新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教


6、日本の仏教

 現代、日本には仏教寺院数約75000、総信徒数約8,800万人だそうだが、世界の仏教総人口が38,000万人と言われることを考えると、日本は仏教国と言えそうである。もっとも、これには神道の氏子や他宗教の信者も取り込んでいるところがあるので、額面通りには受け止めかねるところもある。最近はお寺離れも目立っているようだが、未だほとんどのお葬式には僧侶が関わっていて、世襲のためか、若い僧侶も結構育っているようである。

 日本の仏教は、もともと中国から伝来した外来宗教である。
 それが、なぜ日本各地にこれほど根付いたのか。また、日本の仏教が歩んだ独特の歴史や形態なども取り上げなければならないだろう。


(1)伝来の経緯

 日本書紀によると、日本に仏教が伝来したのは、552年に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像と経論(ブッダの教えを記した経と経の注釈書)が贈られた時とされている。
 しかし現在は、聖徳太子の伝記などから、仏教伝来は538年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したのが始まりと考える人が多数のようである。いずれにしろ、仏教伝来は飛鳥時代と考えていいだろう。
 もっとも、非公式な民間交流の中での仏教伝来は、もっと早い時期だったようではある。

 仏教伝来時のエピソードを、日本書紀から一つ紹介しよう。
 欽明天皇が仏教信仰の可否について家臣に問うた時、物部尾輿や中臣鎌子などが反対した中で、渡来派の蘇我稲目が、「西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか」と言い、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論を下げ与えたとされる。稲目は私邸を寺として仏像を拝んでいたが、疫病が流行し、「外国から来た神を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ」と人々の反感を買い、寺を焼き仏像を難波の掘に捨てたということだ。
 仏教の可否をめぐる物部氏と蘇我氏の争いは、用明天皇(?-586)の後継者をめぐる戦いで廃仏派・物部守屋が滅ぼされるまで続いた。
 この戦いに、親仏派・蘇我馬子の味方として参戦した聖徳太子は、四天王に戦勝を祈り、勝利した後、摂津国(大阪)に四天王寺を建立。さらに法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経の解説書を著し、601年には斑鳩宮を造営し、文化の向上と仏教の興隆を目指した。政治の基調に仏教を採用し、十七条憲法の第二条に、「篤く三宝(仏法僧)を敬え」と加えたことは広く知られている。

 聖徳太子が力を注いだこともあって、その頃から仏教は次第に国家鎮護の精神的支柱となり、国の主権者たる天皇家自ら寺を建てるほど重んじられるようになった。天武天皇(631-686)は大安寺を、持統天皇(686-697)は薬師寺を、そして、天皇家による仏教寺院建立のピークと思われる聖武天皇(701-756)は、国分寺や国分尼寺を、さらに大和の国分寺である東大寺に大仏を建造したが、そのような仏教信仰が高じて出家してしまう。710年に元明天皇が奈良の平城京に都を移し、奈良時代(710-794)という時代区分になっているが、その頃、仏教は日本社会に定着したと言っていいだろう。
 ところどころに年代を挿入したので、伝来(538?)から約1~2世紀かけて、外来の仏教が日本に根付いていったとお分かり頂けるだろう。


(2)初期の日本仏教

 聖武天皇が退位して出家した頃(奈良時代)、仏教優位論とでもいうべき本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が起こった。これは、仏(ブッダ)や、悟りを開く前の修行時代のブッダ、あるいは、悟りを得ていながらなお他者の救いのために修業に打ち込む者=菩薩が、人々を救うために、さまざまな神の姿を借りて現われる(権現)という教説だが、もともと大乗仏教には、ブッダが現実の世界に何らかの姿形をとって現われるという思想があって、朝廷は高度な外来文化としての仏教を重んじ、神仏同体思想を打ち出して、反発する土着宗教の信仰者を宥めようとしたと考えられている。
 もっとも、神仏習合思想としての本地垂迹説が一般に広まったのは、平安時代も中期以降のようである。室町時代に吉田神道の創設者・吉田兼倶が唱えた「仏や菩薩は日本の神々が姿を変えたものである」という新説は、神本仏迹説(逆本地垂迹説)として知られるが、そんな異説が出るほど、仏教の力が他を圧倒していたのだろう。
 しかし、仏教が盛んになると、戒律を無視する僧が増えるなど、出家者の質が低下して来る。そのことを憂慮した朝廷は、中国で名僧と声望の高い鑑真を招いた。招かれた鑑真は、律宗・天台宗を学んで世に知られた学僧である。律宗は、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、40,000人以上の人々に授戒(戒を受け、仏弟子になることを意味する)を行なったとされている。彼は五回も渡航に失敗し、ついに通風のため失明してしまうが、なおも渡航を諦めず、11年目に、ようやく日本に来たと伝えられる(奈良時代・753年)。彼は日本に骨を埋めたが、その熱意が伝わって来よう。彼は唐ですでに一流の高僧であったが、仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本の文化形成に大きな影響を与えた。

 初期日本仏教が絶頂期を迎えたのは、奈良時代である。
 この時代に仏教伝播に功績の大きかった人物として、聖徳太子と聖武天皇を挙げたが、その華やかな奈良時代の仏教宗派を一瞥してみよう。
 中国で形成された宗派だが、聖徳太子没後間もなく三論宗が、次いで法相宗が伝えられた。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が入ってきたが、三論・法相の両教学を学ぶための補助的学問宗派にすぎなかったようである。そして、奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。これらの宗派の内容については煩雑になるので説明を省くが、平安時代になって、天台、真言の二宗に対峙するように「南都六宗」と呼ばれるようになった。これらの宗派は、民衆にその教えを広めようとはせず、寺院も原則的に官立であり、国家庇護のもとで鎮護国家の祈願所としての役割を担い、仏教教理を研究するだけのものだった。すでに中国において、そのような宗派だったようである。聖武天皇が送った遣隋使たちは、一種の留学生だったのだろう。彼らは仏教というより、学問体系としての中国文化を持ち帰ったと言えるのかも知れない。
 中国留学から帰国した最澄が、南都六宗の高僧たちに天台の三大部を講じて、法華一乗思想を宣揚したが、高僧たちはその講説に反駁することができず、最澄を讃歎する旨の書状を桓武天皇に提出した。南都六宗は、すでに時代の波に取り残されていたのだろう。


(3)空海と最澄

 南都六宗は、政府の庇護のもとで「鎮護国家」という役割を与えられ、一大勢力となっていた。権力者と姻戚関係を結ぶ僧侶も続出し、次第に政治にまで口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都した(794年)と言われる。
 平安時代の始まりである。
 この時期、中国は唐代中期で安定した繁栄が続いていた。平安京政府は、何回にも分けて唐に留学生を送り出したが、中でも第16次(18次?)留学生の最澄と空海を上げなければなるまい。二人は新しい時代の日本仏教界を背負って立つ人たちであった。今に続く天台宗と真言宗の開祖である。

 最澄は十二歳で出家、十九歳で東大寺戒壇院で戒を受け、僧侶としてのエリートコースを歩んだ。四~五歳の頃、独学で文字を覚え、国分寺の行表和尚から「もう教えることがない」と言われたらしい。天才だったのだろう。ところが彼はその出世コースを捨てて比叡山に籠る。これが桓武天皇の目にとまり、三十八歳(804年)で中国に短期留学した。そして天台教学、禅、密教を学び、翌805年に帰国。帰路、神戸の和田岬に上陸して、最初の密教教化霊場・能福護国密寺(現在の能福寺)を創設した。その後比叡山で天台法華宗(短く天台宗と呼ばれることが多い)を開宗。これは法華経を根本とするもので、中国の天台宗とは異なり、密教的要素の濃い新仏教宗派であった。もっとも、彼が学んだ密教は、帰国時、出発の船の準備が整わず一ヶ月半待たねばならなかったその空白時間を利用して学んだ、いわば付け焼き刃の密教だったようである。
 天台宗は、桓武天皇の認可を得て、806年に国家開宗となる。

 しかしこの年、最澄最大の理解者だった桓武天皇が没し、この後、最澄にはつらい日々が始まった。
 唐から帰国した空海が、密教の正式な跡目として相続した数々の経典、蜜具、法具の一覧表を宮中に提出。平城天皇から替わった嵯峨天皇がそれに理解を示し、空海がもたらした密教が正式なものとして高評価を得た。密教は唐において盛んな仏教の最新版で、呪術も含まれていたため、人々の関心も高かったのだろう。
 最澄は、自分が学んだ密教が中途半端なものであると知っていたから、空海に何度も経典を借りて勉強する。しかも、空海の弟子になって学びたいと申し入れるが、空海から「あなたは『理趣釈経』を借りたいと言っているが、理趣とは何のことかご存知か。理趣に三つあり、耳で聞く理趣、これはあなたの言葉、目で聞く理趣、これはあなたの体、心で思う理趣、これはあなたの心である。あなた自身の中に理趣があるのに、どうして私に求めるのか。あなたは真理を紙の上にのみ見る人のようである。紙の上より真理はあなた自身の中にある。あなたは行を修めたのか。行を修めるより、いたずらに字面だけで密教を知ろうとすることは本末転倒もはなはだしい。」と、絶交状にも等しい手紙をもらってしまう。この後、二人は二度と会うことはなかった。最澄は天台と真言の調和を考え、空海は真言を天台や華厳の上に位置づけていたのだろう。
 821年、空海の下で修行させていた最愛の弟子泰範が最澄を裏切り、空海の弟子になって最澄の元には帰らないと宣言してきた。翌822年6月4日、最澄は五十六歳で生涯を閉じるが、最澄の死後七日目に、嵯峨天皇は比叡山で大乗戒壇を設けることを許可した。これは、天台宗が名実ともに成立した事を意味する。最澄には、没後、伝教大師の称号が贈られた。

 空海は、最澄と同年(804年)の中国留学生であった。
 空海は正規遣唐使留学僧(留学予定期間20年)として唐に渡った。
 この時期、最澄はすでに天皇の護持僧である内供奉禅師の一人に任命され、仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門でしかなかった。出家した時期は諸説があるが、入唐直前の31歳(804年)で、東大寺戒壇院で得度受戒したという説が近年有力である。
 中国に着いた空海は、長安でしばらく梵語(サンスクリット語)を習った後、留学の目的だった密教を学ぶために、青龍寺の恵果を訪ね、弟子となる。恵果は真言正統第七祖に当たる人物で、空海が気に入ったのか、短期間に金剛・胎蔵両部の大法を授け、遍照金剛の号を贈った。空海は真言第八の師位を継いだことになる。その後も多数の経典、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など、膨大な数の資料を収集し、書を学び、筆・墨の製法や土木建築のたぐいまで、精力的に先進国中国の文化を学んで帰国した。
 帰国した空海の業績を最初に評価したのは、最澄である。
 二人は新しい時代の仏教を背負う者として、十年程交流が続いた。その間、最澄は空海を密教の師として礼を尽くしていたが、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立し、806年初頭に訣別した。
 空海は書と詩文の才能に恵まれ、知的好奇心旺盛で、空海の最新の知識に興味を示した若い嵯峨天皇に巡り会い、その親密な出会いによって、816年、下賜された高野山に金剛峰寺を建立、823年には京都に東寺を建立し、その二寺をもって真言宗の根本道場とした。以後、天台密教は台密、真言密教は東密と呼ばれるようになる。真言宗を盤石なものとする基礎を据えたと言えよう。
 空海は832年には高野山に隠棲、835年六十二歳で没した。没後23年目に大僧正位が追贈され、87年目に弘法大師の諡号が贈られた。


(4)末法思想

 平安時代後期は貴族社会が解体し始めた時期だが、そこに追い打ちをかけるように、疫病や飢饉など自然災害が相次いだ。
 そんな社会的不安が引き金になってか、貴族から大衆に至るまでが末法思想の虜となって、無常観や厭世観が広まったと言われる。僧侶たちの間では、仏法が滅してしまう(末法=終末思想)時のために、経典を書写して経塚に埋めることが流行ったようだが、末法の世には国が衰え、人々の心も荒み、どんなに努力しても悟りを得る事が出来ないと、末法思想がさらに社会不安を煽ることになった。それで人々はひたすら来世の幸せを願い、阿弥陀如来にすがる浄土信仰が盛んになった。いわゆる他力本願仏教の台頭である。人々は阿弥陀如来の恵みにすがって極楽浄土に往生しようと夢見た。宇治の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)は、この時代に建てられた阿弥陀如来信仰のシンボルとして知られる。
 「阿弥陀如来」のことを説明しておこう。
 これは大乗仏教の如来の一つである。「如来」とは悟りを開いた人(ブッダ)のことで、まだ悟りに到達していない、または、他利のために修行中の菩薩とは対照的対をなしている。サンスクリット名はアミターバといい、「はかり知れない光を持つ者」の意で、西方に極楽浄土という仏国土(浄土・ブッダのいるパラダイス)を持ち、諸仏中の王と称される。浄土信仰は、阿弥陀如来信仰に由来するのである。

 日本の阿弥陀如来にすがる浄土信仰は、最後の遣唐使・天台宗の円仁が帰朝して念仏を比叡山に伝え、常行三昧堂を建てたのが起源と言われているが、その修行は、九十日間休みなく称名念仏を唱え、阿弥陀如来を思い念じるというものであった。
 インドに始まった仏教本来の在り方は自力本願を旨とするものであったが、中国で(?)なのか、仏教が他宗教(恐らくキリスト教)と接触して誕生した浄土思想は、ごく自然に、阿弥陀如来(という神)への信仰による往生、つまり、他力本願に移行して行った。
 難しい修業ではない。ひたすら念仏を唱えるだけでいいのだ。
 この「阿弥陀如来信仰」(と言っていいと思う)は、平安時代には、後の鎌倉仏教に見られるような「専修念仏」的なものはまだ見られない。しかし、法然や親鸞といった浄土信仰の巨人のために道を切り開く時代だったのだろう。

 この時代に、阿弥陀如来信仰と念仏の普及に尽力した人に、空也と源信がいる。
 空也は諸国を遊行しながら精力的に民間布教を行い、庶民の願いや悩みを聞き、社会事業にも従事しながら阿弥陀如来信仰と念仏を伝えた。また、源信が著した『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的方法を論じ、念仏思想の基礎とも言える非常に分かりやすい実践的なもので、広く庶民にも読まれていた。こうして日本の仏教は、国家管理の旧仏教から、市井の人々の救済を主目的とする大衆仏教へと変わっていった。


(5)鎌倉仏教

 武家政権の鎌倉時代は、日本史上、仏教が最も繁栄した時代と言えよう。それまで国家や貴族による研究のためのものだった仏教が、民衆のためのものとなった。主として叡山で学んだ僧侶によって、新しい宗派が作られたが、特に、平安時代に流行した浄土信仰が主流となっていく。

 その新しい宗派をいくつか上げてみよう。
禅宗:鎌倉時代に成立した特徴ある仏教宗派の一つに、禅宗がある。
 禅は、もともとブッダが菩提樹の下で座禅を組んで悟りを開いたところから、原始仏教では基本的修業の形と受け止められていた。それが、中国仏教の中でいくつもの宗派になっていったが、主なものに臨済宗と曹洞宗がある。
 栄西によって伝えられた臨済宗は、文字によらず(不立文字)、禅問答など師の心から弟子の心へと伝達される悟り(教外別伝)を修行の中心にしている。武士階級に好まれ、水墨画、能、茶道など中世の文化に大きな影響を与えた。建仁寺、南禅寺、天龍寺、大徳寺、建長寺、円覚寺、相国寺などが臨済宗各宗派の本山として知られている。
 その栄西に師事して禅を学び始めた人々の中に、日本曹洞宗の開祖・道元がいた。やがて彼は宋に渡って曹洞禅印可を受け、帰朝後、越前に永平寺を開いて弟子の育成に尽力した。曹洞宗はただ座禅だけを重んじ、民衆への広がりには無頓着だった。座禅はブッダの活現に他ならない。だが、その門下の瑩山紹瑾が禅を大衆化し、大教団となる基礎を築いた。現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖としている。
 日蓮宗:鎌倉仏教の中では、抜きん出て特殊な宗派であろう。
 これは、比叡山に入山した日蓮が、三十二歳の時に立宗宣言をした宗派で、彼岸のことより此岸のこと、特に政治に並々ならぬ関心を持つ宗派として知られる。日蓮自身、有名な「立正安国論」を世に出している。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が念仏・禅・真言・律などを怠っていることにあると他宗派を非難し、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説いている。
 痛烈な政府非難をメインとする辻説法、折伏と呼ばれる布教活動などは、極めて戦闘的な姿勢を貫き、その過激な言動から、しばしば政府当局から迫害され、伊豆や佐渡などに流罪されたり、念仏派の人たちから襲撃されたりしたが、その強烈な人格に共鳴する人も多く、次第に入門する人たちが増えていった。
 彼は比叡山で天台宗の基本経典である法華経に出会い、これこそ最高の経典であるとして、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える日蓮宗を開宗したが、大声でお題目を唱え、また、誰彼なく折伏(伝道)することは、日蓮在世当時、社会問題になったようである。それはその後の日蓮系宗派の大きな特徴となっている。
 現在、日蓮正宗とされる身延山久遠寺を総本山とする連合宗派は直系信徒330万人を擁し、その系統には新興宗教である創価学会、立正佼成会、霊友会、佛所護念教団等があり、総計400万世帯前後の信徒がいると言われているが、これらはまさしく、カルト宗教集団のはしりと見ていいのではないか。
 浄土宗:開祖・法然は比叡山の学僧であったが、四十三歳(1175年)の時、善導の「観経疏」によって専修念仏に進み、比叡山を下りて、念仏の教えを弘め始めた。この1175年が浄土宗開宗の年とされている。専修念仏とは、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることで、貴賎、男女を問わず、極楽浄土へ往生することが出来るというものである。
 浄土真宗:開祖・親鸞も比叡山にいたが、二十九才の時に法然に弟子入りし、「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)という悪人正機の教えを説いて、念仏の教えをさらに徹底させた。また、戒律は重要視せず、親鸞自身も肉食・妻帯していた。彼自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、高めていくことに力を注ぎ、自ら別の宗派を立てるつもりはなかったようである。ただ、各地でつつましい念仏道場を設けて教えを広めていたが、やがてそれが親鸞の念仏集団となり、その隆盛が既成の仏教教団や浄土宗他派から攻撃を受けることになり、宗派として教義の相違も明確になって、親鸞亡き後、一宗派として確立された。
 時宗:この時代に花開いた浄土信仰の宗派には遊行上人や、踊り念仏で知られる一遍上人を開祖とする「時宗」がある。これは、「仏の本願力は絶対的なものであるから、信じない者でも念仏さえ唱えれば往生出来る」というもので、浄土宗や浄土真宗より、一層一般民衆の心に響いていったようだ。法然の専修念仏という考えをさらに押し進めたと言えよう。

 旧来の仏教(原始仏教、部派仏教)は、戒律を重んじて解脱に至る、自力本願であると言われている。もともと仏教は、それが当然のスタイルで、厳しい修業を経てブッダが辿り着いたのも、そのところだった。だが、他者を利する大乗仏教の世界を見つめ始めると、自力で辿り着けるところは小さなものに過ぎないというスタンスに変わり、浄土信仰が仏の恵みによって往生するという他力本願に立ったのは、仏教が辿る必然的道筋であったと言えよう。

 他力本願のサンプルとも見えるキリスト教プロテスタントの信仰が、西欧で構築され始めたのは1517年、マルティン・ルターが世に出した「95箇条の提題」に始まる宗教改革であるが、そこに至る重大な道筋の一つに十字軍の遠征がある。実はこれが、法然による浄土宗開宗に重なるのである。歴史に興味を持つ人なら、十字軍の失敗が中世終焉の引き金になったことはご存じであろう。もちろん、法然がそれを知っていたわけではなく、日本と西欧に何らかの接触があったわけでもないが、歴史は皮肉にも、西と東に遠く離れたところで、歴史を動かす力を、静かにスタートさせていたのである。
 まるで、神さまが歴史を動かすのだと言わんばかりに。
 しかし、仏教は、本願という恵みを与える神的存在・仏を、実体のない曖昧な存在とし、時代と人間の都合によって様々に変化させていった。その人間というところで、浄土信仰各宗派がカルト宗教的になってしまったのではないかと思われる。特に、時宗の踊り念仏になると、いかにも「神懸かり状態」で、エクスタシーの境地と感じられる。それを救いと受け止めるなら、私たちのイエスさまを信じる信仰にも、同じようなことが起こり得るのではないか。自戒しなければならない。私たちにとってイエスさまがどのようなお方なのか、聖書からしっかりと聞いておく必要がある。私たちのイエスさまを信じる信仰は、エクスタシーではないのだから。


(6)南北朝・室町時代の仏教

 1333年、鎌倉幕府滅亡後、次期政権である南北朝・室町時代に、政治の中心地は京都に移った。
 この時代は、武家と仏教(特に禅宗)が非常に接近した時代と言えよう。曹洞宗は地方や庶民の間に広まったが、臨済宗は幕府に保護されていた。建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の鎌倉五山は、南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺といった京都五山にその場を譲り、北山文化(足利義満の金閣寺など)や東山文化(足利義政の銀閣寺など)が華やかに花開いた。また、禅宗の影響を受けた水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る優れた多くの作品が生まれたのも、この時代の仏教文化の特徴である。
 だが、朝廷を中心とした貴族が力を失い、台頭した武家文化が貴族に取って代わるにはまだ日が浅く、政治的にも文化的にも過度期であった。そのような時代には、しばしば混乱が起きる。京都の北朝と吉野の南朝が対立し、その動乱が拡大し長期化していったこともそうだろう。そのおよそ60年にも及ぶ動乱に終止符を打ったのは、室町幕府三代目の将軍・足利義満であるが、その頃から有力大名が乱立し、戦国時代へと突入していった。
 そして、仏教界にも混乱が起こった。

 禅宗以外の宗派では、日蓮宗が京都の商工業者間に普及した。宗祖・日蓮の強烈な辻説法が世相を不安に陥れたことは、前項で述べた通りである。後述する一向一揆とともに、仏教教団が政治に介入する先駆者となった。
 だがこの時代、特に、浄土真宗の蓮如が叡山などの妨害を乗り越えて作り上げた、本願寺教団を取り上げなければなるまい。
 本願寺教団は、門徒と呼ばれる強大な信徒集団を獲得し、応仁の乱以後、守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵するほどの存在となった。それは、踊り念仏を真骨頂とするカルト教団にも似た一向宗や時宗とも混同されたが、混乱する時流に乗って行った。彼らは信仰の名のもとに一致団結して旧来の守護大名勢力を逼迫し、指導者たちの中に武士がいても、根本的にこの集団の中心となったのは貧しい百姓や民衆であった。彼らは、宗教に名を借りて、自らの主張を押し通そうとしたのだろう。
 中でも、加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆が有名で、彼らは、数々の守護大名に圧力をかけて自治権(主に徴税権と裁判権)の拡大を目指した。そのため、支配権を拡げようとする戦国大名は、これら新しい勢力と妥協するか否かの選択を迫られて、その多くが妥協の道をとり、彼らを自分たちの権力拡大に利用したようである。
 こう見ると、仏教教団なのか政治集団なのか判らなくなってくる。
 いづれの時代いづれの国にも、宗教教団が大きな集団になると、時の権力と結びついて権力闘争に巻き込まれてしまう傾向があるが、日本の仏教史の中でも、室町時代は特にそういった傾向が強いように感じられる。


(7)戦国時代の仏教

 日本史の時代区分の中で、室町時代中期の明応の政変(1493)から室町幕府崩壊(1573)までは、戦国時代と呼ばれる。この約80年間は、幕府が力を失い、地方の武将たちが領地拡大に走り、下克上が頻繁に行われた時代だった。前項で触れた一向一揆も、多くはこの時代に頻発したようである。
 多くの戦国大名たちは一向宗と手を結んだが、天下人を目指して急成長した織田信長や後継者の豊臣秀吉などはこれを徹底的に弾圧し、伊勢長島の願証寺などは、信長の大虐殺を受けて壊滅した。諸国の一向門徒の総本山であった石山本願寺は、さながら戦国大名のような強固な組織を誇っていたが、顕如の時代に信長と対立、休戦を挟んで前後十年に及ぶ石山合戦を経て、石山から退去した。信長の死後、秀吉がここに大坂城を築いている。
 石山本願寺が落とされて以降、一向一揆は沈静化に向かい、浄土真宗は次第に力を失っていった。また、顕如の子の代に本願寺教団は兄・教如と弟・准如が東西本願寺派に分裂したが、これは、徳川家康が本願寺勢力の再起を嫌って、故意に分裂させたのではないかと言われている。また、信長は比叡山を焼き討ちするなど、仏教寺院の勢力とその要塞化を徹底して排除した。

安土・桃山時代:この時代は戦国時代に包括していいだろう。
 豊臣秀吉は僧兵の排除に努めたが、基本的には寺院勢力との仲を良いものにしようとしていた。中でも寺院の破壊が激しかった大和には弟秀長を派遣し、寺院との関係修復を図っている。これは、その勢力を恐れたからではなく、恐らく、手なずけることで不要の摩擦を避けたいという意図があったと思われる。
 そして、仏教各宗派は、秀吉の意図通りに骨抜きにされていった。

 少し時代はさかのぼるが、室町時代後期(1549)にフランシスコ・ザビエルが来日、キリシタンが伝来して来た。世的権力に翻弄されて衰弱していた仏教は、そんな新しい教えに対抗する手段を持たず、一層形骸化して、新しい時代(江戸時代)に生き延びる道を模索することになる。


(8)江戸時代の仏教

 家康は熱心な浄土真宗信徒として知られている。
 しかし、本願寺の勢力が増大し過ぎないように東西二分割を図り、キリスト教に接近して仏教寺院勢力を牽制するなど、江戸幕府創設当初には、仏教には少々逆風気味流れで推移していたが、それも束の間のことで、岡本大八事件(キリシタンが絡んだ贈賄事件)を期にキリシタン禁教令(1614)を発布し、仏教寺院を軸とする宗教政策へと転換していった。仏教教団が信長や秀吉によって骨抜きにされていたことから、むしろ、仏教教団を利用することで、政権にとっては危険なキリシタンを取り除いたほうが得策と考えたのだろう。キリシタンたちは、現政権が目指す社会制度より、神が待ち受けるハライソ(天国)を信じていた。彼らは、将軍よりも神さまのほうがずっと自分たちを幸せにしてくれるとして、神さまを選んだ。だから彼らは、その神さまを否定するより、死を選んだ。彼らの信仰を「危険」と見たのは、そのためである。
 キリシタン撲滅を目指して幕府が考えた寺院活用政策は、檀家制度を設けることであった。人々は必ずどこかの寺院に登録、所属するという制度で、寺院が発行する証明書がなければ市民生活はできない。発行を拒否されることは、社会的抹殺を意味していた。この制度はキリシタンを意識してか、非常に細かな規定を伴っていたようである。
 その一つに、仏教寺院による全国民の死の管理がある。僧侶には、檀徒の死を見届け、檀徒に間違いないと確認することが義務づけられていた。それは、葬儀の際に所属する寺院の指図を受け、必ず僧侶を呼んで葬儀を取り仕切ってもらわなければならないことを意味する。僧侶を呼ばなければ、キリシタンの疑いをかけられ、極刑に処される恐れすらあった。現代の日本仏教が、仏教本来の求道心を失い葬儀宗教になっていったのは、ここから始まると言っていいだろう。この死の管理は、「過去帳」とともに、生存する全市民の動向や人口をも把握していた。
 また江戸幕府は、仏教寺院の各派が他派を誹謗したり、法論を仕掛けてその檀徒を自派に引き入れることを厳しく禁止した。現代でも、中国などが取り入れている宗教政策に、そのような傾向が見られる。
 そのため、布教の道を閉ざされた仏教各派は、信徒をつなぎとめ寺院を維持するために、葬儀の執行、年忌法要と塔婆供養の奨励、盆と彼岸の墓参りの徹底などを行うようになった。もともとそのような人の死に関わる行事はインド仏教にはなく、中国で誕生したもので、その傾向を一層拡大したのがこの時代の日本仏教の特徴と言えよう。そして僧侶は、法要のたびに信徒から多大な謝礼を受け、裕福になっていった。いつしか貧しい民家をしり目に豪華広壮な寺院が新しい貴族階級の館として立ち並ぶようになった。つまり、為政者たちは、仏教寺院を味方に、民衆から搾り取るシステム作りに成功したのである。

 幕府のキリシタン禁教政策が仏教を利用することで、全国民が檀家という仏教徒にされたのだが、その制度は寺院・僧侶の貴族化となり、民衆の反発を買うことになった。江戸時代の著しい特徴である神仏混合や、明治以後に起こった廃仏毀釈は、確かに政府主導であったが、その兆しは、民衆から分離した江戸仏教内部に原因があったと見ていいだろう。
 江戸時代の仏教は、民衆とともに苦しみうめきながら、彼らのいのちに配慮する、宗教本来の使命を放棄してしまったと言わざるを得ない。その主たる原因には、仏教寺院が広大な土地と豪華な建物に象徴される、「富」を手に入れたことが挙げられる。僧侶たちは、宗教者というより寺院や教団の経営者となり、幕政に参与した天海や崇伝や隆光などのように、世的権威を目指す者まで出現した。彼らはその権威を示すためか、絢爛たる袈裟や僧衣をまとって民衆の前に出てきたのである。

 そんな仏教界の風潮が現代にまで続いている。こけおどしに過ぎないとは思うが、そんな猿芝居じみた僧侶たちばかりではなく、良寛和尚や沢庵禅師など、民衆とともに歩んだ優れた人たちも出ている。しかし、そういった人たちは全体の中の一握りで、仏教衰退の流れに歯止めをかけることは出来なかった。
 日本人の神なしとする宗教意識に、根本的に問題があるのかも知れない。


(9)明治以降の仏教

 明治時代を担う政権は、旧長州藩出身者を中心に形成された。
 明治政府が採った宗教政策は、欧米への対抗意識からか、神道を中心に据える国家主義が見え隠れする。
 その結果、神道を除く諸宗教は、厳しい規制を受けることになった。
 特に、キリスト教には厳しい警戒の目を光らせていた。江戸幕府のキリシタン禁教令は継続していたし、その延長の陰で、欧米から開国を期待しながらやって来たプロテスタントの宣教師たちも、明治六年二月に禁教令が撤廃されるまで、囲われた外国人区域から一歩も出ることが出来ず、日本国内での宣教活動の自由化を待ち続けていた。
 明治政府の締め付けは、仏教も例外ではなかった。
 特に仏教寺院は広大な土地を有し、僧侶たちは貴族化していたから、明治政府が出した「神仏分離令」の通達が拡大解釈されて、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が著しく減少していった。また、明治四年に、明治政府は太政官達を出し、虚無僧が在籍する普化宗を廃止するなど、仏教宗派への締め付けが厳しく、各宗派はやむなく、近代化や合理化を推し進めなければ生き残れないと判断したようである。宗門大学設立等の教育活動や、社会福祉活動に進出するなど、溜め込んでいた豊富な資金をさまざまな分野に注ぎ込み始めた。しかし、廃仏毀釈の後遺症は大きく、廃寺となる寺院が続出する。政府はそれを国家財産へ組み入れたかったのかも知れない。

 日本の近代化を目指して樹立された明治政府は、江戸末期から明治にかけて、太政官布達や神仏判然令もしくは神仏分離令といった断片的法令を出しながら、宗教管理を行なってきたが、昭和十四年に〈宗教団体法〉が最初の統一法案として上程され、国家神道体制が確立していった。これによって神社は、非宗教とされて国家の手厚い保護を受けることになるが、逆に、他の宗教団体は新たに法人になったにもかかわらず、国家の厳しい監督・統制を受けることになった。
 この宗教団体法は、第二次大戦後、昭和二十年「宗教法人令」が制定・施行されることで解消され、神社が一宗教法人へと転落すると同時に、神社以外の宗教団体への規制が撤廃された。しかし、今の新しい「宗教法人法」(昭和26年発布施行、同時に古い「宗教法人令」は廃止)は、申請に基づく認証制となって、仏教教団も一律に「一個の宗教法人」へと横並びにされたから、仏教寺院のかつての特権は完全に消滅したと言えよう。
 ただ、取得していた広大な敷地や建造物の大半はそのまま引き継がれたから、日本の諸宗教の中で仏教は、神社とともに、依然として大きな地位を保つことになった。


7、仏教系新興宗教

(1)創価学会

 仏教系新興宗教として物議を醸し出して来たものでまず第一に挙げられるのは、世帯数821万世帯、学会員数約1000万人と言われる創価学会だろう。実数は400万人強と推察されるが、それにしても、既成の新興宗教団体としては群を抜く会員数である。
 昭和十二年に、日蓮正宗から枝分かれした「創価教育学会」として発足(初代会長牧口常三郎)、第二代会長の戸田城聖が創価学会と改名。第三代会長の池田大作は、創価学会の世界規模団体として、創価学会インタナショナルを発足させた。
 現在190ヶ国に広がっているそうである。
 他の宗教や宗派は全て邪教であるという、日蓮正宗系に共通する日蓮原理主義に基づき、排他的で非常に攻撃的な思想をその旨としているが、伝道活動を折伏と呼び、人の迷惑などお構いなしに折伏して回る。日蓮がそうであったように、政治に異常なほどの関心を示し、学会を母胎とする政党の公明党を応援するために、選挙時になるとなりふり構わず支持依頼に走り回る。そういった活動のすべてを現名誉会長池田大作のためにという、奇妙に屈折した信仰がこの教団を支えている。


(2)立正交成会

 これは、信者世帯数175万を擁する、仏教系新興宗教第二位を占める法華宗系教団である。霊友会の副支部長だった庭野日敬(開祖)が、法華経の教えを受けた支部長・新井助信の勧めもあって、同信の友、長沼妙佼の協力のもとで、昭和十三年に霊友会分派「大日本立正交成会」(現在「立正交成会」)を創立した。
 創立当初、信者の現実的人生苦を根本的に解決する教団を目指していたが、やがて他宗派や他教団に接近し、日蓮宗や神社本庁、天台宗、妙智会教団、PL教団などと交流するようになり、世界宗教者平和会議や新日本宗教団体連合会を通して、「宗教対話」に意欲を示している。庭野がバチカンにローマ法王を表敬訪問したこともその現われだろう。
 また近年は、「心田を耕す」を教団目標に掲げ、「一食(いちじき)を捧げる運動」や「アフリカへ毛布をおくる運動」、「ユニセフ街頭募金」「軍縮や核兵器の廃絶運動」など、他宗教教団との協力を基盤とした、世界平和への活動を次々と展開しているようである。それは、宗教色を和らげようとする意識より、宗教教団であることに対する自信の喪失によるではないか。
 そういった脱宗教化は、新興教団に広がっているように見える。現代、宗教は曲がり角を迎えているのかも知れない。


8、仏教総括

 仏教を大まかに見渡して来たが、素人ではあるし、それほど沢山の資料や文献を読み抜いたという訳でもなく、足りないところばかりだが、最初に仏教の中心に踏み込んでみたいと思ったところは、少ないなりに果たしたのではないかと思う。これは、興味ある方たちが修正し、つけ加え、構成し直していくための、たたき台と思って頂けるなら幸いである。

 最後に、仏教が現代に遺したものが何であったかを、考えてみたい。そして、仏教が未来社会にどのような役割を担おうとしているのか、仏教自体が意図していなかったとしても、何らかの役割があるのではないかと期待しつつ、その辺りのことを覗いてみたいと思う。

 何度も読み返しながら、重要と思われるところをピックアップしてみた。
 第一は、悟りを開いたゴータマ・ブッダが人々に提供した、教えからである。
 ブッダが人々に最初から教えたことは、「法」という人々の目指すべき真理の道であった。それは、人々に欲望や執着心を自制するように取り上げた四聖諦や八正道などに見られるものであるが、そこには、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」とか、「頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、道の人ではない。」「この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ托鉢僧と呼ばれる。」などと平易なことばで伝えられている。
 こう見て来ると、仰々しく四聖諦とか八正道などと言わなくても、ごく普通の感覚で人間として当たり前であると聞こえるのだが、それをわざわざ「教え」などと言ったのは、インドの宗教界という社会を司っていたヒンドゥー教が常識離れしていたからなのだろう。その意味では、ゴータマ・ブッダが当然の社会常識を取り戻したと言えるのかも知れない。そして、そのことをさも大切な教えのように、「真理の道」と位置づけた仏教各宗派もまた、人のあるべき姿を欠いていたのではないか。後代(現代)の諸宗派が、仏教哲学などに走ってしまったのもおかしなことである。現代日本の仏教が葬式仏教に走ってしまったのも、それなりに原因はあるのだが、仏教内部には、人々に語り掛ける中身が乏しかったのではないか。いや、その中身を煮詰める方向が違っていたのではないかと思われる。

 二番目は、部派仏教の自利に対抗するように、「他利」を求めて、大乗仏教が台頭したことである。
 そもそも仏教は、ゴータマ・シッダールタが欲望と執着心を捨てたいと願って、一切のまとわりつく栄華を振り払って辿り着いた悟りであり、人の目指し得る真理の道であった。それは、あくまでも自利の道であったが、他の人たちにもその輝くばかりの道を示したいと願ったところから、多くの信徒を得て、多数の宗派が誕生するまでに膨らんだのである。他利の道を志し、大乗仏教が台頭したことは自然の流れであったと言えよう。その歩みは、必然的に、浄土宗や浄土真宗の「他力本願」に達する。その「他力本願」の真髄を端的に著したものに、浄土宗宗祖・法然(源空)が遺した「一枚起請文」がある。短いものなのでその全文を紹介しよう。
 「もろこし我朝(わがちょう)にもろもろの智者たちのさたし申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。唯往生ごくらくのためには南無阿弥陀仏と申てうたがひなく往生するぞとおもひとりて申外には別のしさい候はず。ただし、三心四修(さんじんししゅ)と申事の候はみな決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふううちにこもり候なり。此ほかにおくふかきことを存ぜば二尊のあはれみにはづれ本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人はたとひ一代の法をよくよく学すとも一文不知の愚鈍の身になして尼入道の無知のともがらに同して智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし。為証以両手印(しょうのためにりょうしゅいんをもってす)。浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)此一紙に至極(しごく)せり。源空が所存此ほかに全く別義を存ぜず。滅後の邪気をふせがんがために所存をしるし畢(おわんぬ)。建暦二年正月二十三日 源空」
 この他力本願は、親鸞の弟子が著した「歎異抄」によりさらに煮詰められた。
 いづれも、「往生する」という本願が、自己の修業では行き着かず、他者(恐らく絶対他者)への信仰によって実現するのだという確信に満ちているのだが、それが「ただ念仏申さば往生すべし」とする単純な帰依(信仰)に結実するのである。それは仏教本来の教えにはないもので、どこかで絶対他者信仰を持つ宗教(恐らく東方キリスト教)との接触があってのことと推察される。それは、貧しく非力な庶民たちにとって、この上ない福音に聞こえたのであろう。

 第三に、仏教は、いづれの宗派も他宗派や他宗教教団の教理や儀礼方式や、しかも、本来はいなかった筈の「神や神々」まで、なにもかも受け入れ、シンクレティズムに陥ってしまったことである。
 特に近代日本では、神仏習合の歴史もあって、神道が培って来た原始宗教的な「精霊」という部分を受け入れ、それが中国経由の密儀仏教の「密儀」部分に結実したのだが、神秘主義思想は、どの宗教でも併せ持つとはいえ、本来「法」という欲望や執着心からの脱却を目指す修業に合理的、理論的だった仏教が、非常に曖昧模糊とした人間の部分を、精霊という神や神々と結びつけ、それに「ホトケ」という名をかぶせて、わけの判らない宗教に変身してしまったことである。
 それは、神仏習合という歴史的通過点を持つ近代日本だけでなく、キリスト教を中心とする欧米やイスラム世界にすら見られる現象なのだが・・・
 これは仏教の巾の広さであると、聞き方によっては優れた点に数えられるのだが、それはあくまで変身してしまった仏教側の言い訳に過ぎず、古くから諸宗教が繰り返して来たシンクレティズムなのである。

 しかも現代、雨後の筍のように誕生して来たカルト宗教のこともあって、諸宗教乱立気味の時代でもあるが、乱立する諸宗教が仲良く手を取り合って・・・などと、「世界平和」を語り合っている。仏教教団は、宗派を問わず、その中心メンバーになってしまった。もちろん、僧侶や牧師など個々人の関心もあってのことだが、教団ぐるみでその仲間に加わるなど、一人前の宗教として市民権を得たと錯覚しているのではないか。
 だが、仏教にとって、シンクレティズムに走るより、単純なブッダの教えに立つほうが、遥かに現代社会に寄与出来ると思うのだが・・・


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