新・福音と宗教


第一部 宗教散見

四章 イスラム


 世界的に注目されているイスラムに入っていこう。
 イスラムとは、「平和であること」とか「神に帰依すること」などという幅広いアラビア語だが、もっとイスラム的な言い方では、「唯一・至高の神に絶対的に服従する宗教」を意味する。これは恐らく、イスラム内部で検討され、採用された意味づけなのだろう。だから、イスラム教と言うと、宗教宗教と重ねた言い方であるとして近年は単にイスラムと呼ぶが、この言い方は、専門家だけではなく一般にも広がっていると聞く。ここでもその表現に倣おう。
 現在、世界レベルの宗教で「唯一神教」はユダヤ教、キリスト教、イスラムの三つだけだが、ユダヤ教とキリスト教が、聖書(旧約・新約の違いはあるが)を信仰の規範としていることはご存じの通りである。ユダヤ教のことは別に取り上げるが、実は、イスラムも旧約聖書の一部と福音書(新約聖書の一部)を聖典としている。イスラムも聖書に立脚しているのだから、三つの世界的宗教(ユダヤ教は信徒人口こそユダヤ人に限られているが、ユダヤ人の広がりから、世界的と言っていいと思われる)は、いづれも聖書の神さまを信じる唯一神教ということで、いわば親戚関係にある。
 にもかかわらず、イスラムは独自の文化圏を構築していて、私たちにとっては、未知の宗教としか映って来ない。もっともそれは、西欧文化がキリスト教を土台に構築され、現代日本がその世界に慣れたためとも言えよう。しかし、それを割り引いても、イスラム世界のことは不明だらけである。
 そのイスラムは、2001年9月11日に、イスラム過激派のテロリストたちが、ニューヨークの世界貿易センター高層ビル二棟にハイジャックした旅客機で突っ込み、これを倒壊させるという「同時多発テロ事件」を起こし、一躍危険な宗教として注目されるようになった。本来、イスラムは決して危険な思想ではないのだが、あまり知られていないために、誤解が膨れ上がっているようである。この機会に、イスラムのことをいくらかでも理解していきたいと思う。


1、草創期

(1)ムハンマド

 イスラム、まず、その新教団創設者・ムハンマド(マホメットのこと。現在、アラビヤ風のムハンマドという呼び方が主流)のことから見ていこう。

 ムハンマド(フルネームはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブで、「より誉め讃えられるべき人」の意)は、紀元570年頃、紅海に面したアラビヤ最大の商業都市・メッカの名家ハーシム家の一族に生まれた。しかし、幼い頃父母を亡くし、経済的にも恵まれない孤児として苦労して来たようである。
 25才の頃、同じメッカの貿易商で大金持ちだった未亡人ハディージャに雇われ、貿易に優れた才能を示し、その才能と人物を見込まれたためか、その未亡人と結婚することになる。彼女はムハンマド提唱のイスラム教団最初の信者になるが、新教団誕生には彼女の懸命な支えがあったようだ。貧しく孤独だった彼の生い立ちがそうさせたのか、或いは、商用でたびたび訪れたシリヤで見聞きしたキリスト教の禁欲的修道生活の影響かも知れないが、彼は、メッカ近くにあるヒラー山の洞窟でしばしば瞑想にふけっていた。610年(40才の頃)、その洞窟に天使ガブリエルが現われ、彼はアッラー、もしくはアッラーフ(アラビア語で神の意)の預言者として招かれたと伝えられる(イスラム総括の項・参照)。イスラム創始者ムハンマドの原風景である。

 新教団の預言者になるなどと、初めのうちは恐れとまどっていたムハンマドだったが、妻ハディージャの勧めもあって、次第に預言者として選ばれたという自覚を持つようになり、ついに新しい宗教の提唱者として立つことを決意した。召命から2年半ほど経ってからのことである。
 しかし、ハディージャの他に親族から何人かの信者が生まれたようだが、大部分のメッカ市民たちは相手にしようとはせず、やがて反対の圧力が激しくなってきた。
 ムハンマドがメッカ市民から迫害を受けた最大の理由は、メッカがカバラという聖石信仰の聖地(カーバ神殿)として古くから多神教の生活基盤を持っていたことであり、それはメッカ市民の経済的繁栄にもなっていた。ムハンマドがアッラーのみを信じる唯一神教を主張して、アッラーによる神政共同体という新しい政治体制の提唱者となったことは、メッカの中心体制にとって、革命的運動と映ったのだろう。

 メッカの近くにヤスリブ(メジナ)という町がある。この町を開拓したのはユダヤ人だったが、五世紀末頃からアラビヤ人が支配するようになり、しばしば両民族の間で衝突が繰り返されていた。加えてアラビヤ人部族間の対立もあって、その不安定を解消しようと、メジナでは彼らを統一する指導者が求められていた。そんな人たちがメッカで苦闘するムハンマドのことを聞き、市民の中には彼の説教を聞いて信者となった人たちもいたことから、ムハンマドを自分たちの指導者にと望むようになった。彼らの要望を受けて、メッカの厳しい捜索の手を逃れたムハンマドはメジナにやって来た。622年9月20日、これが有名なヒジラ(聖遷)である。
 ムハンマドはメジナに拠点を移した。
 民族、部族間の対立争いに疲れはてたメジナ市民に市政を託されたムハンマドは、彼の理想である宗教共同体実現に向かって走り始め、その体制に協力するメジナ市民のもとで、イスラムという新しい教団が、政治・経済・宗教の枠を超えて確立していった。

 メジナでのムハンマドのイスラム共同体作りは、まず、聖堂モスクの建設と各種の儀礼を作ることから始められた。次いで、メッカから脱出してきた信者たちの困窮を救うために、メジナのアラビヤ人信者と兄弟関係を結ばせた。この扶養制度はわずか一年半で廃止されるが、それは、メジナの住民全員が、必ずしも心からアッラーに帰依していたわけではなかったからである。周囲の状況から、やむを得ずムハンマドに従ったということなのだろう。
 しかし、そんな人たちをも彼は根気よく教え、イスラム共同体は着実に進展していった。彼の優れた政治的才能によるのだろうか。
 メジナでのイスラム社会構築は、順調に進んで行った。

 だが、ムハンマドにとって、より重要な問題があった。
 彼に対して敵対意識を剥き出しにしているメッカのことである。
 ムハンマドは、このアラビヤの中心的商業都市(メッカ)をイスラムの傘下に置くべく、軍隊を組織して戦いを挑んだ。624年1月、彼はわずか300の兵を護衛につけて、シリヤから荷を積んでメッカに帰ろうとするキャラバンをバドルで待ち受けて攻撃し、救援に駆けつけた約1000のメッカ軍を撃破して勝利を収め、メッカ・シリヤ間の隊商路を確保した。これが最初の聖戦であった。
 隊商路を遮断されたメッカは、次第に経済力が衰え、その後何回かの戦いを経て、メッカはついにムハンマドの軍門に下り、イスラムは自他ともに認める成立を遂げた。彼亡き後もイスラムは、揺らぐことなく立ち続けていった。


(2)イスラム以前の宗教

 ムハンマドのことを先に触れたので順序が後先になってしまったが、イスラムを理解するために、イスラム以前の、特にメッカの宗教事情に触れておこう。
 メッカは、カーバと呼ばれる、聖石信仰のために建てられた巨大な立方体風の神殿を中心に、聖地として栄えてきた。特殊な形の巨石が信仰対象にされるのは、古代世界では珍しいことではない。メッカの市民たちは、そんな古代人らしいアニミズム的精霊信仰を持っていたのだろう。しかし、カーバには、また、各部族の中心的神々など、別の多くの神々も祭られていたから、その汎神論的傾向は、少しづつ多神論的傾向へと移行していったのだろう。
 汎神論より多神論がより近代的という近代宗教学者の穏当な見解は、短絡的でどうかと思われるが、少なくともメッカでは、そんな推移が認められる。
 もともとメソポタミアには、多くの神々が栄えた歴史があった。
 それはメソポタミアの宗教で触れたことである。ただ、メッカの神々は、古代シュメールやバビロニヤ・アッシリアの神々ではなく、ギリシャ神話から借用した神々のようだが・・・。それでも、昔の神々が栄えた土壌に、郷愁を覚えていたということなのだろうか。

 カーバに祭られていた神々は三百六十体とも言われ、イスラム以前の多神教時代を彷彿とさせるが、その神々の中で最高神とされていたのがアッラーフ、アッラーフに付き従っていた大地母性の神アッラート、美と愛の女神ウザー、運命の支配者マナートの三神である。これがカーバの神々を支配していた。アッラートはアッラーフの娘を意味する全能の女神だが、実は、アッラートはアッラーフの女性形なのである。アッラーフの娘だから父神の名を引き継いだと言われたら、それはそうなのだが、アッラートを名乗らせることで権威を纏わせた、シャーマンの思惑も透けて見えるようである。父神アッラーフはギリシャ神話のゼウスに匹敵する全能者・至高神である。
 アッラーフはイスラムが信仰する唯一神だが、そこに初めて現われた神ではなく、もともとはメッカの繁栄を支える守護神だった。

 ムハンマドは、カーバに祭られていた大部分の神々を破棄し(偶像に象られた神々だったから、「破棄」も可能だった)、こうした神々への信仰を斥けて、古いカーバの偶像としてのアッラーフではなく、新しく装われた全能者アッラーフのみが唯一最高の神であると教えた。アッラーフを偶像としてではなく、観念上の最高神としたところに、ムハンマドの優れた宗教家としての手腕が認められる。恐らく、ユダヤ教やキリスト教と接触したことが、そのような最高神アッラーフを産み出したのだろう。
 それは、多神教から唯一神信仰へのジャンプ・アップだった。
 私たちに馴染みあるアラーの神(アッラー)と今触れたアッラーフは同じであるが、ムスリム(イスラムの人たち)はアッラーフを用いているので、私たちもそう呼ぼう。ムスリムは、ムスリム以外の人が「アッラーフ」という呼称を用いることに拒否反応を示しているのだが・・・
 ちなみに、カーバは、装いを新たにしたアッラーフの神殿として、イスラム最高の聖地となり今に栄えている。恐らく、聖石は今も残っていると思われる。メッカに巡礼するとは、カーバに詣でることなのである。

 メッカばかりでなく、アラビヤ各地には、ユダヤ人が住み着いていた。
 バビロン捕囚後そのまま住みついていたユダヤ人、または、70年のローマによるエルサレム陥落後、海外に逃れたユダヤ人たちだったのだろう。先に、メジナがユダヤ人の開拓から始まったと触れたが、寄留の外国人である彼らは、農業や商業を生業として大きな勢力になっていた。彼らの唯一神信仰がイスラムに与えた影響は、計り知れないほど大きかったようである。
 そしてもう一つ、イスラムに大きな影響を与えたものに、キリスト教がある。
 キリスト教は、東ローマ帝国のコンスタンティヌス二世が、356年に派遣した伝道団の活躍によってアラビヤに定着した。しばしば、先に進出していたユダヤ教徒との間に血なまぐさい闘争が繰り返されたが、それはかえって、アラビヤにおけるユダヤ教やキリスト教の活動が活発化する一因となった。

 ムハンマドは、イスラムの神、アッラーフの誕生に、古い民族宗教の神名だけを残し、その唯一神の実態をユダヤ教とキリスト教から借用したと思われる。彼ほどの知性があれば、キリスト教がユダヤ教を母体として発生したことを知っていたとしてもおかしくはない。
 しかし、アッラーフをユダヤ教やキリスト教のエロヒーム(神)の呼名・ヤハウェ(主)と同一としたばかりか、その神学を相当部分イスラムに取り入れたのは、両宗教との友好を願ってのことだったのではないか。
 アッラーフは、こうしてイスラムの最高神として誕生した。
 コーランにはこうある。
 「まことに信仰ある人々(ムスリム)、ユダヤ教を奉ずる人々、キリスト教徒、それにサバ教徒(一部の秘儀的キリスト教?)など、誰であれアッラーフを信仰し、最後の日を信じ、正しいことを行う者、そのような者は、やがて主から御褒美を頂戴するであろう・・・」


(3)聖典

 イスラムの聖典は聖書、コーラン、ハディスの三つだが、それぞれの内容とともに、その関係を考えて見なければならない。

 最初に挙げたのは聖書だが、ムハンマドは旧約聖書の律法と詩篇と福音書を、アッラーフの特別啓示として受け入れている。
 ムハンマドは自分のことを、「最後の預言者」と位置づけた。コーランに登場する預言者はアダム、ノア、アブラハム・・・と二十五人いるが、そのほとんどは旧約聖書に出てくる預言者だが、二十四番目をイエス・キリスト、最後の二十五番目をムハンマド自身としている。それがどういうことかと言うと、ムハンマドは、自分を「最後の預言者」と宣言することで、その預言者、つまり自分に啓示されたコーランを聖書の上位に置いたのである。つまり、旧約聖書は福音書に抵触しないかぎり有効で、抵触した場合には、後の啓示である福音書が優先する。同様に、コーランと抵触した時には、コーランが優先すると言う順序である。ムハンマドの言行録・ハディスは後に取り上げるが、コーランの上位に来るものではない。ムハンマドは自分を「最後の預言者」とすることで、巧みにコーランを最高の啓示としたのである。
 旧約聖書と福音書を特別啓示としたのは、ムハンマドがユダヤ教やキリスト教と接触して影響を受けたことによるのだろうが、それを彼の教えの権威づけに利用したと言えなくもない。事実、現在では、コーランがアッラーフ最高権威の言葉として定着しているのだから。

 「コーラン」(アラビア語ではクルアーン)は、最後の預言者ムハンマドに啓示された、アッラーフの言葉であると信じられている。
 もっとも、これは二〇年という歳月をかけて、少しづつ断片的に啓示されたものとして、ムハンマドが語り、それを筆記する者がいたり暗唱する者がいたりと、一部は文字に記録され、一部は伝承として伝えられた。ムハンマドは文字を読んだり書いたり出来なかったらしく、最初から書物(書物にされたコーランはムスハフと呼ばれる)にされたのではない。しかも、ごく初期に記録されたものは、すでに失われてしまったようである。

 そのコーランが現代に伝えられた次第はこうである。
 導師(イスラム教師)イマムは、コーランを多く暗唱している者であった。コーランはアラビア語で書かれているが、それは朗唱することを目的に実に美しいアラビア語になっているようで、暗唱に適していたのだろう。以前、パキスタンのカラチで、あるムスリムに頼み込んで、コーランを読み上げてもらったことがある。とても美しい響きであった。
 しかし、ムハンマドの死後、暗唱していた人も減り、次第にその記憶も怪しげになってきた。コーランは、ムハンマドを通して、アラブ人にアラビア語で伝えられたアッラーフの言葉だが、アッラーフに由来する定められたアラビヤ語しか認めなかった。イスラム共同体は、統一文字を持たなかったため、理解の仕方にいろいろな違いが出てきて混乱を重ね、これを経典としてまとめようという動きが出てきた。コーランの結集(けつじゅう)である。
 第二代カリフ・ウマルと第三代カリフ・ウスマーンの時に二回の結集が行われ、651年に完成した二回目のものが、今日に伝えられるコーランの原典となった。カリフとは、ムハンマドの後継者で、イスラム共同体の長となった人たちを指すが、ウスマーンはこれを公式のコーランとし、「ウスマーン版」以外のムスハフを焼却してしまったようである。そのためか、ウスマーン版を除くムスハフは現在のところ見つかっておらず、偽典や外典のたぐいも存在してはならないとされている。
 公式コーランの制定は、多くの異なる国、異なる民族をイスラムであるとする、強烈な兄弟意識を育てる根本的要素になっていった。イラン・イラク戦争などに見られるように、彼らも決して一枚岩ではないのだが、イスラム以外の攻撃に対しては、見事なスクラムを組む。
 現代世界で急激に重みを増しているイスラムの、その辺りを理解しておく必要があろう。

 少しだけ、その内容に触れておこう。
 コーランは、ムハンマドに啓示された回数に従って、一度の啓示を一つのスーラ(章)とし、全部で114のスーラがあるが、その順序は啓示された順序とは異なっているようだ。
 イスラム学者(ウラマー)たちによると、コーランは啓示された順序に従って三期に区分されているようである。第一期のものは比較的短く、初期の啓示であるためか、アッラーフの権威に関するものが多く、アッラーフの創造と世界の終末が厳かに語られている。第二期のものは80スーラあり、メッカでの迫害が厳しくなった中で、大衆への伝道が進んだ時期だったためか、説話風のものが多く、新しい信者たちのためにイスラムの正当性が主張されている。第三期のものは、ムハンマドが迫害が厳しくなったメッカを逃れてメジナに移ってからのもので、一つ一つのアッラーフの啓示も長く、内容も法制的、政治的で、イスラム社会の規律が取り上げられている。形成されたイスラム共同体成熟の時期に当たっているからだろう。
 一章は開扉(以下スーラは章とする)、二章は牝牛、三章はイスラーン一家、四章は女、五章は食卓・・・と続くが、百十四章もあるので、ムスリム(イスラム教徒)たちの信仰と生活の微に入り細にわたる細かな内容が並び、イスラム世界は法政社会なのだと思わせられる。
 イスラムの宗教と社会は、律法のもとで成立しているのだろう。
 四五章・腰抜けども、五八章・言いがかりをつける女、六四章・騙し合い、八三章・量りを誤魔化す人々、一一一章・腐ってしまえ・・・など、想像もつかない主題も多々あって、イスラム社会の多様ぶりが見られる。

 ところで、《コーランはおよそ二十年の年月をかけて、何度もムハンマドに啓示された》と触れたが、そんな長い時間経過の中で「イスラムの枠組み」とでも言える法制度が形成されてきた。コーランの根本理解に関わると思われるので、少し、その辺りのことを見ておこう。
 この二十年は、十年づつ前期と後期に分けられる。
 前期は、イスラム新教団草創期のメッカ期である。
 この時期は、一介の商人に過ぎなかったムハンマドが、突然、アッラーフの啓示を受け(610年)、その使徒、預言者となり、伝道に着手した期間である。故郷メッカの人々は、その教えを危険な体制批判と見て拒否し、誕生したばかりの教団を激しく迫害したが、まだ数人しかいなかった教団はそんな迫害にも屈せず、強烈なアッラーフへの実存信仰を育てていった。
 この時期のコーランは、個々人が実在する唯一の全知全能の神、アッラーフの前に立ち、人格的関係を結ぶ(信じることと、信仰者の生き方をアッラーフにゆだねる)ことに集中している。いわゆるイスラムという宗教の根本部分が立ち上げられた時期と言えよう。
 おもしろいことに、ムハンマドは、その人格関係を、すぐれた商人感覚で、「契約を結ぶ」と捉えている。聖書の契約概念は神さまの恩寵でそれとは全く違うのだが、アッラーフへの信仰が「神と人との契約」にあるとしたのは、恐らくユダヤ人の影響があってのことだろう。それは、近代的とも言える極めて実存的信仰であるが、彼のハイレベルな宗教観が浮かび上がってくる。
 後期は、ムハンマドがメジナに移り住んだ622年から632年に亡くなるまでの10年間で、イスラムが宗教と政治という総合的共同体を目指し、確立していった時期であり、メジナ期と呼ばれる。この時期にイスラムは、栄光のイスラム帝国に向かって歩み始めたと言えよう。

 メッカ期のコーランは、現世より来世を重視している。それは、ムハンマドの信仰が終末に傾いていたためと思われる。厳しい迫害の中で、現世の希望を見つめることが出来なかったのかも知れない。
 しかし、メジナ期になると、信仰の在り方が現世重視に変わって来た。もっともそれは、メッカ期に確立した、来世の幸せを確保するために現世の生き方が大切という現世主義であるが・・・
 それは、メッカ期の「アッラーフを恐れる」倫理的信仰から、慈悲深いアッラーフへの感謝が信仰と同義語になるほど、イスラム信仰が社会的積極性を持ってきたことを意味する。現実を肯定した、「現世主義」とでも呼べる生き方と言っていいだろう。
 アッラーフと人格関係を結ぶメッカ期の「契約」に触れたが、その契約が、メジナ期では、人間同士のものへと変わっていく。
 アッラーフと契約を結び、アッラーフと倫理的関係に入った者たちが、今度はお互いの間に倫理的関係を打ち立てる。つまり、人間同士の倫理契約が信仰者の義務・責任として浮上してきたのである。アッラーフは信義の神だから、人は互いに信義を守らなければならない。同様に、彼らが親切や赦しや約束を大切にし、嘘を最大の悪徳の一つに数えることも、アッラーフと契約を結んだ信仰者たちの社会的倫理的責任なのである。
 言い換えれば、それまでのアラビヤの人たちは、個々人や家族という単位でしかものごとを考えなかった。彼らの社会は、広がりを認めても、せいぜい部族単位だったから、そんな者たちの意識が、アッラーフという至上神を得て、自分たちが所属するより広い場所を見い出したということなのだろう。ムハンマド最大の功績である。
 メジナ期のイスラム信仰が、社会に対してより積極的性格を持つようになったことについて、コーランにはこうある。
 「今日この日、ここにわし(アッラーフ)は汝らのために汝らの宗教を建立し終わった。わしは汝らの上にわが恩寵をそそぎ、かつ汝らのための宗教としてイスラムを承認した。」
 ここで言われる宗教とは、教義的に組織された社会機構としての共同体宗教を意味しているのだろう。イスラムは、宗教であると同時に、国家という社会的制度を指すようになっていた。もちろん、コーランの教えを実現しようとする、信仰共同体としての国家であるが・・・
 当然、市民たちの関心は政治に向いていった。
 そして、預言者ムハンマドは、政治的指導者としてもその手腕を発揮し始める。
 コーランはこう言っている。
 「(信徒たちに)こう言うがよい。『お前たちが、もし本当にアッラーフを愛しておるなら、このわし(ムハンマド)についてこい。そうすればアッラーフもお前たちを愛し、お前たちの罪を赦して下さろう』と。またこう言うがよい。『アッラーフと、その遣わし給うたこの使徒の言いつけに従え』と。だが、もし彼らが背を向けるなら、アッラーフは信仰なき者どもを好まれぬことを知れ。」
 この時期ムハンマドは、アッラーフと並ぶ絶対者となり、イスラム社会の君主として共同体に君臨し始めた。
 こう見て来ると、コーランは、全能者アッラーフの啓示である前に、絶対的君主ムハンマドの言葉そのものではないかと、素朴な疑問を感じてしまうのだが・・・。
 言い過ぎであるなら、ご容赦頂きたい。

 ところで、どの宗教にとっても聖典は「神の啓示」なのだから、ミステリーな部分があって当然だろう。コーランは極めて単純で合理的なものだが、それでもミステリーな部分がある。しかも、コーランで使われている言葉は、ムハンマドが属していたクライッシュというメッカの名門部族の一種の方言で、アッラーフのミステリーというより、日常語なのにクライッシュ族以外の人たちには分からない、意味不明で曖昧な言葉が多々あったということである。
 そこで、いろいろな解釈が生まれて来た。イスラムの歴史は、コーランの解釈によって変遷して来たとも言えるだろう。およそイスラム的とされるあらゆる文化・生活が、コーランの解釈によって成り立っている。学問も道徳も政治も法律も芸術も・・・と、イスラム世界では、聖と俗の区別がなく、あらゆるものがコーランを土台にした宗教に直結しているのである。

 そして現代、脚光を浴びているイスラムの二教派、アラブ人に多いスンニ派とイランが正統としているシーア派には、これが同じイスラムかと言いたくなるほどの違いがあるが、その違いは、ムハンマドの後継者を争うところから生まれて来たと言われる。更に大きな見地から言うなら、コーランの解釈から生まれてきたと言っていいだろう。解釈の違いから争いが起こり、時には血を血で洗う悲惨な状況が生まれて来た。それはイスラムだけではなく、聖書解釈の長い歴史を持つキリスト教にもそのまま当て嵌まることだが、「神さまのことばに聞く」ことなのに、自派に有利な解釈を求め、ウラマーたちは反目し合っている。そもそも、宗教というものは、自分たちに都合の良い理解を求めて、分派に分派を重ねて来たのかも知れない。そこに争いがあるのは当然だろう。

 次に、コーランに次ぐ重要なイスラム聖典、「ハディス」に移ろう。
 これは預言者ムハンマドの言行禄だが、彼の死後、何百年もかけて編纂されたものである。
 ムハンマドは宗教家として、また政治家として優れていたが、それだけではなく、多方面で人に抜きん出たすぐれた能力を持っていた。彼は、構築されつつあるイスラムの統制と組織においても、その多才ぶりを発揮している。コーランはイスラム信仰の基準としてばかりでなく、信者の現実問題にもメスを入れて快刀乱麻を断つ優れた判断を下してきたが、そのコーランをもっても処理し切れない問題は、彼の一言でみごとに解決されたのである。
 ところが、彼の死後、こうした事情が一変する。
 ムハンマドの精力的働きの甲斐あって、彼亡き後もイスラム圏は国境を越えて拡大の一途を辿ったが、それと共にいろいろな問題も膨れ上がり、それが絡み合って複雑になると、コーランだけでは対処しきれなくなった。後継者カリフは、ムハンマドのような「アッラーフの啓示を伝える預言者」ではなく、単なる教団の指導者だったから、彼らがイスラム教団の指導者であるためには、上からの権威ある言葉が必要だった。そんな状況下で、コーランの補助的役割を担うものとして、ハディスは必然的に生まれて来たと言えよう。
 だが、ハディスの誕生には多くの問題があって、長い時間が費やされた。もともとその大部分が口伝だったから、時々の情勢に合わせて修飾され、新しく創作されたものまで加えられて、誰もがこれはムハンマドのことばではないと気付いた。しかし、権威あるムハンマドの名をもって、ハディスは世に出されなければならなかった。
 その混乱に終止符が打たれたのは、ムハンマド死後200年経った九世紀のことである。ブハーリーとムスリムという二人のハディス研究家によって、二種の「サヒーフ」(確実なもの)と四種の確実性のやや劣るものとからなる六種のハディスが編纂された。ハディスはその後も幾多の要望に応えて変化を重ねていくのだが、その変化は、イスラム路線を柔軟にし、他宗教や他民族文化との融合を可能にしていくクッションとなった。

 イスラムの柔軟性とは、ハディスが持つ幅の広さなのだろうか。「変化」とは修正もしくは改竄のことだが、その変化に加え、コーランと同じように、その解釈によって時代に対応し、イスラム圏の更なる拡大に寄与して来たという一面を持っている。
 ところが、奇妙なことに、ハディスが整えられた九世紀中頃に、特に法律に関するコーランとハディスの聖典解釈は絶対にしてはならないと、聖典解釈の自由が禁止されてしまった。その禁止は現在まで続いている。
 恐らくそれはイスラム社会の建前と思われるが、建前にせよ何にせよ、この解釈禁止条項は、イスラムにとって、自由論議の門が閉ざされてしまったことを意味する。大きくなって幅も広がったイスラム世界の、原点に戻ろうとする方向転換だったのかも知れない。
 個人が自由に聖典を解釈して法的判断を下すことを、イスラム法学では「イジュティハード」(努力)という専門用語で表現されるが、そのイジュティハードは昔の権威ある人たちがすべてやってくれたから、それに従って判断すべきであるということなのだろう。それは、イスラムがアナーキイ(無政府状態、無秩序)という混乱に陥ることを回避したが、大きくなったイスラムにはそんな心配の声が上がっていたのかも知れない。イスラムの純粋性を守るための禁止条項と考えられる。
 だが、その反面、イジュティハード禁止は、イスラム法を固定化し、その文化生命を枯渇させ、イスラム世界の発展を西欧より立ち遅らせる一因となったと言えるのではないか。
 近年、「イジュティハードの門」を再び開かなければという声(イスラムのルネサンス)が、内部で上がっているようだ。期待したい。


2、発展期

(1)イスラム法

 イスラムの中心はイスラム法である。
 イスラム解明に、イスラム法の理解を欠くことは出来ない。イスラム法とは、共同体イスラムの宗教的形態に他ならないと言われている。

 イスラム法の成立は八世紀から九世紀にかけてのことだが、恐らく、ムハンマド没直後から始まったハディスの編集と解釈の延長線上で、その模索が始まったと思われる。イスラム法とは、イスラム共同体の中で、人がどのように正しく生きていくかを規定した法体系と言えよう。その「正しさ」は、アッラーフの意志に照らして判断される。イスラム法は、アッラーフの命令と禁止という形で成立して来たと言えよう。
 たとえば、「盗んではならない」という禁止事項がある。これは、盗みという行為が、人間の理性や社会状況に照らして「悪い」と決定されるのではなく、アッラーフが「悪い」と決定したから「悪い」ということなのである。
 この考え方は日本人には馴染み薄いものかも知れないが、これはキリスト教文化のもとで西欧社会が培って来た基準感覚である。ムハンマドは、持ち前の優れた政治感覚から、その基準感覚に倣ったのかも知れない。
 ただ、そのアッラーフの意志のもとで、こんなにもと驚くほど、イスラム法という細かな規定が造り上げられた。恐らくムハンマドが、アッラーフへの畏怖を、イスラム社会の中心に据えたからなのだろう。

 井筒俊彦著「イスラーム文化」から紹介しよう。
 「イスラム法を叙述した書物を開いてみますと、まず最初に出てくるのは、宗教的儀礼の規則、たとえば、メッカ巡礼のやり方とか、ラマダーン月の断食の仕方、それから日に五回の礼拝の仕方、礼拝に臨む場合の身の清め方、ーどういう種類の水をどう使って、体のどの部分をどういう順序で洗うか。水がない場合には水の代わりに砂を使うのが昔の習慣でしたが、どんな砂をどう使ったらいいのか。すぐその次には我々なら民法、親族法として取り扱うはずの家族的身分関係を律する細かい規則が出てきます。結婚、離婚、再婚、持参金、遺産相続、扶養義務などです。次は刑法的規定で、窃盗、殺人、姦通、詐欺、偽証など。そうかと思うと、食物や飲み物、衣服、装身具、薬品の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、女性と同席し会話する時の男性の礼儀、老人に対する思いやりの表わし方、孤児の世話の仕方、召使いの取り扱い、はては食事のあとのつま楊枝の使い方、トイレットの作法まである。
 これほどまでに決めなくともと、思いたくなるほど社会生活から家庭生活の細部に及んで詳細に規定されているのです。
 人が、第一にアッラーフに対して、次に隣人、同胞に対して、そして最後には結局自分自身に対してなすべきこと、なさなければならないこと、そして、してはならないこと、してもしなくても構わないことなどが、少なくともイスラム的に、つまりイスラム的コンテキストで、考えられる限り細大もらさず命令と禁止という形で規定されているのです。」
 こんなにも細かな規定を、信仰者たちは厳格に守ろうとしている。
 背信者にならないために。
 もし、背信者とレッテルが貼られたら、それだけでイスラム社会では生きていけなくなる。
 そして、一日五回の礼拝の仕方から箸の上げ下ろしまで、細かな規定がぎっしり詰まったイスラム法が神聖な法体系として制定されると、次はこれを護持していかなくてはならない。
 この法体系を守ろうと、ウラマー(法学者)が誕生した。
 それはきっと、イスラム社会自体が未整備状態の中で混沌としていたからなのだろう。法体系をどのようなものとするのか、その運営方法を巡って多くのウラマー学派が登場して来た。多くの異民族を抱えたアッバス朝には、現実の国家組織に適用出来る法組織を目指す法学派ウラマーと、あくまでも理想の神聖な法体系を追求しようとする神学派ウラマーに分裂して、激しく論争した時期もあったが、イスラム法は、表面的には神聖な神学を土台としながらも、結局、民衆を拘束する実践的律法主義的性格を持つ法制度となった。
 しかし、メソポタミヤ文化にはハンムラビ法典という世界屈指の優れた法制度があったのに、なぜこのような律法主義的法制度に堕落してしまったのだろうか。
 ウラマーたちは、イスラム法の管理と執行を国の統治機構から独立させ、アッラーフの名のもとで超権力体系として築き上げていたから、国家権力と言えども、その法体系を犯すことはできなかったのである。
 近代国家形態である立法、司法、行政の三権について言えば、行政権だけは国家が、他の二権はウラマーたちが確保していた。実は、これがイスラムを超国家的宗教共同体として存続させてきた最大の理由である。現代のイランなど、イスラム原理主義と呼ばれる国では、三権ともウラマーが握る傾向にある。そんな世界では、国家はウラマーたちの手先でしかない。イスラムは、ウラマーたちが鍵を握るイスラム法学の世界であると言っても過言ではない。


(2)カリフ

 イスラム君主カリフはムハンマドのハリーファ(後継者)だが、その歴史に簡単に触れておこう。

 第一代と第二代カリフの時代はわずか十二年だったが、その間は、カリフを中心にイスラムが一つにまとまった平和な時代だった。
 ところが、第三代カリフにメッカの名族ウマイヤ家の長老ウスマーンが就任し、あからさまなウマイヤ家中心の政策が展開され始めると、激しい反発がわき起こった。カリフをめぐる争いの始まりである。ウマイヤ家とは、かつてムハンマドがメッカで新しい宗教イスラムを伝え始めた時、その教えを体制批判であるとして迫害した人たちである。その反発の中で、メジナで生まれた一派は、カリフはムハンマドの一族でなければならないとしてウスマーンを暗殺、ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファティマと結婚したアリーを第四代カリフに担ぎ上げた。
 そのメジナの新派が、シーア派(分派)と呼ばれるようになった。
 ところが、早くからシリヤに進出して太守になっていたウマイヤ家のムァイアが、自らカリフを名のるようになる。そして、いつの間にかアリーを斥けて(小派閥による暗殺か)カリフを世襲性と定め、共同体だった筈のイスラムに、君主国家とも言えるムァイヤ朝が成立する。続いてバクダードを首都として栄えたアッバス朝(750~1258)が興る。イスラム最高の繁栄時代、イスラム帝国である。
 このイスラム帝国には、サラセン帝国と呼ばれた時代がある。十字軍時代のことだが、この「サラセン」と言う呼び名は、西欧人が蛮族と呼ぶ遊牧系アラブ人を指す蔑称(西欧中心史観)だとして、現在は「イスラム帝国」に統一されている。イスラム世界の世界情勢に占める比重が重くなって来たためだろう。だが、石油に依存する経済的文化的後進の国々として、種々の問題を抱え、今後、どこへ行くかが注目される。

 アッバス朝以後のカリフの舞台は、非アラブ世界に移る。
 中でもトルコへの移行は注目しなくてはならない。
 豪華な陳列品がところ狭しと飾られ、現在は博物館になっているイスタンブールのトプカピ宮殿の主として知られるスレイマン大王は、アッバス朝最後のカリフから相続者として指名を受け、政治的統治者・スルタンと宗教的代表者・カリフを兼ねる、大権力者になった。オスマン帝国として知られる。
 以後、カリフはトルコ皇帝の世襲となり、二十世紀まで続いたが、1924年、イスラムを国教とすることを否決した革命トルコによって、カリフは国外に追放される。
 カリフを正統と認め続けてきた人たち、全イスラムの90%を占める多数派、これが現在のスンニ派である。先に見てきた法学中心の組織的かつ実践的イスラムは、このスンニ派のイスラムであると言えよう。


(3)シーア派

 第四代カリフ・アリーをもって、正統のイマム(イスラム指導者)とするシーア派がメジナに生まれた。自分たちを正統派とするスンニ派は、彼らを異端と呼んで迫害し、反目しあう両者は激しく対立し続けている。
 シーア派の特徴は、イスラム世界の異邦人という意識に彩られている。そんなシーア派を象徴するモハラム(イスラム暦一月)の行事を紹介しよう。
 暗殺されたアリーには二人の息子がいた。そして、後継者になった兄のハサンも暗殺され、その後、一族の再起を願う弟のホセインは、わずかな軍を率いて680年10月10日、ウマイヤ朝第二代カリフ、ヤズイードの大軍とカルバラーで戦うが全滅してしまう。これは「カルバラーの悲劇」と呼ばれ、シーア派最大の年中行事・殉教祭(アーシューラー)として今も続いている。ホセインの無念を思ってか、人々は黒い喪服に身を包み、鎖の束で自らの胸や背を打って傷つけ、悲しみの叫び声を上げながら街中を練り歩く。ホセインに異邦人シーア派の姿をだぶらせているのだろう。シーア派と言えばイランがその代表格だが、アラビア語のイスラム世界では、ペルシャ語のイランは異邦人でしかない。ペルシャ語も、文字だけはアラビア文字なのだが・・・

 イランでは、自分たちのことを十二イマム派と呼んでいる。
 シーア派の宗教指導者はイマムである。彼らは第四代カリフのアリーを初代に、ムハンマドの娘ファティマの血を受け継ぐ十二人のイマムだけを数え、ムハンマドの血統を重んじ、アリーをアッラーフの具現化とまで言うようになった。十三番目のイマムはいない。なぜなら、十二人目のイマムはわずか四~五才の幼児だったが、突如その行方が知れなくなり、それはアッラーフの意志によるとされて、ついに彼の再臨すら信じられるようになった。この再臨派が勢力を拡大して、十六世紀、オスマン帝国に対抗するようにサファビー朝を立て、以後、イランはシーア派を国教とする王国として近年の革命が起こるまで続いた。特に十二イマム派は、そのイマムが途絶えたことから一層神秘的神学へと進まざるを得なくなり、最後のイマムにいろいろと神的修飾を加え、メシアとしての再臨説まで持ち上がっている。


(4)神秘主義

 ムハンマドの血を引くアリーの血統を重んじ、十二人のイマムを仰いだシーア派は、その血脈の中においてこそアッラーフの神意が明らかにされると、次第に神秘主義に陥っていく。
 特に十二代目イマムが突然いなくなってしまったことを、スンニ派の人たちや現代のイスラム研究者たちは「暗殺された」と見るのだが、シーア派の人たちは、「アッラーフが隠した」と受け止めている。そして、この十二代目イマムは、隠れたところから我々を支配しているとさえ言うようになった。先に触れた彼の再臨説は、その延長線上にあると言えよう。ムハンマドですら「市場を歩き回り、ものを食う」ただの人間にすぎなかったのに、イマムを失って、彼らはアッラーフの権威を纏う神的存在を慕うようになったのだろう。

 やがてその流れは、スーフィズム(イスラム神秘主義)を生み出すことになる。スーフィと呼ばれる人たちは、断食と瞑想という禁欲的生活を通して、アッラーフを体験するようになる。断食と瞑想に明け暮れたキリスト教修道院の影響があったのかも知れない。そのスーフィのある人たちは、後世「聖人」と呼ばれるようになった。
 今でもイラン各地に見られる聖人崇拝の発生である。

 シーア派で生まれたスーフィズムは、その体験的神秘主義傾向が東方諸民族に受け入れられやすいと知るや、各地で土着の民俗信仰を大幅に取り入れるようになった。それはイスラムの拡大につながったが、反面、イスラムを大きく変容させていくことになる。インドのイスラムは、次第にヒンズー文化と結合し、東南アジヤ一帯にわたる変則的イスラム世界を生み出していった。
 それは、もともと一神教のイスラムにはあり得なかったアニミズムやシャーマニズム、呪術崇拝、聖者崇拝といった民俗信仰と手を握ったことによる、一種のシンクレティズム(宗教混合)なのだろう。

 もっとも、彼らスーフィたちが一様に信仰堕落の道を辿ったかと言うと、そうとは限らない。
 ムスリムの中には、最高義務の一つ、メッカ巡礼をしなかった人たちがいた。スーフィである。彼らは「なぜメッカ巡礼をしないのか」と尋ねられると、大胆にも、「一軒の石の家(メッカの聖地カーバ)を訪問するために苦労して歩いて、一体何になるというのか。本当の神人はじっと自分の家に座っているだけでいい。そうすると天上のカーバ神殿が向こうからやって来てくれる」と答えたと言う。
 これほどの信仰を継承して来たから、変容しつつも、イスラムは一つの世界を共有してきたのではないだろうか。シーア派は、幅の広さと純粋さ、寛容と非寛容の両方を手に入れたイスラムと言えるのかも知れない。


(5)イスラム圏の広がり

 イスラムは、メッカ、メジナを中心に、アラビアで発生した地域限定の宗教であった。しかし現在は、世界中に十一億人の信者を抱える、世界第二位の宗教(世界人口比20%)と数えられる。すさまじい勢いで増加するムスリムが、世界の宗教人口図を塗り替えつつあるのは確かだろう。ムスリム最多の国はインドネシアで、意外にもアラビアではない。イスラムはアフリカ北部、南アジア、東南アジアなど地域に広がり、更に西欧諸国では今、ムスリムが増え続けている。二十年後には世界人口比30%を超えるだろうと予測する人もいるほど、イスラムは激しく動いている。
 そのイスラムの広がりを、少し見ていこう。

 まずインドである。
 イスラムのインド進出は八世紀初頭だが、仏教さえヒンドゥー教に取り込んでしまったインドを、イスラム圏に取り込むことはそう簡単なことではなかった。イスラムのインド進出は、商人たちや幾多のムスリムたちによって何度も繰り返し挑戦されたが、いずれも失敗。トルコ系ムガール朝の軍事的遠征によって、十六世紀ようやく実現した。
 インドは言うまでもなく、ヒンドゥー教の国である。
 そんなヒンドゥー教国で、ムガール朝は、宗教上の寛容政策を採り、結婚、死者儀礼、相続法、呪術などの古来から伝わる民俗習慣、土着の神々に対する祈りや供物、更にはカースト制までそのまま残す政策を取り続けた。結果、インドは極めて変則的なイスラム社会になったが、これは、東南アジアにおけるイスラム全体がその傾向にあることを示している。軍事的にではあったが、こうした他宗教に寛容な面を育てたイスラムだったからこそ、拡大していったのではないだろうか。
 イスラムの海外進出は、ほとんどが軍事(聖戦)を伴っていた。

 しかし、もう一つのパターンがある。
 最大のムスリム人口を抱えるインドネシアのケースである。
 インドネシアは、八世紀ころ盛んに交流していたアラビアやペルシャの商人を通して、平和のうちにイスラム化していった。それはヒンドゥー文化を大幅に残したままの、シンクレティズムとしてのイスラム化である。インドネシアでは、ムスリムが一億七千万人を超え、世界最大のムスリム人口を抱える国家となっている。2014年の政府統計によると、イスラムは87.2%だそうである。ちなみに、ヒンドゥー教はわずか1.6%だが、これは数字以上の影響力を持っていると思われる。
 インドネシアは世俗主義を標榜し、信仰の自由を認めているので、シャリーア(イスラム法)による統治を受け入れるイスラム国家ではないが、無神論は違法であり、公言すると逮捕される可能性もあるようだ。さらに、届け出はムスリムとなっていても、実際には、昔ながらのシャーマンによるアニミズムを信仰している民族もあると聞く。
 そんな宗教事情の中で、恐らく、イスラム文化の受容は、ヒンドゥー教との融合によるのだろう。ヒンドゥー教の宗教的寛容さは、インドにおいても知られている。インドネシアの民族的傾向は、イスラム固有の組織に編入されてイスラムの宗教協同体への参加という道を拒否し、独自のイスラム信仰を構築していったことにある。それは、アラビアとの直接交流に始まり、スンニ派的正統信仰の体系が移植される十七世紀以降まで続いたようである。

 イスラムは、インド、インドネシアに続き、マラッカやフィリピンなど、東南アジア各地にも進出した。一時期の隆盛は、マラッカは小メッカと言われるほどであったが、ヨーロッパの植民地政策の波が押し寄せて、スペイン、ポルトガルなどカトリックがこれに代わった。

 イスラムの広がりには、エジプトを中心とする、もう一つ大きな地域を上げなくてはならない。イベリア半島とアフリカである。
 エジプトはすでに十一世紀の中頃、シーア派ファティマ朝の勢力拡大に伴ってイスラムとの接触があったが、ファティマ朝を滅ぼしたクルド人のサラディンがエジプトにスンニ派のアイユーブ朝を興し、そのアイユーブ朝を倒したマムルーク朝が地中海・インド洋貿易を推進し、首都カイロに美しいモスクや学院を建て、アフリカ・イスラムの中心として繁栄した。
 また、七世紀、ウマイヤ朝に征服されてイスラム化したマラッカを中心に、北アフリカからイベリア半島、内陸アフリカへとイスラム圏が拡大していった。これらは軍事的進出と商人たちの貿易による平和的進出が巧みに組み合わされたもののようだが、十字軍時代のことでもあって、キリスト教の反撃に遭い、イスラム化したのにあえなく撤退というケースも目立つようである。イベリア半島のグラナダに残る美しいアルハンブラ宮殿は、その好例と言えよう。

 更にイスラムは、シルクロードを通って中国西部に入っていったことも忘れてはならない。パキスタンやアフガニスタンや中国西部、更にモンゴルのイスラム化は、中央アジアで勢力を広げたトルコに端を発しているのだが、トルコがオスマン・トルコとして小アジアに移った後は、アラビアとの貿易交流によるところも大きかったと思われる。中央アジアにスンニ派が多いのは、トルコ・イスラムの影響による。現代トルコ共和国のアジア地域は、十世紀までキリスト教東方教会の世界だった。それが、十一世紀にセルジュク朝のトルコ人が移住してきて、トルコ化と同時にイスラム化していったようである。やがてセルジュク朝が衰え、いくつも群立した小君主国からオスマン・トルコが誕生。勢力を伸ばしてローマ帝国の首都・コンスタンチノープルにまで侵入してこれを陥落、イスタンブールと呼んで、その地にオスマン帝国を確立した。それは地中海の東半分を領有し、西欧諸国のキリスト教と反目しあうようになった。

 アラビアに始まったイスラム圏の広がりを大雑把に見てきたが、一つはインドを筆頭とする軍事力によるイスラム進出であり、もう一つはイスラム商人によるインドネシアを中心とする東南アジアへの進出である。更にもう一つは、その二つを組み合わせたもので、中央アジアの遊牧民トルコ民族によって、西アジア、パキスタン、アフガニスタンから中国西部にかけての進出であった。そして、中央アジア北部モンゴルへの進出であるが、そのイスラム化には、十字軍時代にモンゴル自身が西アジアに進出してイスラムと接触したことも、大きな契機になったと思われる。
 いづれにせよ、多様性に富んだイスラム圏の広がりは、時間をかけて、現代に実を結びつつある。


3、イスラムの向かうところ

(1)イスラムの近代化とその対応

 イスラム世界の近代化は、おおむね三つの型に集約される。
 第一の型は、政教分離という、西欧的近代化を推進したトルコに代表されよう。
 トルコは、イスラムとしての象徴的諸制度を、廃止や国家統制という方向で縮小していった。カリフ制度の廃止、イスラム神学校や聖堂やイスラム指導者を政府の管理下におき、シャーリア(イスラム法)やこれに基づく裁判所の活動等を停止、次いで一夫多妻制を公式に禁止、儀式以外に聖職者が特殊な服装を用いることを禁じ、トルコムスリムのシンボルだったトルコ帽を廃止、ラマダンの断食を個人の自由意志にゆだね、公教育体系でのイスラム教育を廃止、女性の諸権利を認め、更にイスラム暦を廃止して太陽暦の採用・・・といった具合である。ただ、それは政府の西欧向けの姿勢だったから、民衆レベルでのイスラム社会の風習は、ほとんどそのまま残っていた・・・。

 第二の型は、インドネシアに見ることができよう。
 オランダは、「東インド会社員」と名付けた植民地支配の官吏を送り込み、それが最上位、次いでキリスト教徒である西欧人やその他の国の人たち、次に中国人というように、階級制を敷いた。インドネシア人は最下位だったが、同じ最下位ながらキリスト教徒は他の宗教の信徒よりも上位にランクされ、これがインドネシア社会に大きな亀裂を生じさせた。そんな葛藤を経て、1949年、ついに勝ち取った宗主国オランダからの独立は、西欧支配脱却への民族闘争がイスラム近代国家誕生につながった好例と言えよう。

 第三の型は、西欧化や闘争によるイスラム覚醒とは一線を画しながら近代化を目指した、イスラム共和国・パキスタンのケースである。
 パキスタンは、憲法に「社会正義に関するイスラムの原理を基礎とする民主国家」と明記された神政国家で、国家主権をアッラーフに委託されたものとし、国家のすべての原理をイスラムに求めた。
 しかし、原理主義を採るイランほど狂信的ではない。
 それなりの近代国家像が意図されているように感じられる。
 たとえばザカート(慈善)だが、これはイスラム世界で古くから貧民、困窮者、病人など弱者への救済として、ある意味で所得税なみに徴収されていた。パキスタンはこれを行政の重要な一環として取り入れ、その資金で財団を設立、国民の厚生施設や福利施設などを作っている。なぜ福祉なのかは判らないが、西欧社会化に行き詰まりを感じた中で、イスラムの教えに活路を見いだし、それを骨格に、独特のイスラム近代国家を目指したのだろうか。


 そんなイスラム世界近代化という流れの中で、最も著しかった西欧化のケースを、もう少し見てみたい。エジプト、トルコ、サゥーディ・アラビア王国、インドといったイスラムの国々にその流れが見られる。
 エジプトを取り上げてみよう。
 西欧に科学時代が訪れる以前、これまですさまじい勢いで拡大・発展を遂げていたイスラム社会が緩やかな衰退への下降線をたどる中で、十八世紀後半、西欧の軍事・産業がイスラム世界を圧倒し、西欧に隣接するオスマン帝国は、否応なく西欧化への対応を余儀なくされた。それを象徴するのが、ナポレオンのエジプト遠征(1798~1801)によるイスラムの敗退である。この時イスラム軍に参戦したウラマー出身のリファーア・タフターウィーは、エジプト・イスラムの近代化・西欧化に力を注いだ。だが、この地を制圧した西欧は、エジプトの自立も勃興をも許さなかった。十九世紀後半には、エジプトの紡績産業はつぶされて、イギリス工場のための綿花生産地とされてしまった。

 そこには、西欧諸国の植民地政策が深く関与している。
 西欧諸国は圧倒的な近代的武力を背景に、宣教師を送り込んで教会を建て、キリスト教への改宗を勧めるだけでなく、改宗者には官吏や諸方面の指導者になる道を開き、反面、ムスリムに強い宗教弾圧を行なった。そのように推進された近代化は、皮肉なことに、エジプトのイスラムを、ムハンマドを生み出した原点とでもいうべきアラビア的イスラムから遠ざける方向になった。それは、西欧化されたイスラムとでも言えるのだろうか。アッラーフはもはや、アラビア的荒々しい裁きの神ではなく、西欧からやって来た、キリスト教的愛の神にまで変質していったのである。

 こうした時代の動きに反発するかのように、イスラム世界に復古運動が起こったのは自然な成り行きだったろう。
 十八世紀中頃、二人のイスラム改革を叫ぶ者が現れた。一人はアラビア半島の中央部に生まれたアブダラ・ワッハーブ、もう一人は衰えつつあったムガール帝国のデリーから出たシャー・ワリーウッラーである。
 よく知られているので、ワッハーブのことを取り上げてみよう。
 ワッハーブは、スーフィの聖者崇拝に「それは偶像崇拝ではないのか」と抗議し、やがて、スーフィを許容したイスラム神学全般をも攻撃し始める。後にワッハーブ派と呼ばれる同調者たちは、アラビア的イスラムの復古運動を展開し、コーランとハディスだけが聖典であるとして、数世紀に渡ってつくり出されてきた一切のイスラム神学を否定した。
 その、まるで清教徒のように質素な生活をしながらコーランの戒律を厳しく守ろうとするあり方は、多くのムスリムの心を惹きつけ、アラビアの強力な一部族、イブン・サゥードが武力をもって彼らを応援するようになった。後のサゥーディ・アラビアである。彼らはシーア派の聖地カルバラーを占領、聖者崇拝のシンボルだったホセインの墓や聖堂などを破壊、更にはメッカやメジナにまで侵入し、ムハンマド廟までも破壊してしまった。
 都市を牧草地に変えてしまうのは、アラビア遊牧民の論理と言っていい。彼らはオスマン・トルコによる鎮圧までの九年間、そんな行動を取り続けた。
 武力による他者への抵抗という復古運動は、現代のムスリムたちがしばしばテロに走る原点なのかも知れない。


(2)現代のイスラム

 イスラム世界には、十七世紀まで、西欧が羨望した文化圏が三つあった。
 中東の大部分とバルカン半島を支配していたオスマン帝国、インドのムガール帝国、イランのサファヴィー朝である。いづれも世界に冠たる文化と強大な軍事力を持つ帝国だったが、十八世紀から十九世紀にかけて、イギリスの産業革命やフランス革命などを経て躍進した西欧勢力に押されて、崩壊していった。イスラムは、依然として世界に広大な分布図を持ちながら、つい最近まで、世界の片隅で忘れられた存在でしかなかった。
 それが今、アフガンやイラクのこともあって、イスラムは、騒然としている現代世界の中心に躍り出た。パレスチナ紛争の一方の主役、テロで名を馳せたイスラム過激派、イスラム世界を覚醒させるかのようなイスラム原理主義など、いくつもの舞台で彼らは主役を演じ始めた。いったい何が彼らをそのようにイスラムに拘らせ、テロに走らせているのか、現代イスラムのさまざまな問題に触れておきたい。

 エルサレムで、通りかかった街の一隅に、まるで民家のような小さなイスラム礼拝堂を見つけた。ちょうど金曜日でイスラムの聖日だったので、扉の隙間から覗いてみると、高々と上げた両手を床におろすと同時に頭を床にこすりつけてひれ伏す、まさにイスラム式礼拝の真っ最中であった。
 エルサレムの街には、ユダヤ人地区、アラブ人地区、キリスト教徒地区と三つの地区があり、何気ない平和な光景の中で、ムスリムとユダヤ人は同じ街で仲良く共存していた。筆者が見た光景は1978年、悠久の歴史から見るとつい最近のことであるが、その平和な光景が一変してしまった。何度も変遷があって、今の厳しい情勢が生まれたと思われるが、当時は、まだ緩やかだったパレスティナ動静の中で平和を楽しんでいた無垢の民衆が、みるみるうちに、テロや飛び交うミサイルで無残にも血を流し始めている。

 その根っことも言うべき、ムスリムとユダヤ人が憎み殺し合う、現代イスラムの縮図、パレスチナ問題の経緯にも触れておこう。

 「パレスチナにユダヤ人国家を」、これは放浪の民・ユダヤ人の積年の夢だったが、第一次世界大戦時に、英国政府はユダヤ人に、連合国を支援すればその夢の実現させるという約束・「バルファ宣言」を出した。だが英国は、それ以前に、アラブ人側とも同様の約束「フセイン・マクマホン書簡」を交わしていたのである。しかし、二つとも空約束に終わり、パレスチナは英国と仏国の植民地になった。平和だったユダヤ人とアラブ人の間に大きな亀裂が生まれたのは、当然だったろう。アラブ人世界に、反ユダヤ運動が起こった。
 それがヨーロッパにも波及して、激しいユダヤ人迫害が始まったのもその頃のことである。反ユダヤ運動のピークは、アウシュビッツなどナチスによるユダヤ人大量殺害と言えよう。
 ところが皮肉なことに、その事件が世界中で報道されると、その迫害の過激さに多くの人たちは驚き、ユダヤ人への同情が高まって、反ユダヤ運動が影をひそめてしまった。そして、そんな国際世論に後押しされる形で、第二次世界大戦終結後の1948年に、イスラエル共和国が樹立される。膨大な軍事力を背景に、彼らは四回の中東戦争を勝ち抜き、かつての迫害された立場から、パレスチナ先住民であるアラブ人を迫害し始めるのである。

 実は、現代のユダヤ人社会には、セム系と非セム系(ユダヤ教に改宗した白人系)の人たちがいて、イスラエル共和国家を形成した人たちのほとんどが、東欧・ソ連からアメリカを経由して入植した白人系ユダヤ人なのである。彼らは先住民のセム系アラブ人とは考え方も生活習慣も違い、伝統的にアラブ社会を敵視してきた人たちだったと指摘されている。パレスチナ問題は、「アラブ人VSユダヤ人」よりむしろ、「アラブ人(セム系先住民族)対白人(非セム系)」という対立構造と言えるだろう。強気な姿勢を崩さないイスラエル、そこにアーリア人至上主義を振りかざす西欧諸国のエゴーが顔を覗かせていることは否めまい。アーリア人は、もともとは中央アジアにいた遊牧民なのだが・・・
 西欧人がアーリア人の子孫であると、まるで神話のような話が信じられるようになった背景は、ゾロアスター教のところで触れた。
 そんな白人社会のイスラエルに向けて、アラブ人は、自爆テロという命をかけて、居場所を主張しているのだろうか。今、その自爆テロがアフガニスタンなどイスラム圏全体に増え広がっている。2001・9・11の事件後、米国は、アルカイダの温床としてタリバーンを掃討すべく、アフガニスタンへの開戦を強行、続いてフセイン政権のイラクをもテロ政権であるとして攻撃するのだが、あくまでも徹底抗戦を主張するイスラム過激派の指導者たちが、弱者の有効な戦術として、一般民衆に呼びかけた自爆テロが頻発するようになった。
 最近では、「イスラム国」を名乗るテロリストたちが、シリアやイラク国内に自分たちの国土を打ち建て、西欧社会にも軍事的挑戦状を突き付けている。今はその国土も奪回され、彼らはちりぢりに散らされてしまったが、アフガニスタンのタリバーンのように、地下に潜ったり、西欧社会にじわっとシンパを増やすなど、拡散の動きを見せている。
 それは欧米という近代的文化体系に抵抗し生き延びようとする、異文化の主張のように聞こえる。
 だからと言って、過激な暴力に訴えるテロリズムを可とはしない。だが、原理主義という過激なイスラムが広がってきたのは、少なくとも欧米とは別の生き方があるという、メッセージなのかも知れないと思われる。

 イスラムについて、かなりしつこく取り上げてきた。
 終わりに、現代イスラムを読み解く鍵の一つ、「イスラム原理主義」に触れておこう。
 それは1979年、アメリカの傀儡政権ではないかと言われていたイランのパーレビ王政が倒壊し、革命政権が発足する中で始まった。
 この革命は、やがて、ホメイニ師を最高指導者とするイスラム法学者一派による、民主化勢力や左翼勢力という反対派への激しい弾圧によって、革新とはほど遠い、反共的保守系イスラムに固定化されていくのだが、その固定化される過程で、イランには「イスラム原理主義」と呼ばれる現代のイスラム体系が形成されたと言えよう。
 原理主義とは英語で言うファンダメンタリズムあり、キリスト教世界では、聖書の無謬説を信じる人たちを指しているが、中にはそれを狂信的「根本主義」と言う人さえいる。
 イスラム法(シャリーア)による統治の復活を叫ぶムスリムたちの運動を指して呼ばれる「イスラム原理主義」は、コーランの無謬を字義どおり厳密に信じ、預言者ムハンマド時代のイスラム共同体を復興させようとするもので、コーランに基づくイスラム法的政治・国家・社会のあり方の実現を目指すイスラム主義運動、宗教的・政治的急進派、過激派を指している。
 もともとどんな宗教にも、それが誕生した「原点」のようなところがあるが、そこには所帯が大きくなると必ず起こって来る分派の対立や混乱があり、そうした中で原点に返ろうとする動きが見られる。イスラムも例外ではない。しかし、原理主義のムスリムたちには、世界の進歩や発展から取り残されたという焦燥感があり、それが独自の原点に向かわせた動機ではないかと言うなら、言い過ぎだろうか。そうした動きはイラン以外のところでも広がり、最近の「政府の転覆を図る狂信者」「宗教テロリスト」のイメージに繋がっていったのではないかと思われる・・・。

 今、IS等の戦闘員は、西欧のイスラム系移民の青年たちに広がっている。彼らは西欧諸国の価値観に馴染めず、西欧人の排外主義の中で職を失い、次第に孤立している。キリスト教に執拗な敵対心を持つのは、そんなところに原因があるのかも知れない。彼らは、「すべての出口がふさがれている」という閉塞感を持っていて、ISやアルカイダのような組識に思いを託さざるを得ないほど追いつめられている、と理解しなければならないのではないか。
 確かに、西欧の植民地政策、アメリカ式民主主義の押し売りなど、欧米の横暴は、後進国の発展を一世紀以上も押しとどめて来た。
 しかし、それに反抗したからと、彼らに「原理主義」「テロリスト」のレッテルを貼ることは簡単だが、だから叩かなければならないと、短絡的に武力を用いて封じ込めようとすることには疑問が残る。

 トルコのように、欧米文化との融合を目指すイスラム諸国が依然として多数派なのだろう。そのイスラム世界が、少しづつではあるが、イスラム独自の世界観を軸にする方向に傾いているように見受けられる。イスラム原理主義は、そんなムスリムたちを引きつけているのではないか。
 今、「西洋の没落」が囁かれている。そこに符帳を合わせてなのだろうか。
 イランのシーア派で誕生した原理主義が、対立するスンニ派でも「原理主義への回帰」の声が聞かれるようになっている。コーラン信仰への回帰ということなのだろう。西欧文化圏の私たちには「過激」と見えるが、彼らは、それこそイスラム本来の姿なのだと、本気になってその信仰に立とうとしているのではないか。ジハードも自爆テロも、そしてフランスで騒がれているムスリム女子生徒のベール着用問題も、そうした信仰から生まれていると理解すると納得できる。その信仰が、預言者ムハンマドを神格化させていることに問題を感じないのかとは思うのだが・・・
 恐らく彼らは、イスラムはキリスト教に次ぐ多数派の世界宗教なのに、欧米の文化や経済に圧倒されて、追い詰められていると感じているのだろう。アフガニスタンやイラクで欧米の仕掛けた戦争が、さらに彼らを追い詰めている。そして、彼ら自身の中にもさまざまな対立があるようだ。今、イスラム諸国は孤立化と諸問題の堆積する中で、イスラム世界の連帯を手探りしているのかも知れない。その連帯感は、原点であるコーラン信仰にあったのだが、イスラム原理主義とは、その原点である信仰への回帰を求める、さまざまな模索の過程なのだろうか。
 そうだとするなら、キリスト教も含めて世界の諸宗教は、その模索に習うところがあるのではないか。


4、イスラム総括

 イスラムが、アッラーフを信じ、アッラーフの啓示を唯一の信仰規範としているのは、聖書を唯一の神さまからの啓示とするユダヤ教やキリスト教と変わらない。たとえ、旧約聖書と新訳聖書全巻を受け入れず、その受け入れた方に唯一最高という名を冠せていないなど、多少の問題はあるが、そんな例は、「キリスト教」と呼ばれる教団にも多いのではないか。もっとも、そのようなケースには、異端というラベルが貼られてしまうのだが・・・

 しかし、イスラムの場合には、いくつかの問題が残る。
 第一点は、ムハンマドが天使ガブリエルから受けたと言う「啓示」であるが、恐らくそれは、イスラムの中心問題であろう。

 610年(ムハンマド40才)頃のことである。
 その時の様子を、一人のムスリムの証言から再現してみよう。
 「ムハンマドは、俗世間から離れる必要性を感じ始め、メッカ郊外の岩山にある洞窟へ赴いては瞑想にふけっていた。彼は食料を持ち運んではそこに数日間留まり、その後家に戻っては食料を補給し、またそこへ戻るという瞑想を繰り返していた。
 日中の灼熱、そして夜間の澄んだ空のなか、まるで目を貫くかのような星々の輝きに、彼の本質は宇宙の『しるし』に満たされた。それは、それらの『しるし』の内に既に内在する、啓示の仲介者としての適切な役割を果たすための準備期間だったのであろう。つまりそれは預言者の務めであり、彼の民、そして全人類に対する神の真実の宗教の伝道のことである。
 それはライラトル=カドル(神威の夜)として知られる、聖月ラマダーンの最後にさしかかったある日の夜に起こった。
 預言者ムハンマドはヒラーの洞窟で瞑想に没頭していた。
 彼は突如、啓示の天使であり、イエスの母マリアにも訪れた天使ガブリエルの降臨を見、彼によって緊張させられた。そして『イクラア』(読め)と命じられたのである。読み書きの出来なかった彼は言った。『私は読むことが出来ません』と。しかしその命令は更に二回繰り返され、預言者はその都度同じ返答をした。最終的に、彼は天使の非常に大きな力に満たされた後に解放され、それからクルアーン(コーラン)の最初の節が彼に啓示された。」
 そこにはこうある。
 「読め、創造なされる御方、あなたの主の御名において。一凝血から、人間を創られた。読め、あなたの主は、最高の尊貴であられ、筆によって(書くことを)教えられた御方。人間に未知なることを教えられた御方である。」(96:1−5)
 続けよう。
 「こうして、神による人類への最後の啓示にまつわる壮大な物語が始まった。
 十四世紀前のアラブ人の興隆は、それまで歴史的に全くの空白だった地帯から人々を地球上に拡散させ、何千万人という規模の人々に影響を与え、大都市、大帝国を築き上げ、強大な軍隊の衝突を刺激し、それまで未知だった美と輝きが砂埃の中から引き起こされたのである。またそれは大衆を楽園の諸門へと導き、その更なる先の至福に満ちた展望をもたらした。ヒジャーズの峡谷にこだましたイクラアという言葉は、それまでの世界の固定概念を破壊し、そして、岩々の中に隠遁していたこの一人の男に、山々に下されたのであれば、それらは木っ端微塵に砕け散ったであろう程の責務を与え、彼はそれを両肩に背負って立ち上がったのである。」
 「預言者ムハンマドは四十歳に達しており、熟年期に入っていた。この遭遇の強い衝撃により、彼の実体は溶けてしまったという主張もある程である。彼は光によって焼き尽くされた皮膚のようになり、別人のようになって山を下りた。」
 「しかし、山を下りようとしたムハンマドに、大いなる声が聞こえて来た。
 『ムハンマドよ、汝は神の使徒である。我はガブリエルなり。』と。
 空を見上げると、天使が空を覆っていた。彼がどこに行ってもその姿は見え、逃げることは不可能だった。彼は帰途を急ぎ、妻ハディージャに叫んだ。『私を覆い隠してくれ!私を覆い隠してくれ!』と。彼女は彼を横たわらせ、外衣で包んだ。少し落ち着きが戻って来ると、彼は何が起こったかを彼女に話した。預言者は恐怖に震えていたのである。彼女は彼を抱擁し、励ました。」
 サヒーフ・アル=ブハーリー(ハディスの編集者)はこう記している。
 「いいえ! 神に誓って、神はあなたの名誉を傷つけるようなことはなされません。あなたは親族との良い関係を保ち、貧者を養い、来客を寛大にもてなし、困窮者を援助しているではありませんか。」
 「彼女には、その徳と誠実さ、正義感、慈善心から、夫が神によって恥をかかされるような男には見えなかったのである。この地球上で最初に彼を信じたのは彼の妻ハディージャであった。直ちに彼女は、聖書学者である叔父のワラカに会いに行った。彼女の夫の経験を聞いた後、ワラカは聖書の予言にあるように、彼が待望された預言者であることを認知し、洞窟で彼が見たのは啓示を担う天使のガブリエルであることを確認したのである。」
 「それはモーゼを訪れた、秘密の守護者(ガブリエル)である。」(サヒーフ・アル=ブハーリー)
 「その後、預言者には生涯に渡って啓示が下された。それらは彼の教友たちによって記憶され、羊の革片などに書き留められた」と、彼は証言を終えた。
(預言者ムハンマド伝「啓示」より)


 イスラムが聖典とするのは、聖書とコーランとハディスの三つであるが、コーランとハディスはどちらも預言者を自認するムハンマドの語録である。
 まず、ムハンマドが聖典としていた「聖書」のことだが、彼は旧約聖書の律法と詩篇、それに福音書をアッラーフの特別啓示として受け入れていた。と、すんなりその通りであれば、さほど問題ではない。聖書の一部だけを受け入れているユダヤ教やキリスト教の教団はほかにもある。もっともそれは、異端と見られているのだが。
 問題は、その順番にある。
 つまり、ムハンマドは、最も新しい福音書を律法や詩篇よりも上位に据えたのである。
 それは、自分を最後の預言者と位置づけることの伏線であった。
 コーランに出て来る預言者は二十五人だが、その二十四人目がキリストで、キリストは先任者である二十三人の預言者の上位に来る。
 それは、二十五人目のムハンマドを最後の預言者と位置づけ、その後の預言者を認めないことから、究極的に、人々は最高の預言者たるムハンマドから聞くべしと位置づけたことに他ならない。ムハンマドは、聖書の預言者たちとキリストを、自分の権威づけに利用したのである。
 聖書を聖典とした役割は、そこで役割を終えた。聖書が聖典であるための効用は、もはや何もない。
 聖書よりコーランが上位に来る理屈が、お分かり頂けよう。

 だが、問題はコーランである。
 これをムハンマドはアッラーフの啓示とした。
 だが、聖書と比べると、年代も背景も主題も、もちろん記者も・・・と、何から何まで異なる環境の中で書き上げられた聖書の各巻が、それでもなお主なる神さまの意志と目的に沿って、イスラエルの救いから異邦人の救いという方向性まで一貫して変わらないのに対し、コーランはムハンマド一人だけに委ねられているという不公平さが際立っていて、「イスラム」という方向性は一貫しているが、それ以外の一貫性、公平さは全く担保されていない。聖書には、何が何でも「これは神さまの啓示である」と主張する偏狭さはない。各記者が個性をもって書き上げたところに神さまの啓示が輝くように埋め込まれていて、時には、神さまが、それぞれの記者たちの個性さえご自分の啓示の主張に役立てておられると思わされるほどである。
 そもそも、福音書にしても、ユダヤ人向けに語られたマタイ福音書と異邦人向けに語られたルカ福音書とは、同じ記事の扱い方にも開きがあって、中には違う記事かと見間違うほどのものもある。ヨハネ福音書になると、その違いは際立っている。だが、それにもかかわらず、イエス・キリストによる救いを変わらずに主張し続けているその一貫性には、驚かされる。それほどの一貫性が、果たしてコーランにあるのだろうか。少なくとも、聖書が、アンチ・イスラエルにもアンチ・クリスチャンにも配慮していることに比べると、コーランの視野の狭さは、諸宗教教団の視野の狭さをはるかに上回っていると言えよう。
 そして、コーランについては、もう一つの問題点がある。
 中身を見ると、啓示を語る主語の「わし」という一人称は、アッラーフを指している場合もムハンマド自身を指している場合もあって、その辺りの線引きが極めて曖昧である。うがった見方をすれば、ムハンマドの権威をアッラーフに代行させていると思われないでもない。いや、アッラーフの権威をムハンマドが奪い取っているのかも知れない・・・。その傾向は、後になるほど顕著になって来る。そして、ムスリムたちの受け止め方は、まさにこれをムハンマドの権威付けにしているのである。極めて単純だが、イスラムはムハンマドの創唱宗教であるとムスリムたちは受け止めている。外部の私たちも、そのように聞かなければならないだろう。

 さて、ハディスについてである。
 ハディスは、イスラム圏が多くの民族や国に広がって、その価値観の違いのために、コーランでは処理しきれない様々な問題に対処するために、「これはムハンマドの教えである」として何百年もかけて編纂されたもので、単純にムハンマドのイスラム創設者としての権威を認めたものである。それはコーランの「イスラム法」としての基準を満たすものであった。しかも、彼自身は記録に残さず、彼の語録であるハディスがコーランを補足するものであるが、コーランをアッラーフ最高の啓示としながら、その実、ハディスをもって、ムハンマド自身をあからさまにアッラーフの上位に置いている。これは、ムハンマドを、最後の預言者として最高権威と位置づけたことの集大成なのだろう。これが、ムハンマドの語録・ハディスを最後の聖典としたウラマー(イスラム法学者)たちの、ムハンマドを最高の権威と定めた意図だったのである。そこには、明らかにムハンマドではない、ウラマーたちの語録さえ収録されていることは、公然の秘密である。ムハンマドの権威を、彼らウラマーやカリフたちが引き継いだと言えるのではないだろうか。
 もはやそこには、アッラーフの影さえ見られない。アッラーフは、イスラムに担ぎ出された御輿に過ぎなかったのである。

 イスラムが抱える問題の第二点は、すでに、聖書やコーランやハディスといったイスラム聖典のところで触れたことであるが、教団成立後のムハンマドが、あたかもアッラーフ(イスラムの神)自身でもあるかのように、イスラム世界の全般に渡って指図していることである。
 それは、聖書に出て来る預言者像の域をはるかに超えている。
 それは、ムハンマドが自身を「最後の預言者」と宣言することで、聖書が描く神さまの前に謙遜に生きた預言者像を否定したばかりか、ムハンマドに代わる権威の出てくる一切の芽を摘み取って、ムハンマドに対するイスラム内部の批判さえ入り込む余地を無くしてしまったことである。そこでは、アッラーフとムハンマドに対するわずかな疑惑さえ、育つ隙間がないのだ。そのように独自路線を歩みながら、イスラムが中東という狭い地域から世界に飛び出し、本書の冒頭で触れたように、世界第二位の信徒数を擁する宗教帝国へと育ったのは、ある意味で意外でもある。恐らくそれは、同じイスラムということでまとめ上げた多様な民族を、一つの軍事力に集結し得たことによるのだろう。

 ともあれ、さほど時間が経たない間にイスラムは、ムハンマドの後継者を争って、スンニ派とシーア派に分かれ、「ともに天を抱かない」ほどの敵同士となってしまった。現代、イスラムを標榜する中東の国々では、小さな合意すら得られず反目し、抗争に明け暮れる地域が広がっている。そのような反目が災いしたのだろうか。隣接する欧州の発達した経済や文化から全く取り残され、後進国の悲哀を味わい、その憎しみをテロなどの暴力に訴えて、蛇蝎のように嫌われている。もっとも、心優しいイスラム世界もあるのだが、テロリズムに走るムスリムたちは、イスラムそのものを嫌う世界をせっせと増やし続けているのではないか。
 それは、近現代の自由主義神学を標榜したキリスト教の歴史が招いた混乱が、イスラムのウラマーたちに警戒心をもたらしたのかも知れない・・・
 ゾロアスター教の項で、「高い文化を誇ったこの宗教を擁したペルシャが、イスラムにその座を明け渡さなければ、現代の世界構造は大きく変わっていただろうと思うと、複雑な思いがする」と言ったが、そんな古代の歴史が、今に尾を引いていると思われてならない。


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