新・福音と宗教


第一部 宗教散見

二章 古代の宗教


2、古代エジプトの宗教

 エジプトで歴史というものは(口伝の時代も一部含む)、古王国時代(紀元前約3000年頃に始まったとされる)以降のことで、恐らく、それ以前メソポタミヤ文明でも栄えていたノモス(都市国家)時代のことは、遺跡の未発見もあって、神話時代のこととして、良くは知られていない。まして、原始時代のことは、闇の中である。そもそも古王国時代でさえ、初期の頃は神話の世界と言っていいほどである。
 近年、人類の歴史はアフリカから始まったとされている。
 いわゆる「ホモ・サピエンス」の時代だが、一握りのホモ・サピエンスがアフリカから出て、ネアンデルタール人など、別種の複数の人類との競合を勝ち抜き、種々の素朴な文化革命を起こしながら世界各地に広がって行った、とするのが現代研究者たちの定説になりつつある。しかしながら、この研究は近年になって始まったもので、その宗教など文化面の解明は、メソポタミヤ文明との関わりも含め、今後の課題である。
 二つの大河流域に発展したメソポタミヤ文明と、ナイル川流域に形成されたエジプト文明のどちらが先なのか、素人目には分かりかねるが、どちらにも、解明されない古い痕跡がまだまだ多く残っている。もし、解明されるなら、その宗教は、古代メソポタミヤと古代エジプトの実体を、今までよりも多く語ってくれるのではないか。期待したい。

 エジプトでは、繰り返されるナイル川の洪水とともに目覚ましく発展した農業文化から、高度化された宗教文化が独自に形成された。

 神戸で開催された「エジプトのミイラ展」を見に行った。
 そこで強く印象に残ったのは、ミイラ文化の先鞭と言われる、砂漠の中で自然にミイラ化した女性だが、ジンジャレラと名づけられた彼女には、「私、美しいでしょう」と語りかけて来る躍動感のようなものを感じた。エジプト人たちも、きっと、そのようなことを感じたのだろう。いかにも「生きています」と言いたげなミイラ「作り」が始められた。そして、ミイラが納められた「墓」には、故人が使用した日用品が、王や貴族などの墓には、たくさんの贅沢な品々が納められるようになった。まるで生の続きのように。地下墓所は彼らの住まいであり、ピラミッドは「死」からの再生を視野に作られたと考えられている。死者には死者なりの生活があるという宗教思想が生まれていた。
 古代エジプトの宗教は、死者を葬るところから誕生していった。
 しかし、その宗教は、死者と生者とをつなぐ文化でもあって、死者をいかに安寧に葬るかに心を砕く時、生者もまたその恩恵に与るのだ。彼らの宗教を語る時、その中心に、「死の世界」と「死からの脱却」という主題が顔を覗かせているが、それは彼らにとって不可欠だった。
 それは現代のエジプト人にも引き継がれているのだろう。
 エジプト人は生と向き合うように、死と向き合っていた。
 古代エジプトでは、死者と生者の世界はナイル川によって隔てられていた。
 生きている者たちがナイル川を超えて向こうに行くことはないし、死者がこちら側に来ることもない。厳密に言えば、その分離は、生者の発想による。生者と死者とを切り離しても、完全に分離することなどあり得ないなのだから、とりあえず建前としての分離だが・・・。隠亡(おんぼう)たちが死者をミイラにして葬っても、彼ら自身は生者側の人間であり、宗教を司る祭司たちは、生者を代表して「死」の世界を取り仕切るが、それはあくまでも教団が構築した信仰儀礼である。
 だから、それは宗教上の分離であったと考えて間違いない。
 ただ、近年、死者の世界だったところに、生者(ピラミッド建設の職人や技術者やその生活を支える者)たちが集団で生活していたかなり大きな「町」が発掘されたので、この定説も覆されつつあるのかも知れない・・・

 エジプトはナイル川の怒りと恵みに支配されていた。
 氾濫がもたらす怒りと恵みは、当然彼らの宗教に結びついていく。生者と死者の世界がナイル川によって隔てられていたのは、単なる物理的なものではなく、生と死という精神的中垣にナイル川が大きな役割を果たしていたと見ていいだろう。川のこちら側には生者の世界で騒音と活気の生活が・・・、向こう側にはミイラ作りをする穏亡たちの死者の家やミイラたちの生活空間・地下墓所やピラミッドが・・・と。宗教は、あちら側に移転させられた者の怒りや悲しみが、悪意を募らせてこちら側を引き込まないようという、願望の表れだったのかも知れない。
 死者を弔う思いが彼らの宗教の根本と感じる。

 二十歳代の頃から興味があって、東京やいくつかの地方都市で何回も開催された古代エジプト展を見てきたが、ミイラとともに強烈な印象が残ったものに、「死者の書」がある。いくつもある「死者の書」の中で特に有名な「アニのパピルス」を、英文からの訳文で一部紹介しょう。
 イシスの息子ホルスは言う。「ウンネフェル(オシリス)よ、私はオシリス・アニを連れて参りました。彼の心臓(心?)は良く、秤にかけましたが、神あるいは女神に対する罪は見あたりませんでした。トート(文字と知識の神)が神々の定めに従い心臓(心)の計量を行ったところ、それは誠実で正しいことがわかりました。どうか彼に食べ物と飲み物を授け、オシリス神の御前に姿を現すことを許可し、永遠の余生をホルスの従者のひとりに加えてください。」
 アニは言う。「オシリス・アニは申し上げます。私は死者の国の君の御前におります。私のからだは罪に穢れておりません。私は不実な言葉を口にしたことはなく、偽りの霊をもって行動したことは一度もありません。どうか私が御君の仲間に加えられた人々のようになることをお許しください。そうすれば私は、美しい神の御前でひとりのオシリスとなってふたつの地の主の愛を得ることができます。私ことファラオの書記なるアニは、御君を愛し、御前オシリスに捧げる言葉は常に真実であります。」
 冥界の王オシリスが支配する幸福の国アールゥは、はるか西方にあって、魂は広大な砂漠を横切り、悪霊や大蛇や悪魔の妨害を退け、最後には怪獣の姿をした悪神セト(オシリスの殺害者)と戦わなければならなかった。そして「オシリスの審判の広間」に辿り着くのだが、オシリスの左右に居並ぶエジプト各州(ノモス)を代表する四十二人の神々の前で厳しい審問を受けることになる。魂は「私は人を殺したことはありません」などと罪状否認を行ない、いよいよオリシスの前で審判を迎える。そこには「正義の秤」があって、一方に「正義の羽」が、他方には「死者の魂」が乗せられる。魂が羽よりも重くても軽くても魂はセトの怪獣に食われて、魂は永遠に無明の闇をさまようことになる。秤の両端が同じ重さであると判定されると、アールゥに迎えられ、死者は生前と同じかそれ以上の暮らしをしながら復活の日を待つのである。
 死者の書は冥界への案内書と言えよう。
 古代エジプト人の宗教は、死への恐れから発生した。
 それは恐らく、ほとんどの民族宗教に認められるものではないか。きっと人々の周りにある植物や動物、また石や森や山や海などの自然界の事物や、そこで遭遇する嵐や干魃などの災害、更に、太陽や月といった星辰にも、その脅威や恩恵に彼らの生と死が一体化して、素朴な神性を感じたということなのだろう。それが彼らの宗教となり、神々が誕生した。

 古代エジプトはあまりにも長い歴史を辿って来て、神々はいつしか統合され、力の強い神々が優位に立ち、或いは変化し、また、別の神々が台頭して混合が行われたりと、そんなことを繰り返して来た。そういった過程の中で生まれた宗教を、これこれと単純に包括したり特定することは出来まい。
 しかし、以下のような行程を辿ったのではないかと想像される。
 a、純粋な動物崇拝
 b、人身獣頭の神々崇拝
 c、人間神の台頭(オシリス神など)
 d、宇宙神(ラー系)崇拝
 e、抽象神崇拝(たとえば正義の神マート)
 f、外来神信仰
 最初の動物崇拝は、恐らく、統一王国以前に争っていた多くの小部族の名残かと思われる。人間が少なかった時代に、動物たちは、砂漠でも大河でも縦横に走り回り、強者が弱者を完全に支配していた。そんな強い動物に憧れた人間は、動物たちの強さを身に纏い、他を支配したいと願ったのだろう。
 ホルス(鷹)信仰やウト(コブラ)信仰など、その宗教の一つの特徴はトーテミズムである。これは、ある種の動物を神聖なものとして祭るもので、たとえば、インドの聖牛など、現代も世界中のいろいろな民族に見られるが、古代エジプトでは、神々のほとんどが動物の頭部で表わされていて、ミイラの棺に施された装飾や王が纏っている頭部の飾りにも、動物が象られている。彼らのトーテムは、もはや神々の化身そのものになっていたのではないか。

 エジプトの神々は、古くは、女神優位の社会だったようだ。
 それは、古代エジプトが女性優位の農耕社会だったことを告げていよう。一つ所に定着する農業社会は、狩りのために移動して歩く男性には不向きで、子どもを産んで育てる母系家族が支えていた。
 それが、統一王国の時代になると、男神優位に変わってくる。
 古王国時代あたりから、戦いに出ていく男性が強い発言権を得るようになってきたのだろう。その代表的男神に、冥界の王で、冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴する農耕神のオシリス、更に、太陽を模した宇宙神ラーが上げられる。ラーは御座船に乗って昼は天上を、夜は地下の世界を巡ると考えられている。ピラミッドにはその御座船が一緒に埋葬されているが、それは、ラーの化身である王が乗るためのものである。王は王であると同時にラーの最高祭司であり、同時にラー神自身でもあった。彼はファラオと呼ばれるが、それは「大きな家」を意味している。「大きな家」とは「ラー神の家」のことである。
 その王とともに古代エジプトの宗教も変化していった。

 少し時代が下ると、新来のアモン神(テーベ地方の大気の守護神、豊饒神)が勢力を伸ばし、突出した権力と財力を手中にした。
 中王国時代には、人格神としてテーベ周辺で信仰されていたが、その頃すでに太陽神ラーと習合されてそのまま新王国時代に移り、最高神となったアモン・ラー信仰は、エジプト全地で隆盛を極めた。それはつまり、アモン神の司祭団が巨大化して、王まで支配するようになったことを意味していよう。

 しかし、あまりにも大きくなりすぎたアモン支配に、やがて否を唱える王が現われた。「アマルナ革命」と呼ばれる。
 この革命を起こしたのは、黄金のマスクで有名な少年王ツタンカーメンの父親で、アメン・ホテップ四世だった。
 彼はアモンの祭司エイエから教育を受けたが、いつ頃からか、愛と平和の神アトンを崇拝するようになり、名前もイクナトンと改めて・・・と、初めはアモン神の勢力に不安を覚えての政治的動機からと思われるが、やがて、その宗教心が高じていったのだろうか。アモンの神殿を破壊してその祭司たちを虐殺、アトンの都(アマルナ)を建設してテーベからの「遷都」を決行したばかりか、アトンを唯一神として他の神々への信仰も禁じるなど、常軌を逸した政策を施行していった。ちなみに、現在、アマルナと呼ばれる場所から出土した多数の文書は、アマルナ文書と呼ばれ、古代史研究の重要資料となっている。
 アトンとは彼の心に浮かんだ抽象神であるが、少し前に、モーセを頭とするイスラエル人のエジプト退去の事件があったから、唯一神信仰というエジプトでは考えられない彼の宗教心は、その辺りに起因しているのかも知れない。イスラエル民族のエジプト退去事件は、旧約聖書「出エジプト記」に詳しい。
 アメン・ホテップ四世の狂気じみた宗教心は、アモン神への反発以上に民衆に受け入れられないものとなり、アトンの新都に移った者たちは、少数の廷臣たちだけだったようだ。彼の死とともにアマルナ革命は挫折し、また、アモンがエジプトの主神として復活するなど、神々の権力闘争が繰り返されていった。

 古代エジプトでは、王制という社会システムが宗教に侵略されてしまったかのように、宗教が王を始め人々の心を自由に操るなど、権力闘争を引き起こす重要なツールとなっていく。
 いや、宗教は、人間の思惑の中で生まれているのに、いつの間にか人間の手を離れて独立し、却って人間を支配するようになっていった。そのような動きは、現代でもあちこちで繰り返されているではないか。宗教というものは、いつの時代でも、人間に関わって人間を操作する部分が中核を占めていると思われてならない。その意味でエジプトの古代宗教は、大昔に栄え、今は「失われた宗教」と思われているが、決してそうではない。
 確かに、アモン、ホルス、ラー、オシリスといった絶大な権力を誇った神々は、アトン同様に失われてしまった。
 しかし、現代エジプトは、国民の大半がムスリム(イスラム教徒)で、その他に少数のコプト教会と呼ばれる独特なキリスト教や、更に少数の種々の諸宗教が混在しているが、国民の大部分を占めるムスリムは、他のイスラム諸国に比べてかなり穏健なように映る。もしかしたら、何もかも受け入れてきた、古いトーテミズムの古代宗教伝統が生きているのかも知れない。そうだとするなら、コプト教会が独特なことも頷けるではないか。


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