新・福音と宗教


第二部 福音と宗教

六章 キリスト教

 この章では、キリスト教の歴史(日本キリスト教史を含む)と、その歴史で発生した異端問題を取り扱う。
 特に、何が正統で何が異端とされたのかを探っていきたい。
 初期キリスト教確立の背景には、二世紀を中心に世に出された、使徒後教父たちの異端との戦い・「異端反駁論」があるが、その中心は、異端を明らかにすることによって、正統的キリスト教とは何かを明らかにすることがあった。
 歴史上のキリスト教と福音の間には、区別しなければならない違いがある。もちろん多くの共通点もあるが、歴史を見て行くことでその共通点を、そして、異端を取り扱うことでその違いをピックアップできればと願う。

 「キリスト教」に取りかかる前に、まず「ユダヤ教」について触れておきたい。
 なぜなら、ある意味でキリスト教は、ユダヤ教の相当部分を引き継いでいるからである。もちろん、決定的とも言える相違点はいくつもあるが、キリスト教は、ユダヤ人たちが神さま(ヤハウェ)のことばとして聞いて来た「聖なる書物」を、そのまま旧約聖書として受け入れており、彼らの会堂・シナゴグは、キリスト教会の原型でもある。そして、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈り、説教者からメッセージを聞くシナゴグの礼拝スタイルは、ほとんどそのまま教会の礼拝に引き継がれている。
 それは、ユダヤ人たちが拠り頼んだ神さま(ヤハウェ)が、キリスト者にとっても、数え切れない恵みを与えられる神さまであることにも見られよう。そのお方と私たちが「主」と慕うイエスさまのについては、第二部で明らかにしたい。


1、ユダヤ教

(1)ユダヤ人とユダヤ教徒

 現代人の特徴だろうか、ユダヤ人でもユダヤ教信仰を踏襲しない人たちがいる。しかし、一部のそんな人たちを除いても、一応、ユダヤ人=ユダヤ教徒と言っていいだろう。もっともその場合、「ユダヤ人」をどう定義するかは問題だが・・・

 パレスティナに築き上げた国を失い、放浪の民として、長い歴史を世界中の様々な国で生きてきた彼らは、古い国名「イスラエル」を引き継ぐ現イスラエル共和国内においてさえ、「ユダヤ人とは誰か」という認識は多様で、時には裁判沙汰になるほど重い議論になっている。
 現代、イスラエルの法律では、母親がユダヤ人ならその子はユダヤ人と認められている。それはもちろん血筋のことだろうが、ユダヤ教は家庭教育を重視していて、ユダヤ教を子供に伝える役目を母親が担っているからだろう。しかし、割礼を受けてユダヤ教に改宗すればユダヤ人になれるなど、そんなことも議論をいっそう複雑にしている。割礼とは、男子のシンボルを一部切り取ることで、それは、神さまとイスラエルの「契約のしるし」という意味をもっている。つまり、イスラエルが神さまの民とされる宗教儀礼である。それがあるから彼らは、どんな時にも「神さまの民」という意識から離れることはなかった。

 「ユダヤ」という呼名は、南北に分裂した「統一イスラエル王国」の北王国(十部族)が前722年アッシリヤ帝国によって滅ぼされた後、南王国(残り二部族)でも、少数のベニヤミン族がユダ族に吸収されて自然消滅し、そのユダ族もバビロン捕囚(前600~530年)の憂き目に遭う。その後、バビロンから覇権を引き継いだペルシャが、イスラエル王国の行政区の呼名として「ユダヤ」を用いていたことから、イスラエルに帰還した後も、彼らは「ユダヤ」と言う呼称をそのまま自国の呼名にしたようである。
 イスラエルの十二部族は、ヤコブの十二人の息子たち(次項参照)を起点としているが、時代によって脱落する部族が出るなど、かなり複雑である。だから、「十二部族」は、正確な十二部族名というよりむしろ、イスラエルを指す伝統的呼称と考えていいだろう。

 しかし、歴史的には、ユダヤ教がユダヤ人のアイデンティティー(自覚、意識)を保ってきたと言えるだろう。彼らは、イスラエルであった時も、またユダヤ人になって放浪の民として世界中に散らされた後も、その何千年という歴史を、「神さまとの契約」の中で生きて来たからである。
 そのアイデンティティーこそ、ディアスポラのユダヤ人たちを一つ民族として結びつけ、さまざまな迫害に苦しみながらも、神さまの選民という誇りの中で抜く力となったのだろう。


(2)ユダヤ教の成立

 通常、バビロン捕囚以前は「古代イスラエル」と呼ばれるが、それは、シュメール人が築いて古代バビロニアに引き継がれた、カルデアのウル(ペルシャ湾の突き当たり・現イラク)からカナン にやって来た、アブラハムに始まる。
 前二千年初頭である。
 古い言い方でイスラエルはヘブル人と呼ばれるが、「ヘブル」とは「川を渡って来た」という意味で、川とはティグリス・ユーフラテス川のことである。そこは大河から運河が引かれ、流域では農業が発達していた。農業はラテン語でアグリコラエと言われ、コラエとは「カルチャー」、すなわち文明のことである。大河地方は世界に名だたる文明の中心地だった。アブラハムは、その文明を享受していたのだろう。だが・・・
 アブラハムは、バビロニアにいた頃から、「ヤハウェ」(「主」の意)という、後のイスラエルが神とした唯一神を崇めていた。
 神々の国であったバビロニアで、「ヤハウェ」はアブラハムに言われた。
 「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」(創世記12:1-2)と。
 ヤハウェが導かれた所はカナンの地の南部だった。カナンは紀元132年の第二次ユダヤ戦争以後、「パレスティナ」と呼ばれるようになったが、「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる中心部・十字路に当たる。
 当時、文明国バビロンから見れば、そこはいかにも辺境の地だった。しかしアブラハムは、人が造った文明より、神さまの啓示を重んじたのである。
 それは、アブラハム、イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブの十二人の子どもたちから始まるイスラエル十二部族が辿った歴史であるが、それはそのまま古代イスラエル宗教の歴史に重なる。カナンでの放牧生活の後、エジプト移住とそこからの脱出、カナンへの再進入と諸民族との戦い、定住、王国建設、分裂、バビロン捕囚という苦難を背負い、それでも神さまの祝福を頂き神さまの選びの民とされるが、カナン周辺諸民族の先進的文化に毒され、次第にヤハウェから離れて行った歴史でもある。それら周辺諸民族には鉄製の武器を用いる優れた文化があり、素朴な放牧を生業とするイスラエルはその文化に憧れたのだろう。だが、その文化を取り入れることは、彼らの神々を取り入れることだった。文化は宗教と結びついていたから、彼らがヤハウェを忘れるまで、さほど時間はかからなかった。そんな彼らの歩み(前2000年初頭~南ユダ王国滅亡前586年)は、旧約聖書に詳しく描かれている。

 古代イスラエルの宗教は、モーセの律法と神殿(シロやシケムに簡素な神殿が建てられる前は移動式天幕製聖所)での祭儀を中心に、いかにも素朴なヤハウェ礼拝だった。エルサレム神殿は、ダビデ王がイスラエルを統一した後、その子ソロモンが建てたものである。

 その初期イスラエルの信仰を、ユダヤ教が引き継いだ。
 バビロンから帰還したユダヤ人たちは、エズラによって再建された第二エルサレム神殿(第一神殿はソロモンによる)で祭儀が行われるようになった後も、バビロン捕囚中に造り上げたシナゴグ(ユダヤ人会堂)での礼拝を中心に、モーセの律法を遵守する共同体を形成していった。
 初期(前期)ユダヤ教の成立である。
 彼らは、神殿崩壊と祖国喪失、バビロン捕囚という出来事を通して、その原因が神さまへの背信行為にあったと反省したのだろう。
 新しいユダヤ教は、安息日厳守など律法に則った儀式、旧約聖書に記された食物規定に加え、ラビたちによって細々と定められた日常生活の倫理綱要、断食や祈りなどを厳しく守ろうとして、それが次第に空虚な形式主義に陥っていった・・・
 時代が進んで、保守派や進歩派などいくつもの派が出現して来るが、ユダヤ教の頑固な「律法主義者」・パリサイ派は、その頃、あるいはそれ以前(バビロン捕囚中?)に発生したものらしい。そして、諸派乱立に合わせるかのように、終末思想やメシア待望思想が盛んになっていった。
 この「初期(前期)ユダヤ教」の教団としての成立はパレスティナ帰還後のことだが、その萌芽は捕囚時代にあったと言われる。バビロニヤにあったユダヤ人開拓地(ユダヤ人コロニー・他国人もいた)で、祭司、律法学者、パリサイ人たちは散逸していた聖書(旧約聖書)を編纂しながら力をつけて行ったが、彼らはコロニー内の預言者また教師として、次第にその地位を確保していく。
 当時の聖書は、パピルスのコデックス(閉じ本)もあったが、大部分は羊皮紙に書かれた大ぶりの巻物で、一つの書物が何巻もの巻物になっていた。
 バビロン捕囚100年ほど前のヨシュア王の時代に、神殿内から「律法の書」が発見された。それをきっかけに「ヨシュア王の宗教改革」が行われるのだが、律法の書(旧約聖書)が「発見された」ということは、すなわち、それが長い間人々の目に触れられていなかったということで、イスラエルを形成していた「神さまのことば」がないがしろにされていたことを意味する。
 恐らく、多くの巻物は散逸していた。バビロン捕囚時に、その散逸していた巻物を収集、編集することは、「新生ユダヤ」の急務だったに違いない。彼らは、バビロン捕囚を神さまからの「罰」と受け止め、だから新しい礼拝所・シナゴグでは、編集され、完成された聖書を読むことと、そこからメッセージを聞くことが、礼拝の中心になっていった。彼らは、異邦の地で、ヤハウェへの信仰を回復し育てていったのである。

 繰り返そう。
 捕囚時代に生まれた礼拝と教育の場「ユダヤ人会堂」(シナゴグ)は、帰還したユダヤ人の地域共同体に引き継がれ、ヤハウェ神殿のなかった異国の地で、それに代わる聖所・礼拝所として誕生した。シナゴグ礼拝に参加する人が、神さまの選びの民であり、ユダヤ教の成員とされた。シナゴグは、エルサレム神殿とは別の、もう一つのユダヤ教の中心となったのである。
 初期ユダヤ教は、祭司エズラを中心に再建された第二神殿時代に重なり、紀元70年のローマとの戦い(ユダヤ戦争)で神殿が崩壊された後は、「後期ユダヤ教」と呼ばれる。
 シナゴグでの礼拝は、キリスト教会のひな型となった。


(3)放浪の民として


 ユダヤ人と言えば、国を失って世界中に散らされ、2000年にも及ぶ迫害と放浪の中を生き抜いた民族として知られるが、その放浪の歴史の概観を辿ってみよう。

 ユダヤを支配下に置いたローマとの関係は、紀元前63年に遡る。
 紀元前63年と言えばユダヤのハスモン王朝時代だが、女王サロメ・アレクサンドラの後継を巡って二人の息子が争い、弟アリストブロス二世が兄ヒュルカノス二世の軍に包囲された年である。アリストブロスは、シリヤに駐留していたローマの将軍ポンペイウスに援軍を要請し救出されたが、後にボンペイウスは、恩を忘れた不誠実なアリストブロスを捨て、ヒュルカノスを王・大祭司として認めた。
 ポンペイウスがユリウス・カエサルに敗れると、ヒュルカノスに代わってアンティパトロスが後を継ぎ、ローマによるユダヤ支配体制の初代長官となった。だが、紀元前44年にカエサルが暗殺され、同じくアンティパトロスも殺されると、アンティパトロスの息子でイドマヤ人のヘロデが、ローマ元老院からユダヤ王と公認され、紆余曲折の末、ヘロデ王朝が始まった。
 彼は大王と呼ばれ、その末期にベツレヘムでイエスさまがお生まれになるなど、新約聖書の最初期を彩っているから、馴染みある名前だろう。

 だが、ヘロデ王朝の安泰も彼が王であった間だけで、ヘロデが死ぬと(紀元前4年頃)、たちまちローマへの不満と暴動が起こった。
 そこからは小反乱時代と呼ばれる。
 そして紀元60年代には、過激派の熱心党を中心に、ローマからの独立を目指して多くのユダヤ人が武装蜂起し、次第に大反乱時代へと向かう。64年にユダヤとローマは第一次ユダヤ戦争に突入し、時の皇帝ネロは大軍を派遣した。ネロ帝は67年に暗殺され、三人の皇帝が争った内乱時代を経て皇帝となった総司令官ヴェスパシアヌスは、エルサレムを完全制圧(70年)し、エルサレムは神殿西壁(現在は嘆きの壁と呼ばれる)を残して、徹底的に破壊された。
 この戦争にユダヤ側の司令官として参戦し、「ユダヤ戦記」を著したヨセフスによれば、ユダヤ人犠牲者は百十万人を超えたと言われる。その後、約千人のユダヤ人が死海東側にある要塞マサダに籠城し、ゲリラ戦を展開するが、ローマはこれをも陥し、二人の老婆と五人の子供を残して全員玉砕した。この事件は、ユダヤ最大級の悲劇として今に語り伝えられている。
 そして紀元132年、バル・コフバの反乱(第二次ユダヤ戦争)が起こった。最後のユダヤ戦争であるが、敗北した彼らは国を失い、世界中に離散して行った。それが2000年に及ぶ放浪と苦難の時代の始まりである。
 つい近年まで、いくつもの国が反ユダヤ主義を掲げ、ユダヤ人迫害者になっていた。ドイツ・ナチによるアウシュビッツでのユダヤ人虐殺など、その典型例だろう。
 ユダヤ教は、紀元70年の「ユダヤ戦争」を境に、以後「後期ユダヤ教」と呼ばれる(後述)。これは、シナゴグ礼拝を中心とする、民衆教育を特色としている。恐らく、戦争で散逸した「聖書」の結集も行われたのだろう。

 ローマとの戦いに敗れ、離散して放浪の民(海外移住のユダヤ人=「ディアスポラ」)となったユダヤ人は、迫害と苦難の中を生き抜く道をユダヤ教に求め、唯一の神・ヤハウェを信じるユダヤ教徒として生きる必死の模索を続けていった。
 この新しいディアスポラのユダヤ人たちは、恐らく、古ディアスポラの人たち(バビロン捕囚から祖国に帰国しなかった)とも結びついて、そのコロニーは多くの国々へ広がった。
 彼らは、国を失い、魂の中心であるエルサレム神殿で祭儀を行うことが出来なかった。
 彼らがその危機を乗り越えることが出来たのは、一つには、寄留した国々にコロニーを作り、そこにシナゴグを建てて礼拝を守って来たからである。彼らは、彼らの神・ヤハウェへの信仰をそこで守り通そうとした。しかし、異邦人の地でそのようなスタンスを守り続けるには、経済的にも大変な努力が必要だったろう。世界各地のユダヤ人が金持ちと言われる背景には、長い年月をかけた彼らの、たゆまぬ努力があった。
 そしてもう一つ、彼らがユダヤ人として生き延びて来た理由に、律法研究から生まれた信仰姿勢がある。律法研究は、世界各地に建てられたシナゴグを中心に「ユダヤ・アカディミイ」で行われた。これは、第一次ユダヤ戦争時に、地中海沿岸ヤブネに建てられた「ユダヤ人学校」(後述)から始まった。
 彼らは、神さまの意志としての律法を、日常生活の中で正しく実践することこそ神さまの前に立ち得る正しい姿としたのである。ユダヤ戦争後、ディアスポラのユダヤ教は、「律法」と律法から引き出された生活規範としてのミツヴァ(掟)を中心とし、その傾向が、ミシュナ(口伝だった日常生活の規範をユダヤ教規範集として二世紀頃にまとめた)やタルムードを重視する方向へと傾きはじめ、トーラ(律法)の他に、ミシュナとタルムードをユダヤ教正典に加える動きとなった。タルムードは、律法を日常生活の用語で解説したラビたちの知恵集とでもいったらいいだろう。それは二十巻一万二千ページにも及ぶ膨大なもので、前500年~後500年の一千年間に語られたラビたちの口伝を編集したものである。ムハンマドの語録がウラマーたちによって編集されたイスラムのハディスに、どこか似ているではないか。

 神殿祭儀を、シナゴグ礼拝、律法研究、その実践に代えることによって、神殿喪失の危機を乗り越えた後期ユダヤ教は、結果として、律法主義宗教に変質していく。ユダヤ人の律法遵守は、イエスさまと律法学者との対話にも見られる(福音書参照)が、律法を厳格に守り通そうとするその在り方は、中世~近代を通じて一貫したユダヤ教の基本姿勢と言えよう。律法の徹底的遵守、これが、国を失い神殿を失って世界中に放浪の民として散らされたユダヤ人たちの、生きる力となった。バビロン捕囚時の詩篇に、「私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないでください」(119:8)とあるが、彼らの信仰が伝わって来るではないか。

 ところが、その律法遵守は、いつの間にか律法の文字に縛られ、血の通わない律法主義に陥っていった。その傾向に拍車をかけたのが、シナゴグを中心とするユダヤ社会ではなかったか。バビロン捕囚期の初期には、指導者はいても、権力を持ってそれを振りかざすことはなく、上記詩篇に見られるように、預言者たちがそれぞれの群れをリードしていたと思われる。
 しかしながら、パレスティナ帰還後、シナゴグ構成員の出入を管理する指導者階級が生まれ、彼らが民衆の上に君臨するようになった。古くはパリサイ人やラビたちが、近世では正統派や改革派、保守派の教師たちが、それぞれのシナゴグでそれぞれの規則で構成員を管理したのだろう。その規則が、厳格な律法主義につながっていった。恐らくそれは非常に細かなところまで定められていて、それは守ること自体が極めて難しかったと想像される。しかし、だからこそ、シナゴグという社会で共有しうる、価値あるものに育っていったのだろう。
 神さまの言いつけに背いたことがイスラエル崩壊を引き起こしたと、彼らは忘れていなかったのである。

 紀元70年のエルサレム陥落後、瓦礫の中から立ち上がったのは、パリサイ派の人たちだった。彼らは頑固な律法主義者として知られているが、意外と、事態を把握し対処する知恵を身に着けていたのだろう。そんな知恵を、彼らは律法研究の中から学んでいたのかも知れない。
 その中にヨハナン・ベン・ザカイというラビ(教師)がいた。彼はエルサレム籠城中に、このままでは民族が滅亡すると憂え、深夜、棺桶に身を隠して城を脱出し、ローマ軍の陣中に行き、「ユダヤ人にはローマとの協調を説くから、その代わりに学校をたてて宗教教育を行うことを許して欲しい」と願い出た。
 ローマ人は、服従さえすれば宗教なんかどうでもいいと考える人たちだったから、その願いを許し、やがてザカイは、地中海からエルサレム寄り内陸部に少し入ったヤブネに学校を作った。これは戦後ガリラヤ地方に移転するが、戦乱後の貧窮のどん底でも存続し、メソポタミアやギリシャなど世界中に散らされていたユダヤ人たちが、この学校に留学してきたと言われる。ザカイの建てた学校が、ユダヤ教の灯を守り通したのである。彼はまた、一時期だが、ガリラヤ地方にユダヤ人自治区を造ることをローマに承認させたようである。
 シナゴグは、イエスさま当時もユダヤ人子弟の教育の場になっていたが、恐らくザカイなどラビたちは、そんな伝統を残すことで、後世のユダヤ人たちが神さまの選びの民として生き延びることを期待したのだろう。今も世界一級知識人に、ユダヤ人が多いことも頷けるではないか。

 ユダヤとローマの最後の戦いは、ラビ・アキバがシモン・バル・コフバをメシヤに担ぎ上げて兵を動員し、反抗した132年のことだった。彼らは一時エルサレムを占領するがすぐに奪還され、ついに残っていた建物も徹底的に破壊され、ユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止されてしまった。この時からこの地は「カナン」からシリア・パレスティネンシスと改名され、「パレスティナ」と呼ばれるようになった。この戦闘にユダヤ人キリスト教徒が加わらなかったことから、キリスト教徒のエルサレム立ち入りは例外とされ、この時から、ユダヤ教徒とキリスト教徒の身分が区別されるようになったと言われる。

 紀元392年にキリスト教がローマ国教となり、その直後から、権力者となったキリスト教によるユダヤ人迫害が始まった。ローマ法立法にキリスト教徒が加わり、教会が定めた教会法がローマの国家法に取り入れたのである。
 まず、キリスト教徒がユダヤ教に改宗することは禁止され、違反者は死刑に定められた。そして、439年にはシナゴグの新しい建設と布教活動の禁止令が出され、違反者は死刑にされた。さらに、ユダヤ人がキリスト教徒と同じ家に住むことや、キリスト教徒の奴隷を使うことも禁止され、違反者は死刑とされるなど、彼らは次々と追い詰められていった。
 ユダヤ教は邪悪な宗派、悪魔の手先だから追放し、絶滅しなければならないと、つい近世まで、欧州のキリスト教各国は異端審問所を設けてユダヤ人を追放、そして、些細な理由から、多くのユダヤ人のいのちを奪った。

 1700年にも及ぶヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、大部分がキリスト教徒の手によって行われたと言っていいだろう。

 迫害の第一原因は、驚くべきことに、イエス・キリストを十字架につけたのは彼らであったということである。イエスさま当時の一部のユダヤ人に限って言うなら、まさしくその通りだが、時代を経たユダヤ人全員がその責任を問われ続けるのは、実に奇妙なことではないか。まして、聖書にその信仰を学んだ人たちは、イエスさまを十字架につけたのは罪を犯したすべての者であって、そこにはユダヤ人とか何々国人とかの区別はないと理解して来たのだが、それにもかかわらず、キリスト教徒たちは、ユダヤ人迫害者になっていった。
 その理由の一つに、ユダヤ人はローマとの確執から国を失ったが、その後も反抗し続けたことが上げられる。ローマ人は、おおむね寛容な民族だが、逆らう者には徹底して反抗の芽を摘み取ろうとする。テオドシウス帝のキリスト教国教制定(392年)以降、ローマ人=キリスト教徒となった。それまで迫害される側だったキリスト教徒たちは、公権力と結びつき、その反動として、帳尻合わせに走ってしまったのだろうか。ユダヤ人側にとっても、自分たちの分派であった筈のキリスト教徒が一人前の顔をして権力者になっていることを、苦々しく思っていただろう。そんなユダヤ人の反感にキリスト教徒が反応し、両者の間に葛藤が生じていったと見る人たちは少なくない。

 ユダヤ人迫害は、彼らの財力に対する反感へと向かった。ユダヤ人は、長い放浪生活の中で、金儲けに類い希な才能を発揮して悪徳商人の評判を得ることになり、ユダヤ商人に対する反感が、彼らの財力を憎む反感へと育っていたのである。シェイクスピアの、『ヴェニスの商人』の強欲なユダヤ人金貸しシャイロックの物語は余りにも有名である。その財力を妬んで、その財力を我が物にと考えた者たちがいてもおかしくはない。ユダヤ人から取り上げた財産なら、さほど後ろめたくもなく通用したのだろう。

 次ぎに迫害の主原因となったのは民族主義だが、それは、西欧が民族国家を立て始めた一九世紀から二十世紀にかけてである。
 同一民族、同一宗教、同一言語を統一国家の基本とした西欧諸国は、近代化によって経済的にも軍事的にも力を蓄え、やがて他国への侵略や植民地支配に走るのだが、その陰に隠れた少数民族、立ち後れた国や民族の問題が、第一次世界大戦や第二次世界大戦を引き起こしたと言ってもいいだろう。
 そのような民族国家形成の最中にユダヤ人は異様な団結力を持ち、国家内国家とでも言える特殊な社会を作り上げていった。しかも同一宗教という点で、彼らユダヤ人は、妥協することのない自分たちの宗教を抱えていたから、民族主義国家を目指す人たちの目障りになったのはいうまでもない。第二次大戦中、神国日本にとって、キリスト教が目障りだったこととも符合する。この間にユダヤ人迫害が熾烈になり、ついに彼らは、自分たちの居場所・国家創設を夢見て、シオニズム運動をおこす。

 シオニズム運動とは、ユダヤ人が偉大な王と慕う、ダビデが築き上げたエルサレムの都を目指すことである。正確にはエルサレムにある「シオンの山」だが、そこはエルサレムの代名詞であり、パレスティナ一円に広がるかつてのイスラエル王国再建のシンボルである。
 1880年代に始まるこのシオニズム運動に火をつけたのは、オーストリアのユダヤ人で、ウイーン在住の新聞記者・テオドール・ヘルツルだが、その運動が実ってパレスティナにイスラエル共和国が独立・誕生したのは、つい近年、1948年のことである。ついに彼らユダヤ人は長い放浪の歴史にピリオッドを打ったのだが、その地にはすでにパレスティナ人と呼ばれるアラブ人たちが住んでいた。ユダヤ人たちは、そこに割り込むように入って来たのだが、当然そこには、貧しいムスリムのアラブ人と世界各地に大金持ちを擁するユダヤ人との間に、紛争が起きた。これには英国が深く関わったとされているが、それは、パレスティナ地区の小競り合い以上の、世界を巻き込む火種となっている。
 バビロン捕囚から数えて2500年以上経っているが、彼らは、神さまがアブラハムに約束された地に戻って来たのである。
 かつてイスラエルを旅行した時、アテネから飛行機がテルアビブ・ロッド空港の滑走路に着地したその時、機内に沸き上がった歓声と拍手が今も耳に残っている。乗客のほとんどは、見た目は白人だったのだが・・・

 しかし、彼らがパレスティナに自分たちの国を再興したからと言って、世界中のユダヤ人がそこに帰還したわけではない。むしろ、パレスティナのユダヤ人より、他国に寄留しているユダヤ人のほうがずっと多いのである。
 彼らはユダヤ人として、堅い絆で結ばれている。血ではなく、ユダヤ教という絆で・・・
 世界各地にはユダヤ人ブロック(コロニー)があって、一つのブロックから他のブッロクに移っても、推薦状がまわっていくとそれだけでファミリーとして迎えらられる、と聞いたことがある。また、彼らが最も大切にする過ぎ越しの祭りは、満月を観測して、ユダヤ歴による日時が慎重に決定され、連絡を受けて世界中のユダヤ人が同じ日時にその祭りを祝うそうである。


(4)展望

 ユダヤとユダヤ教については、もう少し触れておかなければならない。
 一つは、アシュケナージと呼ばれる白人系ユダヤ人の存在である。
 彼らはもともと、カスピ海付近にあったトルコ系白人・ハザール汗国と言う王国の末裔のようだが、七世紀末、強大なキリスト教国とイスラム教国に挟まれて苦境に立たされ、こともあろうにハザール汗国の王は、約百万人の国民全員をユダヤ教に改宗させてしまったのだ。やがて彼らは国を失い、以後、ユダヤ人として生き続けることになる。
 現在存続しているユダヤ人の多くはユダヤ教改宗者で、そのアシュケナージが、現在のイスラエル共和国をリードしていると、そんな推測もある。これには異論もあるが、興味を惹くところである。

 そして、今後ユダヤ教が果たすであろう役割も忘れてはならない。
 一つは、彼らが、ヘレニズムとともに現代世界が踏襲して来た二大文化潮流の一つ、ヘブライズムの担い手であるということだ。
 ヘレニズムは冷たい知的文化の旗手であり、ヘブライズムは暖かい血が通う感性文化の旗手とされている。ヘレニズム的要素を色濃く持つ現代文化が混沌として来た中で、ヘブライ文化を読み解くことは、この先極めて重要な案件となるのではないかと指摘する人もいる。その中で、現代イスラエルが受け持つ分野があるのかも知れない。なにしろ、二つの大河を渡って来たアブラハムの末なのだから。

 そしてもう一つ、今、盛んに取り沙汰されている終末に向けて、彼らが重要なタイムテーブルを担っているということである。
 そのタイムテーブルの中で、イスラエルという国が再建された。終末実現への案件が、一つがクリアされたのである。しかし、まだ実現していないタイムテーブルにエルサレム神殿の再建がある。彼らはそれに全く触れようとはしていないが、熱望していることは間違いない。
 その場所には、今、イスラム教のモスク「岩のドーム」が建っている。
 そこはイスラム教の特別な聖地なのだ。
 近年、欧米で、政治舞台への宗教的極右派の台頭が囁かれている。
 これは、ある意味、不気味なことである。
 トランプ大統領がテルアビブにあったアメリカ大使館をエルサレムに移したことは、その問題と深く関わるのではないか。神殿建設を視野に入れて・・・
 その動向に、注視する必要がある。


2、キリスト教

(1)イエス・キリストとその教団

 パレスティナ中央部、四国ほどの地域に、西は地中海、東はアラビアの砂漠地帯に挟まれるように、ユダヤ人の国があった。紀元一世紀当時、そこはローマ帝国の属州になっていたが、ローマ皇帝から任命を受けたローマ総督とヘロデ王家の四分封王によって支配されていた。ヘロデ王家とは、バビロン捕囚によってダビデ王朝が滅亡した後に建てられた、シリヤのセレウコス朝支配に反抗したハスモン朝に続くユダヤ人支配の王朝だが、イスラエルの十二部族には属さず、イサクの子エサウを祖とするイドマヤ人で、ハスモン朝時代に全員が割礼を受けてユダヤ教に改宗したようである。そのヘロデ王家の創始者・ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスがユダヤ北部のガリラヤ地方の領主だった時のことである。

 美しいガリラヤ湖畔からバスで一時間ほど山中に入ったナザレという小さな町から、イエスという人が、巡回説教者(昔から預言者たちが行ってきた意思表示スタイル)としてデビューした。彼は病人を癒す特殊能力を有し、その格調高いメッセージもあって、たちまち大勢の民衆を惹きつけ、メシア(ギリシャ語でキリスト)ではないかとの期待をもって迎えられた。
 メシアとは、神さまから油注がれた者という意味で、ユダヤで昔から、神さまが遣わされると預言とされた救世主のことである。当時、祭司、地主、長老といった一握りの貴族を除く大部分は貧しい民衆だったから、ローマ総督たちの悪行や締め付けの中で、なにかというとすぐに暴動が起きる、社会に不安定な時代だった。貧富の差は大きく、国中に不満が渦巻き、希望が手探りされていた。そんな中で期待された、ナザレ人イエスのメシア・デビューである。
 これは「メシア信仰」と言われるが、人々のメシアへの待望は大きく、それに応えるかのように、何人ものメシアを称する人物が現われたが、民衆はそんなメシアを担いでローマに反抗・・・、ということが幾度も繰り返されていた。それらはことごとく、ローマによって鎮圧された。

 ところが、民衆のナザレ人イエスを見る目は違っていた。
 「この方こそ本当のメシアだ」と、熱狂してその周りに集まって来た。
 新約聖書のマタイやルカの福音書に「聖霊によってみごもった処女マリアから生まれた」とある出来事も、早くから一般民衆の知るところとなり、救世主イエスの神秘性を盛り上げていた。そして、マリアの婚約者ヨセフは、当然イエスの父親になるのだが、零落してはいたが、イスラエルの偉大な王ダビデの末裔だった。だから、イエスもまたダビデの家系に組み入れられ、「ダビデの子」と呼ばれた。救世主・メシアがダビデの子と預言されていたことも、ユダヤ人にとって、イエスを担ぎ上げる絶好の材料だったろう。もっとも、民衆がそれを知っていればの話だが・・・
 民衆とは、いつどこにおいても、定まらぬ浮き草のようなもので、どんな熱狂もすぐに冷めてしまう。だが、ガリラヤ地方でのイエスは、大した評判になっていた。
 大勢の人たちが集まると、どこからともなくいろいろな情報が集まって来るのは、昔も今も変わらない。中には眉唾物もあるが、ダビデの末・・とは、紛れもなく本物の情報だった。ユダヤでは貧しい民衆も聖書を読んでいたし、民衆が礼拝に集うシナゴグ(ユダヤ人会堂)では、そんな情報も囁かれていた。
 ところが、いつものようにローマ反抗の御輿に担ぎ上げようとしたのに、イエスは一向に応えようとしなかった。それで民衆はイエスから離れ始めるが、イエスの高い評判は、ユダヤ教指導者、パリサイ派や律法学者といった保守派の人たちのねたみを買うことになる。さまざまな葛藤の末、イエスは神を冒涜し社会を混乱に陥れる者として、時の支配者・ローマ総督ピラトに告発され、総督官邸で行われた(不当な)裁判によって、ローマの極刑・十字架刑に処されることになった。イエスを担ぎ上げた民衆も、「十字架につけろ、十字架につけろ」とこぶしを上げたのである。

 しかしながら、イエスが十字架につけられたままなら、それまでの自称メシアたちと同じように、そのまま消えていっただろう。

 ところが、十字架につけられた筈のイエスが、三日後によみがえったというのである。大勢の弟子たちがよみがえられたイエスに会ったと証言している。もっとも、教会の中にもいろいろな意見があって、イエスは気絶していただけ、弟子たちが「イエスはよみがえった」と宣伝しただけ、イエスの霊が現われただけとか・・・、キリスト教会は、昔から一枚岩ではなかった。時代を経るにつれて、そのような見解はますます多様になっていった。
 しかし、そんなイエスの十字架を、「私たちの罪の赦し」と信じ、告白し、よみがえりのイエスに力を頂いた者たちがいる。使徒たちを中心とする弟子たちである。使徒とは、ユダヤ教の〈使者〉を起源とする、遣わす方の特別な委託を受けた宣教者のことであるが、彼らはイエスによってその使徒に選ばれたのである。
 使徒たちは、イエスが死人の中からよみがえったと告白し、そのメッセージを携えて世界各地に出て行った。マルコはエジプトに、トマスはパルティアに、アンデレはスキティアに、ヨハネはアジアにと、くじを引いて割り当てられたと、四世紀初頭のエウセビオスの「教会史」は伝えている。彼らだけでなく、バルナバ、ピリポ、シラス・・・と、大勢の弟子たちがいた。天に上げられる直前のイエスが、「あなたがたは地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)と語られた、それが実現したのである。そして、彼らが出て行った先々で、「イエス・キリストは主である」と告白する群れ・「キリスト教会」が建てられていった。
 「教会」とはギリシャ語でエクレーシア、「エク+カレオー(呼び出された者の群れ)」という意味だが、イエスを信じる者たちの信仰共同体・信仰者の交わりと言われている。これは、ユダヤ人たちが礼拝を行なっていたユダヤ人会堂(シナゴグ)を模したもので、イエスのよみがえりを記念して、日曜日ごとに賛美を捧げ、聖書を読み、イエスに言いつけられた聖餐式を行ない、立てられた説教者からメッセージを聞く礼拝をおこなっていた。
 その教会は、当初、誰かの家で集まって「パンを割く交わり」(聖餐式)をし、イエスのことを語り合っているだけだったが、その「家の教会」も、やがて独自の建物を有することになる。

 初期教会を建て上げていった弟子たちの中に、第一人者とされた使徒がいる。ペテロである。彼は、エルサレムに最初の教会が誕生した時の実質的指導者であったが、ローマで殉教した。ローマ・カトリック教会(西方教会)の頂点に君臨するローマ教皇は、このペテロの後継者と位置づけられている。それについては後で触れるが、ヴァチカン市国に建つ大聖堂には、ペテロの名が冠せられている。
 そして、ペテロと並んでキリスト教形成に大きな役割を果たしたもう一人の人物、「パウロ」を挙げなければならない。
 パウロは東のアテネと言われる学都、キリキヤのタルソでパリサイ派の家に生まれ、母国語のギリシャ語はもちろん、旧約聖書が書かれたヘブル語の訓練も受けて、エルサレムのガマリエルという高名な律法学者のもとに留学し、当初は頑固なパリサイ派の学徒として、キリスト教徒迫害に奔走していた。そのパウロに、よみがえりのイエスが現われたのである。
 パウロはその時、「あなたを異邦人への宣教者・使徒とする」(使徒九章)と伝道者として召し出され、イエスの福音を宣べ伝え始めた。
 やがて、彼を中心にシリヤ、アジヤ州、マケドニア、ギリシャ、ローマといった外国にまで教会が建てられ、パウロはまた、新約聖書中に、ロマ書、コリント書など、パウロ書簡と呼ばれる十三通の文書を残し、イエス・キリスト教団神学の基礎を築いた。
 彼は、一流の知識人だったが、よみがえりのイエスに召し出されたことを何よりも重んじ、律法学者となる夢を棄て、その生涯をイエス・キリストの福音宣教に献げた。
 この、ペテロとパウロを得て、キリスト教は世界宗教へと発展していったのである。
 もっとも、しばらくは迫害と殉教の時代が続くのだが・・・


(2)宗教としてのキリスト教の歴史

 キリスト教の歴史は多様性に富んでいるが、第一に上げなければならないのは、初期時代に築き上げられ、全時代を通して現われている特徴である。
 これは、ギリシャ・ローマ世界という大海に出た宣教者たちが苦労して築き上げたものだが、ギリシャの賢人たちが羨むほどの内容を人々に提供し、たちまちあらゆる階級の人々を魅了した。
 それは、イエス・キリストを信じる信仰者たちが、その信仰の内側に養い育てたもので、ギリシャ哲学にも匹敵する知性を有し、いづれの宗教にも負けない高度な神学を構築しながら、知識偏重に流されず、人を愛し、貧しい者たちや病む人に寄り添い続けたことである。
 キリスト教は愛の宗教と評されて来た。
 それは、初期時代だけでなく、それぞれの時代に、国家や教会の権力にも負けず、素朴なイエスを信じる信仰を守り通した人たちがいたということである。
 厳しい迫害に消えてしまっても仕方がない状況の中でも、そこには先人たちが守り通したキリスト教の歴史があると、胸を張って覚えたい。
 だが、反面、権力側に立ち、多くの人々を苦しめてきた歴史も持っている。
 俯瞰すると、生成期、迫害と殉教の時代、古カトリック教会時代、東西教会分裂時代、権力を持ち始めた中世ローマ・カトリック教会全盛の横暴を極めた時代、本物の福音を模索した宗教改革時代、そこから生まれたプロテスタント教会と多くの分派教派を産み出した時代、そして、聖書を否定し、イエス・キリストを信じる信仰さえも否定する方向へと舵を切った近現代・・・と、それぞれが劇的に変遷していった。
 その変遷した教会の歩み自体が、良くも悪くもキリスト教の歴史なのである。

1、生成期・原始キリスト教時代

 この時代は、紀元30年以降、一世紀末まで続く、迫害と殉教の時代に重なる。

 十字架と復活の後、イエスが昇天して間もなく、ペンテコステ(五旬節)と呼ばれるユダヤ人の祭りの日のことである。
 使徒行伝二章によると、その日、一つところに集まっていた弟子たちに、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまった」(2:2-3)という出来事があった。これは「みなが聖霊に満たされ、他国のことばで話し出した」出来事であると、使徒行伝は証言している。
 これについては、昇天前のイエスから予告があった。
 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)と。聖霊とは、「三位一体」の神さまのお一方で、信仰者に内在し、イエスの福音を証しする方である。ペテロはその時のことを、こう証言している。「これは預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべ、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』」(使徒2:16-18)と。
 エルサレム神殿の広い外庭には、五旬節の祭りのために、外国人のユダヤ教改宗者たちも大勢いたが、そこに出て行ったペテロや弟子たちは、多種多様なその人たちのことばで、イエスのことを話し始めた。「その日、たくさんの人たちが弟子に加えられた」と、使徒行伝は記録している。彼らはバプテスマ(洗礼)を受けて弟子たちの仲間に加わり、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き(イエスが教えた聖餐)、祈りをしていた。

 母なる教会と呼ばれる、エルサレム教会の誕生である。

 使徒行伝に、「聖霊があなたがたの上に臨むとき・・・」とある通り、教会はエルサレム教会を起点として広がって行った。
 使徒行伝を執筆したのは、シリヤのアンテオケでパウロと出会って弟子となった医者ルカだが、ルカはパウロと共に諸国を巡りながら、イエスの業績の記録「「ルカ福音書」と初期教会の事績「使徒行伝」を著した。使徒行伝は、ペテロやパウロなど弟子たちの宣教の働きを紹介したものである。

 ところが、キリスト教会の誕生がユダヤ教指導者たちに与えた危機意識は大きく、彼らは教会を撲滅しようと画策した。
 教会は誕生直後から、迫害の時代を迎えたと言っていい。
 最初の殉教者は、エルサレム教会に加わった貧しい人たちを世話するために選ばれた、七人の執事の一人ステパノだが、エルサレム東の羊門を出たところに、今も殉教者ステパノを記念する教会が建っている。この「貧しい人たち」は、「ギリシャ語を話す者」とあるので、恐らく、海外からの帰国者だったのだろう。ユダヤ社会は帰国者である彼らに冷たく、食べることにも困窮していたようで、彼らは教会を頼って来た。教会は彼らに優しく、自分たちのものを分け与えていた。そのため、みなが貧しくなったが、それがかえって他地域の教会からの援助を得て、全教会は一つの信仰共同体であるという意識が生み出された。
 そして、エルサレム教会初代牧師のヤコブも、為政者ヘロデ・アグリッパ王(一世)の剣にかかって殉教し、ペテロやヨハネもユダヤ人官憲に捕らえられることになる。
 しかし、迫害がかえって教会を強くしたと言えなくもない。
 迫害された弟子たちは、散らされて行った先々で、イエスの福音を宣べ伝えた。皮肉なことに、迫害と殉教が教会拡大の推進力になったのである。

 異邦人の使徒と呼ばれたパウロは、そんな迫害者の一人として登場した。
 だが、迫害者パウロに、よみがえりのイエスが現れたのである。
 「パウロ、パウロ。なぜわたしを迫害するのか。」「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」そんな会話の中で、パウロは異邦人たちに福音を宣べ伝える者として招き出された。
 次の伝道拠点となったのは、シリアのアンテオケ教会であるが、パウロはこのアンテオケ教会を起点に、宣教のため各地に送り出された。このアンテオケでクリスチャンという呼び名(あだ名)が生まれたが、クリスチャン(クリスティアノス)とは、「キリストに似た者」の意である。

 次に、キリスト教伝播に重要な役割を果たした、ギリシャ語について触れておこう。
 当時、現代の英語以上に広く用いられていた国際語は、コイネーと呼ばれる新しいギリシャ語だが、それは、動詞や名詞など幾通りもの変化形を持つ緻密な古典ギリシャの特徴を保有しながら、簡略化され、会話体であることが重視されていた。
 新約聖書は、このコイネー・ギリシャ語で書かれたのである。
 東のアテネと言われるギリシャ語文化圏・キリキヤのタルソで生まれ育ち、迫害者からキリスト教伝道者に転身したパウロは、このコイネーギリシャ語を駆使して、異邦人世界に教会を建て始めた。
 異邦人という言い方は、ユダヤ人が自分たちを神の選民と呼んだことに始まる。選民から見た選民以外の人たちは異邦人であって、自国民(たとえば日本人)から見た外国人が異邦人という意味ではない。
 異邦人社会は、現代とは比べものにならないほど国際語(ギリシャ語)に長けていて、福音を聞く耳が整えられていたと言えよう。
 ローマは武力でギリシャを従わせたが、文化ではギリシャに占領されたと言われるのは、このギリシャ語文化を指しているようである。ローマ人の母国語ラテン語も、ギリシャ語の影響を受けて、変化形など文法的には似ている。
 そのコイネー・ギリシャ語を武器に、キリスト教会はアンテオケから小アジアを西進し、マケドニア、ギリシャを経て、首都ローマにまで延びて行った。もっと正確に言うなら、コイネーギリシャ語は、聖書記述に用いられることで完成し、キリスト教とともに普及して行った。

2、迫害と殉教の時代

 ローマ帝国全域に増え広がったキリスト教徒への迫害と殉教の時代は、いよいよローマ皇帝たちによって本格化された。
 紀元64年、ローマ大火のスケープゴートとしてキリスト教徒をターゲットにした(と推測される)ネロは、迫害者になった最初の皇帝として不名誉な称号をつけられた。彼は、満員の観客が見物する闘技場で、キリスト教徒たちをライオンの餌食にし(これには異論もある)、十字架につけて火あぶりにしたりと残忍を極め、追い詰められたキリスト教徒たちは地下墓所・カタコンベに隠れ住み、そこで礼拝を守ったと伝えられる。
 ハリウッド映画で有名なシェンキヴィッチの小説「クオヴァディス」は、その時のローマとクリスチャンたちの世界を舞台に描かれている。一読の価値があろう。小説嫌いで知られた内村鑑三も米国留学から帰朝した時、鞄の中にはこの一冊が入っていたという。
 ペテロとパウロは、この時ローマで殉教した。
 その後の皇帝たちによる迫害は、最も激烈だったデキウス帝の場合、キリスト教徒たちが皇帝の神性を認めなかったというのがその理由とされているが、本当のところは、キリスト教をローマ国家に敵対する信仰と認定したからだろう。それほどキリスト教伝播の勢いはすさまじかった。
 そうであるなら、そこに為政者の寛容を期待することは出来ない。紀元98年に即位したトライアヌス帝は、「『私はキリスト教徒である』と認めた者を処刑せよ」という勅令を出したという。

 そして、使徒後教父と呼ばれる時代に移っていく。
 彼らは使徒たちの弟子であったり、面識があったりと、使徒たちの教えを色濃く受け継いだ人たちだが、その活躍は、迫害の中で起こり始めた分派や異端の教えから、いかに教会を守るかということに絞られていた。新約聖書のカノン(正典)が整えられたのも、この時期である。キリスト者たちが「聖なる書物」と呼ぶ神さまのことば(啓示)のために、殉教さえ甘んじて受けようとした教父たちは、聖書が本物の神さまのことばであることを求め、カノンが成立した。使徒的教会を目指した「信仰告白」が整えられたのも、この時期である。「使徒信条」はその代表と言えよう。この時期に活躍した人たちに、ローマのクレメンス、アンテオケのイグナティオス、スミルナのポリュカルポスなどが挙げられるが、彼らの多くもまた殉教した。
 殉教時のポリュカルポスの弁明を、エウセビオス「教会史」より紹介しよう。
 「86年もの間、私はキリストのしもべでした。彼は私に対し何一つ悪いことをなさらなかったのです。どうして私を救ってくださった王を冒涜出来るでしょうか。」

 迫害と殉教の時代は、信仰の純粋さを守るために、いのちをかけた戦いが繰り広げられた時代である。
 だが、中には迫害者と妥協し、信仰の節操を放棄した一面があったことも忘れてはならない。そして、多様な異端問題がはびこった時代でもあった。
 ユダヤ人の律法主義は依然として健在で、教会に深く入り込んでいた。また、哲学の装いをつけた異端が使徒たちの教えに異議を唱え、「グノーシス主義」を奉じるマニ教、新プラトン主義、モンタヌス運動、単一神論など「新らしい宗教」は、迫害と殉教の勢いが待ったなしに襲いかかる中で、イエス・キリストを信じる信仰の確実性を求めていた教会にとって、まるで救世主(キリスト)のように、魅力あるものに映ったのだろう。教会を巡り歩いていた巡回伝道者たちの中には、そのようなものに飛びついて、先人たちが必死に守って来たイエス・キリストを信じる信仰を蝕んでいった。
 現代は一つの教会に一人の牧師が普通のスタイルだが、次々と新しい教会が誕生した初期には、いくつもの教会を牧会しながらさらに新しい群れを開拓していく「巡回伝道者」たちは、恐らく、何人もの人たちでチームを組んでいたのだろう。
 ペテロやパウロや使徒たちも、そのような伝道者だった。
 そして、当時、キリスト教に限らず、名誉と金銭を求めて巡回する宗教家は多かったから、そんな巡回伝道者たちの目に、キリスト教は魅力あるものに映ったのだろう。中には、別の教えを伝えながら、キリスト教巡回伝道者を名乗る者たちも増えていったようだ。
 中でも、コリント教会を舞台にパウロが戦った巡回伝道者たちは、グノーシス派の人たちだった。彼らは、恐らく、アレクサンドリヤ・フィロンの「ユダヤアカディメイア」学塾の出身者と思われるが、使徒行伝19章に出て来る「巡回魔術師」は、そんなグノーシス派の一人ではなかったかと思われる。
 そのグノーシス主義について先に「古代の宗教」の項で触れたが、少しだけその特徴を繰り返しておこう。
 これは極端な二元論で、悪なる物質と善なる霊を分離する。
 それゆえ、物質を創造した神は悪い神であるとして、聖書の記事を自分たちが造り上げた神話に変え、まるでカノン(聖書正典)のように教会に入り込んで来た。まことの神であるキリストは悪である肉体をとることは出来ず、従って十字架も復活もあり得ないとしたのである。ただ、キリストについてのグノーシス(知識)を得ることによって、肉体から解放された魂が救われると説いた。
 こう聞くと、イエスの奇跡や復活を事実として認めたくないために、ファクトの歴史上に信仰の歴史を重ねるという、「歴史の二重構造」を唱える現代自由主義神学は、まさにこの異端の再現ではないかと思われる。いつの時代にも、異端は教会を荒らし回ってきた。そして、そのほとんどは短命で消えてしまうが、多様なそれらの「宗教思想」は、姿を変えながら生き延び、現代にも復活していると言えよう。
 しかし、教会は、迫害者たちの手によって血を流しながら、イエス・キリストを信じる信仰を守り抜き、そのような異端との戦いの中で、正統信仰としての告白を構築していった。
 だが、その戦いの中で、教会監督が負う責任が増大して来ると、それはいつしか彼らの権限拡大になり、やがてそれは、教会監督間のランキング発生につながり、教会間に隙間が生じる負の遺産を負うことになった。
 それは、ローマ教会の首位権獲得と分裂を芽生えさせた。
 その前に、迫害と殉教の時代は終焉を迎えた。

 三世紀から四世紀にかかる頃のことである。
 激しい迫害の中を生き延びたキリスト教会は、知恵がついて来たのか、組織力を身につけて次第に大きくなっていった。しかし、その頃の教会は家族の延長のようなもので、「大きくなった」とは、個々の家の教会が各地に増えていったことを指しているのだが、帝国そのものが弱体化していたこともあって、ローマは、「一つのキリスト教会」という連帯意識の力を無視出来なくなったのだろう。
 その対応策にはいくつもの選択肢があったと思われるが、武力をもって教会の力を封じ込める迫害政策を採ったのが、最も激しい迫害者と呼ばれたディオクレティアヌス帝である。彼は、303年から304年にかけて一連の布告を出し、キリスト信者の会合禁止、教会堂破壊、聖書の没収とその焚棄、教職者の投獄を帝国全域に広げた。幸いにもその迫害は長くは続かず、ディオクレティアヌス帝の退位隠棲(305年)をもって終わった。
 彼は最後の迫害者となった。

 そして、もう一つの対応は、教会との融合政策という方向だった。
 その方向を選択したのが、306年に即位したコンスタンティヌス大帝である。
 彼のキリスト教史への登場は、劇的だった。
 正帝を主張するコンスタンティヌスとマクセンティウスがミルヴィウス橋で衝突した時、決戦前夜、コンスタンティヌスは夢の中で「このしるしにより勝利を収めよ」との声を聞いたとして、クリストスのXとP(ギリシャ語のロー)を組み合わせたしるしを旗印に戦い勝利したと、これはローマ史で有名な逸話である。
 コンスタンティヌス大帝は、313年発布のミラノの勅令をもって、キリスト教を公認したと知られている。
 彼は、弱体化したローマ帝国を、教会の協力を得て再編しようとしたのである。教会が、すでにそれだけの力をつけていたということなのだろう。
 彼は、キリスト教に基づいた新しい帝都を建設しようと、330年、東方に都を移した。新しい都市の名はコンスタンティノポリス(現イスタンブール)、そこに「アヤソフィア教会」を建てたのである。新しい都コンスタンティノポリスの落成式典は、キリスト教式で行われ、新帝都は聖母マリヤに献げられた。今でも、広大な一つの庭園に、かつての権勢を誇るかのような旧王宮(トルコのスルタン・スレイマン大王がそれを自分の王宮・トピカプ宮殿として改築。今は宝物が並ぶ博物館)と、その隣りにはつつましい造りだが、その王宮と一心同体であるかのように、アヤソフィア教会が仲良く並び建っている。

 ローマ帝国によるキリスト教公認の流れを辿ってみよう。
 第一の流れは、先に述べたように、コンスタンティヌス一世による313年のミラノ勅令をもってのキリスト教公認から始まった。
 第二は、380年、テオドシウス一世が勅令を出し、ニカイア信条を正統として、アリウス派のコンスタンティノポリス司教デモフィロスを追放し、ローマ・カトリック教会派のナジアンゾスのグレゴリオスを後任としたことである。この勅令はキリスト教を帝国国教とし、ローマ帝国市民にキリスト教徒たることを義務づけた。
 さらに第三の流れは、テオドシウス一世が388年に、ローマ・カトリック教会のみを唯一の公式宗教と定め、392年には、ギリシア・ローマの神々などすべての異教の礼拝を禁止し、絶大な権力を誇っていたウェスタ神殿の火が消され、ウェスタの処女聖職者団は解散させられた。週七日制が取り入れられ、日曜日を聖なる日とし、荘厳な礼典が整備され、これによってキリスト教は帝国の手厚い保護を受け、更に大きく前進し始めることになる。
 長い迫害と殉教の時代を生き抜いて、キリスト教の念願であった、迫害者との和解が実現したのである。

 しかし、果たしてそれが教会にとって幸いなことであったのか、「恐らく、そうではない」と否定する人たちが圧倒的に多いのも事実である。
 国家権力の庇護のもとで、教会は世的権力を手中にした。
 他宗教への圧迫や異端への迫害がたびたび行われ、魔女狩りの名のもとで、不都合な人たちを抹殺することさえ厭わなくなっていった。それを、キリスト教帝国主義(コルプス・クリスティアヌム)の芽生えと見る人たちもいる。

3、古カトリック教会時代

 次に、キリスト教の歴史の、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認に始まった、平和?な時代を取り上げよう。
 それは、「古カトリック教会時代」(313-590年)と呼ばれる。
 カトリックとは、ラテン語で「普遍的な」という意味である。
 この時代までが通常、「古代教会史」に区分されている。
 平和な?時代と言ったが、帝国にとってその屋台骨を揺るがすような外敵の侵入を受け、東方教会が権力者の地位を手放し、西方教会がさらなる権力に向かって走り始めた時代でもある。

 この時代に、ローマ帝国には大きな変動があった。
 帝国は、北辺のライン川とドナウ川の防衛線を死守することで、平和(パスク・ロマーナ)を維持して来たが、民族大移動に伴って、西ゴート族や東ゴート族などゲルマン諸族がその防衛線を越えて侵入して来たからである。
 蛮族侵入の一因に、テオドシウス帝没後、帝国が、東方と西方に、8歳と11歳の息子に分割されて弱体化したことが上げられる。
 東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は一時期、帝都コンスタンティノーポリスの城壁まで西ゴート族に侵入されたが、ぎりぎりのところでこれを阻止して安定した時代(五世紀)を迎えるが、東方で撃退された西ゴート族は、ギリシャを侵略した後、イタリアに進出してローマを蹂躙(410年)し、フランスからスペインにまで侵入して、西ゴート王国を建設した。その後、東ゴート族が北イタリアに王国を建設するなどして西ローマ帝国は分断され、ついに476年、傭兵隊長オドアケルの反乱によって皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位することになり、実質的滅亡へと追い込まれることになった。

 そのようなローマ帝国の状況は、コンスタンティノポリスを中心とする東方教会と、ローマを中心とする西方教会に影響を及ぼした。

 一つは、安泰だった東ローマ帝国の皇帝が、東方教会の元首として教会に君臨し、教会の霊的権威者として、「皇帝教皇主義」制度が確立したことである。これによって東方教会は、時々の皇帝によって誤った方向へと向かってしまう。そのような国家と教会の関係は、現代のギリシャ正教会やロシア正教会にも、国家権力にあがらうことが出来ない体質が引き継がれているようである。
 それに対して西方教会は、西ローマ帝国が没落したことにより、これを支配者となったゴート族など異教徒たちへの伝道の機会と捉え、時間はかかったが、フランク族の王クローヴィスを改心させ、ヴァンダル、西ゴート、東ゴート等の部族を次々とキリストの名のもとに獲得し、彼らの霊的指導者たる地位を築き上げることに成功した。
 さらに、東方教会が皇帝支配に屈している間に、西方教会は、ローマ教会の監督を中心に、国家権力と同等以上の立場を築き上げていった。

 西方教会がローマ帝国内で確固たる地位を獲得した出来事がある。
 それはキリストの神性を巡る争いを通してである。このキリストの神性を巡る争いは、325年のニケヤ教会会議や381年のコンスタンティノポリス教会会議で「キリストは真の神である」と決着がついた筈だが、この問題は、キリストの神性と人性という「二性一人格」の問題となって長く燻り続け、再び、教会会議(451年)がコンスタンティノポリスの対岸・カルケドンで開かれ、そこではキリストの母マリヤについても争われた。詳しくは終章第二項「絶対他者・御子イエス・キリスト」で触れるが、そこで読まれたローマ教会監督レオの書簡が、聖ペテロの意志を表明したものと受け止められ、決着がついた。
 以後、西方教会は、ローマ帝国内で東方教会に優る地位を占め、西方世界に、「キリスト教の時代」を確立していった。
 しかし東方教会は、純粋な伝統的信仰に立って「正教(正統教会)」と呼ばれていたのに、やがて、ロシア正教やギリシャ正教という個々の名称で知られるように、「東方」という地域の中で、限定された特殊なキリスト教イメージに固定化されてしまった。

4、中世、ローマ・カトリック教会の時代

 教会史上「中世」と呼ばれる時代は、東方教会にはない。東方教会は、東ローマ帝国が滅亡するまで、古代教会の伝統の中で生きて来たのである。
 中世の呼び名は、西方教会だけに当てはまる歴史区分である。
 この時代は、一般に、ローマ教会を中心に「中世カトリック教会時代」を築いた、グレゴリウス一世がローマ教会の監督に就任した590年から、マルティン・ルターによる宗教改革が始まった1517年までとされる。

 もともと西方教会の中で突出していたローマ教会が、制度的に横並びだった西方の諸教会の最上位を占めるようになったのは、グレゴリウス一世の功績?である。彼はローマ教会の監督に就任すると、西方教会の制度構築に着手し、グレゴリウス一世は、ペテロの後継者と謳われる最初の教皇となった。彼はそう呼ばれることを拒んだが、実質的にはその最初の教皇であった。
 「教皇」が誕生したことで、西方教会には、中世最大の特徴である、ヒエラルキーと呼ばれる身分制度が確立した。これは、一般民衆を土台に、司祭、司教、大司教など聖職者たちが階級ごとにそれぞれの階段を占め、教皇がその頂点に坐るのであるが、これによって西方教会は、ピラミッド型の聖職者集団となった。一般民衆はこれを支える土台であり、このピラミッド型権力構造において、何の発言権もなかった。この教会制度は、1870年の第一バチカン公会議において成立し、「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教皇不可謬(教皇は間違いを犯さない)の教義とともに絶対的なものとされた。これを否定する者は異端とされ、西方教会は「聖と俗」両世界の支配権を手に入れたのである。

 この時代を語ろうとすると、スコラ神学や十字軍など取り上げたいことは多くあるが、いづれも教会の権威を守ろうとする方向を向いているので割愛する。詳しくお知りになりたい方は、何種類ものキリスト教史が出版されているので、そちらをご覧頂きたい。

 もう一つ触れておきたいことがある。
 それは、キリスト教史の中で是非とも覚えて頂きたい事柄であるが、この時代が、「聖書のバビロン捕囚」と言われていることである。
 中世カトリック教会が公用聖書としたのは、四世紀末にヒエロニムスがヘブル語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書をラテン語に翻訳したウルガタ訳である。ヒエロニムスがこの翻訳を完成させた場所が、イスラエル・ベツレヘムの、降誕教会に隣接する聖カタリナ教会の地下にある。
 このウルガタ版は優れたものだが、ローマ教会はこれを重視するあまり、間違った方向へと進んでしまった。ローマ教会は、ウルガタ訳のみを権威あるものとして、他の翻訳を禁じてしまったのである。それ故、ラテン語が読めず、自国語聖書を持たない一般民衆は、聖職者が読み、解釈する教えを受け入れるしかなかった。聖書を自分で読んで信仰の糧にする、キリスト者にとって当然の信仰生活が出来なくなっていたのである。
 その傾向は、教皇至上権を主張するところまで行ってしまった。
 ボニファティウス八世の有名な勅書「ウナム・サンクタ」(1302年)には、教皇のみがキリスト教社会の至高者であり、教皇のほかには救いも罪の赦しも与えられないと明言されている。これは、「唯一聖なる」という意味で勅書の冒頭に記され、教皇の至上性を言ったもので、先に触れた教皇不可謬説も、この「ウナム・サンクタ」を踏襲したものと言えよう。

 しかし、一千年の長きに渡った中世カトリック教会の権勢も、ようやく終焉に近づいた。1453年に、帝都コンスタンティノポリスがオスマン・トルコ軍の侵攻により陥落し、東ローマ帝国が滅亡した。トルコ軍は以前から東帝国を我が物にせんと狙っていたが、西方教会は、その期に乗じて、トルコ軍侵攻に先立つ1422年に、教皇マルティヌスは、トルコ軍から東帝国を救うという名目で、東西両教会の合同を提案した。その条件として持ち出されたのが、ローマ教会の首位性だった。しかし、トルコ軍が押し寄せて来る中で、約束された西方の援軍はなかった。ローマは、東帝国の滅亡を冷ややかに見ていたのである。
 そればかりではない。
 教皇ピウス二世は征服者モハメッド二世に、「洗礼を受けなさい。私たちはあなたをギリシャの皇帝と呼びましょう。ローマ教皇も、キリスト教諸侯に対するように、あなたを愛しましょう。」という手紙を送って、キリスト者にあるまじき無節操ぶりを顕わにしたのである。
 ペテロ大聖堂建設時に、その費用をかき集めようと、免罪符発行など、富への執着も尋常ではなかった。献金箱にお金を入れる時、「チリン」と鳴ったらその音といっしょに「あなたの罪は赦される」と言ったとか、そんな逸話が残るほどの無軌道ぶりがまかり通っていたのである。
 そんなキリストの教会らしからぬ世俗権力にまみれ、どうしてそこに新しい力が台頭して来ないわけがあろうか。
 宗教改革の機運が、静かに進行していた。

5、近代キリスト教

 それは、1517年10月31日、修道僧マルティン・ルターが、ドイツのウィテンベルク城内教会の扉に、ローマ・カトリック教会への弾劾文・「95箇条の提題」を打ち付けたところから始まった。

 先駆者として、十四~十五世紀の北方ルネサンス・ヒューマニストたち、殉教者ヤン・フスを筆頭に、ウイクリフ、ティンダル、エラスムス、サヴォナローラといった人たちが挙げられる。
 彼らが中世カトリック教会の腐敗批判に傾いたのは、聖書言語を学び、聖書や教会教父の著作など古典研究を始めたことによる。
 「古典に帰れ」は、ルネサンスの合い言葉であった。
 それが、ラテン語ヴルガタ訳聖書のみを用いていたローマ教会への不満となって、ヘブル語旧約聖書やギリシャ語新約聖書を、ドイツ語や英語など、民衆の自国語への翻訳となっていった。
 中でも、新約聖書のギリシャ語本文と古典ラテン語による新訳を併記した著作を世に出したエラスムスや、旧新約聖書の英語訳を完成させたウイクリフやティンダルの業績は大きく、聖書研究の機運が一気に膨れ上がって、宗教改革への起爆剤となった。
 宗教改革は、聖書の学びから始まったと言えよう。
 改革者ルターが翻訳したドイツ語の「ルター訳新約聖書」は、多くの現代ドイツ人に未だ使用されている。少し時代はずれるが、もう一人の改革者カルヴァンは、招かれたスイス・ジュネーブの教会で、綿密な聖書の講解説教を行い改革の骨子としていたが、それは注解書となって今に残る。
 ルター、カルヴァンともに、多くの注解書を著している。それは、民衆の誰もが自国語の聖書を自分で読み理解するためにという、喫緊の要求を満たすものであった。そして、発明されたグーテンベルクの活版印刷機がそれらを支えた。その功績も大きい。

 しかし、最大の改革要因は、ローマ教会の不条理にあった。
 人々が中世カトリック教会の堕落に気づき始めた頃、修道僧ルターの目に、それは取り返しのつかない大きなこととして映っていた。
 ルターの「95箇条の提題」に次のような一条がある。
 「お金が箱の中でチリンというと、利益と貪欲が増し加わることは確かである。しかし教会の執り成しの祈りはただ神のみ旨のうちにある。」
 これは免罪符への真っ向からの挑戦だった。
 ローマ教会は、聖ペテロ大寺院建設の費用を調達しようとして、免罪符を売るという安易な方向に進んでしまったのだが、その姿勢そのものが問題だった。
 ルターの提題はたちまち大反響を呼び、ローマ教会への反発とともに、多くの賛同を得るところとなった。
 新時代に向けてルターが提題したのは、「信仰義認」ということである。
 それは、「救い主イエスを介して神さまだけが人を救う」という、聖書の記述に基づいたイエス・キリストを信じる信仰による義認であって、教会や教皇が人を義と認定出来るのではない。まして、お金が免罪符箱の中でチリンと音をたてたらその人が救われるなど、論外である。少し後に、ツヴィングリ、カルヴァン、メランヒトンといった人たちが、「ソーラ・スクリプトゥス(ただ聖書のみ)」「ソーラ・フィディ(ただ信仰のみ)」を旗印に改革運動を押し進めていったが、その端緒をルターが切り開いたのである。

 十六世紀は輝かしい新教会時代の幕開けだった。
 新しい教会は、「中世カトリック教会」に反抗(プロテスト)した群れとして、「プロテスタント教会」と呼ばれた。

 しかし、日本では一般に旧教、新教と呼ばれているが、それは一般史家に見られるものである。宗教改革は、改革者たちの純粋な信仰から始まったことより、その時代に始まった様々な新しい社会情勢の帰結と考えるからだろう。
 それもまた、無視することは出来ない。
 なぜなら、十字軍遠征の挫折による騎士階級の衰退とともに、中世カトリック教会の破綻が迫り、教会と領主による民衆からの搾取は、耐え難いほど民衆を圧迫していた。社会制度そのものが、変革を迫られていたと言えよう。すでに、コロンブスによるアメリカ新大陸の発見(1492年)、バスコ・ダ・ガマよる喜望峰を迂回するインド航路の発見(1498年)など、新しい時代の足音がすぐそこまでやって来ていたからである。
 だが、その時代の要求に、中世カトリック教会は応えることが出来なかった。
 中でも、「古典に帰れ」を合い言葉に、中世カトリック教会が徹底的に踏みにじって来た一般民衆の人格を守るべく、人間尊重の観点からスタートしたルネサンスは、宗教改革に直結した最大要因だろう。宗教改革は、ルネサンスの帰結と見られている。まさに改革者たちは、新しい人間尊重の時代として、近代への幕をこじ開けたのである。

 だが、中世カトリック教会側にも、愛徳オラトリオ会、イエズス会、フランシスコ会といった、教会内部から改革を志すいくつもの修道会が誕生した。彼らは、制度化し、弱体化した中世カトリック教会内の信仰を回復すべく、信徒教育に力を注ぎ、失われた勢力を取り戻そうと、プロテスタント教会からの信者奪還を目指し、未知の国に宣教師を送ってカトリック陣営の囲い込みを行なうなど、活発な活動を展開し始めた。
 日本最初の宣教師として来日したイエズス会のフランシスコ・ザビエルを始め、送り込まれた多くの宣教師のもとで、二十万人と言われるキリシタンが誕生したことは、その辺りの事情を伝えている。
 ところが、それは反宗教改革運動でもあったから、プロテスタント陣営も負けじと国外宣教に力を入れ、双方の陣取り合戦が激烈となった。それが、ローマ・カトリック教会だけでなく、理想に燃えて始まった筈のプロテスタント教会にとっても、国教化への道筋となった。

 彼ら宗教改革者たちは、プロテストした筈の組織的教会という力に、いつの間に歩み寄ったのだろうか。教会は、教派という名のもとで、国々を巻き込んで分裂し始めた。各教派の宣教師を先頭に立てた近代西欧諸国の植民地政策も、新旧両教会の陣取り合戦以来の伝統なのかも知れない。これを、キリスト教帝国主義(コルプス・クリスティアヌム)と呼ぶ人たちもいる。プロテスタント教会も、その辺りのことに留意する必要があるだろう。
 その萌芽は、すでに改革者たちの中にあったのだろうか。スイス・チューリヒの街を流れるリマト川に、左手に聖書を、右手に剣を持ったツヴィングリの像が立っている。彼はプロテスタントとローマ・カトリックとの戦いに加わって戦死したのだが、その在り方は、「信仰のみ(sola fide)」「聖書のみ(sola scriputus)」を標榜しながら、力による改革に舵を切っていた。

 急進的改革者(アナバプテスト)と呼ばれる人たちは、そのツヴィングリの弟子たちから誕生している。
 「アナ」とは「再」という意味で、彼らは「再洗礼派」と呼ばれる。
 それは、当時、ローマ・カトリック教会だけでなく、プロテスタント教会でも、親の信仰によって子どもに洗礼(バプテスマ)が施されていた。これは幼児洗礼と呼ばれるが、彼らは、「バプテスマは本人の信仰告白に基づいて行われるべきである」と主張し、幼児期に受けたバプテスマとは別に、もう一度バプテスマを受け直したことによる。しかしそれは教会に対する反逆であるとされ、彼らは、ローマ・カトリック教会ばかりか、プロテスタント教会からも異端のレッテルを貼られ迫害された。
 彼らは、ツヴィングリが力による改革に舵を切ったと失望して、離れた人たちだったと伝えられている。そのほとんどはモラヴィア派と呼ばれる自由教会を目指したが、一部は英国でバプテスト派教会を形成し、清教徒(ピューリタン)となって、その一部は新天新地を求めてアメリカに移住した。有名なピルグリム・ファーザーズである。彼らは、やがてアメリカ教会の大きな特徴となる会衆派教会(バプテスト派)を推進し、一部は英国で信仰復興運動(リバイバル)として知られるメソジスト運動に絡んでいく。いわゆる「福音派」、「きよめ派」と呼ばれる人たちである。これは、宗教改革運動の中から生まれた「福音主義」とは区別しなければならない。
 教会の教派化が一段と進んだ。
 そのような動きが良いか悪いかはともかく、混乱が広がったことだけは確かだろう。新旧両教会の教派化が一段と進む中で、混乱に満ちた近現代教会史がスタートした。

6、近現代キリスト教

 キリスト教の近現代史は、十九世紀に始まる。
 前項で、教会は教派化が進む中で近現代史を迎えたと指摘したが、それは、永遠なる神さま、イエス・キリストの贖罪と復活、神さまの愛といった、もともと見えないものに土台を据えた教会が見えるものを目指し始めた、それがキリスト教現代史の特徴ではないかという指摘である。

 近現代神学の著しい特徴は、視点の中心が、神さまから人間に移ったことにある。

 十九世紀、ドイツの先進的神学者たちによって、自由主義神学という流れが生まれたが、「自由主義」とは政治思想で言われる「リベラリズム」である。リベラルは、時代の潮流を彩る花形思想でもあった。そこに批判的聖書解釈が生まれ、それは「聖書の非神話化」に結実していった。もはや聖書そのものが語ることばに聞こうとはせず、その解釈は人間の知性に委ねられることになった。「神の死の神学」「世俗神学」など奇妙な「神学」が次々と現れた。
 その一つに、「歴史主義神学」というのがある。それは、キリストの復活が実際にあったかどうかは問題ではなく、復活があったと信じた教会が歴史上に存在したことが大切とする認識だが、そこには、歴史の二重構造が見られる。三世紀に栄えた異端思想、マニ教に見られるグノーシス主義二元論思想に重なってくるではないか・・・
 このような異端思想に取り込まれた人たちは、聖書の「非神話化」という罠に陥り、「イエスさま」を信じる信仰から脱落して行った。

 そして、二十世紀の教会は、国家主義の波に飲み込まれ、苦難の歩みを余儀なくされるところから始まった。
 その歩みを象徴したのが、ドイツ・ナチスの統治下に屈服した帝国教会や、帝政ロシアの国家組織に組み込まれたロシア正教会だろう。戦時下に、政府指導のもとで一つにまとめられた日本基督教団も同じである。
 彼らはキリストの名をもってユダヤ人の血を流し、戦争に協力し、揃って靖国神社に参拝するなど、国のナショナリズム政策を支持した。見えないお方を恐れるより、見える権力に歩み寄ってしまった教会の姿勢が、如実に現われた一例と言えよう。
 しかし、その陰には、ドイツの告白教会など、多くの自由教会や地下教会があったことも忘れてはならない。彼らは、国家権力とその庇護のもとに安住した国教会から、迫害されたのである。そうした迫害で何人もの尊い血が流されたが、それは、後世に福音の尊い種を残したと言えるのではないだろうか。

 見えるところを目指した現代教会のもう一つの特徴は、福音派の台頭によって、熱狂して「ゴスペル」を歌い、教会の座席数を増やすことが宣教という風潮を生み出したことだろう。アメリカを中心に、何万人教会というメガチャーチが出現した。中には日曜日に何回もの礼拝を行ない、バスのみか、ヘリコプターでの信者送迎もあったと聞く。その陰で、いくつもの弱小教会が扉を閉めざるを得なかった。
 果たして、それが「イエスさま」の望まれる教会の姿なのだろうか。
 今まで「イエス」で押し通して来たが、筆者には「イエスさま」と呼んで来た習慣がある。この辺りで麗しい習慣に戻すとしよう。

 教会現代史の否定的な面ばかりを強調してしまったが、こつこつと聖書のメッセージを聞く作業を続けている教会が、今も脈々と生き続けている。思い返すと、宗教改革時だけでなく、いつの時代にも、一握りのそんな人たちが、福音の種を後の世に遺して来た。それはメガチャーチのような拍手喝采をもって迎えられる華々しい働きではないが、必ずや受け継がれていくだろう。私たちもと願わされる。


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