新・福音と宗教


第一部 宗教散見

一章 原始宗教


5、新興教団およびカルト教団

 「新興教団」と「カルト教団」は違うが、新興教団にはカルト教団とラベリングされたものも多く、その手の教団には仏教系、神道系、キリスト教系、あげくの果てに、○○系などとは呼べない出所不明のものも数多い。
 だが、教祖が天から啓示を受けたと預言者気取りであったり、金儲けのためであったりと動機は千差万別だが、「宗教教団」を名乗る以上、どこかで触れておかなばけれならない。動機や内容にこれといって見るべきものはないが、社会に害毒をまき散らす教団もないとは言えない。二つ上げるが、選んだ理由は適当で、特に意味はない。
 キリスト教系のものは、第二部で見ることにする。


(1)オーム真理教

 仏教系カルト教団の代表格には創価学会や立正交成会などがあるが、「日本の仏教」の続きとして取り上げるので、もう一つの代表格、地下鉄サリン事件など数々の問題を引き起こし、これこそまさにカルト教団であると世に知られた、オーム真理教(現アーレフ)を見ていきたい。

 教団名はインド固有の宗教で用いられた呪文オームから取られたもので、教団によれば、宇宙の創造A、維持U、破壊Mを合わせたAUMは「無常」を意味するそうだ。そこから、オウム真理教は「無常を超える真理の教え」であると、なかなか立派な説明がされている。
 これは、昭和59年、教祖・麻原彰晃が東京・渋谷にヨガ道場「オウム神仙の会」を設立したことに始まり、それがやがて、ヨガ修行を中心とした宗教教団「オウム真理教」になった。
 少しだけ教団の中心教義に触れておこう。時々に教義が修正されるカルト教団らしく、これだと断定はできないが、大体こんなところと言えそうな部分を要約、紹介する。
 崇拝する最高神はシヴァ神である。ヒンズー教で知られるシヴァ神と同名だが、キリスト教の神や仏教の大日如来のイメージも取り入れ、シヴァ神を世界唯一の最高神としている。麻原教祖はこのシヴァ神から超能力を得て、民による理想世界「シャンバラ王国」を築くよう命じられたと、その民が教団で修行して悟りを得、解脱者となるという。麻原教祖は日本唯一の最終解脱者だそうだ。いずれの宗教も救済という究極目的が必要だが、この教団も解脱は救済のための絶対条件である。つまり、解脱者だけが自己救済を手に入れ、他者救済のために取りなすことが出来るのだ。この「救済」は、当初「個人の魂の救済」だったが、聖書からハルマゲドンという終末思想を取り込んで、「人類救済」へと変わっていった。ハルマゲドンの危機にある全人類を、オウム真理教の教えによって救うというものである。だが、それもやがて、「選ばれた者・教団道場で修業を積み最終解脱を願う者たち」の生き残りへと変化していく・・・
 自分の解脱を願う修業は小乗であり、他者の救済を願う修業は大乗だが、信者が懸命に大乗の修業をしても、最終解脱はなかなか出来ない。ついに、最終解脱が出来るという「金剛乗」を持ち出してきたが、それによれば、魂の救済のためなら殺人も善ということになる。「ポア」という考えである。ポアは魂を高い世界へ移し変えることだが、金剛乗に立脚した死の世界への移し変えも、またポアなのだ。それを立派なポアと是認した麻原教祖は、地下鉄サリン事件など残虐な殺人行為を、最終解脱を望む者の信仰行為として、信者に強要した。人を殺し、それを「金剛乗に立脚した死の世界への移し変え」とする信者が、未だ解脱者でない者が殺すことで解脱者となるというのは、宗教論理の混乱でしかなく、理解に苦しむが、それこそ、この手のカルト教団が教義とする所以なのだろう。
 解脱、悟りと言い換えたほうが分かりやすいが、この教団の解脱は、仏教で言う悟りとは違う。仏陀が目指す解脱は、禅などの修業で煩悩を克服、完全に自我が静寂になる涅槃の実現を指しているが、麻原教祖は、ヨガを取り入れてある種の神秘体験をし、それを最終解脱と言っている。まさしく、独りよがりのなにものでもない。
 ところが、彼自身が体験した個人的神秘体験(幻覚体験?)によれば、それを否定することは出来ないし、「解脱した」と言って問題ないのだが、教団を抱え、教団利益の拡大という欲望が先行し始めると、人類救済に走ってみたり、キリスト教終末観を取り入れてみたりと、最終解脱を目指して懸命に修業している信者たちに、いくばくかの神秘体験をさせなければと、LSDなどの薬物を使用して幻覚症状を起こさせ、解脱に一歩近づいたとして教祖認定を与えるという、宗教者にあるまじき暴挙に走ってしまった。そして、これも教祖の自己主張の一つと言っていいのだろうが、教団への世間の風当たりが強くなると、信じない者と、自分たちに都合の悪い者を抹殺するという、最悪の「自己主張」をするようになった。神秘体験というものは多少とも自我の延長上にあるのだが、麻原教祖はそこに欲望を絡め、仏教本来の解脱・悟りとは全く異質の世界に踏み込んでしまったようだ。

 もう一つの特徴に触れて終了ということにしよう。
 それは、信者の一人一人がホーリーネームを持っていることだ。
 これは、教団内の個人名で、出家修行が一定レベルに達した時に教祖が命名するもので、極めて名誉あることとされている。これは、サンスクリット語をもじった言葉で、カタカナで表記され、教祖の妻松本知子にはマハーマーヤ(釈尊の母の名)、後にヤソーダラ(釈尊の出家前の妻の名)と改称させた。かの「科学技術省」のトップ村井にはマンジュシュリー・ミトラ(文珠菩薩)、オーム真理教からアーレフに代わった教団の代表上祐史浩にはマイトレーヤ(弥勒菩薩)というホーリーネームが与えられている。ちなみに麻原教祖は、自分をブッダ釈尊になぞらえて、尊師と呼ばせたが、授与するホーリーネームに崇拝対象である菩薩名や尊崇する祖師名をつけるなど、およそ仏教徒らしからぬ不遜さが目立つ。しかも、このホーリーネームには、修行のステージとして、尊師、正大師、正悟師、師長、師、沙門・・・と位階を定め、論功賞の機能を持たせている。
 小賢しい知恵を振り回す麻原教祖の独裁が機能したシステムと言えよう。


(2)PL教団

 次に、神道系の教団「PL教団」を取り上げる。
 これは、御木徳近がPL(パーフェクト・リバー・完全なる自由)を掲げて、昭和16年に創立した教団だが、初代教祖を徳近の父徳一として、徳一と徳近が入信して師と仰いだ、御嶽教の金田徳光を幽祖と呼んでいる。
 金田が病死した後、徳一は風紀問題を起こして教団から追放されながらも、大正13年、自分が金田の正統な後継者であると主張して、教団に対抗して別教団を結成。昭和3年には教団名を「扶桑教ひとのみち教団」とした。
 これを引き継いだ徳近は、教団が解散した後、「人生は芸術である」(第一条)と説いた『PL処世訓二十一箇条』を基礎に、PL教団を設立した。
 佐賀や静岡時代を経て、「ひとのみち教団」時代の百万人とも言われる信者からの献金で、大阪府富田林市に三百万坪という広大な土地を取得、その敷地内に、教団本部である大本庁、大本庁神霊を祀る正殿、徳一の霊を祀る初代教祖奥津城、万国の戦没者を超宗派で慰霊する、超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔などを造り上げた。
 また、高校野球で有名なPL学園高等学校の他、中学校、小学校、幼稚園、専門学校もあり、かつてはPL学園女子短大や遊園地、ゴルフの練習場などもあった。八月の教祖祭には、式典の一つとして、十二万発という世界一の花火大会を行なうなど、その行動は活発である。
 意識的に外受けする方向を目指しているのだろうか。
 恐らく、信者を多数獲得することだけに、教団存続の価値を見い出しているのだろう。


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