新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教

1、ヒンドゥー教

(1)インド人の宗教

 ヒンドゥーとは、ペルシャ語でインド人を意味する。
 だから、ヒンドゥー教はインド人の宗教ということなのだが、それは、イスラムが入って来た13世紀以降に定着した呼び名のようである。
 それまでは、ことさら呼び名は必要でなかった。
 そこには開祖もおらず、ヒンドゥー教団という組織もまた共通の統一教典もなく、ただ自然発生したさまざまな忌避事項がともなっている。神々は無数、太陽や雷などの自然現象、蛇や牡牛、猿などの動物、年月を経た樹木なども神々の中に数えられ、原始宗教の汎神論的傾向さえ示している。そんな神々が村落や部落ごとに祭られていて、この宗教がインド人の生活の中から自然発生したものであることを窺わせてくれる。
 これは、ヒンドゥー教徒の子どもとして生まれた者だけが信徒という、インド特有の宗教なのである。
 そのように聞くと、現代のヒンドゥー教がいかにも原始宗教の延長上にあるという印象を受けるが、その通り、ヒンドゥー教は世界中の多くの民族が持つ精霊信仰と似通っていて、その原始的宗教といった部分は、インド人の生活の貧しさまで匂わせる泥臭さを感じさせる。同時に、極めて抽象的な形而上学的教義をひねくり回している部分もあって、そのため、祭司集団が存在する。
 そんな様相は、この宗教がいかに幅の広いものであるかを物語っている。
 仏教が成立するはるか以前に、中央アジヤで遊牧の暮らしをしていたアーリア人が、突如、移動を始めた。一部は西に移動して、古代イランの北東部高原に定着し、彼らがその地で生み出したものは、文化の香り高いゾロアスター教である。それはやがてペルシャ帝国の国教となり、大いに栄えた。だが、一部は南下してインドに入り、そこにあったシャーマニズム的原始宗教に大きな影響を与えた。ヒンドゥー教内にある高度な宗教思想は、彼らによってもたらされたものかも知れない。

 インドに誕生した仏教は消長を繰り返した後、13世紀にインドから消滅したが、よく観察すると、消滅したのではなく、ヒンドゥー教に吸収されてしまったようである。それは、カトリックやイスラムなどいくつかの例外を除いて、インド宗教全般に見られるようである。いや、カトリックやイスラムさえ吸収されずに残ってはいるが、無傷とは言い難く、ヒンドゥー教のファジーな部分をかなり取り入れながら、インドという風土に定着したようである。
 宗教というものは、シンクレティズム(宗教混合)的要素を宿命的に持っているのだろうか。ヒンドゥー教は、そんなことを感じさせてくれる宗教である。。


(2)カースト制度の中で

 インド社会の中で最も有名なのは、カースト制度と思われる。
 これはヒンドゥー教から生まれたインド特有の階層制度だが、一般的に知られるバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの四つだけではなく、一つの村だけでも十~三十ほど見られ、ある言語地域(インドは単一言語社会ではない)では、数百というカーストが見られるようだ。もちろん、他地域と重なるものや、インド社会全体に共通のものもあるが、また、地域特有のカーストもあって、全体では無数のカーストが存在していると言っていいだろう。
 原則として、カーストに上下の区別はないと言われているが、カースト最大の特徴として、一つのカーストは他のカーストとは厳然と区別されていて、他のカースト成員と結婚することはできず、その構成員は世襲制で、生まれた時から死ぬまで変わることはない。それは厳然たる上下の区別ではないのか。

 インド社会が固守して来た三層の階層秩序に触れておこう。
 上層は僧階級バラモンで、村の土地を多く所有し、農業や軍事を伝統的職業とし、村の政治と経済を支配して来た。中層は商人や陶工、大工、鍛冶工、理髪師といった職人カーストで、最下層のカーストは、皮製品を作ったり、掃除や見張りなど雑役に従事してきたハリジャンというカーストである。
 上級カーストは、インド総人口の15%を占める最下層カースト・ハリジャンを、自分たちの特権を保持するために、不可触賎民として社会的制約を定めていた。
 たとえば、彼らの居住地区は定められ、上層カーストの者が詣でる寺院には出入りできず、その井戸も使えない。川での洗濯や水浴も他のカーストの人たちよりも下手で・・・といった具合である。見るだけでも汚れるとして、昼間人目につくところに出ることも禁止されていたようだ。

 なぜハリジャンがそのカーストに甘んじていたかと言うと、彼ら自身がヒンドゥー教の根本的輪廻転生の教えを信じていたからである。
 輪廻転生は、元来、無神論的なものであって、神々の入る余地はない。インド人が輪廻転生に生きているなら、彼らには貧困や苦悩のために祈り頼る宗教生活は存在しないと言っていい。が、インドにはたくさんの神々がいる。彼らはヒンドゥー教徒として、それらの神々に、素朴な信仰を捧げる。ところが不思議なことに、カーストのことになると、神々の手は及ばなくなる。神々が彼らを上のカーストに引き上げてくれることはない。

 彼らは生まれ変わる時にはもっと上位のカーストにと、ひたすら善行を積む。そうやって上層のカーストに解脱していくのである。それがヒンドゥー教でいう《救い》である。彼らが托鉢僧に布施を差し出すのも、その善行に他ならない。だいたい托鉢僧はハリジャン出身者が多い。出家するのは極めて重要な善行であり、彼らへの布施行為は修行への一般参加なのだろう。
 しかし恐らく、その死と生を永遠に繰り返しても、希望する目的のカーストに到達することはない。


(3)神々への信仰が

 しかし実際には、各地に多くの寺院があり、家々では神々への祭祀が行われ、神々への畏敬を込めて繰り広げられる聖地への巡礼・・・と、まるで、ヒンドゥー教には全く異なるいくつもの宗教が同居しているかのようである。
 ヒンドゥー教は、そのようないくつもの異質な信仰の混合の上に成立してきたものなのだろう。
 神々への祭祀が成立した理由は、女神に見ることが出来る。
 多くの女神はその豊満な乳房を強調しているが、それは豊穣の神々だからだろう。つまり、神々への信仰は、現世の利益を求めるものなのである。どこそこの神はご利益があるとなれば、付近の村々にその神の祭祀が広がっていく。まるで、「貧しさや苦悩のために祈り頼る宗教生活はない」どころか、他の宗教にまさって、病気平癒や豊年満作を祈る神々への信仰が、際限なく広がっているのである。
 一方に永遠に繰り返される生と死のせめぎ合いがあり、そこに深化されていくヒンドゥー哲学がある。そして一方には、原始的汎神論から生まれたご利益信仰が・・・。
 ヒンドゥー教に正統異端の概念はない。何もかも包み込んでしまう包容力は、そんなところから生まれてきたのだろう。
 仏教がその伝統を多く引き継いだ。
 仏教の至高者たちである仏さまは、神々の装いをも有しているのである。


2、仏教の発生と拡散

(1)起源

 紀元前六世紀ころ、インド北端に近いヒマラヤ山麓を拠点とした小さな部族国家・釈迦族に、マーヤを母として王子ゴータマ・シッダールタが誕生した。彼は感受性が強く、多感な青年時代を王子として過ごした後、父王や妻子を捨て、王位継承権を弟ナンダに移譲して出家した。

 出家とはインド古来のヒンドゥー教の修業者になること指す。
 先に述べたように、ヒンドゥー教にはカースト制があり、そのカースト制のもとで、貧しい人たちはどんなに努力しても、その貧しいカーストから抜け出すことはできない。
 ゴータマ・シッダールタは、そんな人々の苦しみを自分の苦しみとしたのであろうか。
 釈迦族の王子たる身分を捨てて出家した、彼の軌跡を辿ってみよう。
 夜半、愛馬カンタカに乗って宮殿を抜け出したゴータマは、頭髪を剃り、修行僧となってガンジス川近くのマガダ王国でヨーガを学んだ。上達が早く教師の誘いを受けたが、そこに解脱の希望を見出すことが出来ず、西のナイランジャナー河のほとりで苦行を始めた。一心不乱に苦行に打ち込んだ彼は、やせ細って死に直面する。が、それでも解脱することは出来なかった。
 解脱とは、悩みや迷いなどあらゆる煩悩の束縛から解き放たれ、自由の境地に到達することで、「悟り」とも言われる。

 修業の壁に突き当たったゴータマのところに、一人の村娘が一椀の乳粥を持って来た。日に日にやせ細って行くゴータマを見て、心配したのであろうか。河で身を清め、その椀を受けた彼は、河のほとりにあった菩提樹の木の下で坐禅を組み、ついに解脱に到達し、ブッダを名乗ったと伝えられる。
 ブッダ(仏陀)とは、「真理、本質、実相を悟った人」の意味である。
 彼が苦行を放棄して村娘の差し出した乳粥を受け取った時、それを堕落であるとして、彼を仲間に迎えることを拒否した五人の修行者たちがいた。
 悟りを得たゴータマは彼らのところに近づいて行った。
 「修行者たちよ。聞け。私は不死を悟ったのだ。それを教えてあげよう。」
 不死とは、解脱のことである。人の道の真理を見通す「法」のことで、たとえ肉体は滅びても、その魂は永遠に生きるという悟りのことである。
 初めは彼の申し出を拒否していた五人の修行者たちも、彼が「教えてあげよう」と何度も繰り返すので、彼の言葉に耳を傾け始めた。
 彼は、愛欲におぼれた王子時代の経験と、また、苦行の時代に死と向き合うところまで突っ走った経験を、二つの極端の道であるとして排斥し、到達した解脱の道、中庸の道を説いた。
 「これはわれわれの心の眼を開き、われわれの知恵を進めて、心の平静と完全な悟りの境地に到達させるのだ」と。

 これは当時、巷に溢れていた修業者たちが、在家信者だった時に陥った人の愛を求める道と、修業者となった彼らが苦行による解脱の道を目指して、そこでも求めることが多かったことを意味する。「ゴータマが愛欲におぼれていた」とあるのは、その愛を求める道を指すのであろう。それは、どちらも解脱には到達しないのだと、その極端な相対する道を否定し、その上に絶対を認識する、これは当時のインド宗教界に流行していたウパニシャッドの哲学に見られる思考形式だそうだが、ゴータマは、典型的な修業者であった五人の対話相手が理解しやすいように、当時最先端のその考え方を採りながら、彼が到達した「解脱=法の道」を教えたのだろう。それは僧侶階級バラモンを中心に、煩雑な祭儀主義に堕していたヒンドゥー教の教えを否定し、当時最先端のリベラルな宗教思想をも超える教えであった。
 仏教の教えは複雑怪奇で、多岐に渡る。ゴータマの教えも、後世の無数に分かれた○○宗派を形成する人たちの経典から組み上げた「教理」がほとんどで、それも多岐に渡る。だから、それがゴータマに由来するという断定には無理があろう。そもそも最初期の経典すら、ゴータマ自身によるものではないのだ。

 だが、仏教を彩る教えの中心に、「法」(ダルマ)というものがある。
 仏教において「法」が教えの中心となったのは、ブッダの悟りが「法」の自覚だったからである。従って、布教も「法」の伝達となって行く。
 その、ゴータマが到達した悟りである「法」は、人が極めたいと願う道の真理と言っていいだろう。「法」は普遍の真理である。悟りに到達して「ブッダ」となったゴータマは、かつての自分がそうだったように、愛に悩み、悟りに苦しむ人々に、普遍の真理である「法」をもって、その悩みと苦しみから抜け出して欲しいと願ったのである。

 ただ、そのダルマを、後世の人たちが「法」と解し、それは、単なる形而上学的課題ではないとしたところに、心優しい戒律が生まれた。四聖諦とか八正道といった欲望や執着を克服する教えである。その教えは、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」とか、「頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、道の人ではない。」「この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ托鉢僧と呼ばれる。」などと平易なことばで伝えられている。
 欲望を愛の道と捉え、戒律を人にかける優しさと捉えると、ブッダの教えが平易なものとして伝わって来よう。
 この四聖諦や八正道が、やがて仏教の根本的教えとして種々の経典に組み込まれた。
 もっとも、戒律即真理とは言い難いのだが、人の欲望も苦悩も戒律から派生して来たことを考えると―「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためである」(ロマ書5:20)と、パウロが言っていることに重なるよう
であるが―、中庸の教えと言いながらも、ブッダは「法」を悟らせるために戒律を教えたのである。そのどれもが、極めて単純で短い、まるで一片の詩のようにきらきらと輝く教えであった。彼自身が愛に苦しみ、死の淵をさまよいながら到達しただけに、彼の教える戒律には愛の力があった。
 それが、すなわち彼が悟った「法」であり、人の道の真理だったのである。

 その教えの魅力に惹きつけられた五人の修行者たちは、彼の弟子になる。
 こうして最初の仏教教団が始まった。


(2)原始仏教

 五人の弟子たちとともに、原始仏教の時代が始まった。部派仏教乱立までのおよそ百年ほどがその時代に当たる。
 初期仏教教団は、ヒンドゥー教に酷似していたようだ。
 一切を捨てて出家した者たちと在家の信者たちを擁し、出家者は托鉢用の一椀と人が捨てたぼろ切れの衣服と帯、剃刀、水をこして飲むための濾過器、雨具、扇、爪楊枝、履き物ものだけを所有物とし、住まいは木の下、それに薬として牛の尿のみをもって生活すべしという教えや、女性の出家を認めないなど、まさにヒンドゥー教の教えそのものであった。
 ブッダは当初、新しい宗教の樹立など考えていなかったのだろう。
 当時のヒンドゥー教は最上位階級バラモンによって極端なほど儀礼化されていて、出家者も真理を求める修行者であることを見失っていたから、ブッダは、ヒンドゥー教本来の姿を取り戻したいと願ったのではないか。
 だが、信者が多くなるつれて、自然に新しい宗教教団となり、ブッダの入滅前には、すでに千を数える教団がインド各地に誕生していたようである。

 原点とも言える、ブッダ自身が目指し、到達したところを理想とする原始仏教には、厳しい修行を積んで解脱に至るという明確な目的が見られる。

 出家たちは遍歴を原則とし、在家信者たちの布施のみによって生活していた。
 それもやがて、雨期だけを避難場所としていた僧院に定住するようになり、僧院を土台に安定した生活を望むように変化していくのだが、原始教団(サンガ)の出家たちはいかなる生産活動にも従事せず、ひたすら解脱を目指して修行に専念し、在家信者たちは喜んで布施を行なっていた。布施をすることで、彼らもまた間接的に理想像(ブッダ)に近づくことが出来たのである。
 そのような極めて素朴な理想に生きていたためか、原始仏教には儀礼や祭儀がほとんど見られない。恐らくバラモンの儀式宗教に失望していたからなのだろう。まして、死者儀礼など、出家の関与すべきところではなかった。ブッダの遺骸をどう扱ったらよいかという弟子たちの質問に、ブッダは、「在家信者にまかせておくがよい」と答えている。

 だが、そんな素朴な理想に生きていた仏教教団も、時代を経るにつれて、仏舎利塔を建てるなど、有形的なことに目が向けられるようになった。それは、いづれの宗教にも見られる現象で、宗教というものの宿命なのだろうか。
 遺骨だけではなく、ブッダの遺品一切が、聖なる物として、崇拝の対象になって来る。すでに原始仏教の時代から、実に様々なものがブッダの遺品として祭られ、それにまつわるもっともらしい法話も生まれていた。遺骨については、水晶のような宝石の形をしていると信じられていた。そのような伝説は後世になるほど増大しているが、ブッダの遺骨を納めた仏舎利塔を建てることは功徳であると考えられ、アショカ王が八万四千もの塔を建てたという話は有名である。
 すでにブッダは信仰の対象になっていた。
 宗教というものが辿る宿命なのかも知れない。


(3)部派仏教

 ブッダから約一世紀を、原始仏教の時代と位置づけて来た。
 続く時代を、部派仏教の時代と呼ぶことが出来るだろう。

 ブッダ入滅後二百年ほど経ったアショーカ王の時代までに、経典には三回の結集(けつじゅう)が行われたが、ブッダ入滅後百年ほど経った二回目の結集時に、当時の原始仏教教団(サンガ)の一部の人たちが、教団が通達していた戒律の禁止事項を緩和して欲しいと申し出た。それが教団幹部から拒否されたことで、改革案を要求した人たちは分派して大衆部(後の大乗仏教)を名乗った。
 だが、戒律に異を唱えた人たちに反対して伝統を守った人たちもいる。
 第二回結集は、その人たちの大同団結が提議されたものであろうと推測されている。いわゆる正統派を自認する人たちが、第三回結集時に一致団結して最大部派を誕生させ、それが上座部と呼ばれるようになった。これが現代もミャンマーやタイなど東南アジヤ諸国に伝わって、南方上座部仏教と呼ばれている。
 その頃のことである。大教団となった上座部教団に反発して、説一切有部、根本説一切有部、法蔵部、経量部など、部派仏教教団が続々と誕生していった。上座部と同じような教団だが、個性を強調しての乱立と言えよう。

 仏教には大乗仏教と小乗仏教の二つの系統があることをご存じだろう。
 小乗仏教とは、自分たちを「大きな乗り物」と呼称した大乗仏教(後述)が、サンガの伝統に囚われた部派仏教を、「小さな乗り物」と揶揄した呼び名である。しかしもちろん、部派仏教諸派は自分たちを小さな乗り物であるなどとは考えていない。だから、近年の仏教学者たちは、小乗仏教という呼称は避け、彼らの主張を正確に、上座部仏教、或いは部派仏教と呼んでいるようである。

 サンガの伝統を守って正統の仏教であると自負している上座部仏教や部派仏教の伝統とは何なのか、その辺りを探ってみよう。
 ブッダの教えの中心に、正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正し思念、正しい瞑想と「八正道」と呼ばれるものがある。サンガはそれを具体化して、殺生をしない、盗みをしない、淫らなことをしない、虚言をつかない、酒の類を飲まない、午後に食事をしない、歌舞や音楽や見世物を見ない、薫香や装飾品を用いない、贅沢な椅子、寝台を用いない、金銀を受け取らないといった様々な戒律を定め、上座部仏教や部派仏教の出家たちは、これらを厳しく守ることで自分たちを正統としていた。
 ところが、これらの戒律を守ることで彼らが目指したのは、自分個人の解脱であって、他の人たちの救済という意識はない。そんなところが「小さな乗り物」と揶揄されたのであろう。
 すでに、ブッダの入滅後三百年という長い年月が経過していた。
 多くの人たちが、仏教界がよどんでいると思っても当然であったろう。
 紀元前二百年頃、インド仏教界に大きな変化期が訪れた。
 大乗仏教の誕生である。


(4)大乗仏教

 今日、上座部仏教や部派仏教は、東南アジアのいくつかの国とチベット、ネパールなどのヒマラヤ高地、モンゴルに見られるくらいで、中国や朝鮮半島など広範囲に広がった仏教は、ほとんどが大乗仏教と言っていい。その大乗仏教が中国を経て、日本にも入って来た。日本仏教の各宗派は大乗仏教の系統である。
 だが、日本人にとって最も親しみのある大乗仏教は、発生経路や展開も複雑で、教義には難解な仏教哲学までも取り込んでいて、さらに、発生時期、発生場所、発生経路も特定出来ていないなど、不明な部分が非常に多い。

 まず大乗仏教の、筆者の手の届くところから始めよう。
 大乗とは《大きな乗り物》を意味する。それは部派仏教が自利(自己の解脱)を目指したのに対し、他利(他者を利する)を強調するもので、改革を要求して部派仏教の一部となった大衆部にそのような進歩的なところが見られるところから、大乗仏教は、部派仏教の異端児「大衆部」から分かれ出たと言われている。彼らは強大な上座部支配に飲み込まれてしまわないように、在家信者もブッダの超越的な力の恩恵に預かることが出来るという他利を主張することで、生き延びようとしたと考えられている。

 紀元前一世紀に成立した初期経典をいくつか取り上げることで、大乗仏教を探っていきたい。ほとんどの初期経典は、大乗仏教の進展とともに出来上がったようである。

 般若経:これは般若と名のつく経典の総称である。他利を追求する大乗仏教が重んじる六つの徳目(六波羅蜜)の中でも、特に「智慧」が大切にされた。智慧とは真理を見極め悟ることである。その智慧のサンスクリット語音読みが「般若」と言われ、大乗という言葉も般若経で初めて用いられたそうである。
 智慧とはブッダの智慧であって、あらゆるものへの無執着が説かれた。そこにはブッダ自身の教えも含まれるが、それすら心にとめない。これが「空」と呼ばれる般若経の中心思想である。般若心経の中でも有名な「色即是空、空即是色」は、色や形あるものの本質は空であると説く。その本質の空が色や形あるものとして具現化していくと聞くと、プラトンの「イデア論」に似ているではないか。この空思想を体系づけた仏教哲学は、ナーガールジュナ(紀元150~250年、大乗仏教の基礎を築いた、中国、日本における八宗派の祖ともいうべき人物)の時代に、ギリシャの学術都市として栄えたアレクサンドリアと南インドが貿易交流を行なっていたので、恐らく、その影響なのだろうと言われている。
 大乗仏教の信仰体系そのものと思われされる。

 法華経:これは、「泥の中にも美しく咲く白蓮のように正しい法を説く経典」という意味で、『妙法蓮華経』(法華経はその略形)と名付けられた。初期大乗仏典を代表するものの一つである。
 この経典には、大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があるという一乗妙法、苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって利他の行に励むことを勧める菩薩行道、本当のブッダは永遠不滅の存在という久遠本仏などがある。
 この経典の中心思想と思われる「久遠の本仏」を見てみよう。
 ここに言われるブッダは、観念上の本仏のことで、「神」に等しい存在である。そのブッダが、絶対者信仰を生み出す「久遠の本仏」となっているところに、この経典の真骨頂が見られるようである。歴史上のゴータマ・ブッダは、その「本仏」が姿形を伴ってこの世に出現したと言われる。ゴータマの入滅は久遠の本仏への一過程であって、ブッダ復活の信仰も当然の帰結なのだろう。
 そして、もう一つの特徴は、『法華経』そのものへの信仰が説かれていることである。だからだろうか。日本でも日蓮宗の信者は、一心不乱に「南無妙法蓮華経」と唱える。「南無」とは帰依を意味するサンスクリット語で、「私はその仏さまやお経に帰依している」という信仰告白なのである。
 ところで、日蓮宗のものと思われているこの経典は、実は、随の時代に智顗(チギ)がこれを最高の経典として教理体系を構築して天台宗を開いたのだが、これを最澄が日本に持ち帰って、比叡山に日本の天台宗を開教したのである。

 華厳経:この経典は、広大無辺の仏が万物を包含し、その万物が相互に自己の中にすべての他者を包容していると説く。その有り様が、まるで薫り高い華で飾られているようだという思いを込めて「華厳経」と名付けられたらしい。仏に抱かれている者たちは、生きとし生けるものすべてを肯定し、あるがままに・・・〈合掌〉、それが仏の姿であるとする。これがこの経典のテーマだと聞くと、仏教そのものの幅の広さが見えて来るではないか。

 大乗仏教は、誕生して間もない前二世紀頃から、その主流が中国に移管する五世紀頃まで、インドの宗教界をリードする役割を果たして来た。その間の大乗仏教には、両手をいっぱいに広げて何もかも包み込んでしまうゆったりとした大きさが感じられる。
 ところが、その大きさには、現実離れした空想の世界がつきまとっているように感じられる。阿弥陀仏や理想のブッダには実在の「神」が見えず、輸入された西方のキリスト教やミトラ教などの神観とインド宗教が混合された痕跡が濃厚なのだ。仏を限りなく神に近づけながら、それを仏の守護者としたり、奉仕者としたりと揺れ動いている。
 大乗仏教の魅力は、そのような、宗教としての謎に包まれたファジーな部分にあるのかも知れない。次項で述べる密教(神秘主義思想)は、そのファージーな部分を肯定し、補強するものである。


(5)密教

 仏教には、部派仏教など諸派仏教と大乗仏教がある。これらは一般に公開され、広く教えられている顕教であるが、それとは別に、資格を備えた特定の弟子のみに伝えられる秘教としての密教がある。密教とは、西洋思想の神秘主義に該当するのだろうが、インド社会、あるいは仏教社会の中で、内面を問いかける思想と言うよりむしろ、現実に即した利益追求の中で生まれた特殊儀礼と言えよう。もっとも、顕教と密教は排除し合う関係ではなく、諸派仏教徒や大乗仏教徒の中に、密教の修法を行う人たちがいたということで、密教が顕教とは別の教団組織を形成していたということではない。日本では、天台宗と真言宗に正統な密教が継承され、台密、東密として現代に伝えられている。

 密教の紀元は、インド古来のヒンドゥー教にある。
 古代インドの聖典ヴェーダを奉じたヒンドゥー教最上位を占める僧侶階級にちなんで、バラモン教と言われるヒンドゥー教の有力な一派・「ヴェーダの宗教」には、繁栄、健康、長寿、家畜の繁殖、男子の子孫を得るなど、神々から利益を得るために、呪文を唱えながら供儀を行うという部分があった。恋敵を呪ったり、仇敵の破滅を願う呪術もあったらしい。
 密教のルーツと見ていいのではないか。
 それは、火祠(護摩)を焚きながら呪文を唱えるというもので、そのような祈祷やまじないのたぐいは、インド人の中に民間信仰として深く根付いていて、初期仏教教団は、民衆の要求するそんな宗教儀礼を一概に否定することは出来なかったのだろう。原始仏教時代にすでに密教的要素が見られるそうだ。
 興味深いのだが、密教仏教の呪術的宗教儀礼が確立するに伴って、梵天・帝釈を初め、ヒンドゥー教の神々や鬼霊が仏教の中に入り込んで来た。
 たとえば孔雀明王という女性神が登場して来るが、彼女を心に念じるだけで恐怖や厄難を逃れることが出来るのだ。それは、密教がこのインド特有の現世利益追求型宗教を土台に成立してきたからであろう。ヒンドゥー教の神々に見られたアニミズム的まじないや呪術は、密教仏教に結実していった。
 更に、そうした古来の神々以外にも、密教仏教には独自の菩薩や仏が数多く見られる。大日や菩薩などだが、前者は密教の理論的な面(教相)を強調し、後者はその実際的な面(事相)を強調している。そのいづれもが系統的に配列され、それぞれの色彩、乗り物、表象物、印の形などが細かく規定されているのだが、これを絵図にしたものが曼陀羅で、密教仏教独特の礼拝対象になっている。菩薩を礼拝し、大乗経典を読経するのが大乗仏教の徒であるとすれば、曼陀羅を掲げ、護摩壇を設けて呪文を唱えながら修法(秘教的儀礼)を行なうのが密教仏教の徒であると言えよう。その両者は一人の僧侶、一つの寺院の中で融合している。仏教ではそんなことが可能なのだ。

 日本でも、社会不安の時代に多くの密教型新興仏教が現われたが、それらは病気治癒、富の獲得、厄払いなどに密教儀礼を乱用した。それは古代社会のシャーマニズムと同じである。そして恐らく、教相と事相のバランスを大切にする正統密教も根は同じであろう。不安という人間の本能につけ込んだ宗教形態であり、現代の諸宗教も・・・と言ったら言い過ぎだろうか。
 仏像の中には、千手観音とか十一面観音、或いは馬の頭を持った馬頭観音など奇妙な形の観音像や菩薩が見られるが、それらは現世利益の信仰と結びつき、利益の多様性に応じて生まれた変化身なのだろう。それらのほとんどは密教初期の信心から生まれたと言えよう。

 密教は大きく初期、中期、後期の三つの時代に区分される。
 初期密教では、その信仰形態が仏像に現われているのに対し、中、後期密教では曼陀羅が用いられるようになった。初期の頃、密教は大乗仏教の一部でしかなかったが、中、後期の密教は、曼荼羅を用いる独自の信仰形態(密教文化)をもって、大乗仏教の中核を占めるようになった。仏教がインドで消滅した遠因は、仏教のヒンドゥー教化と言われる。大乗仏教がヒンドゥー教や民間信仰を摂取して密教になっていったと考えていい。特に後期密教は、ヒンドゥー教とほとんど違いがないとさえ言われている。
 やがて密教は中国の唐で栄えたが、それも唐の衰微とともに消滅し、その正統は日本の真言(東密)と天台(台密)にのみ伝えられていると言われる。


(6)死者儀礼

 仰々しい仏教の死者儀礼は、現代仏教が葬式仏教と揶揄されるほどである。

 初期の仏教教団は純粋な修行者たちの集団で、生死吉凶に際しての儀式や呪術といった宗教儀礼には一切関係していなかった。が、時代を経るにつれ、女性僧侶・比丘たちによる死者儀礼が行われるようになって、それは、民衆の要望により、ヒンドゥー教のバラモン僧やインド古来の民俗宗教が行なっていた習慣を取り入れられたものと言えよう。

 ところが、バラモンにしても比丘にしても、彼らは宗教儀礼を行うことで何ら報酬を受け取ってはいない。インドの社会通念として、出家への布施は在家信者の当然の行為だったから、出家たちは、殊更に収入を得るための方策を考える必要はなかった。インド仏教で、謝礼を想定しての死者儀礼等が認められるようになったのは、密教化が進んだ後世のことで、死者儀礼が仏教本来の職務として広く認知されるようになったのは、為政者が仏教僧侶を保護した見返りに、呪術や豪華絢爛な葬儀などを行なった中国や東アジヤにおいてであった。布施の習慣がなかった中国では、仏教教団の貴重な収入源になった。中国仏教については次項で取り上げるが、その傾向は一般民衆にも普及していく。
 彼らはいくばくかの賃金を支払って、仏教寺院に死者儀礼を依頼するようになった。それは、仏教が、民俗宗教の素朴な風習などとは比べものにならないほど、外観も思想も高度なものなっていたからだろう。
 やがて、さまざまな宗教儀礼をするための仏教寺院が発生し、その儀礼はますます荘厳華美になり、民衆の心を魅了していった。
 特に日本では、そうした宗教儀礼の中でも、一段と密接に死者儀礼が民衆と結びついたが、日本の仏教については、別項で取り上げる。

 仏教による死者儀礼には、いくつもの方式や独特の習慣が出来たが、日本に定着した馴染み深いものをいくつか取り上げてみよう。
 仏壇:仏教が身近に感じられる、道具立ての一つに仏壇がある。これは位牌を置く場所として江戸時代に一般化したものだが、元来は阿弥陀仏を祭るところだった。これが江戸時代に一般家庭に普及したのは、キリシタン禁教政策を推進する役割を果たしたものと思われる。
 墓石:ブッダの遺骨を納める仏舎利塔が仏教式死者儀礼における墓石の原型になっている。しかし日本では、弥生時代から死者を葬った場所に土を盛り、そこに石を置いて標識とする習慣があり、それが石塔という立派な形になったのが仏教の伝来と結びついたのであろう。現代の墓石はそれが簡素化されたものと言われる。日本独自の風習が息づいているようで興味深い。
 ほとけ:日本では死者をほとけと呼んでいるが、これはブッダ(仏陀)のことである。しかし、仏教では、全ての死者が仏陀になるとは教えておらず、死者がある期間を経て祖霊になるという、日本の原始宗教から来たものと思われる。原始宗教で祖霊はカミ、それが仏教伝来後ほとけと言い換えられた。言葉は仏教でも内容は民俗信仰そのものであると考えていい。


(7)仏教における神の問題

 大乗仏教の一つの大きな特徴を紹介しよう。
 「神、または神々」という問題である。
 これまでにも、ブッダへの信仰や、他者の救いで浮上した「神や神々」に触れて来たが、そこには「何となく」というニュアンスがつきまとっていた。だが、「何となく」では、神や神々の登場に意味はなくなる。それゆえ、真っ正面から扱う必要がある。
 なぜなら、大乗仏教では、他者の救いを真正面から見つめようとしていたからである。「仏の慈悲」などと、お茶をにごして済ませることはもう出来ない。ヒンドゥー教受け売りの慈悲(カーナ)ではもはや説明がつかず、必然的に、「神や神々」の問題が大乗仏教の中心事となる。

 もともとブッダの教えに神はいない。
 ところが、部派仏教はブッダを理想像と見るようになり、それが次第にブッダの超人化へと変化していく。いわゆるブッダ信仰だが、そのブッダの超人化が大乗仏教で急激に展開し始める。ブッダは超自然的な創造によって、この人間界に現われ(応身)、入滅は現世を超越して神の領域に入った(報身)とされる。
 もともと大乗仏教には、宇宙のすべてに、それを成仏させる原因があるという教えがあった。その原因とは、真実、永遠、不変、超越の存在、つまり絶対者であるが、ブッダをこの絶対者と融合する「法身」と見るのである。
 この応身、報身、法身という三つの教えこそ、ブッダを神に祭り上げた大乗仏教の根本思想と思われる。それは、仏教が無神論的性格を捨て、有神論(一神論的)に変化して行ったことを意味しているのではないか。
 ちなみに、多数の「仏」には大乗仏教の有神論展開といった側面があるようだが、これら多数の「仏」はほとんど名のみの存在で、これに付随する神話も認められない。ヒンドゥー教にはあったらしいのだが。

 にもかかわらず、これら諸仏の中で、ひときわ光彩を放つものがある。
 大乗仏教の中でも重要な仏として知られる、「阿弥陀仏」である。
 もともと、「阿弥陀」は、「如来」、つまり解脱したブッダを指していたが、大乗仏教ではブッダ信仰が強調されて、「如来」よりより神格化されたブッダという意味で、「阿弥陀仏」に変化したと思われる。
 阿弥陀仏は、測り知れない光明を持つ者・無量光という意味でのアミターバと、測り知れない寿命を持つ者・無量寿という意味でのアミターユという、二つのサンスクリット語の原名を持つ仏である。歴史上のゴータマ・ブッダをランクアップさせたとみていい。

 もう少し踏み込んでみよう。
 大乗仏教徒たちは、すでに入滅したゴータマ・ブッダの教え(法)を直接聞くことが出来ないため、他のブッダ(仏)から聞くことを望んだ。都合の良いことに、極楽浄土にいる阿弥陀仏は無量の寿命を持つブッダなので、信者が極楽に行けば、そこで迎えてくれる存在である。極楽という言葉は、サンスクリット語の阿弥陀経の題名を翻訳したもので、「幸福を持つ者」という意味である。「念仏を唱える者は誰でも阿弥陀仏の本願によって救われ、この極楽に成仏する」という浄土宗の教えをご存じと思うが、有名な他力本願である。ここにも、仏教本来の教えにはなかった絶対神への信仰が見られよう。

 ところで、光背をつけた仏像を見たことがあろう。その多くは阿弥陀仏だが、阿弥陀仏は光明そのものという神的存在なのである。
 それは一体、何に由来しているのだろうか。
 複雑なので筆者には難しく、詳しい議論は出来ないが、インドでは神が光明をもって表象されることはなく、本来、光明的存在を意識することはなかったようである。その起源は未だ明らかにされていないが、多くの学者たちは、西アジヤの宗教がその起源ではないかと推測している。日本で極楽とは「西方浄土」と呼ばれ、それはインドを指しているが、実は、インドでも、極楽は十万億の仏国土を越えた西方にあると信じられている。
 恐らく、革新仏教としての大乗仏教は、シルクロードを介して、西方の新しい宗教と接触したのだろう。
 大乗仏教で未来仏とされる弥勒菩薩の原名は「ミトラに関係のある」という意味だそうだが、ミトラは言うまでもなくペルシャで栄えたミトラス教のことで、ペルシャには光明の神を擁するゾロアスター教が栄えていた。
 更に、他力本願という阿弥陀仏信仰の中核思想には、キリスト教の影響が認められると言われる。キリスト教との接触がどこでどのように行われたかは不明だが、接触があったことは確かだろう。中国には「景教」と名づけられる東方のキリスト教が入っていたし、使徒トマスのインド伝道伝説はインドの教会で信じられていて、「聖トマス教会」は今でもインド・キリスト教の主流を占めている。シルクロードにある数多くの遺跡にも、仏教とキリスト教がどこかで接触していた痕跡が残っている。
 大乗仏教は、シンクレティズム(宗教混合)なのである。それこそ仏教の真の姿であると、日本の高名な仏教学者が結論づけていた。
 大乗仏教が誕生した契機には、神、または神々への信仰がなければ他者(自分も含めて)の救いは実現しないと、見極めたからではないか。ブッダが神格化されたのも、偶然ではないのだ。
 だが、いくらブッダを神格化しても、ブッダは真の神ではないのだから、神や神々を求めて右往左往することになる。後述するが、他力本願に走った浄土宗や浄土真宗には、実のところ、他力とする実体の神は不在である。だから、密教などという神秘思想に走らざるを得なかった。つまり、聖書のような「神からの啓示」を持たない大乗仏教は、想像する以外に神や神々に近づく手段を持たないのである。

 もう一つの中心問題がある。
 ゴータマ・ブッダを神格化したとしても、彼を信じる信仰が目指すところは一体どこなのか、という問題である。
 恐らくそれは、彼が到達したという「解脱」であり、悟りなのだろう。
 だが、その「解脱」がどのような内容を含んでいるのか、そこは極めて曖昧であって、恐らくそれは、後世の日本の浄土宗などで、「念仏申さば救わるべし」とした、他力本願に通じるのであろう。つまり、ゴータマ・ブッダが到達したところは神や神々の世界であって、神か神々になったブッダの恩恵に与ることが救いであると言っているのである。が、人間に過ぎない者がいくら「解脱」したと主張しても、その解脱が他者の救いに決定的に関与することが出来るだろうか。いや、それは、プラトンのイデア論に通じると言われる、「思考」中心の架空の救いではないか。
 その救いには実体がない。
 恐らく、仏教と接触する以前のインド人の宗教理解には、中央アジヤからインドやイラン北東部に移動した古代アーリア人の救いの願望があったのだろう。
 イラン北東部に移動したアーリア人たちは、そこでゾロアスター教という新しい神々の世界を構築するのだが、そんなアーリア人たちがどこかで出会ったのが古代ギリシャのプラトンのイディア論である。そこから生まれたのが、グノーシス主義を根幹とする宗教の近代化だが、大乗仏教にも、かすかながらその痕跡が認められる。

 仏教を取り上げてきたが、その中身の多くが、実はヒンズー教化であったり、地域に根ざした古い民俗信仰であったりということが、だいぶはっきりして来た。恐らく、キリスト教も宗教という枠で見るなら、同じ傾向が数多く浮かび上がって来るのではないか。宗教の重要な要素はシンクレティズムであるが、それはシャーマニズムという原始宗教まで遡るのかも知れない。
 しかし、一面では、グノーシス主義と接触するなど、高度な宗教思想に変身して行く過程のようものを感じる。少なくとも、中国を経て、日本に入って来た大乗仏教には、啓示の神々を求め、キリストに似た菩薩像に行き当たった歴史がある。それはある意味で、仏教の形而上学化かも知れないが、仏教にはそんな傾向が色濃く認められるようである。
 但し、そこから先に進めなかったのも事実だが。


3、中国における諸宗教

 中国仏教に入る前に、仏教と並んで中国三大宗教に数えられた道教と儒教を見ていく。
 概略ながら、古代中国の文化風土を頭の隅に入れておきたい。

 便宜のため、東周時代から現代までの時代区分を網羅しておく。
  東周      前770~249年
  後漢      前202~後220年
  南北朝     220~589年 (魏、蜀、呉→東晋と西晋に統合)
                 (北朝は小さな分裂王国時代を経て北魏に)
  隋       581~619年
  唐       618~907年
  五代十国    907~960年
  宋       960~1279年
  元       1271~1368年
  明       1368~1644年
  清       1616~1912年
  中華民国    1912~1949年
  中華人民共和国 1949年~現在に至る


(1)道教

 道教は中国三大宗教の一つであって、道家、道学ともいう。
 古代から伝わる不老不死という神仙方術的(仙人)信仰や、巫術や道術といったシャーマンを通して民衆が培って来た、一種の精霊信仰による治病などを母体に、不老長生や現世利益を主たる目的として、自然発生的に生まれた原始宗教である。中国独特のアニミズムが根底にあるのだろう。
 中心概念の道(タオ)とは、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。人はこの道に到達し、道と一体となることを目指して修行に励む。つまり、仙人となることを究極の理想として、不老不死の霊薬・丹を錬るのである。

 これに陰陽五行説や古くからの道家思想を加え、さらに儒教や仏教の影響も受けて組織化され、漢代には黄帝と老子の思想が加わり、おおむね後漢末から六朝時代にかけて形成されたものらしい。
 後漢末 (二世紀末)に、張陵や張角によって創始された五斗米道や太平道などと呼ばれた古道教教団は、呪術的な治病を中心として民衆に信仰されたが、六朝時代になると、仏教との抗争を通じて、上記各種の思想をその体系内に組入れて教義を確立し、貴族間にも信仰されるようになった。五世紀、北魏の寇謙之の新天師道に至って教団組織が確立され、儒仏二教に対抗して、「道教」ということばが成立した。唐代には王室と結んで栄え、やがて新道教も誕生した。
 それは、教団教理や信仰儀礼ばかりか、社会思想や職業技術や訓練など、社会を構成する種々の要素を内包する文化複合体でもあった。それはまた、中国の歴史や風土や地域に付随するもろもろの条件が交錯する中で、政治や社会、文化などと関連しながら展開された、生活文化を基礎とするものでもある。
 いわば中国民族固有の宗教文化であると言えよう。
 同じような発展形式をもつものに、儒教がある。
 しかし両者の差は、儒教が中国の社会、国家の秩序、および学問技術を統治者の立場から究明しようとしたのに対し、道教は宗教的要素を中心に、社会の秩序および学問技術を民衆の立場から究めようとしたところにある。従ってそこには、儒教が退けた迷信や魑魅魍魎(ちみもうりょう)、変怪鬼物など、巫祝的鬼神信仰(シャーマニズム)も含まれる。
 道教の概念は、「民衆道教」と「教会道教」(成立道教)の二つに大別することが出来る。民衆道教とは、農民や民衆一般の信仰、生活信条およびそれによって組織される集団や結社を指すが、これは、とくに宋代以降、庶民社会の発展に対応するように、儒教や仏教との共同下で展開されたものである。
 一方、教会道教は、国家や王朝によって公認された道教の教団教派であり、五世紀の寇謙之(こうけんし)の「新天師道」が最初である。天師道は後漢末に起こった農民を主とする初期の民衆道教だが、魏・晋の政権下では、王朝の公認によって教会道教となった。

 現在でも台湾や東南アジアの中国人社会では、かなり根強く信仰されている。中国では文化大革命によって道教は壊滅的打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在、共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっているらしい。


(2)儒教

 儒教は、古代中国人の精神生活を彩った教えである。
 それは、中国から日本や韓国を含む東アジア諸国に流出し、その国々の思想や生活に大きな影響を与えてきた。が、これはどうも、文化思想体系、政治体系を目指したもののようである。江戸時代の武士道に色濃く現れる礼節を重んじる日本人気質は、仁義礼智信を中心思想とする儒教の影響と言えよう。

 儒教は、春秋時代末期に魯の孔子によって体系化された。彼と弟子たちは周の治世を理想とし、君主の臣下となって国を治めつつその理想を再現しようと試みたが、その政治的野望は実現に至らず、彼らは生活の糧を葬儀業に頼っていたと言われる。
 ところが、前漢時代、武帝が董仲舒の建言をいれて儒教を国教に定め、官吏登用試験の必須科目にしたことから、儒教は全盛期を迎えた。以降の中国は、二千年にわたり、儒教を中心とする官吏国家という特徴を持つこととなる。
 しかし、儒教に基づく官吏任用制度(特に隋以降の「科挙」)が中国社会に与えた影響は、「士大夫」という文化の担い手としても重要な階級を生み出したが、反面、この制度に反発した人や制度から落ちこぼれた人たちを中心に、隠者的文化・思想潮流を生み出したとも言えよう。その潮流は一つの大きな文化に育っていき、やがてその潮流は日本にも入って来て、日本の主要な文化のひとつとなった。芭蕉や吉田兼好などはその代表格と目されている。

 儒教は社会の組織維持・管理には力を発揮したが、飢饉や戦乱時など混乱社会には、適切かつ十分な対処が出来なかった。漢の滅亡後、儒教が形式化し停滞していったのは、そんなもともとの体質によるのだろう。ところが、北宋時代には、女真族の侵略に対する政治意識の高まりや仏教哲学への対抗上、新しく宋学(新儒教)という形で再び活性化した。
 これは、道教や仏教からの教義を取り入れたもののようである。
 南宋の朱子は、宋学を朱子学にまとめ、同時代の陸象山や明の王陽明は陽明学を興している。朱子学は、南宋の政治抗争の中で一時「偽学」として迫害されたが、元代に入り、科挙のテキストに採用され、官学として認められるようになったが、明末になると、その勢いも衰え、ほとんど歴史学と区別のつかないものになった。陽明学は仏教・道教と融合する方向へと進み、こうしてほぼ二千年に及んだ儒教の影響力は次第に弱まり、清の滅亡とともに政治・宗教思想としての儒教は姿を消した。
 以後、宗教思想や学問形態ということではなく、「仁義礼智信」のように、生活に密着した教えとして民衆の中に根づいて来たと言えよう。そのような意味で儒教は、日本を含む近隣諸国、とりわけ韓国に定着し、現代人の血の中に脈々と受け継がれ息づいていると言っていいだろう。

 少しだけその中味に触れてみよう。
 弟子の編集による孔子の言行録「論語」に、「子曰く、学びて時にこれを習う、また、よろこばしからずや」とある。孔子は教育家として秀でており、その門下からたくさんの優れた弟子を輩出して、儒家思想はそれら弟子たちによって大成された。師弟関係ばかりでなく、親子や労使や先輩後輩など人間社会における上下関係が濃密なのは、儒教が人間中心の思想だからと言えよう。「長幼の順」を、「孝を尊ぶべし」という儒教で最も高い徳に裏打ちされた儀礼として捕らえている。
 その徳の中で最も重要なものが仁、その具体化が礼である。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的習慣・制度を意味していたが、後に、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。儒教が儀礼に終始していることがうかがわれる。
 孔子は、実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末に、周初への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げたのだろう。
 しかし、礼による社会秩序の回復・維持を説くことから、極めて保守的・権威主義的傾向をもっていると言えよう。ピューリタニズムのモラルと似通うところが感じられる。
 余談だが、「仁」には女性形がある。
 「佞(ねい)」だが、これは「へつらう」「おもねる」など非常に暗いイメージで、儒教の裏側を覗く思いがする。


4、中国仏教

 現代仏教には、紀元前三世紀以降スリランカを中心に東南アジア諸地域に広まった南方仏教、紀元一世紀以降、中国、朝鮮半島、日本およびベトナムに広まった漢語仏教、七世紀以降チベットや蒙古に定着したチベット系仏教の三系統が上げられよう。南方仏教とチベット系仏教は上座部仏教であるが、漢語仏教は主に大乗仏教であった。
 漢語仏教とは、中国において整備された仏教を指す。漢語をもって中国仏教は、インド仏教とは異なる独自の仏教として発展して行った。


(1)歴史

 中国への仏教伝来は紀元一世紀頃、後漢の時代と推定される。
 ガンダーラからシルクロードの西域諸国を経由したが、そこには長い距離とカラコルム山脈やタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠という厳しい自然環境が立ちはだかり、更に道教や儒教という独自の宗教文化が成立していたことから、中華思想というプライドもあって、仏教が定着にするまでに数百年かかった。
 しかし恐らく、紀元前何百年も前から、シルクロードを往来する外国人商人が仏像を持ち込み、中国民衆の間に徐々に仏教が浸透していった。当初は、交易に従事した隊商や帰化人が帰依していたが、一世紀中頃以後、中央の貴族・知識階層にも熱心な信者が誕生したようである。恐らく、高度な宗教文化としての仏教は、次第に多くの人の心を捕らえていったのだろう。

 中国で大きな比重を占めている、「漢民族」に触れておきたい。
 語族の分類ではシナ・チベット語族に属し、黄河や長江の流域で農耕文明を形成したと言われるが、「漢民族」という単一民族があったわけではない。「漢王朝」に由来はするが、北方からの匈奴、鮮卑、モンゴルなどの遊牧民や、女真族などの狩猟民からの侵攻を受けたり交易などによって、周辺民族と混交を重ねて来た。また、遼、金、元、清など異民族王朝が長く続いて、その間に民族混合ばかりか、文化の混合も行われた。現代もそうである。「漢民族」が順調に中国何千年もの長期間の支配者だったわけではない。貪欲に異文化を取り入れながらも、執拗に自己主張を繰り返す彼らの資質はまた中国の特徴でもあろうが、それは異民族や異文化との混合が重ねられた歴史によるのかも知れない。

 仏教が中国で生き延びるために、道教や儒教の類縁であるかのように装う「格義仏教」という過程を経なければならなかった。これは仏教の中国化であるが、経典を中国古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて漢訳したところから成立したと言われる。この格義仏教は四世紀の東晋の頃まで非常に栄えた。
 しかし四世紀後半、北朝では西方から渡来した先達の高僧・仏図澄とその弟子道安が格義仏教を継承しながらも、批判者となっていく。仏教思想を正しく理解するには、仏教本来の解釈によらなければ・・・という主張である。その主張に同調する者は多く、更に、その頃長安に来朝した西域僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)がもたらした大量の訳経と相まって、格義仏教は次第に衰微していった。
 そして五世紀には、孝文帝のもとで都が洛陽に移されて仏教の中心地となり、華厳経、法華経、涅槃経など代表的大乗仏典が次々と伝来し、漢訳されて、浄土宗が誕生した。東アジア独特の〇〇による〇〇宗といった開祖仏教は、この時から始まる。少し後代になるが、天台宗や華厳宗、日本人にはよく知られている達磨大師による禅宗も開祖仏教の一つである。
 一方、南朝でも仏教は盛んで、都の建康は、北朝の洛陽同様に仏寺が建ち並ぶ都市であった。
 しかし、南北両朝に栄えた仏教は、北朝の東西分裂や侯景の乱による南朝・梁の滅亡とともに、混乱の時代を迎える。その仏教衰微を決定づけたのが、574年、北周の武帝による廃仏である。彼は道教と仏教をともに廃止した。寺院等を破壊し、その財産を没収したが、これは、税を逃れる目的で僧籍に入る者を還俗させて税を取るなど、国の財政改善を狙ったもののようである。そして、仏教・道教の研究機関として通道観を設置し、120名の通道観学士を選任しているから、華美に堕した寺院や僧たちの堕落を防ぐ意味も込められていたのだろう。仏教も道教も国の手厚い保護を受けて、国の財政を圧迫し、かつ、貧しい民衆からかけ離れた存在になりつつあったからである。似たようなことがこの後も繰り返されているから、中国仏教は、すぐに国家権力と結びつく体質をもっていたのかも知れない。
 これは、当時広まり始めていた末法思想もあって、学問的な講教中心の仏教を反省する契機となり、中国仏教分岐点の一つとなった。

 その反省もあって中国仏教は何度も浮沈を繰り返すが、南北両朝時代末期から隋・唐の時代にかけて最盛期を迎える。
 北周・武帝の覇業を継承した隋の文帝は、西晋以来の中国統一を成し遂げた。
 彼は仏教を中心に据えた宗教政策を展開し、新たに造成された都・大興は仏教の中心地となって、次の唐代における中国仏教の隆盛期到来への基礎となったようである。文帝はその晩年、中国全土の要地に仏舎利塔を建立し各地方の信仰の中心としたが、これが日本の国分寺の起源と言われている。
 唐の時代になると、次々と仏教宗派が生まれ、中でも天台宗と禅宗は教団色を持つ宗派として注目された。西遊記で知られる玄奘三蔵が経典を求めてインドに大旅行を決行したのもこの時代のことである。彼が持ち帰った経典は後世の東アジア仏教の基盤となった。また、紀元八世紀には、不空が密教を大成。ここから、空海によって真言密教(東密)、最澄によって天台密教(台密)が日本に伝えられることになる。
 中国仏教はこの唐代に最絶頂期にあったと言えよう。
 ところが、唐代も末期になると、武宗の仏教弾圧事件(九世紀)を契機として、仏教の勢力は急速に衰えた。ただそれは、武宗の治世だけのことだったから、皇帝が変わるとすぐに仏教は復興していくのだが、この時期、唐朝自体が、地方勢力伸張によって中央集権的求心力を失い、往年の繁栄を取り戻すことはなかった。やがて黄巣の乱を契機として、唐朝は一気に衰亡への道を辿り始める。そして仏教も・・・。
 五代十国時代は、唐朝の末期を入れても約90年という短い時代に、黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。これは唐朝の衰退とともに始まった混乱の時代と言えよう。仏教はおおむね保護され、隆盛していたのだが、この時代末には、国が僧侶の租税と兵役を免除、寺院の財政援助をしていたことから、安易な動機による出家や堕落した僧侶が増えて寺院や僧侶が国家財政を圧迫したことから、3300もの寺院が廃寺となる大規模な廃仏事件が起きた。
 中国における四大法難と言われる、最後の激しい法難である。
 この法難以後、民心は難解な学問体系を持つ宗派から離れたが、具体的で分かりやすい禅宗や浄土念仏宗、或いは現世的利益を説く観音信仰などは、広く民衆の支持を得て復興、中国仏教の主流となった。そして、宋の太祖・趙匡胤(ちょう きょういん)は廃仏を中止し、仏教保護へと政策を転換するが、一方、寺院資産への課税による寺院統制、やがて五山十刹制度として、寺院を国家統制下に置いて管理することに成功した。

 中国仏教の繰り返される浮沈は、国や民族が抱えてきた国家と宗教という問題として浮き彫りにされて来た。それは他の宗教も例外ではない。宗教が社会に埋没している現代、考えさせられる点ではないか。

 五代十国から宋の時代にかけて、大衆受けする禅宗や浄土宗が栄えたが、他方、儒教・仏教・道教の三教が融合する傾向も見られる。この時代は、インド起源の仏教が次第に本来のインド的特色を失い、中国的宗教へと変貌を遂げる時期でもあった。その傾向は、元や明や清の時代に一層強まっていく。国家による仏教保護政策は一部の地域を除いてほとんど見られなくなり、宗派間の論争や教学といった出家僧侶の華々しい活動の場がなくなっていった。宗派は統合や再編成を繰り返しながら生き延びる道を模索する中で、中国仏教は出家僧侶の手から在家居士を中心とする仏教へと変わっていく。
 在家居士とは家庭において修行を行う仏教信者のことだが、彼らは仏教学の知識・実践において僧侶に匹敵する力量を持つようになり、清代には、衰退した出家教団に代わって仏教復興運動を展開するなど、仏教発展の一角を担うようになる。

 仏教教団の再編成が繰り返されただけでなく、中国最後の王朝「清」の滅亡とともに、「中国」という国自体が新しい時代へと変貌し、中華民国を経て、第二次世界大戦後、共産党による現代の「中華人民共和国」が成立した。
 中国という呼名は、その略式名称である。
 ご承知のように共産主義は一切の宗教を認めず、「宗教は麻薬」と称して排除しようとしてきた。共産主義国家として新生した中国も宗教を嫌い、仏教やキリスト教などを弾圧したが、特に1960年代の文化大革命には極端な弾圧と破壊が行われ、五代十国以後、禅宗と浄土宗に絞られながら居士仏教として細々と生き延びてきた仏教は、存亡の危機に直面した。

 ところが21世紀現在、中国政府は文化大革命の非を認め、抑圧政策を方向転換したのである。荒れ果てていた仏教寺院は、日本の寺院や華僑の援助もあって、少しづつ復興している。中国仏教は、憲法が信仰の自由を認めたこともあって、徐々にではあるが回復に向かっていると言えよう。もっともそれは、政府に正式に登録された宗教団体に限ってのことではあるが。その登録宗教は、仏教、道教、キリスト教など九つ。現在の中国仏教は公認の中国仏教協会の下にまとめられ、その統制のもとで宗教活動が認められていると言っていいかと思われる。なお、1993年の統計で、仏教の信徒数は約485万6000人だそうである。

 これは単に仏教だけの問題ではないが、中国では宗教と貧しい農民とが結びついて暴動を起こし、いくつもの王朝が滅亡した歴史がある。現在の政権は、宗教を徹底的に政府の管理下に置こうとして、それぞれの教理にまで口を挟み、またもや仏教は存亡の危機を迎えつつある。が、それ以上に、政権を揺るがす何らかの騒動が起こる可能性に言及する人たちが出て来た。宗教と農民が結びついてどうのということではないが、中国発の戦乱が世界に波及する時代を迎えなければいいと願うのだが・・・。


(2)形態

 これまで極めて大雑把に、中国仏教が繰り返して来た繁栄や衰退、また経典と真摯に向き合うさまを見て来た。そこからもお分かりのように、中国仏教は、インドで発生した仏教とはかなり違ったものになっている。その違いも含め、中国仏教の形態を見ていきたい。

 インドでは、ヒンドゥー教の昔から、出家僧や修行者に食物などを布施する習慣があり、それによって仏教教団は経済的に支えられてきた。布施者は社会全体のあらゆる階層に広がっていて、そこには金持ちの商人も含まれていたからである。
 しかし、中国文化にそんな習慣はない。仏教伝来の初期には、恐らく、少数の敬虔な仏教信者の純粋な寄付行為に支えられていたと思われるが、経典の読経を基本とする外来文化の仏教には、しばしば極めて高度化された宗教観が詰まっていて、現世的宗教である儒教や神仙の神秘的生命力を求める道教にはない、魅力あるものと映った各時代の王朝が仏教保護に傾き、国家財政が仏教教団を経済的に支える方向に動くことになった。皇帝はその威信をかけて立派な寺院を幾つも建立し、僧侶の生活まで手厚く優遇するといった具合に。石窟寺院など、まさにその典型であろう。
 ところが、それが国家財政を逼迫し、無能な僧侶でも食うに困らないところから、僧侶の質の低下や堕落が目立つようになり、そんな僧侶たちが庇護者である皇帝たちを失望させたことは、仏教の大きな不幸であった。これが、何回も繰り返された廃仏の大きな要因である。初期の頃はともかく、中国仏教は総じて国家権力の保護と反発の中を歩み続け、そして、その国の盛衰とともに浮沈を繰り返してきたと言えよう。
 中国には、まず上座部仏教と初期大乗仏教が同時期に伝わり、次に中期大乗仏教、遅れて密教が伝わってきた。それは、道教や儒教などの文化風土もあって、四世紀頃までは老荘の用語を用いて漢訳した仏典を中心に、仏教を道教や儒教の中に紛れ込ませる格義仏教として栄え、伝えられたインド仏教を取捨選択した偽経(400もの中国撰述経典)を含む漢訳仏典が中国仏教を支えた。
 そして、その漢訳仏典の経典研究と、教相解釈という体系付けが行われるようになると、多くの学派が生まれ、中国独自の宗派が生まれて来た。いづれも、古来の中国思想を重んじるところから、衆生のみならず草木までも成仏出来るという、『本覚思想』を特徴とする中国仏教が展開された。これは仏教に限らず、宗教全般に言えることだが、時代を経るにつれて、仏教が仏教でなくなる歴史を重ねてきたようである。まして、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクマラカン砂漠などで地理的に区切られ、距離的にも文化的にも遠い中国にもたらされた仏教は、その教義や形態に変遷があっても自然だったのだろう。
 もしかしたら、長い歴史の中で多くの文化を育んで来た中国には、それらの文化形成自体にも取捨選択があり、彼らの意に添うものだけが残ったということなのかも知れない。そして、そんな経緯は日本においても再現された。恐らく仏教だけでなく、すべての方面に渡って。
 中国では、仏教は文化として中国人の生活に大きな影響を与えた。ゾロアスター教(松教)、キリスト教(景教)、マニ教(摩尼教)なども流入してきたが、それらとは比較にならないほど、仏教の存在感は大きかったようである。

 隋朝の頃、新しい宗派が誕生した。その一部を簡単に見てみよう。
 一切皆成仏という理想と平等を主張し、学問仏教として中国仏教を代表した二大教学である。法華経を最上の教えと信じる天台宗と、華厳経を重んじる華厳宗である。また、密教経典と言われる金剛経や大日経を取り入れて真言宗も誕生。以後、中国仏教では密教が盛んになっていった。どこかに、神仙を慕った道教の伝統が息づいていたのかも知れない。だが、インドに旅して多くの経典を持ち帰ったことで知られる玄奘三蔵の弟子たちは、理想主義の学問仏教を批判、汚れを滅却する瞑想行を重んじ、現実・実践主義の法相宗を興した。

 朝廷の庇護を受けて唐代に栄えた仏教諸派は、度重なる廃仏によって急激に衰退した。
 しかし、朝廷保護の埒外にいた浄土宗と禅宗は独立宗派とはならなかったが、民衆の宗教として現代まで生き延びた。阿弥陀浄土を信じて、小難しい理屈には見向きもせず、ひたすら念仏を唱えながら阿弥陀仏を礼拝する浄土宗と、520年頃に達摩大師によって伝えられ、経典を用いず、ただひたすらに座禅することで、本来の淨らかな自己の本性を覚醒しようと、食事作法や作務など生活全般に重きを置くことでも知られる禅宗の二つの宗派は、そうした単純明快な姿勢が民衆に支持され、中国が生んだ最も中国的仏教として評価されている。
 これは日本に伝わって、独自の発展を遂げた。


5、アジヤ各地の仏教

 早くにインドで消滅した仏教は、翻訳経典とともに広くアジアの諸地域に弘まった。いくつかの系統があるが、以下、その概略を記しておこう。
 中国仏教についてはすでに触れ、日本の仏教については別項で取り上げるのでどちらも省く。


(1)南方仏教(パーリ語仏教)

 南方仏教は、前三世紀以降、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボジア、ラオスなど東南アジア諸国に広まった。国ごとに書写する文字は違うが、パーリ語(スリランカ)で書かれた経典が共通して用いられた。インドの保守的仏教である上座部仏教の伝統を引き継ぎ、各地域の文化や伝統、民族宗教などの要素を取り入れている。同じ上座部仏教ではあるが少しづつ違いが見られるのは、そのためかと思われる。


(2)ネパールの仏教(サンスクリット語仏教)

 サンスクリット語の経典は、消滅したインド仏教の正統(部派仏教)を引き継いでいるが、ネパールは後期大乗仏教、東ベンガル、カシュミールなどは上座部仏教のようである。


(3)チベット系仏教(チベット語・蒙古語仏教)

 チベットへの仏教伝来は七世紀前半である。以来、インドに隣接していることもあって、多くの人たちがインドに赴き、ブッダが説いた仏教を直に学んでいた。チベット仏教の最高権威として知られる経典「チベット大蔵経」も、サンスクリット語原典からチベット語に忠実に直訳されたと言わる。
 ところがその反面、生き仏と言われるダライ・ラマという、あたかもチベット教教祖のような中心人物を擁していたり、数千と言われるさまざまな神々を有していたりと、本来の仏教とは違う面も合わせ持っている。

 「ダライ・ラマ」はチベット仏教の最高指導者(法王)で、国家元首でもある。
 彼は、輪廻転生の世界に生まれ変わる観音菩薩の化身とされている。
 だが、人々を救済するために、涅槃に入るを求めない。これは、ブッダが追求した解脱を求めず、あくまでも政治的指導者であることに終始したということではないだろうか。チベットにおけるダライ・ラマは、チベット仏教正統と目されるゲルク派の開祖ツォンカパ大師の直弟子であった一世のゲンドゥン・ドゥプパ以来、ゲルク派序列第一位の優れた学僧であると同時に、チベット第一の都市であるラサを政治基盤として、チベット全域の政教両面の最高指導者であり続けて来た。
 ダライ・ラマは世襲ではない。
 前任者が没すると、僧たちによって予言された、次にダライ・ラマとなるべき子供を探し、誕生時の特徴や幼少時のくせなどを元に、その予言に合致する子供を候補者として選ぶ。その上で、その候補者が本当の化身かどうかを、前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示したり、あるいはその持ち物で先代が行っていた事と同様のくせを示すなら、その子供がダライ・ラマの生まれ変わりであると認定される。認定された転生者は、直ちに法王継承の儀式を受けるが、18歳になると「チベット元首」に即位し、初めて政治的地位を持つこととなる。

 以下はチベット仏教における神々の一部である。
 厳しい修行によって悟りを開いたブッダ。同じく悟りを得た阿弥陀、薬師、大日などといった如来などがおり、そして、まだ修行中?の菩薩も人々を救済してくれる慈悲深い神として崇められている。中でも、チベットを祝福する本尊的神として、観世音菩薩が最も厚く信仰されている。土着の原始宗教であるボン教や、インド・ヒンドゥー教の神々などもこれに加わっている。日本で、まるで独立した宗教であるかのように、観音菩薩の化身とされ国家元首でもあるダライ・ラマにちなんで「ラマ教」と呼ばれるのも、そんな背景を持つためと思われる。

 さらに、チベット仏教には、他地域の仏教とは異なる著しい特徴がある。
 一つは、独特な密教(神秘主義仏教)が形成されていることである。
 鳥葬と呼ばれるその一例を紹介しよう。
 まず、臨終を迎えた人の枕元で、ラマ僧が「死者の書」を読み上げる。これは「バルド・トェドル(中有における聴聞による大解脱)」という経典だが、中有とは死から再生への途中経過のことで、輪廻転生の中間を指している。死者の書は、その中間にある死者の魂に、彼が辿る死後の世界の道筋を教え、この朗読はまだ死者としての自覚がない死者に聞かせるものである。これは49日間続けられる。それは死者が光に出会い、生前よりも高い生へと転生していくためであるが、もし彼が光に出会わなければ、畜生(犬猫などの動物)へと転生するのである。
 亡くなるとすぐ、死体は夜明け前に死体運搬人に引き渡され、誰にも付き添われずに岩窟まで運ばれ、そこで死体は細かく切断されて禿鷹に投げ与えられる。骨も痕跡を残さないように砕いてしまう。死者が自分の肉体への未練を残さないように、その未練を断ち切るため、魂の抜け殻となった肉体を消滅させてしまう。輪廻転生という密教的世界観(仏教哲学)を信じるチベットでは、死を日常の事として受け入れているのだろう。


 最後に中国との軋轢に触れておこう。
 チベットと中国との軋轢はかなり以前からあったが、それが表面化したのは、1949年、中国共産党が中華民国との戦争に勝って、「中華人民共和国」を打ち立ててからのことである。中華民国もチベットの一部を取り込んでいたが、新しい中国政府はその地域の支配権を引き継ぎ、さらに支配地拡大を図った。

 1957年、中国軍がチベットに侵攻し、チベットの民衆が一斉蜂起するという事件が起こった。当然ながら、中国軍は武力をもってチベット全域を支配下に治めようと厳しく弾圧し、現ダライ・ラマ十四世(1940年即位)は、流血を避けるためにインドへ亡命、亡命政権を樹立した。
 チベットは繰り返し中国の侵略に遭い、ついに1965年に中国は「チベット自治区地方政府」(チベット全域ではない)を設立し、チベットを自国に併合した。そして、中国に併合されたチベットは、中国内で起こった様々な動乱や混乱に翻弄されるようになる。特に、併合の翌年、中国では、毛沢東思想を信奉する学生たちが紅衛兵と呼ばれる団体を結成して、社会主義国家建設を目指す「文化大革命」(1966年)が起こったが、チベットにとって、それは重大な意味を持った。
 その波はチベットにも押し寄せ、仏教寺院は破壊され、仏像仏具などが壊され持ち去られ、チベット的なものは全て禁止されたのである。民衆の抵抗運動がたびたび繰り返されるが、中国は武力をもってこれを厳しく取り締まり、非人道的な拷問、処刑をもって弾圧した。1949年から現在にいたるまで、120万人のチベット人が飢餓や迫害で亡くなっているそうである。実に総人口600万人の五分の一もの人たちが・・・とは、驚くべき数字ではないか。現在は、寺院も幾分かは回復したが、その傷跡はまだまだ癒えていない。

 ダライ・ラマ十四世は、何回も、中国政府に対して平和的解決に向けた話し合いを呼びかけているが、中国政府は耳を貸そうとはしない。彼は精力的に世界各国を訪れ、チベットへの支援を求めるとともに、世界平和を祈念する法要等を行なっている。チベットに対する国際社会の支援も広まりつつあるのだが・・・。
 こうしたダライラマの非暴力によるチベット独立運動に対して、1989年にノーベル平和賞が贈られた。「現代の世界は互いに依存し合う共同体。地球全体がファミリーとなり、今や戦争は時代遅れだ」と語るダライ・ラマ十四世の姿勢には、共感を覚える人たちも多いのではないだろうか。


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