新・福音と宗教

第一部 宗教散見

五章 宗教の行方


 宗教というものは精霊への畏怖をもって始まったと、その流れを見てきた。原始宗教はシャーマンを伴って誕生してきたが、次第に教団体制を構築しながら高度化された。だが、高度化されてもなお、その内実は諸宗教の奥深くに原始宗教の実態として隠されている。
 そして、その原始宗教の形態が、現代、宗教らしからぬ方向へと進み始めている。それは奇しくも、「宗教」というジャンルに括られる以前の、まさに宗教創世時代に見られたものである。
 その辺りのことを念頭に、宗教の方向を考えてみたいと思う。


1、新宗教の時代へ

 占いの項で見たように、現代、「新宗教」とでも言えそうな傾向が浮かび上がっている。いや、それは、疑似宗教と言えるものかも知れないが。
 その「宗教」には、礼拝対象の神や仏がなく、教団も形成されていない。
 それにもかかわらず、大勢の人たちがのめり込んで、まさに「新宗教」もしくは「疑似宗教」と言えそうな様相を呈している。そこには、人々がなんらかの「希望」に夢中になるという傾向を基準にするなら、占いや霊能より、インターネットが提供するゲームやSNSが筆頭に上げられるのかも知れない。そして、恐らく、ギャンブルや飲酒、覚醒剤のたぐいも・・・
 そこには礼拝対象の神仏もなく、教団や教祖も見当たらない。だが、確実に人々の心を捕らえ、同一方向へ連れて行く何かがある。
 その影響力は、そこら辺の宗教教団よりずっと強力である。
 それは既成宗教の条件を満たしてはいないが、その目指す「同一方向性」は視聴者の洗脳であり、それはまさに、カルト宗教が目指しているものと同じに映る。
 もちろん、そんなものばかりではない。現代の問題集団には、アルカイダやタリバンなど、イスラム原理主義を標榜するテロ組織と目される一派も数えられ、一方では、テロ勢力を撲滅しようとアメリカ元大統領が旗を掲げた、ネオコン(新保守主義)も顔を覗かせている。シリヤばかりか全世界をかき回したIS、つい最近では、新天新地を目指す難民や移民たちも・・・。それらはまるで、新宗教戦争のように映る。
 繰り返そう。
 現代という時代は、一つ旗の下には結集しない、多種多様な価値観が個々人を飲み込んでいるように見える。これも宗教なのだろうか。伝統ある既成教団までがその虜になっている。まさに新宗教時代と言えそうである。

 実は、筆者には、「〇〇を信じます」という部分があるのが宗教という思い込みがあった。宗教教団には有形無形の信じる対象の神的存在が祭られ、拝礼など相応の宗教儀式が行われるという、その部分が欠かせないと思っていた。しかし、新しい宗教には、そのような「絶対条件」と思われる部分が欠落していることが多い。またそれは、これまで遵守が当然と思われていた教団倫理を打ち壊し、自分たちのグループだけに通用する基準を持ち出して、他者にそれを「認めよ」と強要しているように見える。
 現代の「占い」にはもはや神々は見当たらず、ISやアフガンに集結したテロ集団は、あたかもこれまでとは違う神に仕えているかのように、自分たちが所属していた教団の信仰基準を別のものに変えてしまった。ネオコンなどもそうだろう。イタコが神降ろしをして占いをするなど、もはや古いタイプに属するのだろう。宗教から「絶対者」を除き、その絶対者を自分と同じ位置に引き降ろすなど変質させてしまっては、もはや宗教とは言えないと思うのは古いのだろうか。
 しかし、「信者たち」は、これに既成宗教に対するのと同じ期待を寄せている。
 つまり、信じる対象への礼拝行為や、これまで基準であった宗教倫理を省き、信じた結果の良い実だけを獲得したいということなのだろうか。もっとも、良く当たる占い師のところには行列が出来るそうだから、信仰対象が占い師自身になっているのかも知れないが・・・
 もはや、「新宗教」や「疑似宗教」には礼拝対象の神々は不用であり、神々はただ、自分たちにひれ伏す情けない存在になってしまったのか。「新宗教」では、神々だけでなく、礼拝行為そのものさえなく、あらゆる宗教行為はもはや意味を為さないと言いたいのかも知れない。
 その意味で、「新宗教」や「疑似宗教」はもはや既成概念における宗教ではないが、疑いもなくそれは宗教なのだと、発想を変えなければならないのだろうか。

 いや、結論を出すのはまだ早いだろう。
 もう少し、既成宗教概念に沿って、考えて見なければならない。もしかしたら、新宗教と既成宗教には、なんらかの接点があるのかも知れないのだから。
 「新しい宗教」を、占い等、およそ宗教とは呼べないものに限定してのことだが、その特徴の二つ目を考えてみよう。そこからは、極めて現代的な宗教の特徴である、「教団」が欠落し始めている。
 教団は複数の集団を包括する連合体ではなく、単一集合体であってもいいのだが、この「新しい宗教」では、「〇〇教」「〇〇教会」「〇〇寺院」という名乗りを上げなくなっているように感じられる。それは特に、占いや霊能者・霊媒者を中心に、相談者(帰依者)が個人事業者とでも言う人たちのところに出掛けて行って、癒された、解決されたということが重なると、その評判がインターネットなど口コミに載って、信奉者が増えていくという現象である。時にはそれが「教団」という形態を取ることもあるが、現代では、そのままの関係で推移することが多いようである。
 それは一体何を意味しているのだろうか。
 信奉される〇〇師の意識にもよると思われるが、多くは信奉する側の選択に左右されると考えられる。どうも彼らは、信奉するものが「教団」という組織になることを好まないように見える。少しでも組織化する動きがあると、たちまち他のところに移ってしまう。教団になってなお残るのは、ほんの一握りの人たちではないのか。
 束縛されることを嫌うのだろうか。
 どうもそうではないようである。
 酒やギャンブル依存症に陥った人を「救う会」というボランティア団体がある。そういう「会」は、成果を上げることで相談者が増えていくのだが、それが〇〇教団になったなど、聞いたことがない。優れたカウンセラーは、しばしばなんらかの宗教団体に所属しているケースが多いが、不思議と、彼が所属する教団への勧誘にはあまり結びついていないようだ。
 全くないとは言えないのだろうが。

 三つ目は、相談者たちが一種のサークルを形成したり、定期的に集まって集会を開くなどの活動がほとんど見られないことである。そもそも、横のつながりがない。専門のカウンセラーが中心となって、相談者たちをまとめるという動きもない。全くないということでもなく、断酒会や禁煙会のようなものにはそんな動きもあるようだが、そこに絶対者が入り込む余地はない。その集会で語られ勧められることは既成宗教教団に類似しているが、それ以上に発展することはない。
 つまりそこは、同じ境遇にある者たちが持ち寄るわずかな経験が、不安を抱える人たちの慰めや励ましになるための、現実に即した治療や解決へのノウハウを教え合う集会だからである。集う人たちも、それ以上のことを望んでいるわけではなく、痛みを分け合うことで良しとし、教団に発展する必要を感じないのだろう。
 だが、それでも、既成宗教教団と同じように、抱えた問題の解決を求めている。それは、「救い」ということではないのだろうか。
 そう見て行くと、どんなに形態が既成教団から離れていても、その願望解決のために開かれる集会は、一種の宗教という方向に向いているのではないか。それがたとえ、SNSのようなツールにのめり込む、見た目の集団化でないとしても、一つ方向に向いているのは疑いようもない事実である。

 そのように、彼らが「新宗教」や「疑似宗教」を通して得る利益または救いは、極めて既成教団に似ているにもかかわらず、神々を擁せず、従って礼拝等の儀礼もなく、また、教団や集会を必要としていなくても、それは宗教に他ならないのではないか。
 今、「新宗教」に既成教団との接点があるかと問いかけているのだが、「ない」と結論づける前に、絶対者の存在を今一度疑って見なければならない。と言うのは、確かに彼らは、自己の外側に絶対者を認めず、既成教団のそれをも排除しようとしているが、自己そのものを絶対者としてはいないだろうか。
 既成教団にしても、自己の外側に絶対者がいるように見せかけてはいるが、突き詰めていくと、それは自己に突き当たるのではないか。その辺りのことは、いずれ浮かび上がって来るのだろうが・・・
 今はまだ、歯切れの悪いままにしておこう。


2、宗教の行方

 近年、宗教とは言えない、新しい形の疑似宗教が台頭していると指摘してきた。
 そんな傾向は、日本だけではなく、世界中にという気がしてならない。キリスト教会は次第に老人の集まりになっていると、何人もの友人たちが嘆いていた。その新宗教の波が、教会にも押し寄せているのではないか。
 恐らく、若い人たちが嫌っているのは、キリスト教会だけでなく、あらゆる既成の宗教教団であり、端的に言うなら、絶対者たる神々の自分に対する関与を許さないということではないのか。
 そのように考えると、現代社会は、確実に、自己を絶対者たる神とする方向に向かっていると言えそうである。視点をずらせば、今まで宗教という絶対的地位を誇ってきた既成教団は、かつての神通力を失ってしまったと見ていいのかも知れない。
 キリスト教会について言うなら、かつて大勢の人たちが詰めかけていた広い会堂には、半分にも満たない年老いた人たちが・・・と、そんな光景が至るところで見られ始めたのは何年も前のことである。お寺や神社は、広大な敷地を駐車場にして貸し出し、僧侶や神職が学校の教師を兼任していることも、アルバイトをしなければ生活すらおぼつかない現実からだろうか。

 そして今、宗教界に新たな葛藤が生まれつつある。

 古代社会では、人間同士の抗争には、必ずと言っていいほど、神々の争いが絡んでいた。そんな宗教戦争は、原始宗教の時代から人間社会につきまとっていた。時代毎に、その様相が変化して来たことも確かだが。
 一方で宗教家同士が平和運動で手を結び、一方で同じ宗教教団で反発しあう人たちがいる・・・と、宗教界が混沌としているように見える。
 かつてキリスト教内部で行われていた激しい反発や抗争が、今、特にイスラム世界で表面化して来た観がある。現代世界をかき回している主役は、イスラムなのである。彼らは引くことを潔しとしないから、当分は、過激なイスラムに振り回されることになるだろう。

 だが、必ずしも宗教が衰退しているというわけでもないようだ。一部の新興宗教には、勢いが感じられる。キリスト教にしても、一部ではあるが、福音派と呼ばれる新興教団に伸びしろが見られる。これも、前項で触れた「新宗教」「疑似宗教」のたぐいかも知れないが。ただ、既成の大きな教団に衰退が見られるのはまぎれもない事実のようである。

 今、「スピリチュアリズム」が全盛になっている。
 それも、宗教衰退となんらかの関係があるのだろうか。
 日本語では「精霊的なもの」という意味で用いられている「スピリチュアリズム」だが、書店や図書館の本棚を覗くと、「スピリチュアリズム」に関するものすごい数の本が並んでいる。筆者が常々覗いている本棚は、ジュンク堂神戸本店、神戸市立中央図書館、兵庫県立図書館、神戸市立外国語大学の図書館といったところだが、十数年前から、その手の本棚が二倍から三倍に増えている。そこには、占いや霊能、霊視、霊媒などに関する本も多く、オカルト的なものまで主要な位置を占めていて、カルト宗教に関する本もあった。
 猟奇的なものばかりではない。特殊心理学に属するであろう「宗教心理学」の分厚い本まで、そこに並べられていた。
 眺めていると、その前でうろうろしている人たちが結構多い。
 「スピリチュアル」などとスマートな言い方だが、その中身は原始宗教の精霊と変わらない。それは今後、ピーが辿った道筋をなぞるのだろうか。ただ今は、占いや霊能に見られるように、それが宗教だとは認識されていない。いつか宗教になるのかも知れないが・・・
 二十一世紀にもなって、人間が宇宙に飛び出して行くこの時代に、まるで原始宗教のような混沌とした世界が、現代人を縛り始めている。こと宗教に関する限り、原始時代に逆戻りしているのかと思われるような現象である。それは決して、前項で触れた「新しい時代の宗教」ではないように思えるが、識者たちはいかがお考えだろうか。

 そんな宗教世界の教団という意味でも、まだまだ言い残したことがあるように思うが、個々の教団をなぞることは打ち切りたい。
 ただ、「新宗教」や「疑似宗教」といったものが発生し、宗教文化として新しい道を歩み始めた中で、その宗教が今後どこへ向かおうとしているかは不透明、という大きな課題が残っていると思われる。
 その課題の中で、特に問題と思われることがある。
 「霊能と霊媒」の項で、「霊視とか透視などは相談者を信頼させる手法だが、それが本物の異次元の霊視であったり透視であったりする場合のことは、別問題として取り扱わなければならない」と問題提起したが、その「本物の」という問題である。
 そこに、宗教内部で激しく起こっていると思われる、極めて不透明ではあるが、看過できない問題が見え隠れしているからである。


3、宗教に潜むもの

 先に少しだけ触れたが、前項の終わりで取り上げた、霊能と霊媒の「本物の」という問題を取り上げたい。宗教というものの本質に迫るであろうこの問題を、筆者なりに考えてみたいと思うからである。

 さて、宗教ということを、「霊能と霊媒」のところまで巻き戻すようだが、両者ともに、現代人的思考で、説明のつく範囲内で考えて来た。宗教は人類の文化や文明の営みの中にある、とするのは宗教学者の言い分に過ぎないが、宗教にはもっと本質的な、別の問題が残っていると思われる。この霊能と霊媒が本物であったならという、ある意味、「仮定」の問題ではあるが。
 それは恐らく、占いや霊能だけでなく、他のあらゆる宗教にも関わる問題なのだろう。もし本物であるなら、コールド・リーディングやホット・リーディングを持ち出すまでもなく、霊能者も霊媒者も占い師も・・・、彼らは、彼らが踏み込んでいる世界に君臨する神々の代理人に過ぎなくなるという問題である。諸宗教にしても、崇拝対象の神々が「教祖」や「シャーマン」に啓示した・・・と、それを認めればいいだけの話ということになる。
 そして、さまざまな宗教が、消えても消えても新たな装いを纏って出て来るという実態である。さらに、出て来るだけでなく、まともな宗教に入り込んでそれをねじ曲げ、異端やカルト教団などに姿を変え、直接的、間接的に人を囲い込んで攻撃してやまないという事態である。まるで宗教が恋人か仇敵ででもあるかのように。神々が諸宗教の真ん中に居座っているのだろうか。それとも神々に匹敵する何者かが・・・と、その根本理由を探ってみたい。

 最初に、本物の霊能、霊媒、占いがあるかということだが、これは、宗教というものの本質に関わる問題である。
 今まで、宗教を、自然発生型と人間創唱型の二点から見て来たが、それらの宗教は、いづれも、その宗教と対峙する者、その宗教に聞く私たち受け手側の意識の中で「宗教化」されて来たのではないか。つまり、教団(個体であろうと大小は問わない)を成立させたのは、私たち人間の意識ではないのか。
 さらに明確に言うなら、教団となった宗教は、人間の思考の産物ではないかということである。おとぎ話や神話の部分を、「それは本物か」などと問うことはせずに、権威の裏付けにしているケースが極めて多いからである。
 創唱宗教の場合、その痕跡は比較的明瞭に残されているようである。自然宗教のケースでは、発生段階でもそのような説明が出来ないのかも知れない。しかし、より高度な宗教体制(多神教や唯一神教)へ発達していく過程で、それが形成される思考内(神学や教義学)に、人間の痕跡を見つけ出すことは可能だろう。非常に簡単で単純な方法だが、恐山のイタコにその様子を見て来た。
 しかし、だからと言って、それらの宗教を人間がコントロール出来たかと言うと、教団なら「出来た」「している」と答えることが出来ても、果たして、それら教団の背後に潜む「宗教」が人間の手の内にあるかと問われると、「ある」とはとても言い難い。「宗教」には、人間が造り上げた教団とは違う何かが、それ自体が一人歩きする何かが、奥深いところに潜んでいると言えそうである。
 なぜなら、宗教というものは、一旦造り出されると、造った人間(教祖であっても)の手を離れ、人間を支配するからである。オーム真理教を持ち出すまでもなく、そんな例は、注意深く見るなら、そこら中に転がっている。しかも、その宗教は、決して善なる方向に一人歩きすることはなく、造った人間たちを良い方向に導いた例は、歴史の中で探し出すのに苦労する。宗教は、戦争を引き起こし、人々を争いに駆り立て、しばしば「善」なる名をもって人を告発し、裁き、断罪してきた。宗教は、まるで人間を悪い方向へ悪い方向へと連れて行くために働いているかのようである。
 キリスト教を嫌う人たちからよく言われることがある。中世の魔女狩りやユダヤ人虐殺のアウシュビュッツなど、キリスト教は多くの人たちを苦しめて来たのに、なぜそんなことはなかったように、平和と愛の宗教などと言っていられるのかと。全くその通りで、いささかも反論できない。しかし、それでも人は、キリスト教が愛ある、善意溢れるものであると疑わないだろう。個々のクリスチャンたちは、洋の東西を問わず、そのほとんどがイエスさまのためだからと、損得なしに隣人のために良いことを願ってきた。それなのに、教会はしばしば、悪魔がするようなことに手を染めたのだ。それは隠しようもない事実である。それは恐らく、個人レベルでも起こり得ることだろう。
 キリスト教でさえと、思い上がりで言っているのではない。イエスさまの教えは、他のどんな宗教にも勝って愛に満ちていると、誰もが思っているのではないか。そんなキリスト教でさえ、歴史を突きつけられると、悪い方向へ、悪い方向へと走り出した過去を持っている。宗教としてのキリスト教は・・・
 いや、教団は人間が動かしているのだから、悪いことをしでかすのは、人間(国家も含め)そのものなのだろう。しかし、教団を動かしているのは、果たして人間なのだろうか。教団を宗教教団たらしめる宗教そのものが・・・、と考えることは出来ないだろうか。

 歯切れの悪いことばかり言って来たが、思い切って一歩踏み込んでみよう。
 現代という時代に非科学的なことにを言うようで、筆者自身にも抵抗はあるが、人間の内部か外部のどこかに巣くう何者かが、宗教という住処を得て働き始めるとこうなる。その「何者か」がという議論を肯定すると、宗教の一人歩きも論理的に説明がつくように思われる。
 実は、聖書は、神さまに敵対する者、サタンとその配下・悪霊の存在を肯定している。神さまが実在のお方なら、敵対する者も実在すると言ってもおかしくはない。
 その悪い力が宗教を住処にしているのではないかと、筆者は密かにそんな危惧を抱いている。

 霊能も霊媒も占いも、そして、宗教そのものが悪霊の住処になっていると、その可能性を肯定するなら、霊能も霊媒も占いも「本物」と言える可能性が出て来るのではないか。聖書は、サタンや悪霊が天使の装いを纏っていると言っている。彼らが天使なのかそれともサタンなのかを、私たち人間が指摘することは出来ないが・・・
 が、いづれにしても、その知恵は人間以上のものであり、その能力も力も、人間をはるかに超えていると認めざるを得ないのではないか。
 デルフォイ神殿の託宣が、いかに迷信に囚われた古代社会のことであったとしても、国々を巻き込んで壮絶な戦いに人間を駆り立てて行ったのは、とてもギリシャ神話のアポロンの為せる業ではない。
 しかし、そこにサタンや悪霊が絡んでいたとしたら、それは非常に分かりやすい構図ではないか。なぜなら、サタンとその配下たちは、神さまと、神さまが愛した人間に、徹底的に敵対しようとしているからである。恐らく、神さまに敵対して勝ち目がない分、その憎しみは人間に向かっていると想像する。
 いや、視点を変えれば、彼らは、神さまに愛されている人間が羨ましいのかも知れない。人間の存在理由は創造者たる神さまにあるのだが、その根本的な部分を横取りして、「おまえたちのあるじは神さまではない。おれたちだ」と、人間の支配者・「主」であることを主張するために、人間の故郷にも似た内面の中心部・宗教を占拠したとさえ思われてくる。
 現代の進化論者たちは、人間は、猿から人間に進化していく過程のどこかで、嘘をついたり悪知恵をもって互いを陥れたりと、そんな「文明?」を身に着けたと推測しているのだが・・・

 「悪霊」の存在を仮定するなら、「善霊」の存在をも仮定しなければならないと言われそうである。しかし、サタンとその仲間の悪霊が敵対する対象は唯一全能の神さまであって、彼らが宗教を住処として攻撃するのは、神さまがコーディネートされる「福音」なのである。「福音と宗教」を主題とする本書では、「善霊」の存在を仮定する領域はどこにもない。

 果たしてそうなのかどうか、結論が出せるなどとはとても思われない。
 しかし、この問題、いつか宗教学の重要な命題として取り上げられる日が来ることを願う。


Home