)、その献金が彼らを支えるために献げられた。彼らの祈りが始まったのは、グリーン夫妻が遣わされる40前のことだった。

 明治三年といえば、日本はまだキリスト教禁止の真っ最中だった。
 しかし、ペリー提督来日による横浜、神戸、函館の三港開港以後、欧米諸国は多くの宣教師を日本に送り込んで、着々と日本人伝道に備えていた。

 明治六年のキリスト教禁教高札撤去以前に日本にやって来たプロテスタント宣教師は、ヘボン、ブラウン、フルベッキ、バラ、ゴーブル、グリーンなどである。彼らはおもに横浜に定められた居留地に住みながら、日本語習得に力を注ぐかたわら、聖書の和訳や、診療所を開いて西洋医学による治療を行ない、洋学塾を開いて教育に力を注ぐなど、間もなく来るであろうキリスト教禁止令解除を待っていた。
 特筆すべきことがある。
 居留地には日本人も自由に出入りすることが出来たから、多くの若者が宣教師たちに接触して英語などを習っていたが、何人もの若者たちが宣教師たちが伝えるイエスさまの福音を信じた。洗礼こそ行われなかったが、日本伝道はすでに始まっていたのだ。

 中でも宣教師たちが力を注いだのは、「聖書の和訳」だった。
 キリシタン時代には、残念ながら、聖書和訳の動きは確認されていない。
 記録に残る和訳で最も古いのは、「はじめに極楽ござる」で始まるヨハネ福音書だが、これはマカオ滞在の英国商務庁通訳ギュツラフが、1837年にシンガポールで出版したものだ。日本在住の宣教師訳としては、ゴーブル訳やブラウン訳、ヘボン訳など個人訳がいくつか出版されているが、いづれもすぐれた内容ながら、福音書など一部に留まっている。

 聖書の和訳を志した宣教師たちには、旧新両約聖書の全訳で、日本人教会で共通して用いられるものとの思いがあった。

 明治5年の第一回宣教師会議(横浜)で、米国聖書協会の事業として、各派合同の新約聖書和訳が満場一致で可決され、ブラウン、ヘボン、グリーンの三宣教師と奥野昌綱、松山高吉の日本人2人を加えた5人の委員会で、総勢22名の翻訳者を得て明治七年翻訳に着手、13年に完成出版した。これに明治9年から17年までかかって完成した旧約聖書を加え、公認の委員会訳として用いられるようになったのが、明治元訳である。後に新約聖書は大正訳と呼ばれる新版に改訳されるが、日本聖書協会が設立され、それは旧約聖書の明治訳とともに旧新両訳聖書(文語訳)として引き継がれ、新しい事業として着手された昭和訳(口語訳)の完成まで、委員会訳として用いられた。この委員会訳の明治元訳は、米国聖書協会からの出版だった。日本聖書協会訳は、新共同訳(1987年)、聖書協会共同訳(2018年)に引き継がれ、また、日本聖書協会とは別に、米国のロックマン財団の資金援助を受けて、福音主義陣営による新改訳刊行会が設立され、「逐語訳」を目指して1971年に「新改訳」を、2017年にはその大幅な改訂版「新改訳2017」が出版された。
 なお、神戸のグリーン博士は、宣教師としてはただ一人、明治訳と大正訳の二つの翻訳に関わっている

 キリスト教解禁直前の明治五年一月のことである。
 横浜在住の宣教師と日本人信徒たちは、バラを中心に初週祈祷会を開いた。
 参会者約三十名のこの祈り会は、予定の一週間を大きく延びて数十日にも及んだという。何人もの人たちが洗礼を受けて、ついに、バラ宣教師を仮牧師に日本基督公会(横浜公会)を設立した。
 これが日本最初のプロテスタント教会である。
 彼らは、翌明治六年に禁教令が撤去されるのを見越していたのだろう。
 この後、本多庸一、伊深梶之助、植村正久等、やがて日本のキリスト教をリードする人材が続々と仲間に加わり、やがてこれが「横浜バンド」と呼ばれる、日本人を中心とする教会連携体制誕生につながっていく。
 横浜バンドだけではない。期せずして全国各地にキリスト者が誕生し、多くの教会が産声を上げたが、ある意味でそれは、教派誕生でもあった。日本に宣教師たちを送り込んだ母体がすでに教派中心主義だったから・・・

 横浜バンドをはじめ、日本キリスト教史には、「〇〇バンド」と呼ばれる日本人によるキリスト教形成運動のいくつかの流れがある。バンドとは「連帯意識」のことで、何を中心にしたかはそれぞれ違うが、近代化に向けて走り始めた日本の、「自分たちがその将来を担う」という強烈な意識が、キリスト教に入信した若者たちにあったのだろう。期せずして明治初期の同じ頃、熊本バンド(同9年)、札幌バンド(同9年)、横浜バンド(明治10年)と、三つのバンドが生まれた。日本のキリスト教を見ていく中で、このバンド結成の動きは注目に値する。
 他に、明治三十八年とかなり遅くなるが、ある人たちは、B.F.バックストンとパゼット・ウィルクスの影響下にあるきよめ派の流れを、神戸バンドと呼んでいる。しかし、これは、バンドというより、乱立する教派の流れをさらに加速したものだろう。大部分の教会史家たちは、これをバンドとは数えていない。

2、日本におけるキリスト教形成運動

(1)横浜バンド

 日本におけるキリスト教形成運動、「○○バンド」を紹介しよう。
 最初に横浜バンドを取り上げる。これは明治十年と、三つのバンド中では一番遅い誕生だが、影響力という点では、群を抜いている。

 横浜バンドは、バラとブラウン二人の宣教師の感化を受けて入信した青年たちにつけられた通称だが、青年たちは宣教師の手を離れ、次第に日本人独自の働きを展開するようになった。最初に洗礼を受けたのは、バラに日本語を教えていた矢野元隆だが、その他、ブラウンやバラから洗礼を授けられた島田三郎、植村正久、井深梶之助、本多庸一、押川方義、篠崎桂之助といった十一名が、バラを仮牧師として日本基督公会=横浜公会を設立、日本人教会の第一号となった。これは、横浜海岸教会として今に残っている。
 横浜における公会の創立は東京にも波及し、六年築地に東京基督公会を樹立、以後各地に公会(教会)が建てられた。これら公会は、初めは無教派主義を標榜していたが、長老教会の宣教師が二派に別れ、教派を主張する者たちが「日本長老教会」を設立した(後述)。
 彼らはやがて、日本長老教会、スコットランド長老教会(計九教会・信徒数623名)に教派合同を呼びかけ、「日本基督一致教会」を組織。一致神学校も新設され、邦人伝道者による全国的働きが本格化していった。後に南長老教会など幾つかの教派やミッションが加わったが、宣教師は補佐役に終始していたようである。
 このバンドは最初から教会形成を活動の中心とし、長老教会として広がっていたが、このバンドがそれぞれの教派を主張することはなく、初期の頃ではあったが、超教派主義を標榜していたことは特筆に値する。
 長老教会とは、スイス・ジュネーブで改革に取り組んだ、カルヴァンのもとで成立した「改革派教会」が、英国に飛び火して立ち上がった教会のことである。以来、長老教会は、改革派教会と同じカルヴァン主義神学を表明しながらも、改革派教会とは一線を画して来た。英国が大陸の欧州と与したがらなかったためと思われる。

 しかし、やがて熊本で誕生し、京都に移って、新島襄指導のもとで形成された組合教会との合同の気運が生まれ、合同素案まで作られたが、最終段階で組合教会から反対が起こり、合同は断念。日本組合基督教会、日本聖公会、日本浸礼教会、日本メソジスト教会など、諸教派が誕生する。

 日本基督一致教会は、第二次世界大戦直前の昭和十四年に、宗教団体法によって、政府主導のもとでほとんどの教派が日本基督教団としてまとめられるまで続く、日本基督教会となった。現代の教会史家はこれを「旧日基」と略称する。なぜなら、現在、長老教会が日本基督教会としてまとめられ、「新日基」と呼ばれているからである。
 なお、この日本基督教団に加わらなかった小さな教派は、戦時中、スパイ容疑で多くの牧師たちが拘束、投獄された。小教派ほど、欧米の宣教団体の援助に頼っていたからである。若いころ可愛がって頂いた老牧師の著書に、「巣鴨短大入学記」という題がつけられていた。戦時中、投獄を余儀なくされたのである。東京・巣鴨には刑務所があった。戦後、宗教団体法の廃止にともなって日本基督教団は解体したが、現在の日本基督教団は長老教会だけでなく、他教派をも含めながらその流れを引き継ぎ、教会合同というエキュメニカル運動の中心に居続けていると言っていいだろう。

(2)熊本バンド

 熊本藩は、中央政権を独占した薩長両藩に追いつこうと、県内の英才教育機関として、熊本洋学校を開校した。
 開校に尽力した横井大平(幕末の政治家で思想家・横井小楠の甥)は、長崎の宣教師フルベッキの紹介で、南北戦争に従軍した北軍将校L.L.ジェーンズを校長として推薦した。
 ジェーンズは、明治四年、妻と幼い二人の子どもを伴って熊本に赴任。
 三十四歳の理想に燃える優れた教育者だった。

 ジェーンズ大尉は、熱心なキリスト者だったが、それには一言も触れず、自らが学んだ米国北軍士官学校のカリキュラムを取り入れ、教育に専念した。その教育は、立身出世に偏りがちな生徒たちに、実学の大切さを教え、質素な市民社会的職業倫理を説くものだった。
 しかしながら、赴任後三年を経て自宅を開放、聖書を講じ始めた。出席者は次第に増え、日曜礼拝まで行なわれるようになった。

 明治九年、有志生徒35名が熊本市郊外の花岡山に登り、そこで「奉教趣意書」を読み上げて信仰誓約の署名を行なった。宮川経輝、金森通倫、海老名弾正、横井時雄といった、後世の優れた教育家や指導者たちが名を連ねた。
 熊本バンドの誕生である。
 しかし、この熊本バンドは、生徒たちが「キリシタン」になったということで、両親や親族と学校関係者の間で問題となり、ジェーンズはわずか五年で学校を追われ、洋学校そのものが閉鎖に追い込まれた。
 ジェーンズは35名の行く末を案じ、米国留学を終えて京都に組合系学校・同志社英学校を創設(明治八年)した新島襄に彼らを託し、熊本を去っていった。
 組合系とは、英国国教会を離脱し、ピュウリタンとなって米国に飛び火した会衆制教会のことである。いくつかの教派が連合したことで「コングリゲーショナル・チャーチ」と呼ばれ、それが組合教会と訳された(後述)。

 以後、同志社がこの熊本バンドの伝統を引き継ぐことになる。
 その伝統は実学であり、人に仕える信仰者の基本姿勢を大切にすることであった。そこから多くの伝道者や実業家が育ったのは、伝統が生きた証だろう。
 同志社大学神学部はその伝統のもとで創設され、教会ばかりか、経済界や政治界で活躍する多くの人材を輩出したが、次第に縮小され、現代は神学部そのものの存続まで問題にされているのは悲しいことである。

(3)札幌バンド

 1876(明治9)年、北海道開拓のために設立されたばかりの札幌農学校(現北大)に、初代校長として、米国マサチューセッツ州立農科大学第三代学長ウイリアム・クラーク博士が招聘された。教え子だった新島襄の推薦と聞く。
 マサチューセッツ州には名門のハーバード大学があるが、ハーバード大学の神学部が自由主義神学に傾いたために、アメリカ伝統の福音主義神学を土台にマサチューセッツ州立農科大学が設立されたという経緯があったようだ。現在は「マサチューセッツ大学」と名を変え、「私立マサチューセッツ工科大学」ほどではないが、アメリカ有数の名門校となっている。クラーク博士は、札幌農学校にマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま移植し、諸科学を統合した全人的言語中心のカリキュラムを導入、規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。

 クラーク博士は招聘を受けて、一年間の休暇をとって札幌に赴任した。
 来日直前に米国聖書会社を訪れ、英語聖書五十冊をトランクに詰めて札幌に向かったと伝えられている。
 聖書を教えることに、並々ならぬ決意をもって赴任したのだろう。
 彼は、北海道に渡る玄武丸の船中で、自分を招聘した同行の開拓使長官・黒田清輝に、学校で聖書を教えることを強く訴え、初めは反対していた長官もついに折れたと伝えられる。それがクラーク博士の教育理念だったのだろう。彼は米国伝統のピューリタン信仰に立つ、敬虔なクリスチャンであった。
 彼は着任するとすぐ、聖書を修身と文学の教科書に定め、毎朝授業の始まる前に聖書を教え、校則を「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」の一条のみとして、人格教育に全力を注いだ。
 在職はわずか八ヶ月だったが、大きな足跡を残した。
 クラーク博士は札幌を去る前に、「イエスを信ずる者の誓約」を学生らに提示、聖書教育を受けた一期生十六名全員がこれに署名した。博士が去った後、この署名に内村鑑三、新渡戸稲造など二期生も加わって、その一期生と二期生が中心になって札幌バンドが始まった。
 これは、クラーク博士終生の誇りだったようだ。
 臨終を迎えたクラーク自身の言葉に、
 「今、自分の一生を回想するに、誇るに足るような事は何もなかった。ただ、日本の札幌において、数ヶ月間日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、いささか心を安んずるに足る。」とある。
 そんなにも熱い思いをもって教えたから、学生たちはその信仰を継承していったのだろう。
 札幌を去る時、学生たちに残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志を抱け)」は、あまりにも有名である。これには、「フォー・クライスト」のことばが加えられていたと伝えられるが、現北大のキャンパスには、台座にその言葉が刻まれたクラーク博士の胸像が立っている。
 残念なことに、「イエスを信ずる者の誓約」に署名した者の半数は、その後信仰から離れるが、半数はその教えを堅く守り、明治十四年に、外国の教派とは関係しない札幌独立教会(現・クラーク記念教会)を設立した。寄宿舎で学生のみの礼拝を守っていたが、クラーク博士の教えが実を結んだものと思われる。
 教派によらない独立教会の形成、それが、札幌バンドの特徴だった。
 その特徴が良く現われる逸話が残っている。
 札幌独立教会初代牧師の大島正健が按手礼を受けないまま聖礼典(洗礼、聖餐)を執行していると非難を浴び、新島襄が仲介し、いずれの教派にも属さないという約束で、植村正久、井深梶之助、小崎弘道等各派を代表する人たちが立ち会い、大島牧師は按手礼を受けた。この逸話には、まさしく独立心旺盛な気風が感じられるではないか。
 その特徴は、卒業後、学生たちが群れをなさず、散り散りになっていろいろな分野に進出し、優れた業績を残したことにも現われている。

 札幌バンドを語る時、内村鑑三を中心にした無教会キリスト教に触れないわけにはいかない。札幌バンドは「無教会主義」であるという風評が生まれていたからである。だが、前述した「散り散りになった卒業生たち」の中には、新渡戸稲造など、忠実な教会生活を送った人たちも多数いる。

 内村が主催した無教会の集会は、極めて日本的と評価されている。
 無教会は、旺盛な独立心という札幌バンドの特徴を、もっとも良く現わしていると言えよう。
 無教会という言葉は、内村の処女作『基督信徒のなぐさめ』で初めて用いられたが、その後、彼は「無教会」という名の雑誌を創刊し、教会から離れ、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。
 内村の盟友によると、彼は教会や宣教師から「はなはだ不快な」仕打ちを何度も受けたようだ。そんなことから、教会から離れた人たちの交わりが必要と考えたのだろう。
 当時、すでに多くの人たちが教会から離れていた。

 しかし、これは教会主義(或いは教条主義)を否定するもので、イエスさまの教会や福音そのものを否定してはいない。「交わり」は初期キリスト教会の重要な特質の一つでもある。会堂を持たず、牧師制を取らず、聖礼典を行なわないが、決してそれらを否定しているのではない。だから無教会は、「反教会」ではないのだ。もっとも、内村以後の無教会の教師たちの中には、内村の弟子だった塚本虎二など、反教会の旗印を掲げる人たちもいたようだが・・・
 「集会」では聖書講義と称する説教があり、讃美歌が歌われ、礼拝が行われていた。ただ、組織化を意識して避けたということなのだろう。本部を持たず、宗教法人ではない集会が大多数を占めていたようである。そんな原始キリスト教教会時代に似た形態を執る「無教会」は、今も各地に点在している。
 それも一つの教会観ではないか。
 ただ、主の命令により行われてきた聖礼典(バプテスマと聖餐式)を執行しないのは、教会として問題と思われるが・・・

 以上三バンドは日本の教会の主流となったが、来日する宣教師が多様化するにつれ、次第に教派色の強い教会が多くなっていった。以下、明治期におけるプロテスタント教会のおもな教派をあげておこう。

 日本基督教会:もともと日本の教会は、超教派を目指した「日本基督一致教会」として始まった。主導した長老教会から組合教会に声がかけられて合同の機運が生まれ、合同基礎案まで作成されたが、組合教会内部から反対が噴出し、合同は沙汰止みとなった。そこで、長老教会だけで組織化されたのが「日本基督教会」である。大戦後、日本基督教団を脱退した長老教会が新しい「日本基督教会」を結成したことから、以前の日本基督教会は「旧日基」と呼ばれるようになった。
 日本組合基督教会:十六世紀に、R・ブラウンを中心とする人たちは、教会の自治は各個教会の会衆が行うべきとして英国国教会から離脱し、会衆派教会と呼ばれた。同じ国教会から離脱した長老教会とは一線を画すという意識なのだろう。「組合」とは、会衆派教会の「コングリゲーショナル・チャーチ」を「組合教会」と訳したことによる。
 アナバプテストとの関連も取り沙汰されているが、これはピュウリタンとなって米国に渡り(ピリグリム・ファーザーズ)、米国の政治社会思想や制度組織に大きな影響を与えた。日本における組合教会の流れは、新島襄による同志社英学校設立に始まるが、そこに熊本バンドの人たちが加わってより加速した。しかし、日本基督教団に組み込まれ、消滅した。
 日本美以教会:ジョン・ウエスレー主導によって英国国教会から分離・離脱したメソジスト運動に始まる。日本基督教団成立以前の、日本プロテスタント教会三大教派の一つである。メソジスト系教会の日本宣教開始は明治六年だが、同四十年アメリカメソジスト監督教会・アメリカ南メソジスト監督教会・カナダメソジスト教会の三派合同により成立した。監督制をとり、初代監督は本多庸一。青山学院、関西学院、東洋英和学校(麻布中学)、東洋英和女学院などを設立し、学校教育に力を注いだ。日本基督教会、日本組合基督教会とともに初期日本プロテスタント教会の三大教派に数えられる。
 日本聖公会:「聖公会」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とする英国国教会から誕生したが、ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される中で、「聖公会」は両者の持つ要素を兼ね備え、その中間に位置する教派と位置づけられて来た。日本では、明治二十年、米国プロテスタント監督教会、英国の低派と高派二つの聖公会の三つのミッションが合同、日本聖公会となった。
 日本浸礼教会:アナバプテストの系統を引き継いで英国に誕生したバプテスト教会は、分離派の会衆派教会としてコングリゲーショナル・チャーチに数えられるが、それとは別に、独自に日本に進出した。
 明治六年、米国のバプテスト宣教連合(後の北部バプテスト)から派遣されて来日したゴーブルとネイサン・ブラウンは横浜第一浸礼教会を設立した。これは現在の日本バプテスト同盟である。 また、米国南部バプテスト連盟は明治二十二年にマッコーラム、ブランソンの二宣教師を派遣、九州を中心に宣教した。このミッションは大正五年に西南学院を設立、現在の日本バプテスト連盟となる。

 その他、小教派では日本福音教会、日本美普教会、自由メソジスト教会、福音ルーテル教会などがある。英国から宣教師として来日したバークレイ・バックストンとパゼット・ウィルクスは、明治三十七年、神戸で日本伝道隊を創設。ここから後に聖霊派と呼ばれる諸派が誕生する。

(4)戦中、戦後の教会

 明治初期から中期にかけての草創期を、日本の各プロテスタント教会は、無教会主義を含め、日本人教会という道を歩き始めた。欧米から派遣された宣教師たちも、一部の人たちを除いて、ほとんどが好意をもってバックアップしていたようだ。そして、時には大リバイバル現象も起こしながら、多くの人たちを招き入れ、明治末期までの安定期を迎えた。・・・と、ここまではすこぶる順調な成長と見ることが出来る。

 ところが、秀吉や家康以来のキリスト教拒否という日本の風土は、延々と日本の国策の中に息づいていた。
 そんな空気が徐々に表に出始め、巷のそんな意識にキリスト教界も振り回されるようになった。
 明治維新以後の日本政府は、近代文明の進んだ欧米に追いつこうと、富国強兵策を取り入れていたが、明治二十七年(1894)の日清戦争に勝利したためか、明治三十七年(1904)の日露戦争には、軍国主義者のみか、一般国民の大半までが主戦論に浮かれ始めた。そんな世相に教会も巻き込まれていった。
 そして、主戦論がキリスト教教界内の大勢を占めるようになっていった。
 もちろん教会には、信仰者の良心ともいうべき非戦論も根強く残っていたが、欧米から来たキリスト教は国賊であると敵視され、浅草、下谷など東京の十数もの教会が暴徒によって次々と焼き討ちされた。

 やがて、主戦論という国の方針に妥協し始めた日本の教会は、戦勝のために大挙神社に参拝し、祈祷会では日本の戦勝を祈るという愚を繰り返すようになった。太平洋戦争時のことである。神さまの目より人間の目を気にする、宗教に堕した教会の姿が見られるではないか。
 昭和六年(1931)の満州事変を契機に、日本は国をあげて神道イデオロギーによる愛国運動が盛んになり、教会は反国家主義と見なされ、激しい迫害が再燃した。やり玉の最初はカトリック教会に向けられ、軍部、在郷軍人団、青年団による奄美大島各地の教会等への焼打ち事件などが頻発した。そのため、大島の信徒は潜伏キリシタンと同じ状態に追い込まれたようである。
 昭和十年、カトリック全国教区長会議は、ついに日本の国粋主義への転向を決意、そして、この頃からプロテスタント教会も国粋色を濃厚にしていく。政府からの強い要望(強制)を受けて、牧師が信徒を引き連れて神社に団体参拝するようになったのも、この頃からである。

 昭和十四年(1939)、宗教諸派の国家統制を目指した宗教団体法が国会を通過し、カトリック教会と信徒数五千名以下の小教派を除くプロテスタント各教派は、一括して「日本基督教団」に組み入れられた。小教派が除外されたのは、外国ミッション依存度が高いと見なされたからだろう。
 除外された小教派はにわかに各派代表の懇談会を開くなど合同を模索し、皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会で、全基督教会合同実現の決意を表明した。そのように教会の大半が国家権力に屈したことは、現今の私たちにとっても、目をそらしてはならないことだろう。

 敗戦を迎えて混迷を深める日本の教会に、強力な援護者がやって来た。
 占領軍総司令官・ダグラス・マッカーサーである。
 彼は、来日するとすぐに、宗教団体法を撤廃し、天皇の神性や神社の国教的特権を剥奪して、宗教の自由を高々と歌い上げた。
 戦争時に政府主導のもとで強制加盟されていた日本基督教団内の旧教派は、これを機に次々と脱会、新らしい日本基督教会(長老教会、新日基、現日本キリスト教会)など、教派教団を再興し始めた。
 さらにマッカーサーは、米本国の教会に大量の宣教師派遣を要請、やがて若い宣教師たちが大挙日本にやって来た。大半は敗戦の日本に駐留していた軍人で、日本が好きになった人たちだった。
 彼らは本国での教役者経験はなく、大半が短期の宣教師養成学校を出た若者だったが、来日後、懸命に福音を伝え、たくさんの人たちを教会に招いた。彼らが本国に送ったレポートによると、当時の日本人クリスチャン数は、総人口を上回っていた。
 当時若者だった人から「私も洗礼を受けたよ」と、思いがけない言葉を聞いた方もあるのではないか。もっとも、大半の人たちは、ほどなく教会を卒業してしまったが・・・

 その頃、中国が共産党に支配されるようになり、宣教師排除を国策とした。
 中国で活動していたアメリカの約三十の教派ミッションが、追われるように中国を離れ、日本に拠点を移すことになった。その宣教師たちは、知的面からも経験からも優れた人たちだった。元軍人の若い宣教師たちと熟練の宣教師たちは、水を得た魚のように伝道に邁進し、米国本土の教会からの多くの資金援助もあって、たくさんの新しい教会が建てられた。
 日本の教会がアメリカナイズされて、まるで外国領になってしまった背景がお分かり頂けるだろう。戦争責任の反省を欠いた日本基督教団とともに、現代教会が抱える問題の多くは、そこに遠因があると指摘されている。
 しかし、そのような「問題」を多く抱えながらも、宣教師たちは、敗戦で希望と目標を失った日本人に、新しい価値観、新しい生き方を教えてくれた。それは、日本人に、見知らぬ新しい文化だったかも知れないが、ともかく新しい世界があることを示してくれた。その功績は、少々割り引いたとしても、決して消えるものではない。
 米国の好意に、心からの感謝を持ち続けたいと思う。

 そして、現代教会が抱えたもう一つの問題がある。
 それは、日本ばかりではないが、現代、クリスチャンが聖書を読まなくなったと嘆く声が、世界中から聞こえて来る。
 それは牧師、伝道者にも当てはまるだろう。
 牧師が聖書を読まなくなったというのではない。教会で語られるメッセージが、ドイツを中心に台頭した近代神学に毒されてしまったのである。それは、聖書が神さまのことばであるという伝統的教会神学の否定だった。
 聖書のメッセージに育てられない教会の人たちが多くなったらどうなるか、説明は不要だろう。
 「福音主義」とは、別名「聖書主義」であって、プロテスタントにつけられた誇りある呼び名だが、それは、宗教改革者たちの緻密な神さまのことば・聖書の学びから来ている。
 現代、「福音派」と呼ばれるいくつかの教派がある。ルーツは多く上げられるが、その一つは、キリスト教史で異端と呼ばれた、アナバプテストに行き着く。そんな異端と呼ばれた群れでさえ、宗教改革者たちの緻密な聖書の学びを受け継いで、自分たちの群れを建て上げようとしたことを忘れてはならない。彼らは急進的改革者と呼ばれ、国家教会となったプロテスタント諸派から迫害され、小さな群れのままではあったが・・・

 日本のキリスト教会における著しい特徴とでも言うべき、もう一つのことに触れておかなければならない。
 第二次世界大戦前の日本プロテスタント諸派は、日本人による日本人のための教会という、いわゆる国民教会を志向していたが、その流れに逆らうかのように、大戦後は米国主導のもとで新しい合同教会を目指す動きが活発となった。
 昭和二十三年(1948)に日本基督教協議会(NCC)が誕生した。これは、米国で主流派だったエキュメニカル運動に後押しされたものである。エキュメニカル運動とは、教会合同運動というもので、教会はもともと一つなのだから、とにかくまず合同しようではないかと、信仰一致はそっちのけで、「教会一致」という組織化に力を注ぐものだった。
 ところが、日本基督教団を中心とするNCCという新しい合同教会結成には極めて批判的な流れがあった。1950年、教団内の旧日本基督教会(長老教会・旧日基と呼ばれる)の人たちが、教団を離脱して新しい日本基督教会(新日基)を立ち上げ、以後、旧教派の多くが教団を離脱して教派教団に戻っていった。
 これは日本の教会の方向性を選択する問題で、合同教会派と国民教会派との反目が、その後の日本の教会にしこりとして残ったと言えるだろう。
 しかし、合同教会派と国民教会派、どちらも米国内の対立軸がそのまま日本に移って来たというだけで、戦後日本の教会は、米国依存の体質を脱却しないまま今日に及んでいる、と指摘する人たちもいる。そして、多数の外国人宣教師を抱えたローマ・カトリック教会も、同じ問題を抱えている。今のところ、合同教会派より従来の教派依存の国民教会派が圧倒的に多く、災害時の協力も、教派単位になっているようである。
 いづれにしても、筆者には、神さまの座である教会が人間に占領された観が否めない。
 こういう対立そのものが、キリスト教が大切にしなければならない、「福音」の宗教化ではないかと気にかかる。


4、キリスト教における「異端」の問題

 宗教教団には、異端と呼ばれる教義を主張する多くの人たちが、宗教史の一角を占めて来た。異端が入り込む余地を持たない歴史の浅い宗教は除外しても、イスラムや恐らく仏教も、「正統」とは何かという問題を絶えず抱えることになった。しかし、多くの場合、奇妙な言い方だが、正統と異端の争いは、どちらが正統かを争う場になっている。そこには、正統側にとっても、何が正統かが固定化されていない、という問題が明るみに出てしまった観がある。

 それなのに、キリスト教では、その問題が見えにくい。
 問題はあるが、そしてそれは極めて大きな問題ではあるが、一部に限定されてしまうからだ。
 その「限定」という問題は後述するが、第二部を始めるときに、「正統的キリスト教にとって、何が異端とされたのか、言い換えれば、正統的キリスト教とは何なのかを探ってみたい。恐らく、それが本書の目指す『福音』の解明につながるだろう」と言った。異端問題のすべてを挙げることは出来ないが、主要と思われるものをいくつか考えてみることは、この「福音と宗教」にとって重要な課題だろう。
 異端はキリスト教だけではないが、キリスト教に特に多い。それに、正統と異端を区別する物差しは、もちろん時代によっても違うが、キリスト教ではおおむね一貫している。
 その物差しを含めて見ていくことにする。

 さて、「限定」ということだが、キリスト教にとって、出現する教派を異端と認定することはさほど難しいことではない。どこから生まれて来たかを探れば、大方の「正統的」キリスト者にとって一目瞭然だからである。なぜなら、キリスト教の「正統」には、歴史に積み重ねられた正統の理由がある。その「正統」の理由について今は問わないが、いづれ明らかになるだろう。
 ただ、一つ問題がある。
 それは、キリスト教の歴史の大きな部分を占め、大きすぎて、それが問題であると見えなくなっていることが、第一の問題点だからである。その大きすぎるという点を取り除くことが出来れば、問題の中心が見えて来る。真の問題を隠してしまうほど巨大化した問題の正体は、端的に言うなら、ローマ・カトリック教会である。これを限定して言うには、「正統なキリスト教」に照らし、ローマ・カトリック教会がキリスト教の歴史の中で果たして来た功績を、相殺しなければならないだろう。

 キリスト教の歴史を見ると、ローマ・カトリック教会の問題が大きく浮かび上がってくるが、それだけでは十分でない。
 異端問題に決着をつけた後、この問題に再度触れたい。それまでは保留する。

 異端が数多く現われたのは、紀元一世紀から三世紀にかけての、初期キリスト教時代である。紀元四世紀初頭に書かれた、エウセビオスの「教会史」には、初期キリスト教の迫害と殉教、そして異端が中心主題として描かれている。まるでキリスト教の歴史の中心問題は、正統と異端の戦いであると言わんばかりに。そして事実、エウセビオスの時代は、異端と向き合うことで、正統が正統としての位置を確かなものにしていったのである。だからその時代には、物差しとしての聖典(正典=カノン、聖書)成立が中心問題として取り上げられている。
 そんな異端を、ペテロやパウロなど使徒時代からエウセビオスの時代にかけて、教会が警戒していたものを取り上げよう。

(1)エウセビオスの「教会史」に出て来る異端

 エウセビオス(260-340頃)は、パレスティナ・カイザリヤの司教で、「教会史」を書き上げ、「教会史の父」と呼ばれているが、彼は、初期キリスト教に対する、おもにローマ皇帝による迫害と、キリスト教徒たちの殉教の様子や使徒たちの正統な教えと相反する異端との戦いの歴史をまとめ、それをギリシャ語で著した。その中には、たくさんの著述者名とその著書の内容が出て来るが、その多くは、キリスト教内に侵入して来た異端への「反駁」に関するものである。
 当時、使徒後教父と呼ばれる多くの教会指導者たちが、異端との戦いの様子を描いていた。
 まとめて「異端反駁論」と呼ばれる。
 彼はその資料を、エルサレムの図書館で読みふけっていたようだ。

 彼の「教会史」(講談社学術文庫)から、当時、教父たちがマークしていた異端説をいくつか拾い出してみよう。

ユスティノス(100-165年頃)「第一弁証論」
 「主が天に上げられたのち、悪霊どもが神々を僭称する者たちを世に送り込んだ。彼らはあなたがたに追われなかったばかりか、さまざまな名誉に値するとさえ見なされた。
 サマリヤ人で、ギットという村の出身のシモンという男がいた。
 彼は、クラウディウス・カエサルの時代に、自分に乗り移った悪霊どもの秘技を介し、あなたがたの帝都ローマで魔術を行なって神と見なされ、ティベル川にかかる二つの橋の間に像を建てられ、あなたがたの間では神としてたてまつられた。その後には、ラテン語で『聖なる神シモンに』と刻まれている。そして、殆どすべてのサマリヤ人と他の民族の中の若干の者は、彼を第一の神と告白して拝している。」
 この魔術師シモンは使徒行伝八章に記され、キリスト教グノーシス主義の祖と呼ばれている。

イレナイウス(130-200年頃)「異端駁論」
 「シモンの時代から今日まで、彼の異端の教えに従う者たちは、清い生活のために万人に知られたキリスト教徒の謹厳な哲学に感化されつつも、捨てたはずの偶像崇拝の迷信に相変わらずついたり離れたりし、その像に跪き、香や、犠牲、献酒などで奉仕している。彼らがそれ以上に秘している儀式は、エクスタシス、狂乱などに満ちて異様である。」
 エクスタシーはギリシャ・ローマに建てられたディオニュソス神殿に見られるものである。ディオニュソスにまつわるエクスタシー的信仰形態については、ギリシャ、ローマの宗教の項で触れたが、「宗教」というものの代表的形態に数えられるであろう。現代でもその形態を取り入れた宗教教団は多い。

エビオン派
 当時、キリスト教徒に敵対する真の敵は、サタンとその手下である悪霊と見られていた。この邪悪な悪霊は、キリストへの献身をゆさぶられない者たちを、あらゆる手段で罠にかけ虜にした。
 彼らはキリストについて低俗な見解を持っていたが、その方がマリアと夫の性的交渉から生まれたと考えた。彼らは、キリストへの信仰やそれに基づく生活だけでは救われないとばかりに、律法の完全な遵守を強調した。

ケリントス派
 ケリントスは、別の異端の創始者である。
 彼は偉大な使徒の作と称せられる「黙示録」を利用し、それを天使たちから自分に示された啓示と偽り、さまざまな奇跡物語を紹介している。
 彼は、復活後、キリストの王国が地上に現われ、エルサレムに住む肉は再び情欲と快楽の奴隷になるだろうと言い、聖なる文書の敵として人々を欺き、婚姻の宴が千年続くと言い・・・、現世的生活を好み、骨の髄まで肉欲主義者だったので、欲望と胃袋の満足、すなわち飲食や同衾、あるいはもっと穏やかな形で供される饗宴や犠牲、生贄の屠畜などによってその王国は実現されると夢見ていたようである。

著作家ヘゲシップス(年代不明)
 「義人ヤコブが、主と同じ訴囚で殉教すると、主のいとこである、クロパの息子のシメオンが監督に立てられた。彼が主のいとこだったので、すべての者が彼を二代目に推挙した。そのために、彼らはその教会を汚れなき処女と呼んでいた。空しい言説に耳を傾けず、まだ堕落していなかったからである。
 ところがテプティスは、自分が監督に立てられなかったので、自分も属していた民の間の七つの異端を利用して、教会を汚しはじめた。これらの異端からシモンとシモン派や、クレオビウスとクレオビウス派、ドシテウスとドシテウス派、ゴルタイウスとゴルタイウス派、マスボタイウス派などが興ったのである。そして、それらからメナンドロス派や、マルキオン派やカルポクラテス派、バシリデス派、サトルニヌス派などが興った。それぞれの派は独自の方法によって、他とは異なる独自の見解を唱え、偽使徒たちが興り、キリストに逆らった。有害な教説によって教会の一致を破壊したのである。」

 エウセビオスが取り上げた「異端」問題は、こんなものではない。「教会史」全般に渡っている。ある意味で、当時、異端をあぶり出すことが、教会に仕え、教会を支える使徒後教父たちの最も重要な「仕事」だった。
 迫害と殉教の時代に、それほど多くの異端が次々と現われていたことは、彼らがキリスト教というものにそれほどの魅力を感じていたからに他ならない。まかり間違えば、迫害と殉教に巻き込まれたのだから・・・
 いや、もしかしたら、迫害と殉教を免れるために、変節したキリスト教を目指したのかも知れない。しかしながら、ローマの官憲も目くらではない。迫害し殉教させなければならない「本物」のキリスト者と、その必要がない「偽者」との区別はつけられただろう。
 この後も折りに触れて出て来るだろうから、今はこれくらいにしておこう。


(2)キリスト教系カルト教団

 近年、国の内外を問わず、カルト教団と呼ばれる宗教教団が多く発生している。
 その多くは反社会的要素を色濃く持ち、犯罪集団かと疑われるほどだが、実際に犯罪に走った教団もある。しかし、何故か、そんなカルト教団は、意外と多くの信者を擁している。現代社会が抱える諸問題と共鳴する部分を多く有しているからだろう。

 カルトcultは、ラテン語colo(耕作)の複数形で、culture(文化)の姉妹語だから、言語そのものに問題はないが、文化発生の原点である農耕民族の中で発生した宗教だからか、豊穣信仰から生まれたイシュタル女神(古代バビロン)に見られるように、神殿娼婦といった宗教の裏側に潜む暗闇が絡んでいるのかも知れない。宗教教団は、そのほとんどが、表とは異なる裏の顔を持っている。その裏側が人々に魅力と映るのだろうか。このラテン語のcultには、儀式、崇拝、熱狂といった意味が派生している。

 その「熱狂的」「狂信的」宗教教団による社会問題が頻発する近年、社会と軋轢を起こす宗教を、本来、人々の不安を取り除き平安と幸福を与える宗教と区別して、「カルト」(或いは破壊的カルト)と呼ぶようになった。ソースは不明だが・・・

 カルト宗教には、古く、江戸時代に大流行した「踊り念仏」があるが、これは、カルト宗教の特徴の一つ、エクスタシーの境地そのものと言えそうだ。現代で言うなら、集団結婚式で知られる統一協会や、地下鉄サリン事件のオーム真理教など、その代表格だろう。近年発生した新しい宗教教団には、カルト系のものが多い。
 そこには、彼らの宗教教育の手口として知られる、マインドコントロールや洗脳が教団定義の一つにされている。宗教学的にも社会学的にもカルト教団の定義にはさまざまな議論があるが、まだ統一されていない。しかし、エクスタシーやマインドコントロールなど、人を罠に陥れる危険に満ちた宗教であることは間違いない。
 手探りしながらだが、いくつかの教団を取り上げていきたい。他宗教の教団は、少数ながらすでに取り上げたから、ここでは、キリスト教系のみを取り上げる。

1、エホバの証人

 このキリスト教系異端と言われる教団が「エホバの証人」を名乗ったのは、二代目会長ラザフォードが、1931年、アメリカ・コロンビアの全国大会でこの名称を発表してからである。もともとは、現在も続く教団誌「ものみの塔」の発刊者ラッセルが、読者を法人組織化し、1884年に「ペンシルバニアものみの塔聖書冊子協会」を設立したのが発端である。
 あちこちに「王国会館」と看板が上がっているのを見かけたことがあるだろうが、それが「エホバの証人」教団である。

 初代会長ラッセルは、長老派教会の家庭に育ったキリスト者だったが、再臨派の指導者ネルソン・バーバーと提携し、1874年に「キリストは『見えない形で』再臨した」という教義を打ち出した。詳しい説明は避けるが、バーバーは1914年を異邦人の時の終わりとし、これが今のエホバの証人に引き継がれ、「キリストの目に見えない形での再臨の年」という重要な教義となっている。
 1879年、バーバーと決別したラッセルは、新たな雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」を創刊。その頃、彼は、身近に迫ったこの世の終わりと、自分たちを含む十四万四千人(参考・黙示録7:4)が、霊的な存在として神に取り上げられると熱心に主張していた。
 しかし、予想した1881年が何事もなく過ぎると、前述した1914年に焦点を合わせ、「異邦人の時」は終わり、この世は破壊されるが、ラッセルとその信者たちは天に上げられ、キリストの千年統治が始まると、新たな終末観を展開した。1914年秋に第一次世界大戦が勃発すると、ついに来るものが来たと興奮し、「異邦人の時」は終わって「今はハルマゲドンの中にいる」と、予言の成就を高らかに触れ回った。
 しかし、1916年10月、ラッセルは宣教中の列車の中で病死し、第一次世界大戦は1919年ベルサイユ条約により解決し、世界は平和を迎えた。

 ラッセルの死と教団の中核であった終末教義の崩壊は、多くの信者を失う大打撃となった。加えて、戦争非協力によって、政府と怒った大衆による迫害や後継者争いが起こり、教団の宗教活動はほとんど停止状態に陥った。

 初代会長ラッセル亡き後の教団は、後継者問題で大揺れに揺れ、浮上して来たラザフォードが、ライバルたちを押さえて二代目会長に納まった。
 彼は組織の再建に取り組み、1925年には人類が完全さを取り戻し、エホバの証人信者が支配する千年王国が始まるという新しい教理を発表。その時にはアブラハム、イサク、ヤコブなど、エホバの忠実な僕がみな完全な人間として復活し、教団信者と一緒に新秩序の中で永遠に生きるとした。
 この新しい教理は信者たちの心を捉え、新たに家から家への宣教活動が開始され、教団は勢いを取り戻した。信者たちは事業、学業、結婚、出産等をみな遅らせて1925年の新秩序到来に備え、家を売ったり保険を解約し、1925年以降の収穫は必要ないと、種蒔くことをやめてしまった農家など、1914年のキリスト再臨説の熱気が再現されたが、この1925年にも何事も起こらず、彼らはまたまた失望して教団から離れていった。
 しかし、ラザフォードは「終わりはもう間近」、「たとえ今外れても、数年あるいは数ヶ月のうちには実現するだろう」と言い続けた。

 この「終末の設定」と、それに備えた信者動員と信者急増、失望とそれを取り繕う予言の修正というパターンは、1914年の終末説がいろいろに形を変えたものと見ていいだろう。
 変えられたその年々に、キリストは見えない形で再臨し、裁きの王座に着かれるとしたが、それはことごく実現しないまま過ぎ去った。
 最近は、再臨と王座に着かれることは別のこととして、終末日の引き延ばしを図り始めたが、それは信者から緊張感を奪い、家から家という伝道方式も、はかばかしい成果を得られなくなった。また、緊張感の喪失は、カルト教団特有の洗脳力の喪失と指摘されている。

 教団側も、カルト色を払拭しようと、ソフトムード一杯である。
 従来は批判者を育てるからと否定的だった高等教育を、現代への対応には必要と方針転換し、兵役拒否問題では、認められなかった病院勤務などの非戦闘代替勤務も、エホバの前で正しい選択であるという表現に変わってきた。
 もしかしたら、十分すぎるほどの資産を得て、この教団も守りの姿勢に入ったのかも知れない。世の宗教教団は、ある程度資産を獲得すると、過激さが消えて常識ある教団になったと、揶揄されることが多い。そのためか、エホバの証人教団も、最高権力を、会長からニューヨーク・ブルックリン教団本部のわずか十数人の男性信者で構成される執行部「統治体」に移行し、そこに若手を加えて強化し、教団の弱体化を強力な組織力でカバーしようとしている。

 エホバの証人の主な教義は終末に関する教義だが、他にも、伝統的に「正統」と認定されているキリスト教会が主張する三位一体の神を否定し、正統な教会からの信者引き抜きを伝道の主柱にしているようである。
 彼らは唯一の神エホバだけを信じている。
 だから、キリストはエホバに創造された者であるとして、「イエス・キリストは神にあらず」とその神性を否定している。それに関連し、教団訳の新世界訳聖書には原文をねじ曲げて訳した箇所が見られるので、一例を挙げてみよう。
 「大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」(テトス書2:13・新改訳)とあるところを、新世界訳は「偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエス」としている。原文は「大いなる神και私たちの救い主キリスト・イエス」とあって、その「και(「カイ」ギリシャ語)」をどう訳すかが問題なのだ。
 καιは単純接続詞andだが、元来は付加的副詞であって、「すなわち」と説明のために加えることが多い。この訳文は、和訳に限らず、他の多くの国語でも副詞を選択しているのだが、ギリシャ語に精通した人たちがそのκαιをわざわざ「単純接続詞」の「と」としたところに、伝統的キリスト理解に異議を唱えた新世界訳の意図があると思われる。
 自分たちの教義を優先させていると言っていいだろう。

 これは初期教会から繰り返された主張だが、いづれも異端として退けられている。有名な例としては、紀元325年、キリストは神にあらずとしたアリウス派が異端として追放されたニカヤ教会会議に見ることができる。そんなアリウス神学を、この教団も引き継いでいるようだ。

 ところで、教団名の「エホバ」は、ヘブル語の四つの子音文字だが、旧約聖書・出エジプト記にある十戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあって、ユダヤ人は長いことその名を口にしなかったところから、発音が失われ、「テトラグラマトン(聖なる四文字)」と呼ばれてきた。英語版の欽定訳など古い翻訳はその四文字に便宜上、アドナイ(創世記22:14「わが主」の意)の母音をつけて「エホバ」としていたが、「エホバの証人」は、いかにもアメリカで発生した教団らしく、それに拘っている。
 しかし現代の聖書学では、まだ確定したわけではないが、それは「エホバ」ではなく、恐らく「ヤーウェ」であろうとしている。日本語訳では、文語訳は「エホバ」としているが、現代日本語訳では、ほとんどが「主」と訳しており、上述のテトス書もイエスさまをその意味で「神・主」としている。テキスト上でも、また、歴史上でも、これを改ざんする理由は見当たらない。

 なお、「エホバの証人」は、「王国会館」で彼らだけの礼拝を続けている。
 その礼拝では、いかにも伝統的キリスト教会らしく、賛美、聖書朗読、祈り、そしてメッセージが語られるが、キリスト教会で最も大切にされている聖餐式は行われていないようだ。
 聖餐はイエスさまの十字架の意味を覚えて行われるものだが、キリスト教会は、これをイエスさまの命令として、エルサレム教会時代から守り続けて来た。彼らは、礼拝そのものを、「パンを割くために集まった」と言ってきたのである。
 その最も古い記事(パウロの「コリント第一書」)に、
 「主イエスは渡される夜、パンを取り、こう言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』食事の後、同じように杯を取って言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」(11:23-28)とある。
 その聖餐が礼拝の中心に来ないのは、彼らのうちに救い主としてのイエス・キリストがおられず、「礼拝」そのものが行われていないことであり、また、イエスさまを主とする「教会(エクレシア)」でもないに等しく、「王国会館」に「キリスト教会」の意味はない。

2、モルモン教

 キリスト教系カルト教団のひとつに、全人口の60%以上が信徒だという、アメリカ・ユタ州を中心に栄えるモルモン教がある。正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」というのだが、彼らが聖書以上の聖典としている「モルモン経典」の名にちなんで、「モルモン教」という俗称のほうが知られている。

 この教団は、十九世紀初頭に、ニューヨーク州に住んでいたジョセフ・スミス・ジュニア(当時14歳)によって始まった。

 多くのカルト教団は、大部分の教祖が、祈っている時に何らかの声(啓示)を聞いたという、神的経験に基づいて創立されている。

 1827年のある日、ジョセフは、古代アメリカ大陸に実在したとされる預言者(天使?)モロナイの啓示を受け、近くの丘の石の下から、黄金の板の聖なる文書を掘り出した。
 これが古代の変体エジプト語で書かれた、イエス・キリストについての「もうひとつの証」、つまり「モルモン経典」である。「証」とは英語でTestamentだが、それは聖書を意味するので、モルモン経典は「別の聖書」となってしまう。
 奇妙な証言なのでどこまで信用していいか判らないが、彼はこう証言する。
 これは預言者たちによって書き継がれたもので、最後の預言者モルモンの子モロナイがクモラの丘にそれを隠していたのだと・・・
 モルモンという名は、そこから来ている。だが、彼によると、その文書は翻訳した後に天に返したと言うから、確認することは不可能だ。
 これが教団(名目上の)最高聖典となった。

 以下はモルモン経典に書かれている内容の概要である。
 紀元六百年頃、エルサレムに住んでいた預言者リーハイとその家族が、神さまの導きを受けて、アメリカ大陸に移住した。
 これがアメリカの先住民族(インディアン)とする主張らしいが、学説では、インディアンはもっと古い時代に渡って来たモンゴロイドが大半と定説になっている。
 ともあれ、大陸で彼らの子孫は増え広がり、やがて神の教えに従順なニーファイ人と、神の教えに背くレーマン人とに分裂して激しく対立し、抗争の歴史が繰りかえされた。いつ頃か分からないが、レーマン人は神さまの呪いを受けて肌の色が汚らしい黒色にされ、神さまに従順な肌の白いニーファイ人とは一目でそれと分かるように区別された。しかし、肌の白いニーファイ人は代を重ねる内に慢心し、いつしか神さまから離れ、レーマン人によって滅ぼされてしまうというのである。

 モルモン経典は、分量にして新約聖書くらいだろうか。
 分厚い最高聖典のその内容は、それだけのことである。
 白人と黒人・・・と、いかにもアメリカ人らしい発想ではないか。
 モルモン教徒にとって、黒人や有色人種は神さまの呪いを受けた忌むべき存在であり、彼らより上位の人間と思い上がった白人たちは、その黒人たちによって滅ぼされてしまうと、そんな結末を教えた預言者か天使の教えは、そうはならないために、神さまの教えに従順であるようにという教訓なのだろう。

 しかし、この教訓をもう一つの「別の聖書」とし、教団の教義を導き出していくのはさすがに難しかったのか、教団には、他にもジョセフへの啓示の書という「教義と聖約」「高価な真珠」を権威ある聖典としている。この教団における「聖書」の地位は、上記三つの聖典や、「現代の啓示」とされる大管長の公式発言よりも低いところに置かれている。
 教祖ジョセフの後継者・大管長によって決定される教義が、「聖書」を含む教団のすべての聖典に優る権威があるというのだ。

 このようにトップの権威で維持される特徴は、ある意味で、ローマ・カトリック教会やイスラムにも似ている。
 これは、教祖によって成立した創唱宗教を、後継者と役員たちが引き継いで権威をさらに拡大していくという点で、カルト教団そのものと言っていい。
 それは、正常なキリスト教会においても起こり得る事態だろう。
 ローマ・カトリック教会に似ていると言ったのは、教皇というトップがイエスさまの位置に座っているからである。そして、プロテスタントの教会が「教団」組織に走るのも、それに似ていると言ったらお叱りを受けるだろうか。しかし、ローマ・カトリック教会が教皇を担ぎ上げ、プロテスタント教会が教派教団を形成し続けることも、キリスト教の宗教化に他ならず、エホバの証人やモルモン教団を異端となじっても、彼らと同じ列に並んでいる愚を拭い去ることは出来ない。

 教団組織のトップは、大管長、副管長、十二使徒定員会の三つに絞られる。二名の副管長は、大管長選出時に補佐役として任命され、大管長とともに大管長会を構成する。そして、この大管長会は、これに次ぐ重要な教団役員とされる十二人の十二使徒定員会とともに、教団最高の決定機関とされる。つまり、十五名の役員が教団の一切を支配するのだが、これには別の見方もある。

 それは、トップの大管長に異常なまでの権威があるという点である。
 大管長は、その能力如何にかかわらず、十二使徒定員会によって(たいていは先任者が)任命されるが、一旦任命されると、生ける神の預言者として神の啓示を受け、人間でありながら無謬性を持つ、教団のカリスマ指導者と認定される。その権力は教団内部に留まらず、ユタ州の知事をしのぐ実質的政治的発言力を備え、ユタ州の政界、経済界のドンでもある。
 ところが、この権威には、信じられないほどの裏がある。
 ほとんどの大管長は著しく思考が減退する高齢になってから任命されるので、その最高権力を執行することが出来ず、実質的には、補佐役に就いた名も知れぬ人々がその権力を代行するという矛盾である。

 ニューヨーク州に始まったモルモン教が、本部のあるソルトレイク市を中心にユタ州で栄えることになった経緯に触れておこう。
 彼らは、伝道目的で集団移動したが、行く先々で教義の大胆さ(多妻婚等)が地元住民の激しい反感を招き、ミズリー州、イリノイ州と移動を繰り返し、モルモン教徒だけの「神の王国」建設を目指した。
 ジョセフの死後、二代目大管長ブリガム・ヤングは、多数の信徒を引き連れて西部へ大移動を決行し、ロッキー山脈の麓に広がる、広大な塩の砂漠や塩の湖や岩山が周りを取り囲む土地に、自分達の町を築くことにした。
 ソルトレイクを中心とするユタの地である。
 1900年には、各地から移住して来たモルモン教徒の数が20万人を数えたそうである。今日のユタ州は、自然に囲まれた美しい農地がつくられ、とくにソルトレイクシティーは、整然とした町並と高原の美しい自然がみごとに調和した、素敵な都市になっている。
 ところが、多妻婚が連邦法に抵触して教団は連邦政府と対立し、1857年ユタ戦争が勃発した。しかし翌年、和睦が成立。ブリガム・ヤング死後、教団は独立国家建設を諦めて連邦政府に歩み寄り、1890年に多妻婚を禁止すると、連邦政府は、ユタを準州から州に格上げして自治権を認め、ユタ州は名実ともにモルモン教徒の実効支配地となった。
 ユタ州で、大管長が、宗教のみならず、政治的、経済的にも独裁者であることの背景がこうして整えられてきた。

 ここで、保留していた「モルモン教」が抱える問題を指摘しておこう。
 教団の最高指導者「大管長」を中心に、副管長と十二使徒定員会が、教団の一切を支配していると言ったが、実は、宗教教団としてのモルモン教は、その教理の中核部分を、一般の礼拝施設である教会堂とは別の、神殿と呼ばれる特別な礼拝施設に入ることを許された者だけがそこで教えられ、しかも、その神殿で教えられたことは口外してはならないという秘密主義を徹底している。
 だから、ほとんどの信徒たちは、モルモン教の実質を知らないまま、普通のキリスト教であると思い込んでいる。大管長の「啓示」がモルモン経典など正典を超えていることも、秘密主義が実体を信徒の目から隠しているから、その問題性に気づく人たちは極めて少ない。
 その中心教理の「神」はもともと人間神であって、それも数億と多いことや、その神々が実は多妻主義者であったなどは隠されている。いや、その教理が今もそのままかも、不明である。なにしろ、秘密主義のうえ、大管長の啓示で重要教理さえ変容していくのだから・・・

 秘密主義と変容は、モルモン教団だけでなく、カルト教団の大きな特徴と思われる。時の情勢に応じて訂正を繰り返し、新しい教理を持ち出して不具合を修正する・・・と、ますますつじつまが合わなくなっている。それでも、多妻婚など、表面上は禁止されているが、幹部内では今なお行われているという、欲望が同居している。モルモン教は、人間の欲望と権力志向が造り上げた宗教と言えるだろう。
 そこでは、最高権威者大管長でさえその全容を知ることが出来ないように、能力が極端に低下するのを待って任命するなど、手の込んだ権力機構維持が目論まれ、恐らく、誰一人その全容を把握することがないようにされている。

3、統一協会

 カルト宗教という呼び名が誕生した頃、韓国で反社会的活動をしていた、世界基督教統一神霊協会(略称・統一協会)というのがあった。
 教祖・文鮮明は、自分こそ再臨のキリストであり、全キリスト教徒が自分を受け入れれば、七年間で地上に天国が出現するとしたが、そうはならず、仕方なく統一協会を設立したとされる。
 「統一協会」とは、キリスト教の統一という意味を込めている。

 この教団は、公式には旧・新約聖書を教団の聖典としているが、実質的には、教理解説書として文鮮明が書いた「原理講論」や彼の説教集「天聖経(聖書の意)」が旧・新約聖書の上に来る聖典とし、文鮮明が直接語った言葉を最優位する立場を鮮明にしている。
 彼は、イエスが神の子ではあっても神自身ではなく、十字架に死なれたのは失敗だったと教える。イエスは、結婚して神の家庭を築き、子供を作って神の血統を残さなければならなかったとし、十字架上で死んでしまったために本来の使命を果たすことが出来ず、再臨して、今度こそ霊肉両方の救いを完成させると説く。再臨のキリストとは、文鮮明自身を指す。その救いには、神の責任(95%)と人間の責任(5%)の分担が必要と説くが、いづれも古くからあったキリスト教異端説を適当にアレンジしたものと言えよう。
 この教団の救いに関する核心は、キリストによる「血統転換」にある。血統転換とは、サタンとエバの不倫に始まる堕落の血統を受け継いだ人類が、神の血統に接ぎ木されなければならないとして、教団側は否定しているが、無原罪のキリスト、つまり、再臨のキリストである文鮮明が、女性信者と血統転換を実践「血分け」(儀式としての性行為)していると、草創期から言われてきた。
 これは教団批判者から出ているのだが、元信者や文鮮明の元妻などの証言に基づいていて、恐らく事実と思われる。また、教団が主催した何万組という「合同結婚式」も、文鮮明と性的関係を持った数人の女性信者をなかば強制的に男性信者と結婚させようと、文鮮明の発案で始まったらしいが、それも「血分け」の象徴と指摘されている。
 ことの真相は、教団側が否定しているので霧に包まれたままだが、エバにしても、マリヤにしても、イエスさまご自身のことにしても、教団の教理には、たえずセックスを中心とする解釈がついて回る。これが誤解でないなら、文鮮明の醜い人間性が浮かび上がった教団体質と言えるのではないか。

 そんな罪にまみれた人間性中心の教団だからか、この教団には多くの反社会的行動が見られる。
 そして、その行動は、カルト教団と呼ばれるものに共通した体質と思われる。その行動のいくつかを取り上げながら、私たちの中にも共通するものが潜んでいないかを考えてみたい。

 まず、この教団の伝道方法からである。
 草創期(日本での教団設立は1959年)には教団名を出して伝道していたが、その強引な伝道方法や、信者たちから多額の金品をなかば強制的に搾り取り、その被害が信者の家庭に及んだことから、マスコミにも取り上げられて世間の評判が悪くなり、1982年頃から教団名を隠し、ビデオを用いた伝道方法を中心にし始めた。
 街頭で、生活意識調査としてアンケート記入を求め、興味を示した人をビデオセンターに連れて行って、世間話をしたり食事を出したりしながら、自己犠牲を賞賛する教団関連のビデオを見せ、次第に教団に引き入れていくという方式である。
 次の段階は、1~4日間の合宿形式の修練会に二回に分けて参加させ、様子を見ながら、再臨のメシアが来ること、その再臨のメシアは文鮮明であるという、教団の根本思想への献身の誓いを求める。
 修練会の期間中は、スタッフや参加者同士の会話以外、外部との連絡は一切させない。その後も、住み込みの教義研修や伝道の実践、経済活動といった訓練課程がある。
 このような信者獲得の初期に「外部との接触を断つ」という方法は、カルト教団の大きな特徴だろう。その方法で洗脳していたカルト教団には、オーム真理教も数えられる。このような洗脳を受けた人は、教団外の人の話を聞くことが出来なくなってしまう。
 批判を受けて方式は変えたが、中身までは変わっていない。

 そして、世間の強い風当たりを回避するためか、弥勒菩薩を奉ずるカルト教団と目される仏教教団を傘下に入れた。恐らく、多額の金が動いたのだろう。その教団の教えでは、文鮮明夫妻は弥勒菩薩の化身だそうだ。仏教だろうが何だろうが、利益獲得のために手を結ぶ。もはや宗教教団としての節度など、どこにも見当たらない。

 信者は学校や会社を辞め、教団施設で共同生活に入って外部との連絡を絶ち、自分の貯金ばかりか、親の財産まで持ち出して教団に献金してしまうケースが多く見られた。金銭が彼らの伝道の最大目的になっていたのである。
 教団名を隠しながらビデオを用いて伝道するようになった、1980年代初め頃と時期が重なるが、教団は、「霊感商法」と呼ばれる悪名高い経済活動を伝道方法に用いるようになった。繁華街の街頭などで、無料の手相占いや姓名判断(最近は風水も)を行ない、関心を示した人を霊場と呼ばれる会場に連れて行き、家系図などを鑑定しながら、霊能者を装った信者が聞き出した本人や家族の不幸の原因を、先祖の因縁話を使って説明し、先祖が救われるとか、このままでは不幸になるなどと不安を煽り、法外な値段で、壷や水晶玉や印鑑などを買わせるという手口である。
 「この〇〇を買えばメシア(文鮮明)を受け入れることになる」「この〇〇を買えばあなたも家族も救われる」と・・・
 その他にも、「北方領土返還運動」「世界平和女性連合」等のNGO、NPO法人のボランティア団体をいくつも作り、障害者、難民の救済など福祉を装って募金活動を行なった。
 この教団には、地上天国を実現するために〈すべてのものを神に返す〉という教えがあるらしい。特に日本は「母(エバ)の国」として、夫である「アダムの国」韓国や、子供たちである世界の国々に経済貢献をする責任があるとされ、信者は、自分の財産だけでなく、すべて人の財産を神(統一協会教団)に捧げることを救いの条件とした。
 自分が神の側にあるなら、人をだます違法行為も天的には善になると指導され、それが「霊感商法」を生み出す原動力となった。
 韓国には、文鮮明を生み出す土壌があったのだろうか。

 宗教というと誰もが考えることなのか、霊(スピリチュアル)の活動を誇示するようになる。
 「うちの教祖さまは霊的力を持つ」「霊と話す」「霊によって病気を癒やす」などなど。近年、宗教界で特にその傾向が著しく、統一協会も例外ではない。この教団は、接触した人たちに、「生前報われないまま怨みをもって悪霊となった先祖がいて、これが精神疾患をはじめ不妊やアトピーなど、様々な病気や不幸を起こしているので、その怨みを解く『先祖解怨式』の儀式を受けなければならない」などと、もっともらしく説明する。
 原始宗教に見られる除霊の一種だろう。
 その権威を持つのは教祖文鮮明以下の教団幹部たちで、本物かどうかは分からないが、彼らはシャーマンらしく振る舞う。ただ、除霊のために何百万もの献金が必要なところが、いかにも新興カルト教団らしいではないか。お金を絞り取ることが目的なのだ。

 そして、これも新興カルト教団に共通の要素と思われるが、現実世界での権力志向(政治への介入)がこの教団でも見られる。教団のもう一つの顔と言っていいだろう。「勝共連合」という反共を旗印に掲げる政治団体がそれだが、選挙のてこ入れをすることで、自民党や民主党のかなりの数の政治家たちを親派にしている。目的は、もちろん教団の利益保護のためで、その実効性もあるらしい。また、韓国での教団草創期には、「統一産業」という会社を設立して銃の製造を行ない、日本各地に信者による銃砲店を経営させている。信仰の訓練として、信者にハンティングをさせたり、銃砲訓練をさせて、信徒の武装化という危険思想も顔を覗かせている。
 近年、そんな体質は表に出て来ないが、その動きは依然健在と見るべきだろう。

 そのような洗脳を解除することは、専門家でも極めて困難と思われる。
 これは統一協会に関してだけではないが、カルト教団に捕らわれた人たちを救出しようと、何人かの牧師たちが集まって「救い出す会?」を設立した。その人たちの根本姿勢は、カルト教団が人々を洗脳しているから、まず洗脳を解くことから始めなければならないと、彼らに逆洗脳を施そうとした。カルト教団の人たちはもちろん、他の人たちとの接触を一切断ち、一室に保護(監禁?)して、イエスさまの福音だけを吹き込む。効果は抜群で、カルト教団によって植えつけられた洗脳を解除することが出来たようだ。だが、それでその人は本当にイエスさまの福音を信じたのだろうか。洗脳にさらに洗脳をアップデイトするなら、別の可能性も出て来るのではないか。つまり、また別の洗脳がアップデイトされるなら、イエスさまを信じる信仰も別物に変わる可能性がある。
 イエスさまを信じる信仰は、告白を伴うものである。
 パウロはロマ書でこう言っている。
 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ロマ書10:9-10)
 告白とは、刷り込まれたことばを機械的に口から出すものではない。それは、私たちの全人格において、噛み砕かれ消化されて、私たちの内側で、私たちの魂の栄養となったものが出て来るのだ。時には未消化の場合もあるだろうが、それは時間をかけていつか消化されていく。
 だが、洗脳されたことばを口に出すなど、その人の全人格から出たものと言えない。それは単なる刷り込みでしかなく、文鮮明が信者獲得のために用いた方法も、そういった刷り込みだったのではないか。
 キリスト教の歴史にも、そんなことがなかったとは言えない。

4、その他のキリスト教系教団

 ものみの塔、モルモン教、統一協会と、キリスト教系カルト教団を見て来たが、その他にも、キリスト教系カルト教団であろうとされる教団は多くある。
 それらのカルト教団には、形態や規模の違いはあっても、カリスマ的教団創立者(教祖)がいて、二代目、三代目の後継者、或いは教団の幹部会が中枢となって教団を発展・拡大させ、信者をマインド・コントロールによって盲目的服従から狂信的エクスタシーを伴わせ、教義は何度も訂正され、しかも隠された部分を多く、それが教団の神秘性を形成しているなど、キリスト教系以外のカルト教団とも共通点が多い。

 彼らは一応聖書を聖典としているが、さほど聖書に重きをおいているとは見えない。聖書の教えより上位に、聖書解釈に名を借りた教祖の教えが組み込まれている。それは、「教祖信仰」という形で信徒を拘束する、キリスト教系カルト教団の特徴かも知れない。創立者賛美に走るようであれば、カルト教団化していると疑ってみる必要がありそうだ。
 そこには、神さまはもちろん、私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さったイエスさまも、私たちをイエスさまに引き合わせて下さるパラクレートス(助け主。聖霊なる神さま・神さま)もおられない。
 「そのお方がおられない群れ」「そのお方を聖書の主張とは違うものに置き換えた群れ」、それが異端である。
 特に注意を要するのは、極端な聖霊信仰を打ち出す伝道者のもとで建てられた教会である。聖霊、聖霊と言いながら、それはもしかするとアニミズム的精霊なのかも知れない。聖霊なる神さまのことは後述するが、それは聖書からイエスさまを現在化される方なのである。イエスさま抜きに聖霊、聖霊を連呼するなら、危険と疑って見る必要がありそうだ。
 伝統的キリスト教団にも、聖霊派と呼ばれる群れがあるが、それ自体は無害であっても、伝道者個々人が「聖霊さま」などと口走るようになると、異端度の危険性が増加していると考えていいだろう。聖霊なるお方は、創造者なる神さまとその御子イエスさまとの関連を除いて、ご自分の存在を決して主張されないのだから・・・

 日本におけるこの種のキリスト教系カルト教団の個々の説明は省くが、名前だけ挙げてみよう。
 摂理、聖神中央教会、キリストの幕屋、クリスチャン・サイエンス、主の十字架クリスチャンセンター、ニューソート、ユニティ派、心の集い、瑠璃教会、子羊の群れ(子羊の群れキリスト教会)・・・
 他にもあるだろうが、多くは個々の教会であったり、教団名を持たない群れであったりと、実体はほとんど知られない。
 しかし、そこであなたの個性が尊重されていないなら、気をつける必要がありそうだ。


5、キリスト教異端総括

 「キリスト教における異端の問題」で約束していた、ローマ・カトリック教会にも行き当たる「異端」ということの本質に、踏み込んでみたい。
 キリスト教でも、正統から異端へと進む?ケースが多かった。なぜなら、キリスト教はイエスさまの教えから始まっているのだから。しかし、歴史を重ね、それが正統か異端かが判別しにくくなっていることも事実だ。
 この項では、異端を探ることで正統が浮かび上がってくるのではないかと、その観点から異端問題を探ってみたい。
 まずは、律法主義からである。

(1)律法主義

 ユダヤ人たちは、律法に生きて来た。
 「律法」とは法律のことだが、このことばが邦訳されたとき、「法律」ということばはすでに世俗国家の専権事項になっていたため、それとは区別して、「律法」と表現した。
 この律法は、出エジプト記で、モーセが神さまから十戒(神さまがイスラエルと結んだ契約)を与えられたとき、「これは、あなたがたが守って、わたしの民となるためのものである」と祝福して渡されたものである。
 ヨシュア記にはこうある。
 「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたがたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは栄えるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(一章)
 ヨシュアがモーセの後継者として立てられたとき告げられたこの文言を、イスラエルは、神さまの約束と受け止めた。そこでは、律法は、禁止条項ではなく、神さまの側からイスラエルに近づく手段として描かれている。「ヨシュアに告げられた」とあるが、それは、恐らく、何らかの「託宣」(当時の世界標準のことば)だった。旧約聖書はその託宣によって出来上がったと聞いていいだろう。つまり、預言者たちはイスラエルを「神さまのことば」の受託者と方向づけ、律法はイスラエルへの神さまの恵みだったのだ。

 だが、イスラエルも後継者ユダヤ民族も、その律法を、「禁止条項」と受け止めてしまった。特に、北王国がアッシリヤに、南王国がバビロンによって滅亡されたとき、彼らは、「主の選民たるわれわれが律法を守らなかったから、主の怒りがわれわれに及んだ」と厳しく反省し、律法を守ることに全力を注ごうと決心した。
 律法遵守は、キリスト教誕生時にも受け継がれていた。

 キリスト教はユダヤ世界で誕生した。イエスさまもユダヤ人だったし、大部分の弟子たちもそうだった。キリスト教初期の段階で弟子たちは、ユダヤ人しか視野に入っていなかった。ユダヤ人たちにとっても、初期キリスト教会は、ユダヤ教の新しい一派としか見えなかったに違いない。それが、ユダヤ社会で起こった迫害で散らされた弟子たちが異邦人社会に進出し、異邦人キリスト教徒が誕生すると、教会に加わった異邦人たちにも、ユダヤ教改宗者と同じように割礼を施すべしと大議論が起こった。エルサレムで行われた最初の教会会議では、割礼ばかりでなく、律法で異邦人を縛る必要はないと決定し、異邦人伝道が著しく進展することになった。
 しかし、シリヤ、ギリシャ、ローマとキリスト教会が拡大していく中で、依然、教会にはユダヤ人が多かった。
 紀元70年、ユダヤ戦争でローマに敗北したユダヤ人たちは、やむなく海外移住を迫られた。彼らは、移住した先々でシナゴグを中心に自分たちの礼拝を守っていたが、同時期にローマ・ギリシャの都市に進出していたキリスト教会に潜り込む人たちも多かった。彼らは聖書知識(旧約聖書)が豊富だったから、教会教師になるケースが多かったようだ。彼らは紀元前六百年頃のバビロン捕囚で、エルサレム神殿という伝統の祭儀宗教を失い、シナゴグでの礼拝という啓示宗教(神のことば・聖書を中心とする)へ変わることを余儀なくされたが、このシナゴグがキリスト教会の原型になったのである。シナゴグでは聖書を読み、聖書からのメッセージが語られていたから、聖書知識が豊富なユダヤ人たちが教会教師になったのは、当然だったろう。
 教会に律法主義を持ち込んだのは、彼らユダヤ人だった。

 彼らユダヤ人たちは、モーセの律法に生きて来た。
 それは神さまから「守れ」と言われたものだったが、バビロン捕囚の原因は自分たちがモーセの律法を守らなかったことにあると強く反省した彼らは、律法遵守に走った。
 だから、エルサレム教会会議では、キリスト者になってなお律法を厳守していた人たちが、異邦人にも・・・と主張したのである。
 ところが、その律法も、遵守ということになると、それを守れない者たちが増えて来た。では規定を緩やかにするかというと、彼らは反対に、律法は厳しく守るべきと、より細かな規定を設定し始めた。先に触れたヤブネのユダヤ人学校でラビの語録を編纂したなどは、その律法をさらに細かに策定するものだったのだろう。つまり、守ることが出来ないのは、律法規定が曖昧だからと考えたのである。微に入り細に亘る細かな規定は、「具体的」にすれば「してはいけない」ことが判るだろうと考えたのだ。旧約聖書を読むと、神さまから命令として与えられた律法はかなり具体的だが、彼らはそれでは不十分と考えたのだろうか。
 そのようにして彼らは、律法主義に陥っていった。
 律法主義とは、律法の真の精神を忘れ、条文にとらわれて、一字一句を拘泥する態度を指す。つまり、律法の形式に拘り、結果的に律法に反してしまったのである。パリサイ派の教師たちが、細かな字句に拘って、それを民衆に強制したために起こった事態だった。
 これはバビロン捕囚を発端としているが、本格的な律法主義は、紀元70年、第一次ユダヤ戦争後の後期ユダヤ教の頃始まった。イエスさまがユダヤ人指導者に非常に厳しかったのは、その頃すでに、彼らは律法主義に陥りかけていたからだろう。

 彼らが律法主義に陥った根本原因は、神さまのことばを守れないところに入り込んだ、律法の一字一句守らなければという、過剰意識だった。そこに、ラビたちが定めた細かな規則も盛り込まれて・・・
 どんなに守ろうとしても守れない。それを認めて神さまのあわれみに頼ればよかったのだが、なまじ守ろうとして、守れるという自意識や努力や力に頼ってしまったのだろう。それを自分だけでなく他人にも強要したところに、彼らの律法主義があった。

 彼らは、律法によらなければ救われないとしか教えることが出来なかった。律法に代わるものを知らなかったから。キリスト教会の中心に聖書を据えたのは、キリスト者となったユダヤ人たちだったが、彼らは同時に、聖書の中心から外れた、律法主義という異端思想を教会に持ち込んでしまった。

 繰り返そう。
 イスラエルに律法を授与された神さまは、これを、「わたしの民として生きよ」と、恩恵のしるしとして与えられたのだが、幾度も神さまを裏切り続けて来た彼らは、神さまを愛すべきお方としてではなく、恐れる方としてその前に萎縮してしまったのだろう。豊かに注いで下さる神さまの恵みを恵みとは思わず、それを自分たちの賢い生き方によると思い上がり、うまくいかなかったときは、主の戒めを守らなかったからだとしおれる・・・
 歴史の中心は、神さまではなく、自分たちにあったということなのだろうか。


(2)キリストの否定

 自分たちが中心と考える人たちは、新約時代にも、自己中心をもってイエスさまに向き合おうとしていた。そこには、昔も今も変わらない、イエスさま否定の思いが透けて見える。

 まず、イエスさまがどなたなのか、ヨハネの福音書から紹介しよう。
 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は、恵みとまことに満ちておられた。」(1:1-14)
 現代神学者たちは、この「ことば」を、先在のロゴスと呼ぶ。この方は、神さまの世界で神さまとともにおられ、万物の創造者、神さまご自身であったとする告白とともに・・・
 この方には「いのち」があったと、ヨハネの告白は続く。
 そのいのちは暗やみに輝く光でもあった。
 旧約聖書・ダニエル書にこんな描写がある。
 「私がまた、夜の幻をみていると、見よ、人の子のような方が、天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その王権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(7:13-14)
 不思議な光景だが、この方は恐らく、天の御国に帰られた「先在のロゴス」なのだろう。「年を経た方=神さま」が主催された天の会議に陪席された先在のロゴスが、新しい永遠の国を造られると・・・
 ヨハネは、十字架に磔けられる直前のイエスさまのことばをこう記している。
 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもいるようにするためです。」(14:1-3)
 天の御国に戻り、聖徒たちのために住まいを用意する・・・と、人間的に考えるなら、これは、これから十字架に死に逝く者の言い得ることばではない。しかしイエスさまは、十字架に死んだその先に、死者の中からよみがえり、再び天に帰ると見通しておられたのだ。
 イエスさまの中心的出来事は、十字架の死と死からのよみがえりにある。「贖罪」の十字架については「福音と宗教」の項で詳述するが、聖徒たちのいのちに言及されたのは、十字架とよみがえりの出来事がこの時すでに完了していたからである。

 イエスさまのことは、十字架とよみがえりを通して認識していかなければならない。その視点を欠くと、イエスさま否定となる。
 グノーシス主義も十字架と復活のキリストを否定したが、キリスト教異端は多かれ少なかれ、何らかの点でこのキリストの否定で共通している。
 これがキリスト教を正統と異端に分ける、第一の物差しである。

 「キリスト教における異端の問題」で聖書が物差しと言ったが、その意味を考えてみたい。
 旧新約聖書はイエス・キリストを指し示しており、その中心はイエス・キリストの十字架と復活であると旧約聖書が預言し始めたその論点は、新約聖書に引き継がれ、それはパウロによって壮大に展開して行く。特にパウロ書簡に負うところが大きい。それゆえ、聖書が正統と異端を区別する重大な物差しとなるのである。
 キリスト教の物差しは「聖書」と言っていいだろう。
 聖書がカノン(正典=物差し)とされたのは、迫害で大勢の殉教者が出た初期キリスト教時代だった。迫害と異端の戦いが終盤に差し掛かった頃である。
 ある意味で、それはキリスト教の正統が確立した時代でもあった。

 キリストの「神性」を否定した異端の中で、代表格とされるアリオス派を見てみよう。
 神性をかぎ括弧で括ったが、「キリストの否定」とは、「キリストの神性」を否定することである。新約聖書時代のユダヤ人たちがそうだったが、歴史上でも、人は、「神さまの御子」であるイエスさまを、自分たちの仲間・人間でしかないと、聖書の証言を否定してきた。

 紀元325年、コンスタンティヌス大帝の招集によって、小アジア・ニコメディア南部の町ニカイアで、キリスト教史最初の全教会規模の公会議(ニカイア公会議)が開かれた。そこでキリストの神性が争われた。
 詳細は「絶対他者・御子=イエス・キリスト」の項に譲るが、当時、何度も開かれた教会会議を経て、「キリストは真に神の子であり、真に人の子である」という、現代まで続く福音主義信仰告白が誕生した。
 採用されたニカイア信条にはこうある。
 「我らは、主イエス・キリスト、神の御子、御父よりただ独り生まれたるもの、神より出でたる神、光より出でたる光、真の神より出でたる真の神、造られず、聖父と同質なる御方を信ずる。」と。
 これが、キリスト教正統神学の基礎となった。
 だが、「キリストは神にあらず」という異端は、退けられても退けられても姿形を変えて出て来た。教会会議が何度も開かれたのは、そのためである。

 ニカイア会議後、異端を識別する信条が多く生まれた。
 それは多くの異端が次々と誕生してきたからであり、その一つ一つを論破しながら、その戦いの中で「正統」が確立されていった。
 これは初期キリスト教時代の大きな特徴だろう。
 退けられたアリオス派の見解は、その後もペラギウスやネストリウスなどに引き継がれ、しばしばキリスト教異端の中で顔を出すことになる。現代では、先に取り上げた「エホバの証人」など、キリストを神でないとするアリオス派の流れを汲んだものと言えよう。
 異端との戦いは現代も途絶えていない。


(3)キリスト教異端総括

 ここで、「キリスト教における異端の問題」で約束していた、ローマ・カトリック教会の問題にも行き当たる。キリスト教界の状況を要約しながら確かめておきたい。

 いくらか加筆、減筆し修正しているが、恐らくこんなことだった。
 「どんな宗教教団にも、多くの異端が付きまとっていたが、正統と異端の争いは、どちらが正統かを争う問題になってしまう。異端を問う前に、正統側にとって、何が正統かが固定化されていなかったという問題が上げられる。
 その問題は、第二部を始めるとき、『正統的キリスト教にとって、何が異端とされたのか、言い換えれば、正統的キリスト教とは何なのかを探ってみたい。恐らく、それが本書の目指す福音の解明につながるだろう』と言ってきたが、キリスト教の歴史の中で、正統的キリスト教が理解され、異端があぶり出されてきたことは明らかである。正統と異端の区別をする物差しは、もちろん時代によっても違うが、旧新両約聖書やキリストの神性、十字架と復活、教会形態等の神学など、おおむね一貫している。
 その物差しに照らすと、キリスト教の歴史には一つの大きな問題がある。
 先に取り上げた『エホバの証人』『モルモン教』『統一協会』などの異端を遥かに超えた、『ローマ・カトリック教会』という問題である。これを異端問題で無視することは出来ない。
 異端が数多く現われたのは、紀元一~三世紀のことである。紀元四世紀初頭に書かれたエウセビオスの『教会史』には、初期キリスト教の迫害と殉教、そして、異端が中心主題として描かれている。それを見ると、まるでキリスト教の歴史の中心問題は、正統と異端の戦いであると言わんばかりである。そして事実、エウセビオスの時代は、異端と向き合うことで、正統が正統としてその位置を確かなものにしていった。だから、その物差しとしての聖典(正典=カノン)成立が、中心問題として取り上げられている。」

 キリスト教を正統と異端に区別する物差しをいろいろ上げたが、もう一つの物差しが生まれた。それは十六世紀の宗教改革である。福音主義教会は、そこから生まれたと言っていいだろう。この宗教改革は、少し前のルネサンスの流れの中にある。言うまでもなく、ルネサンスは、「古典に帰れ」を合い言葉にさまざまな分野に広がっていったが、古典中の古典として、ヘブル語の旧約聖書、ギリシャ語の新約聖書を研究する動きが出て来た。そこから、聖書を民衆に提供すべく、ヒューマニストの研究者・エラスムスやウイクリフといった人たちが、聖書をドイツ語や英語などに翻訳し、宗教改革の舞台を整えた。
 その聖書研究が宗教改革の原動力になった。

 改革者たちは「ただ信仰のみsola fide」「ただ聖書のみsola scriputus」を合い言葉にしたが、その時点で、異端ばかりか、当時、世界中を支配していたローマ・カトリック教会は、正統的キリスト教とは呼べなくなった。
 改革者たちは、そこに照準を当てて、ローマ・カトリック教会反旗を飜したのである。
 ローマ・カトリック教会第一の問題点は、民衆から聖書を取り上げたことだろう。いや、彼らにとっても、聖書は神さまのことばで、神聖にして犯すべからざるものだった。だが、民衆が間違って解釈するといけないからと、ヒエロニムスが翻訳したラテン語訳聖書「ヴルガタ訳」だけを公認の聖書とし、それ以外の翻訳聖書の使用を禁じたのである。
 ヴルガタ訳聖書は非常に優れたものだが、無学な一般民衆にラテン語など読めるわけがない。ラテン語は学術言語として生き残っては来たが、それも衰退の一途を辿り、今どき学位論文をラテン語で書く人は極めて少ないだろう。恐らく、司祭たちの中でも、ヴルガタ訳聖書を母国語のように読める人は少かったのではないか。
 こうして、教会の講壇から司祭たちによって語られる聖書講話(メッセージ)だけが、聖書の教えを聞く唯一の機会になってしまった。
 しかも、メッセージを取り次ぐ司祭ですら、自由に聖書を用い語ることは出来なかった。司祭の知的レベルに・・・ということもあろうが、より上級な司祭や司教、大司教・・・と、上からの通達で聖書解釈が決まっていたからである。もしかしたら、上級司祭たちも、ラテン語を自由に操れなかったのではないだろうか。
 これは、聖書のバビロン捕囚と呼ばれている。
 よく言われることだが、ローマ・カトリック教会の組織図の中で、聖書や神学の研究、教育、信仰や祈りといった部分は修道院が受け持ち、組織や信徒たちの告解など、教会儀礼に関する部分は教会が受け持つ・・・と。修道院はローマ・カトリック教団の下部組織だから、教会の司祭たちに意見具申など口出しはできない。キリスト教にとって、どちらが大切なのだろうか。
 何回かローマ・カトリック教会で神父のメッセージを聞いたことがあるが、聖書の解き明かしなど全くなく、道徳訓話だけだった。そもそもメッセージの中で聖書が引き合いに出されることはなく、司祭たちは一体何を信じているのだろうか。それでも彼らは「キリスト教」の看板を背負っている。そして世間の人は、彼らを「正統」と呼んでいるのだ・・・

 ルターが母国語・ドイツ語で聖書を世に出して以来、宗教改革者たちは、自分たちで読める聖書を取り戻したと言えよう。ルター訳は今でもドイツの教会で重く用いられていると聞く。プロテスタントの諸教会は、講壇から語られる聖書の教えに基づくメッセージに力を注いできた。
 だが、そのメッセージが、現代のプロテスタント教会ではだんだん短くなり、聖書は読むだけでその解き明かしもなくなり、ゴスペルなどという賛美や信徒たちの証しに姿を変え、力を失いつつあると気にかかる。特に福音派と呼ばれる教会で、そんな傾向が多く見られる。

 次ぎに改革者たちが目指したのは、万人祭司制である。
 ローマ・カトリック教会の体系は、教皇を頂点とするピラミッド型のヒエラルヒーだが、万人祭司制は、頂点も最底辺も一列の横並びで、誰が偉くて誰が偉くないなどということはない。改革者たちは、誰もが神さまの前に同じ重さを持つ尊い人格であるとして、ローマ・カトリック教会の教会組織に異議を唱え、ただ、イエス・キリストを信じる信仰のみが重要であると説いた。

 そして、これも現代の福音派を自認する教会の問題だが、かつて異端に近いと疑われていた教会(牧師の問題か?)が、いつの間にか、近隣教会の仲間入りをしているという点である。ある信徒は、ものみの塔から誘われたからと、そちらに移ってしまった。牧師の許可を受けたと胸を張って・・・
 異端との壁が、薄くなっているのではないか。

 聖書やイエスさまの十字架と復活に立つ神学、或いは、イエスさまを信じて永遠のいのちをいただくとする信仰、さらに端的に言うなら、イエスさまを私たちの神さまであり、主であるとする告白に立つ信仰は、いづれも異端とは明確に一線を画すが、そんな正統神学に照らして、「異端」が浮かび上がって来た。

 だが、異端に照らして浮かび上がってくる正統ということについても、考えさせられることがある。
 「エホバの証人」の活動は、二人一組になって一戸づつ勧誘して回ることで知られる。ほとんどが素敵なご婦人なので、勧誘される人も多いのではないだろうか。尋ねると、○○の王国会館から来ましたと答えてくれるが、断ると淡々と、「そうですか」と言って引き下がる。その点、同じように一戸づつ訪問して回っていた統一協会の押し売りとはえらい違いである。雨の日も寒い日も同じようにこつこつと回っている。ノルマがあるのかも知れないが、彼女たちのたゆまない努力はどこから来るのだろうか。佐渡にいたとき、島内の牧師たち三人と交わりを持ち回りで続けていたのだが、そこにエホバの証人の信者(男性、一人での訪問)がやって来た。今、牧師会をしているからあなたもどうぞと誘うと、無表情のまま加わって来たが、いきなり滔々とものみの塔の勧誘を始め、止まらない。いっしょに祈りましょうと言うと、反っくり返って祈りには加わらず、なおもしゃべりたいことだけをまくし立て、「熱心ですね」と聞き流すと、威張りながら帰って行った。
 彼らはとにかく、熱心である。
 統一協会の会員になった人もそうだったが、自分の話したいことだけ話し続けるが、自分は決して聞こうとはしない。ああ、これが世に言うマインド・コントロールなのかと感じた。とても丁寧ではあったが、かのご婦人たちも同じなのだろう。それを見抜くキイワードは「熱心」ということではないか。人の話を聞かない。こちらの言い分をちょっとでも言おうものならすぐに心を閉ざしてしまう。話すときには大声で・・・と。
 同じような人たちをいくつかの教会で見かけたことがある。
 特に福音派を標榜する正統教会に見られるようだが、信徒たちは聖書の学びにも伝道にも熱心である。ところが、その分、人の話を聞くことが不得手だ。違う意見に耳を貸さないのでは、その「正統」もあやしいものではないか。洗脳された人たちを拘束し、逆洗脳でその洗脳を解除しようとする動きも・・・
 異端問題の根深さの一端が垣間見える。

 最後に、ディスペンセイションのことに触れておく。
 これは、異端には分類されていない。
 十九世紀から二十世紀にかけて、イギリスやアメリカで、福音派と呼ばれる人たちの一部(The Scofield Bibleを出版したスコフィールド等)で造成された神学である。その最も根本的スタンスは、「聖書は一字一句誤りなき神のことばである」とすることだが、奇妙なことに、宗教改革者たちの「契約神学」を仇敵のように非難し、独自の神学を打ち建てている。
 「ディスペンセイション」とは、分配、区分という意味だが、聖書には以下のような区分があると彼らは言う。
 ①、無垢の時代ーアダムの創造から堕落まで、②、良心の時代ー堕落から洪水まで、③、人間の統治の時代ー洪水からアブラハムの召命まで、④、契約の時代ーアブラハムの召命からシナイ山における律法授与まで、⑤、律法の時代ー律法授与からキリストの公生涯の大部分まで、⑥、恵みの時代ーキリスト公生涯の最後から再臨まで、⑦、王国の時代ー千年王国。
 ディスペンセイションには、このような七つの区分があって、その七つの区分にはそれぞれ独自の統治原理が働き、それぞれが交わったり相互補完することはないとされる。
 彼らは「千年期前再臨説」に非常に拘るが、なぜなのか理解し難い。彼らが拘る教理は他にもあるが、煩雑になるのでここでは取り上げない。
 この七つの時代区分については、多くの批判がある。
 おもなものだけ上げてみよう。
 a、この時代区分は、聖書から裏付けられたものではない。
 b、旧約聖書から新約聖書へという連続性が認められない。
 c、聖書の主張を、自らのア・プリオリによって固定化している。
 d、イスラエルと教会とを別のことであるとして完全に区別している。
 e、終末における携挙とキリスト再臨とを区別する。
 f、種々の預言や山上の垂訓は現代に適用されるものではないと言う。
 g、区分ごとに統治原理が変わるのは、神さまの不変性否定ではないか。

 この中から一つだけ取り上げて、詳細に見てみよう。
 二番目の「旧約聖書から新約聖書へという連続性が認められない」とする批判である。これは他の多くの批判に共通するものだが、ある意味で、ディスペンセイション主義者の中心問題と言えよう。
 彼らは、聖書の記事を七つの箇所に区切り、それぞれを○○時代と名づけた。
 その区切り方には、「聖書は字義通りであって、齟齬はない」としていて、確固たる理由がある筈だが、その理由がどこにも見当たらない。むしろ旧約聖書全体には、新約時代にも引き継がれる「恵み」が散りばめられていて、それは切れ切れにされた各区割りを超えているのだが、彼らのそれは「便宜上」としか言いようのない区切り方に見える。
 しかも、それぞれには、ただ名付けただけでなく、それぞれの統一原理が働いていて、それぞれの統一原理は、区分された他の箇所の統一原理を侵害することはなく、ほぼ完全に一つ一つを独立した時代と位置づけている。
 しかしそれは、神さまが人に「恵みを賜うお方」という聖書全巻を通して見られる統一性を否定するものではないか。堕落したアダムに対しても、動物の皮で作った衣服を着せた神さまの恵みは、ノアに箱船を作らせて洪水を乗り切らせた中にも見られるし、アブラハムに注がれた愛は、エジプト寄留に至ったイスラエル、王国時代に幾多の預言者たちを送って、時代時代を生き延びさせた慈しみ、恵みから出たものではないか。そもそも、律法さえその慈しみから出たのではないか。
 彼らは、「聖書は神さまのことば」だと言う。
 それには激しく同意しよう。
 だが彼らは、それは神さまのロゴスたるイエスさまによるのだと、神さまのひとり子であるお方が、神さまのことばとして働かれたのだという、そのことを失念しているのではないか。そこには統一性や連続性があって当然なのだが。
 そのお方は、現代の私たちにも深く関わろうとしておられる。種々の預言や山上の垂訓だけでなく、聖書に記されたあらゆる記述は、一見、現代とは無縁に見えても、なんらかの意味をもって私たちに語りかけて来るものである。恐らく、それを信仰者たちに解き明かされるのは、弟子たちにだけでなく、現代にも遣わされる聖霊なるお方である。ヨハネはそのお方を、パラクレートス(助け主)と呼んだが、そのお方はイエスさまを現在化してくださる方である。彼らは、その辺りのことを失念しているか、無視していると見えてならない。

 彼らは福音主義に立っていると言われ、異端と呼ばれることはない。
 だが、限りなく異端に近いのではないか。
 彼らが、エホバの証人やモルモン教や統一協会のようでないことは間違いないだろう。だが、もしかしたら、正統と異端の差は紙一重ではないのか。そんな異端的要素が私たちにはないと、どうして断言出来るだろうか。私たちのイエスさまを信じる信仰は、絶えず、世の荒波に晒されている。遣わされている助け主とともに、そんな荒波を乗り越えて行きたいと願う。
 私たちの主は、必ずや、ご自分の瞳(ゼカリヤ書2:8)、宝(出エジプト記19:5)のように、私たちを慈しんでくださるだろう。
 彼らディスペンセイション主義者、そして、すべてのキリスト教異端は、恵みとあわれみの主に顔を向けていないのではないかと、そんな気がしてならない。


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