新・福音と宗教


第一部 宗教散見

二章 古代の宗教


 宗教というものは、現代感覚で考えるほどひ弱なものではない。
 また、諸民族は、必ずしもその生活範囲内の土地で発生した固有の神々を崇拝するとは限らない。武力において上回る部族の神々は、支配下の部族の神々を追放し、消滅へと追い込んで、自分たちがその座に坐るのである。確かに、日本の八百万の神々のように、特定の民族に特定の宗教・・・といった一面はあるが、その土地に根付いた神々は、上位の強い神々に屈して下位の座に甘んじもするし、追放されても名を変えて地下に潜伏するなど、しぶとく生き残る。
 確かに、民族の有形無形な歴史の中で発生した「○○教団」としての宗教は、時代の波に洗われて消えていったが、実際には、○○教の奥深くに蠢く教えや思想といった本質部分は、姿を変えて生き残っている場合が多い。
 古代における、そんな神々のことを見ていきたい。

1、古代メソポタミヤの宗教

 古代文明の筆頭に上げられる、古代メソポタミヤの宗教を見ていく。
 メソポタミヤ地方には、古くからシュメール、アッカド、古代バビロニヤ、アッシリヤ、新バビロニヤ、ペルシャなどの巨大帝国が入れ替わり覇者として君臨して来た。エジプトを超える世界最古の文明国家として知られる彼らの「文化」は、彼らがティグリス・ユーフラテス両大河流域に掘削して造った運河から生まれた農業文化を指す。「文化」を意味する欧米語のcultureは、「農業」を指すラテン語のaguricoraeから来ている。
 ところで、肥沃な三日月地帯にあって、位置も文明も歴史も民族も異なるその「宗教」を、一絡げにして語るのは大雑把に過ぎようが、ご勘弁頂きたい。

 まず、メソポタミヤに栄えた、古代王国社会を概括してみよう。
 その文明は、紀元前4000年後半に、何処からか来て、チグリス・ユーフラテス両大河地域南部に定住し、灌漑農耕と牧畜を基礎に都市国家を発達させた、シュメール人に始まる。シュメールのノモス(都市国家)は、都市神を頂点とする神殿を持ち、その経済活動は、初期には一部屋だけだったが、やがて複数の部屋を持つようになった神殿を中心に営まれていた。とくに文字の使用(絵文字↓楔形文字)は、彼らの精神活動を飛躍的に高めることになったようである。
 このノモスと呼ばれる「都市国家」に触れておこう。
 「都市国家」で有名なのはアテネなどギリシャのそれだが、それはポリスと呼ばれ、ノモスとは一線を画する。「ポリス」はもともと小高い「丘」のことだが、やがてそれはその丘の上に建てられた「要塞」や「城砦」や「神殿」を指すようになり、それが「都市」を指す用語となった。有名なところでは、アテネのアクロポリスであるが、パルテノン神殿が建つ、昔は広大な台地であった。それに対し、メソポタミヤの「ノモス」は城塞都市だが君主制で、君主が絶対法律となって都市を支配していた。ノモスというギリシャ語は「法律」を意味する。もちろん、君主の法的支配の根拠が神殿の祭司権にあったことは言うまでもない。祭政一致は古代社会の一大特色であった。
 石器時代から長く続いたこのシュメール文明は、次第に衰えて、紀元前2004年に没落したとされる。特筆すべきは、古代バビロニヤ時代とされていた「ギルガメシュ叙事詩」の原型が、その起源をシュメールに遡るかのように、シュメール語の断片が発見されたことである。まだまだ解明されていないところの多いシュメールだが、間違いなく大河地方に最初の文明をもたらした民族だった。その文化は、セム系の民族に引き継がれて行った。
 「セム」とは、旧約聖書・創世記最初の頃の記事にある大洪水のときに、箱船に避難して生き延びたとされる有名なノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテのうちの長子のことである。「セム系」は、世界に広がった「セム」の子孫を指すと言われた時期もあったが、むしろ、セム語族ということで、言語学において、アフロ・アジア語族に属するとされるアッカド人、アッシリア人、バビロニア人、カナン人、フェニキア人、ヘブライ人、アラム人などを含む言語グループであって、シュメール人は含まれない。
 メソポタミヤにおけるセム語系の王国は、アッカド王国に始まる。彼らは前2300年頃に大河地方南部に興り、シュメール人を傘下に治めたが、やがて大河地方全域を支配する最初の帝国として栄える。有名なハンムラビ法典は、アッカド文明で生まれ、近代法の祖と言われるローマ法にも影響を与えた世界最初の優れた法典である。だが、その帝国は短命であった。その衰退とともに、シュメール文明が息を吹き返すが、それはいっときのことであって、シュメール文明後、メソポタミヤには、南にバビロニヤが、北にアッシリヤが、それぞれに王朝の交替や盛衰を重ねながら、政治、経済、文化の中心であり続けて来た。イスラエル民族の祖アブラハムが出た「カルデヤのウル」は、古バビロニヤ都市群の一つだったし、分裂王国の、北イスラエル王国を滅亡に追い込んだのはアッシリヤ、そして、南ユダ王国滅亡に重なる「バビロン捕囚」に名が出てくるのは、前六世紀後半にその地の覇権を握った新バビロニヤ帝国である。それ以後はペルシャ王朝が大河地方全域の覇者として栄えるが、それは、ある意味で、メソポタミヤにおける古代文明最後の輝きであった。メソポタミヤ文明を考える時、バビロニヤやアッシリヤの神々が、政治、社会、文化といったあらゆる方面で主導権を握り、その宗教が重要な役割を果たして来たことを忘れてはなるまい。

 さて、バビロニヤとアッシリヤの神々のことである。
 バビロニヤやアッシリヤが歴史舞台に登場して来た時、彼らはシュメール人から引き継いだ1500以上もの神々を崇拝していたと言われる。代表的な神々を上げると、天空神アヌ、中空神エンリル、地神エアの三神は、当時の世界像を象徴的に表していると言えよう。中でも、天空神アヌは、世界の行方を定める天上の神々の会議の主宰者であり、世界の主権者(アヌの王冠と呼ばれる)とも呼ばれた最高神である。世界の方向性はアヌ神によって決まったと言っても差し支えなかろう。中空神エンリルは「神々の王」と呼ばれ、中空から地上に働きかける力の神である。バビロニヤの「ギルガメシュ叙事詩」によれば、彼は、人類を滅ぼすべく地上に大洪水を起こした。彼は災いの神であり、同時に秩序保全の神だったようである。そして、地神エアは、常に人間の側に立ち、生命を守り、知恵を司る神として知られる。大洪水から人類を救ったのもこのエアである。
 こう見て来ると、聖書にあるノアの洪水物語との関わりが感じられよう。洪水伝説は各地に見られるが、聖書の記事よりも「ギルガメシュ叙事詩」のほうが古いことから、聖書の記事がギルガメシュ叙事詩からの借用とされていた時代もあったが、恐らく、その事実があったから、その記憶が受け継がれて各地の神話になったと思われる。聖書の記事にしても、もともとのソースは口伝だったのだから。アヌにしてもエンリルやエアにしても、人々の意識の中に「偉大なる神」の記憶があり、時代の要望に応じて少しづつ変形しながら天空から地上に降りて来て、個別の神々を形成していったのではなかろうか。

 その地上に降りてバビロニヤ・アッシリヤを支配した神々を紹介しよう。
 バビロニヤのマルドゥクとアッシリヤのアッシュルである。
 首都バビロンに主神殿を持つマルドゥクは、シュメール、アッカド、バビロニヤ、アッシリヤなどが重なる前二千年紀後半から、バビロニヤの国家守護神として他の神々を凌駕し、パンテオン(万神殿)の実質的最高神となっていた。他の神々は、首都神マルドゥクの勢力が強力だったので、その存在が希薄になっていたと言えよう。マルドゥクは、それらの神々の属性や機能を自己のうちに吸収することによって、唯一神教的な性格を帯びて来る。そしてアッシュルは、もともとは都市神だったが、都市アッシリヤの勢力拡大に伴って威信を強め、やがて、バビロニヤを滅ぼし、アッシリヤの国家主神として神々の上に君臨するようになった。アッシリヤがバビロニヤを滅ぼしたように、神々の世界でも、アッシュルがマルドゥクを殺害している。そして、その機能や権能をアッシュルが引き継いでいくのである。
 しかし、それほどの両神も、超越的一神教にはならずに衰亡して、それぞれの国家の基盤として滅亡の運命をともにした。人間の権力が形を変えてマルドゥクやアッシュルになったからであろう。

 バビロニヤ・アッシリヤの宗教は、王が神々の主権の代行者であり、国家祭儀の中心であるとする神聖王権思想に重なるのだが、それとは別に、メソポタミヤ特有の二つの信仰体系が窺えよう。その二つは、メソポタミヤ文明を彩る宗教の役割と道筋の方向を明確にした。
 その信仰体系の一つは、豊穣信仰である。
 メソポタミヤに多くの都市国家(ノモス)が栄えたのは、チグリス・ユーフラテス両大河流域の豊かな土壌に、農業(特に麦の大量栽培)が発達したためであった。メソポタミヤにおけるそれは「文化」ということの原点でもあって、原始的な狩猟が主だった時代に、人工の川である何本もの運河を通し、灌漑農業が行われたことは、そこに一大文明圏が出来ていく十分な理由であったろう。
 メソポタミヤに豊穣信仰が生まれたことも、不思議ではない。
 豊穣信仰は、シュメール文化以後、メソポタミヤの覇者たちによって受け継がれ、時代の最先端を彩って来た。同じように農業文化を培っていたエジプトには、そこまで文明と結びついた豊穣信仰の意識構築は見られない。

 その豊穣信仰を民衆に衆知させるために、バビロニヤでもアッシリヤでも繰り返されていた二つの信仰儀礼がある。
 一つは聖婚である。
 大地の生産を司る男女一対の神々の婚姻が大地に豊穣をもたらすという神話に基づいて、都市の君主と女性祭官がこの神々の婚姻を祭儀的に再現する。そのような神々の聖婚が行われることで、大地の稔りが生まれるという、期待と祈りの信仰儀礼である。但し、その神話自体が君主側の創作であったとしてもおかしくはない。実際に稔りがあるかどうかよりも、信仰儀礼を行うことで、権力の安定を演出したということではなかろうか。しかし、民衆にこの荘厳な信仰儀礼を知らしめることで、稔りを期待させ、一層、農作業への労働を推進させる効果はあっただろう。結果、収穫は増え、王宮への実入りも豊かになった。その効果を促進するためだろうか。この聖婚には、母なる女神を模した巫女との性交渉が伴う。参加するのは民衆の男性である。女性への手当は、暗やみの神殿で、一生に一度限りの見知らぬ男性との性交渉を習慣づけた(後述)。ペルシャの民話にその話が伝わっている。単なる形式的信仰儀礼ではないのだ。これが後代の神殿売春へとつながっていった。この中で力を持って来たのは、愛と美のイシュタル女神をトップとする女神たちである。
 そしてもう一つは、死と再生を主題とする信仰儀礼である。
 この地方の季節は乾期と雨期に分かれている。その季節の循環が、豊穣の神ドゥムジの死(乾期)を悼む泣哭儀礼と復活(雨期)を喜ぶ祝祭、その二つが一組の信仰儀礼となって交互に繰り返されていた。泣哭儀礼と祝祭、だが、それだけでは、そこら辺りの小部族でも規模の大小はあっても日常的に行われていて、珍しいことではない。シュメール人は、それを、祭儀的婚姻儀礼と相俟って国家的行事へと展開し、文化・宗教の高さとして、国の偉容を誇っていたのである。バビロニヤやアッシリヤも、そのような信仰儀礼を踏襲したことは言うまでもない。それは、近隣の小国から人と富とを確保して農業文化を発展させる、原動力になったのではあるまいか。

 豊穣信仰と並んでメソポタミヤ文明を彩るもう一つの信仰体系は、星辰信仰である。降誕されたイエス・キリストを祝おうと、ベツレヘムにやって来た東方の博士たちのことをご存じだろう。彼らはペルシャ王(当時はパルティア王朝)に仕える有名な占星術師だったと思われる。星々の観察からどれくらいのことが判るのか判断もつかないが、少なくとも、王の使節としてユダヤにやって来た博士たちは、降誕されたイエス・キリストを探し当てたのである。
 ペルシャの星占術の起源は、古くはバビロニヤ・アッシリヤの星辰信仰にあったと思われる。そこでは、マルドゥクは木星、ネルガルは火星、ニヌルタは土星というように神々と星々が同一視されていた。天体はさながら神々の世界に見えたのだろう。しかし、マルドゥク崇拝が木星に向かってなされていたわけではなく、星々自体は神々として崇拝の対象になっていなかった。彼らは星を観測することで、地上の運命を左右する神々の意志を読み取ろうとし、その姿勢が、天体観測を発達させていったのであろう。「神」を表わすシュメール人の楔形文字は星の絵文字に由来していると、何かの本で読んだ。
 古代メソポタミヤの人たちにとって、これらの星々は、世界を支える根源においての力として、神々の似姿に見えたのではなかろうか。美しい神秘の輝きを瞬かせる星々を見上げながら神々の祝福を願い、稔り豊かな収穫に感謝しつつ、祈りとともに繰り広げられる神々の祭儀に更なる実り豊かな収穫を願う。そんな彼らの意識下には、古くからのアヌやエンリルやエアなど、更には、神々ならぬ天地の創造主である神さまへの思いの、かすかな痕跡もあったのだろうか。
 一度くらいはその地に立って、星空を見上げてみたいとの思いに駆られる。

 古代社会ではどの地域にも共通するが、メソポタミヤ圏ではシュメール人の世界はもとよりバビロニヤ・アッシリヤにも、神々への信仰とは別に、病気などの生存危機に見舞われた時、呪術師のもとを訪れて、何やら知れぬ儀式や呪文で安心を得るということがあった。呪術信仰と卜占信仰はバビロニヤ・アッシリヤにとっても重要な一つの信仰形態だったのである。
 この呪術や卜占は、王権と結び付いた神々への信仰形態とは別に、民間信仰として人々の中に深く定着していた。それは、しばしば現代の未開社会にも見られるように、生への執着の現われだったのであろうか。しかし、そうであるなら、その最大の主題は「死」であって、それは宗教的な問題だと思うが、彼らにはエジプトのような不死・再生の信仰はない。生前の倫理的行為に基づく死後の審判という思想は、彼らにはなかった。二つの大河地域の人たちは、現実主義的現世志向だったと言えるのかも知れない。有名な「ギルガメシュ叙事詩」には、そのような彼らの世界観が色濃く描かれているようである。
 そんな現実志向が、ユダヤ人のような強烈な超越神信仰や、神人合一的神秘思想を発達させなかったのかとも想像させられる。その神々への儀礼と信仰は、やがて、メディア・ペルシャの滅亡とともに消滅してしまったが、一部は周辺世界のローマ・ギリシャ世界にも伝えられ、特に現実志向という世界観は、現代にまで受け継がれたと言えそうである。

 メソポタミヤの宗教ということで、取り上げなければならない宗教の流れがある。正確にはイラン北東部の高原地帯で、豊かな農業が営まれていた大河地域ではないのだが、少々離れていても、メソポタミヤ文化圏で語られるので、触れておかなければならない。中央アジヤから移住して来たアーリア人による新しい宗教・ゾロアスター教と、その宗教を背景に誕生したグノーシス主義思想であるが、これは「古代の宗教」最後のところで扱うことにしよう。


2、古代エジプトの宗教

 エジプトで、歴史というものは―口伝の時代も一部含む―、古王国時代(紀元前約3000年頃に始まったとされる)以降のことであって、恐らく、それ以前の、メソポタミヤ文明にも栄えていたノモス(都市国家)時代のことは、遺跡も未発見であって、神話時代のこととして良くは知られていない。まして、原始時代のことは闇の中に埋もれている。そもそも古王国時代でさえ初期の頃は、神話の世界と言っていいほどなのである。
 近年、人類の歴史はアフリカから始まったとされている。
 いわゆる「ホモ・サピエンス」の時代であって、一握りのホモ・サピエンスがアフリカから出て、ネアンデルタール人など、別種の複数の人類との競合を勝ち抜き、種々の素朴な文化革命を起こしながら世界各地に広がって行った、とするのが現代研究者たちの定説になりつつある。しかしながら、この研究は近年になって始まったもので、その宗教など文化面の解明は、メソポタミヤ文明との関わりも含め、今後の課題である。
 二つの大河流域に発展していったメソポタミヤ文明と、ナイル川流域に形成されたエジプト文明のどちらが先なのか、素人目には分かりかねるが、どちらにも、解明されない古い痕跡がまだまだ多く残っている。もし、解明されるなら、その宗教は、古代メソポタミヤと古代エジプトの実体を、今までよりも多く語ってくれるのではあるまいか。期待したい。

 エジプトでは、繰り返されるナイル川の洪水とともに目覚ましく発展していった農業文化から、高度化された宗教文化が独自に形成されていったのである。

 神戸で開催された「エジプトのミイラ展」を見に行った。
 そこで強く印象に残ったのは、ミイラ文化の先鞭と言われる、砂漠の中で自然にミイラ化した女性だが、ジンジャレラと名づけられた彼女には、「私、美しいでしょう」と語りかけて来る躍動感のようなものを感じた。エジプト人たちも、きっと、そのようなことを感じたのであろう。いかにも「生きています」と言いたげなミイラ「作り」が始められた。そして、ミイラが納められた「墓」には、故人が使用した日用品が、王や貴族などの墓には、たくさんの贅沢な品々が納められようになっていった。まるで生の続きのように。大体は地下墓所が彼らの住まいとして、そしてピラミッドが「死」からの再生を視野に作られたものと考えられている。死者には死者なりの生活があるという宗教思想が生まれていた。
 古代エジプトの宗教は、死者を葬るところから誕生していった。
 しかし、その宗教は、死者と生者とをつなぐ文化でもあって、死者をいかに安寧に葬るかに心を砕く時、生者もまたその恩恵に与るのである。彼らの宗教を語る時、その中心には「死の世界」と、「死からの脱却」という主題が顔を覗かせているのだが、それは彼らにとって不可欠なのである。
 それは、現代のエジプト人にも引き継がれているのだろう。
 エジプト人は生と向き合うように死と向き合っていた。
 古代エジプトでは、死者と生者の世界はナイル川によって隔てられていた。
 生きている者たちがナイル川を超えて向こうに行くことはないし、死者がこちら側に来ることもない。厳密に言えば、その分離は、生者の発想による。生者と死者とを切り離しても、完全に分離するなどあり得ないなのだから、とりあえず建前としての分離なのであるが・・・。たとえば、隠亡(おんぼう)たちが死者をミイラにして葬っても、彼ら自身は生者側の人間であるし、宗教を司る祭司たちは生者を代表して「死」の世界を取り仕切るが、それはあくまでも、教団が構築した信仰儀礼なのである。
 だから、それは宗教上の分離であったと考えて間違いあるまい。
 ただ、近年、死者の世界だったところに、生者(ピラミッド建設の職人や技術者やその生活を支える者)たちが集団で生活していたかなり大きな「町」が発掘されたので、この定説も覆されつつあるのかも知れない・・・

 エジプトはナイル川の怒りと恵みに支配されていた。
 氾濫がもたらす怒りと恵みは、当然彼らの宗教に結びついていく。生者と死者の世界がナイル川によって隔てられていたのは、単なる物理的なものではなく、生と死という精神的中垣にナイル川が大きな役割を果たしていたと見ていいだろう。川のこちら側には生者の世界で騒音と活気の生活が・・・、向こう側にはミイラ作りをする穏亡たちの死者の家やミイラたちの生活空間・地下墓所やピラミッドが・・・。宗教は、あちら側に移転させられた者の怒りや悲しみが、悪意を募らせてこちら側を引き込まないようという願望の表れだったのかも知れない。
 死者を弔う思いが彼らの宗教の根本と感じる。

 二十歳代の頃から興味があったので、東京やいくつかの地方都市で何回も開催されて来た古代エジプト展を見て来たが、ミイラとともに強烈な印象が残ったものに「死者の書」がある。いくつもある「死者の書」の中でも、特に有名な「アニのパピルス」を、英文からの訳文で一部紹介しょう。
 イシスの息子ホルスは言う。「ウンネフェル(オシリス)よ、私はオシリス・アニを連れて参りました。彼の心臓(心?)は良く、秤にかけましたが、神あるいは女神に対する罪は見あたりませんでした。トート(文字と知識の神)が神々の定めに従い心臓(心)の計量を行ったところ、それは誠実で正しいことがわかりました。どうか彼に食べ物と飲み物を授け、オシリス神の御前に姿を現すことを許可し、永遠の余生をホルスの従者のひとりに加えてください。」
 アニは言う。「オシリス・アニは申し上げます。私は死者の国の君の御前におります。私のからだは罪に穢れておりません。私は不実な言葉を口にしたことはなく、偽りの霊をもって行動したことは一度もありません。どうか私が御君の仲間に加えられた人々のようになることをお許しください。そうすれば私は、美しい神の御前でひとりのオシリスとなってふたつの地の主の愛を得ることができます。私ことファラオの書記なるアニは、御君を愛し、御前オシリスに捧げる言葉は常に真実であります。」
 冥界の王オシリスが支配する幸福の国アールゥは、はるか西方にあって、魂は広大な砂漠を横切り、悪霊や大蛇や悪魔の妨害を退け、最後には怪獣の姿をした悪神セト(オシリスの殺害者)と戦わなければならなかった。そして「オシリスの審判の広間」に辿り着くわけだが、オシリスの左右に居並ぶエジプト各州(ノモス)を代表する四十二人の神々の前で厳しい審問を受けることとなる。魂は「私は人を殺したことはありません」などと罪状否認を行ない、いよいよオリシスの前で審判を迎える。そこには「正義の秤」があって、一方に「正義の羽」が、他方には「死者の魂」が乗せられる。魂が羽よりも重くても軽くても魂はセトの怪獣に食われて、魂は永遠に無明の闇をさまようことになる。秤の両端が同じ重さであると判定されると、アールゥに迎えられ、死者は生前と同じかそれ以上の暮らしをしながら復活の日を待つというものである。
 死者の書は冥界への案内書と言えよう。
 古代エジプト人の宗教は、死への恐れから発生したと言えよう。
 それは恐らく、ほとんどの民族宗教に認められるものではなかろうか。きっと人々の周りにある植物や動物、また石や森や山や海などの自然界の事物や、そこで遭遇する嵐や干魃などの災害、更に、太陽や月といった星辰にも、その脅威や恩恵に彼らの生と死が一体化して、素朴な神性を感じたということなのだろう。それが彼らの宗教となり、神々が誕生した。

 古代エジプトはあまりにも長い歴史を辿って来て、神々はいつしか統合され、力の強い神々が優位に立ち、或いは変化し、また、別の神々が台頭して混合が行われたりと、そんなことを繰り返して来た。そういった過程の中で生まれた宗教を、これこれと単純に包括したり特定することは出来まい。
 しかし、以下のような行程を辿ったのではないかと想像される。
 a、純粋な動物崇拝
 b、人身獣頭の神々崇拝
 c、人間神の台頭(オシリス神など)
 d、宇宙神(ラー系)崇拝
 e、抽象神崇拝(たとえば正義の神マート)
 f、外来神信仰
 最初の動物崇拝は、恐らく、統一王国以前に争っていた多くの小部族の名残かと思われる。人間が少なかった時代に、動物たちは、砂漠でも大河でも縦横に走り回り、強者が弱者を完全に支配していた。そんな強い動物に憧れた人間は、動物たちの強さを身に纏い、他を支配したいと願ったのだろう。
 ホルス(鷹)信仰やウト(コブラ)信仰など、その宗教の一つの特徴はトーテミズムである。これは、ある種の動物を神聖なものとして祭るもので、たとえば、インドの聖牛など、現代も世界中のいろいろな民族に見られるものであるが、古代エジプトでは、神々のほとんどが動物の頭部で表わされており、ミイラの棺に施された装飾や王が纏っている頭部の飾りにも、動物が象られている。彼らのトーテムは、もはや神々の化身そのものになっていたのではあるまいか。

 エジプトの神々は、古くは、女神優位の社会だったようである。
 それは、古代エジプトが女性優位の農耕社会だったことを告げていよう。一つ所に定着する農業社会は、狩りのために移動して歩く男性には不向きであって、子どもを産んで育てる母系家族が支えて来た。
 それが、統一王国の時代になると、男神優位に変わって来る。
 古王国時代あたりから、戦いに出ていく男性が強い発言権を得るようになって来たからであろう。その代表的な男神には、冥界の王で、冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴する農耕神のオシリス、更に、太陽を模した宇宙神ラーが上げられる。ラーは御座船に乗って昼は天上を、夜は地下の世界を巡ると考えられている。ピラミッドにはその御座船が一緒に埋葬されているのであるが、それは、ラーの化身である王が乗るためのものである。王は王であると同時にラーの最高祭司であった。そして、同時にラー神自身でもあったのである。彼はファラオと呼ばれるが、それは「大きな家」を意味している。「大きな家」とは「ラー神の家」のことである。
 その王とともに古代エジプトの宗教も変化していく。

 少し時代が下ると、新来のアモン神(テーベ地方の大気の守護神、豊饒神)が勢力を伸ばし、突出した権力と財力を手中にした。
 中王国時代には、人格神としてテーベ周辺で信仰されていたのだが、その頃すでに太陽神ラーと習合されてそのまま新王国時代に移り、最高神となったアモン・ラー信仰は、エジプト全地で隆盛を極める。それは、つまりアモン神の司祭団が巨大化して、王までも支配するようになったことを意味していよう。

 しかし、あまりにも大きくなりすぎたアモン支配に、やがて否を唱える王が現われた。「アマルナ革命」と呼ばれる。
 この革命を起こしたのは、黄金のマスクで有名な少年王ツタンカーメンの父親で、アメン・ホテップ四世であった。
 彼はアモンの祭司エイエから教育を受けたが、いつの頃からか、愛と平和の神アトンを崇拝するようになり、名前もイクナトンと改めて・・・と、初めはアモン神の勢力に不安を覚えての政治的動機からと思われるが、やがて、その宗教心が高じていったのだろうか。アモンの神殿を破壊、その祭司たちを虐殺、アトンの都(アマルナ)を建設してテーベからの「遷都」を決行したばかりか、アトンを唯一神として他の神々への信仰も禁じるなど、常軌を逸した政策を施行していく。ちなみに、現在もアマルナと呼ばれる場所から出土した多数の文書は、アマルナ文書と呼ばれて、古代史研究の重要資料となっている。
 アトンとは彼の心に浮かんだ抽象神であるが、少し前に、モーセを頭とするイスラエル人のエジプト退去の事件があったから、唯一神信仰というエジプトでは考えられない彼の宗教心は、その辺りに起因しているのかも知れない。イスラエル民族のエジプト退去事件は旧約聖書「出エジプト記」に詳しい。
 アメン・ホテップ四世の狂気じみた宗教心は、アモン神への反発以上に民衆に受け入れられないものとなり、アトンの新都に移った者たちはほんの少数の廷臣たちだけだったようである。彼の死とともにアマルナ革命は挫折し、また、アモンがエジプトの主神として復活するなど、神々の権力闘争が繰り返されていった。

 古代エジプトでは、王制という社会システムが宗教に侵略されてしまったかのように、宗教が王を始め人々の心を自由に操るなど、権力闘争を引き起こす重要なツールとなっていく。
 いや、宗教は人間の思惑の中で生まれているのに、いつの間にか人間の手を離れて独立し、却って人間を支配するようになっていくのである。そのような動きは、現代でもあちこちで繰り返されているのではないか。宗教というものは、いつの時代にも、人間に関わって人間を操作する部分が中核を占めていると思われてならない。その意味でエジプトの古代宗教は、大昔に栄え、今は「失われた宗教」と思われているが、決してそうではない。
 確かに、アモン、ホルス、ラー、オシリスといった絶大な権力を誇った神々は、アトン同様に失われてしまった。
 しかし、現代エジプトは、国民の大半がムスリム(イスラム教徒)で、その他に少数のコプト教会と呼ばれる独特なキリスト教や、更に少数の種々の諸宗教が混在しているのだが、国民の大部分を占めるムスリムは、他のイスラム諸国に比べてかなり穏健なように映る。もしかしたら、何もかも受け入れて来た古いトーテミズムの古代宗教伝統が生きているのかも知れない。そうだとするなら、コプト教会が独特なことも頷けるではないか。


3、ギリシャ・ローマの宗教

 ギリシャの宗教というと、第一にギリシャ神話を上げなくてはなるまい。
 あまりにも有名なギリシャ神話である。
 しかし、それはもはや宗教としての実体を失っていて、文学や美術などに痕跡を留めている「物語」に過ぎない。当該の現代ギリシャ人にしても、自分たちがその神話から生まれて来た民族であるとは信じてはいないのだ。まして、経済的にも文化的にもすっかり没落したギリシャ人は、世界を担って行く義務と責任を有しているなど、露ほどにも感じてはいない。最近、EUの厄介者となったギリシャの経済的破綻は記憶に新しい。もっとも、神話を字義通りに受け止めて、われわれは神々の子孫であるとして、現代世界に「こうしろ、ああしろ」などと指図されても困るのだが。
 ともあれ、ギリシャ神話が、現代、すっかり神通力を失っているのは、まぎれもない事実である。
 しかし、その古くて重厚なギリシャ文化を継承したローマ帝国を経て、その社会的末裔であるヨーロッパが、ギリシャ神話を、まるで自分たちの故郷の文化のように受け入れて来た。ドイツが「神聖ローマ帝国」(紀元800年のカール大帝戴冠式からフランツ二世が「ドイツ帝国」解散を宣言した1806年まで)を打ち建てたのも、その意識があってのことである。ドイツを始めヨーロッパ各国の人たちは、幼ない頃から、ヨーロッパ人の教養としてギリシャ神話を聞いて育って来た。ヨーロッパ文化圏となった現代日本人にとっても、ギリシャ神話は、知的文化として、馴染みあるものになっている。
 そして、ローマ固有の神々をギリシャの神々に重ね合わせ、ゼウスはデウス、ヘラはユノー、アフロディテはヴィーナス・・・というふうに、ギリシャ名であったものをローマ風に名を変えてしまったのである。
 武力でギリシャを征服したローマが、文化面ではギリシャに征服されたと言われる所以である。


(1)ギリシャの神々

 古代ギリシャは紀元前6500年の石器時代に始まる。
 その後、初期ギリシャ文明として栄えた前2000年紀のミノス文明(前1700年~1400年)やミケーネ文明(前1300年~1200年)があって、すでに今も知られるゼウス、ヘラ、アテナ、アルテミスなどの神々がいたようだが、その神話については未だに明らかではない。

 現代に伝わるものは、古代ギリシャ社会でも、アルカイック時代(前800年~500年)やクラッシック時代(前500年~1世紀)などの、次第に独特の文化が形成された時代に育成された神話であるが、ホーメロス(前800年頃)の二大叙事詩・「イリアス」「オデュセイア」、ヘシオドス(前700年頃)の「神統紀」などに見られる。ギリシャ人たちは、得意とする哲学思想の中で古いミケーネの神々を理解し、ギリシャ的な新しい教養として、神々を位置づけていったのだろう。
 ギリシャ神話には、世界の始源としての、はっきりとした民族伝承は見られない。このことについての関心は、哲学で問われている。
 ギリシャ神話は、ウラノス(天)とゲー(地)の結合から、タイタン(巨人)族とギガトン(別の巨人)族が生まれたというところから始まる。
 ウラノスは神々の王であった。ところが、タイタン族の末弟クロノス(時)が父神ウラノスに反逆し、大鎌で父の性器を切って二代目神々の王になった。そのクロノスは妹のレイアと結婚し、冥界の王プルトン、海の神ポセイドン、大地の神デメテルが産まれたが、子どもたちの反逆を恐れて、彼らを飲み込んでしまった。しかし、最後に生まれたゼウスだけがクレタ島の洞窟に隠れて、父殺しの機会を狙っていたと言われるから、いやはや恐ろしいものである。
 ここには、古代ギリシャ人の闘争に明け暮れた人間模様が投写されている。
 時至って、成人したゼウスは十年に及ぶクロノスとの戦いを制し、神々の第三代覇者として君臨することになった。
 ギリシャ神話を現代に伝えている古代ギリシャ詩人ヘシオドスの「神統記」によると、神々の時代には、黄金の種族の時代、白銀の種族の時代、青銅の種族の時代、鉄の種族の時代と、四つの時代区分があったようである。ギリシャ文化の時代区分を意識したのであろうか。その最後に来る鉄の種族の時代は、半神半人とも言える英雄の時代を内包しながら、神々の世界の終焉を彩り、やがて人間の時代へと移行して行くことになる。
 ヘシオドスのもう一つの作品・「仕事と日々」によると、クロノスの時代は「黄金時代」と呼ばれ、神々と共に住み生きていた人間世界は、調和と平和に満ち溢れ、争いも犯罪もなく、人々は老いることなく、死ぬことも苦しむこともなかった。しかし、そんな理想世界が、ゼウスによって転覆してしまう。ゼウスの時代は「白銀の時代」と呼ばれるが、そこそこに良い時代ではあった。しかし、神々の覇権を巡る争いが繰り返されて・・・、次第に秩序が失われて行く。

 こう見て来ると、古代ギリシャにおける諸民族の人間模様というか、覇権争奪戦の世界が見えて来るようである。交替が王殺しによって決まった地上の王権が、そのまま神々の世界に持ち込まれていたのだろう。闘争という、ある意味での通過儀礼による主権交替は、古代ギリシャでは必然的なものと考えられていたのだろうか。「黄金時代」という理想郷を夢見ながら・・・。いや、なにもギリシャ神話の世界だけではない。現代に至るまで、人間の願うことは、この神々の世界と少しも変わっていないのではないか。

 ギリシャ神話における人間誕生は、何故かはっきりしていない。
 一応、デウカリオンがギリシャ人の祖と考えられている。
 その人間誕生の神話を紹介しよう。
 デウカリオンの父で、英雄時代の神々の一人でもあるプロメテウスは、人間を愛していた。
 この人間というのは「先の人間」ともいうべき存在である。
 プロメテウスは、天上から火を盗んで人に与え、更に家の建て方、船の作り方、動物の飼い方や文字、数の使い方まで教えたという。それらの知識はもともと神々の世界にしかなかったもので、彼は人間にその神々の文化をもたらしたと言えよう。ところが、余りにもたくさんの知恵を身につけた人間は、高慢に陥り、悪くなったので、主神ゼウスは彼らを滅ぼそうと考えた。
 大雨を降らし、地上を、神話では定番の「大洪水」で覆ってしまう。
 しかし、プロメテウスは、なぜか、息子のデウカリオンとその妻ピュラに、洪水に備えて箱舟を作り、それに乗っていのちを助けよと警告していた。心の正しい一組の男女デウカリオンと妻ピュラのいのちを惜しんだのであろうか。すると、「先の人間」という言うべき中に、デウカリオンと妻ピュラも数えられていたということなのだが・・・。ともあれ、彼らは箱船に乗って、九日九夜漂流した末に、パルナッソス山の頂上に着いた。コリンティアコス湾の小さな港から登って行く託宣で有名なデルフォイ神殿のすぐ北側にそびえる山だが、デルフォイ神殿同様、神話がぎっしりと詰まっている。
 洪水がおさまった時、彼らに、「大いなる母の骨を、歩きながら後ろに投げよ」と神託があった。母は大地であり、骨とは岩のことであると悟った彼らは、神託で示されたように、石を取って、歩きながら後ろに投げた。まずデウカリオンが投げた石は男となり、次にピュラが投げた石は女となって、新しい人間社会が誕生、形成されたのである。
 恐らくこの物語は、メソポタミヤからの借り物であろう。
 有名なギルガメシュ叙事詩にも洪水伝説はある。
 だが、この物語は、聖書の創世記にも組み込まれていて、「ノアの洪水」として知られている。二段階という人間誕生の物語は、洪水伝説とともに世界各地の神話にも刻まれているので、そのような事実が口伝で伝えられて、それがこの神話につながったのだろう。
 それにしても、さすがギリシャ人である。自分たちは神々の文化継承者なのだと、ものすごい自負を矜持しているのだから。

 ところで、人間誕生後、間もなく迎えた「英雄時代」に、ギリシャ神話が紹介する代表格は有名なヘラクレスであろう。
 彼の父は主神ゼウス、母は人間の王女アルクメネと伝えられる。
 アルクメネを見初めたゼウスは、彼女に言い寄ったが、アルクメネはアムピトリュオンとの結婚の約束を守り、決してなびかなかった。そこでゼウスはアムピトリュオンが戦いに出かけて不在の時に、アムピトリュオンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げた。アルクメネが産気づいたとき、ゼウスは「今日生まれるペルセウスの子孫が全アルゴスの支配者となる」と宣言した。こうしてヘラクレスは誕生以前からヘラの憎しみを買うことになり、一時期、ヘラが仕掛けた狂気に陥って、わが子を殺したりもした。しかし、正気に戻ったヘラクレスは、罪を償うためにデルフォイに赴き、アポローンの神託を聞いた。その神託は、「ミュケナイ王エウリュステウスに仕え、十の勤めを果たせ」というものだった。
 エウリュステウス王が彼に命じた勤めは、初めは「ネメアのライオンと呼ばれる不死身で魔性の怪物の皮を持ち帰って来い」とか、「ヘラの果樹園であるヘスペリデスの園から黄金の林檎を取って来い」などといった十の難題であったが、後に十二に増えた。この「神々の食べ物である黄金の林檎」については、興味深い伝説があるので紹介しよう。
 ヘラクレスは、人間に火の使い方を教えたためにゼウスに罰せられてカウカーソス山に縛り付けられていたプロメテウスを救い出して、助言を請うた。プロメテウスは「ヘスペリデス(美しいニンフたち)はアトラスの娘たちだから、アトラスに取りに行かせるべきである」と答えた。アトラスは神々との戦いに敗れ、天空を担ぎ続けていた。ヘラクレスがアトラスのところに赴き、自分が天空を担いでいる間に林檎を取ってくるよう頼むと、アトラス快く承知して林檎を持ち帰った。しかし、再び天空を担いで身動きできなくなるのを嫌って、自分が林檎をミュケナイに届けると言い出した。ヘラクレスは一計を案じ、頭に円座を装着してから天空を支えたいので少しの間天空を持っていてほしいと頼んだ。承知したアトラスが天空を担いだところで、ヘラクレスは林檎を取って立ち去った。
 このようにヘラクレスはそのような難題を一つ一つ解決して、人間世界に平安をもたらした。それは、ギリシャ神話の中で最も有名な物語の一つに数えられている。彼は人間として生まれたが、地上から各種の怪物や害毒を追放するという人類奉仕の難業によって、最後には天界に上げられ、永遠の青春を象徴する女神ヘーパを妻に与えられ、神々の世界に住むようになった。
 まるでスーパーマンだが、死さえも克服した英雄は、ギリシャ人の憧れの的となった。人間が神性を獲得した物語と言えよう。神々はギリシャ人の究極の理想像なのかも知れない。

 ギリシャ神話の軌跡を辿ってみよう。
 世界のはじまりに、神々の壮烈な争いがあった。その様相は、まるで人間の権力闘争そのものである。そして、神々の世界はヘラクレスやプロメテウスなど、半神半人という英雄の時代を経て、ついに新しい人間社会に至る。ギリシャ神話は、初めから人間という主題を見据えていたと言えよう。
 神々の末裔である人間は、明るい未来を見つめて歩み始めた。
 しかし彼らは、見つめた希望を実現出来たのだろうか。
 ゼウスが粘土から造った美しい女性・パンドラをご存じであろう。
 神々が彼女に決して開けてはいけないという戒めとともに贈った「パンドラの箱」の物語は、余りにも有名である。好奇心に勝てず、彼女はその箱を開けてしまって、中に入っていたあらゆる災いが人間社会に飛び出した。最後に残ったのは小さな「希望」、それもまた飛び出して行った。人間社会は災いと希望が入り混じった葛藤の場になって行く。新しい秩序を夢見て描き上げたであろうギリシャ神話には、何故か、破滅へと向かう人間の本性もたっぷりと描かれている。

 ギリシャの神々、次は美しい女神たちである。
 彼女たちのほとんどはオリエントから輸入された地母神だったが、その勢力は、神々の王ウラノスやクロノスの出現以前に、母権社会の支配権を握っていたもののようである。
 それは古代社会のどの地域にも言えることだが、その支配権はいつの間にか父権社会に座をゆずり、彼女たちは男性神の陰にひっそりと隠れてしまうのが常であった。
 ところが、ギリシャ神話の女神たちは、男性神とともにパンテオン(万神殿)に組み込まれていく。そこには近代的国家の雰囲気が感じられて、さすが哲学の国と思わされる。面目躍如といったところだろうか。
 彼女たちの中でも有名な面々を挙げてみよう。
 アテナ、アルテミス、アフロディテ、デメテル、ヘラ・・・と、こんな名前を聞いたことがあろう。
 アテナはもちろん都市国家アテネの守護神で、ゼウスの頭から、甲冑をつけ、槍と盾を手に生まれて来たそうである。アテネのパルテノン神殿は彼女を崇拝する中心地であって、パルテノン神殿が都市国家(ポリス)アテネを支え続けて来たと言ってもいい。たくさんの乳房を持つ豊穣神アルテミスのことは、新約聖書・使徒行伝19章でエペソがその崇拝の中心地として登場して来るので、いくばくかの親しみさえ感じてしまう。彼女はもともと狩猟神だったが、収穫にたずさわる豊穣神的側面もあって、それが恍惚や酒宴などを伴う儀礼の祭神という性格を帯びることになったのだろう。デルフォイ神殿の託宣神アポロンとは双子の姉に当たる。時代が下ると、これがアフロディテかと見がまうばかりの、美しいレディに変身している。アフロディテは美と愛で有名な女神だが、恐らく、古代バビロニヤで主神マルドゥクと並び栄えた「天の女王・イシュタル女神」がその原型なのだろう。ローマでは、ヴィーナスとして知られる。ミロス島から出土した美しい「ミロのヴィーナス」はあまりにも有名であろう。また、ゼウスの妻ヘラの嫉妬心は、神々に君臨する主神ゼウスさえ戦々恐々とさせたようである。
 いかにも華やかな彼女たちだが、多種多様な神々の中で、ひときわ精彩を放って輝いているようである。きっと古代ギリシャでは、女性蔑視に陥る以前のことであるが、いろいろな面で女性たちに負うところが大きかったのだろう。
 ギリシャの神々は、まさに人間世界を映し出していた。

 神話の世界から人間中心の現実社会に目を向け始めたギリシャ人たちは、神話ではない文化構築に力を注ぎ始めたようである。
 ギリシャと一口に言っても、その広がりは大きく、時代によってもさまざまな要素が絡み合う。詳しいことは未だ判っておらず、ギリシャ人の大半は山村やエーゲ海の島々の小さな集落に散在していたのだが、ギリシャが空前の繁栄を極めたのは、前480年に、国の命運をかけてアケメネス朝・ペルシャ帝国と争った、サラミスの海戦に勝利した都市国家(ポリス)アテネによってである。
 圧倒的な軍事力を誇るペルシャ軍侵攻の報せに、アテネは国の命運をかけなければならなかった。アテネはデルフォイ神殿の託宣に頼る。莫大な貢ぎ物をもって託宣を求めたアテネに、デルフォイ神殿は、「されどアイギス保つゼウスの御娘は、木の壁のみ守りてアカイア人に与え給う」という託宣を与えた。アテネの将軍テミストクレスは、「木の壁」を船と解し、三段櫂船を造らせて、サラミスの海戦でペルシャ軍を打ち破ったと、「占い」の項で見た。

 しかし、アテネの繁栄は長続きすることはなく、ギリシャの覇権をめぐって争った、スパルタとのペルポネソス戦争(前432年~404年)によって疲弊し、次第にその力を失って行くのだが、軍事大国であったアテネは、皮肉なことに、軍事大国であることを諦めたことで、マケドニヤの影響もあって、「古典ギリシャ語」から「コイネーギリシャ語」(新しい近代的ギリシャ語)に言語体系を整えつつ、哲学、歴史、悲劇、喜劇、彫刻などの学問や芸術といった文化面での第一人者として華開いて行くのである。
 その一端を担ったギリシャ語について見ておこう。
 現代人にとって、ギリシャ語は最も難しい言語の一つに数えられている。それは、古代語に共通の要素でもあるのだが、ギリシャ語は、ことさらに「ことば」の一つ一つが何通りにも変化する言語だからである。過去形、完了形、不定過去、分詞形などなどなど、語幹も語尾も変化する。動詞だけではない。名詞も形容詞も副詞も・・・、定冠詞さえ三十通りに変化するのである。さらにややこしいことに、不規則な変化をするところもある。その変化形の多さは古代語の中でもずばぬけていよう。ローマ人が用いたラテン語も変化形を持っているが、ギリシャ語に比べるとはるかにシンプルである。いや、ラテン語は、ギリシャ語のそれを省略しながら真似ているのである。ギリシャ語の変化形を、手許にある聖書のギリシャ語(コイネー)文法書で数えてみたら、一つの動詞の単語が規則変化だけでも156通りあった。もちろん、不規則変化する動詞も多い。これを覚えなければギリシャ語で聖書を読むことは出来ない。古典ギリシャ語の変化形はもっと多いのだ。
 この複雑なギリシャ語が現代語にまで大きな影響を与えていることは、想像をはるかに超える。その遺産を現代語が引き継いだ経緯に触れることは避けるが、ギリシャ語の難解さを強調するわけではないが、それくらい緻密だと言いたいのである。その緻密さがギリシャ人の特徴であった。ローマはその文化に屈したのである。一応、公用語はラテン語であったが、実質上、世界言語は現代の英語をずっと上回る勢いでギリシャ語であったし、ローマ貴族のステイタス・シンボルには、ホーメロスの「イリアス」や「オデュセイア」の一節がギリシャ語ですらすらと出て来ることが上げられている。ローマ帝国は、その軍事力とともに、ギリシャ語文化をもって世界の隅々にまで広がっていたのである。

 この緻密なギリシャ語のもとで、神話の国ギリシャには、神話とは似ても似つかぬ哲学が発展して行った。
 哲学、ギリシャ語でフィロソフィアは、「知恵を愛する」という意味の学問である。アテネを中心にいろいろな学派が誕生し、時には街の広場(アゴラやアレオパゴスの丘)で議論を戦わせながら、多くの知者や賢者を輩出して来た。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ピタゴラス・・・といった賢人たちや、ストア派やエピキュロス派といった学派のことをご存じだろう。論理学も修辞学も形而上学もそこから誕生した。
 特筆すべきは、ローマ帝国が世界を席巻して世界帝国を形成して行く中で、やがてキリスト教に引き込まれて行くのだが、そういった過程で新約聖書がこのコイネーのギリシャ語で書かれたことである。ある意味で、ギリシャ語のコイネー化は新訳聖書の普及とともに進められたのである。そして、オリエント発祥の「グノーシス主義」という新しい宗教思想が、ギリシャ哲学と手を結んだことも上げておかねばなるまい。キリスト教とグノーシス主義という二つの近代的宗教が、ギリシャを舞台にせめぎ合う。そんな舞台が、今、ローマ帝国に引き継がれて、新しい局面を迎えようとしているのである。


(2)ローマの神々

 ローマは軍事力でギリシャを征服したが、文化面ではギリシャに征服されたと言われるように、ローマ人にとって、ギリシャ語を話せることが、その知的水準を示すステイタスになっていた。
 ローマの歴史は、その建国伝説によると、前753年にロームルスが王となって、ティベリス川畔に人口数千人の小都市ローマを建設したところから始まる。約250年の王制を経て、元老院治下の共和制が約500年、そして帝政に至る。世界帝国となったのは、共和制のもとで、北アフリカに位置するカルタゴとの三回の「ポエニ戦争」(前264年ローマ軍のシチリヤ上陸~146年カルタゴ滅亡)を勝ち取って、地中海の覇者となってからのことである。カルタゴとは、地中海を我が物のように走り回っていた海洋民族フェニキア人のことで、「ポエニ」とはラテン語でフェニキヤを指す。

 ローマの神々は、物または現象の中にある種の力を感じ、これに祈り、祭りを行ないながら、次第にそれが神々という観念に進んだと考えられている。単なるシンボルではない。木や石や動物や水や人などの物体の中にあって、その物体のさまざまな現象を支える力をローマ人はヌメンと呼ぶが、そこから彼らの神々が発生したと思われる。「ヌメン」とは、ある意味での「霊」、スピリチュアルなのだろう。原始宗教発生の原点とも言えるアニミズム・汎神論に近いと見ていい。しかし、ヌメンは実体のない霊であるから、その実体にギリシャ神話の神々を借りてきたと言えなくもない。ローマ人にとって、もともと実体はどうでもいいものであったから、表面的にはギリシャの神々であっても、一向に差し支えないのだろう。ユピテルはゼウスの焼き直し、ユノーはヘラ、ミネルヴァはアテナ、ヴィーナスはアフロディテと同一視されている・・・といった具合である。

 ギリシャ神話を模したローマ神話は、ギリシャ神話と同じ道筋を辿るようになる。しかし彼らは、ギリシャ人より真剣な求道者だったのだろうか。
 新しい救済宗教が、ローマ世界に台頭して来る。
 ミトラス教とキリスト教である。
 ミトラス教はキリスト教に先駆けてローマ全域に広がって行った。
 帝政初期の頃のことである。

* ミトラスとは、古いサンスクリット語の「計量」に由来する。計量とは基準のことで、社会をリードするという気概に溢れていたのだろう。古くからインドやイラン北東部に移住した中央アジヤの民族として知られるアーリヤ人の神々の一つだったようだが、アーリヤ人の移動に伴って、イラン北東部の下層階級の人たちに信仰されるようになった。
 その後、ゾロアスター教がサーサーン朝ペルシャの国教となった時点で、英雄神、歳月の計量者すなわち太陽神、また、人々の正しい関係の計量者すなわち契約、正義、友情の神として組み入れられたようである。
 信者たちの礼拝は、地下聖堂で密かに行われていたと言われる。
 「牡牛を屠る宗教」と言われていたから、恐らく、神秘主義的密儀宗教だったのだろう。その岩肌には、聖なる牡牛を殺すディオニュソス的ミトラスの浮き彫りが描かれているそうである。
 そんな密儀宗教が前150年ころにローマの下層階級の人たちの間に入り込み、瞬く間に広まった。それは人間の野性的生命力、反理性、反文明への憧れを現わし、恐らく、ギリシャ文明への反発が、ローマ民衆をミトラス教へと駆り立てていったのではと想像される。

 「ディオニュソス的ミトラス」と奇妙な言い方をした。
 ディオニュソスは前8世紀、ギリシャに入って来た比較的新しい神であるが、ローマ人が好んで用いた「バッカス」という称号のほうが有名だろう。日本語で「酒神」と訳されたのは、バッカスがブドウの栽培とぶどう酒の製法を教え、ぶどう酒の神という一面を持っていたからなのだろう。
 その祭祀で信徒たちは、ぶどう酒に酔って恍惚状態となり、無我夢中で山野を駆け巡り、出会う動物を引き裂いては、生肉をむさぼり食らったと伝えられる。
 新訳聖書・コリント第一書13章「愛の章」には、「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです」とある。これはアナトリア半島のフリギアで崇拝され、ローマやギリシャにも広がった大地母神キュベレ女神の神殿で打ち鳴らされる銅鑼やシンバルのことで、キュベレ女神に仕える祭司は狂乱乱舞をもって儀式を執り行っていたようだ。エクスタシーを伴う典型的な宗教タイプである。哲学者ニーチェは、芸術の基本型を、知的で静的なアポロン型と、陶酔的で激情的なディオニュソス型に分類しているが、アテネで発展していった芸術は、そんなディオニュソス型の霊感的祭儀に由来すると言われている。
 もともと密儀宗教のミトラスは、そんなエクスタシーを伴ったディオニュソス型の激情的な一面を色濃く持っていたから、ローマ固有の「ヌメン」型のバッカス教に共感を覚え、呼応したのかも知れない。
 平凡社の百科事典には、ミトラス最大の祭日12月25日がクリスマスに、更に、日曜日も彼らの祝日からの転嫁であると記されていた。クリスマスにも日曜礼拝にも諸説あって真偽のほどは定かではないが、恐らく、ミトラス教は、古代ローマ社会を一時期でも華々しく彩った宗教だったから、やや遅れてローマ世界に入り込んできたキリスト教が、ローマ世界の先輩宗教に惹かれてその祭日を借用したとしてもおかしくはない。
 祝祭日のことはさておき、エクスタシー状態はローマ人の宗教観にマッチしたのかとも思われ、それが、宗教の本質的形態の一つの典型を示しているようで、ローマ人宗教の遺産と言えるのかも知れない。
 キリスト教がどこかで躓いていたなら、ミトラス教が世界を席巻していただろうと言われるほどの勢いを誇っていた宗教である。ミトラス神も「メシア」(「救い主」の意)と呼ばれているし、キリスト教との類似点がいろいろと挙げられるなど、ミトラス教シンパは意外と多いようである。
 しかし、そのこともミトラス教単独では全く問題にされず、キリスト教に勢いがあったから、初めて取り上げられたことであろう。ミトラス教は、キリスト教と抱き合わせで語られることが多い。
 そして、ミトラス教がローマ世界から消えて行った4世紀初頭、キリスト教は、コンスタンティヌス帝がローマ帝国公認の宗教としたこともあって、迫害期を脱し、世界宗教へと邁進し始めて行く。
 ローマの宗教として、最大の勢力を誇るようになったキリスト教も、ほぼ4世紀初頭まで、厳しく迫害されていたのである。


4、ゾロアスター教

 古代メソポタミヤに栄えた古い宗教に、マルドゥク主神や愛と美のイシュタル女神の神殿を中心とする、豊穣信仰があった。
 このマルドゥク神がカナンではバアル神と呼ばれ、ギリシャのゼウス、ローマのユピテルなどの主神と結びついた。そして、イシュタル女神はギリシャのアフロディテ、ローマが誇る愛と美の女神・ヴィーナスの原形とされている。

 豊穣信仰とは、農業文化に固有のもので、実りをもたらす「土地神さま」を祀ったのであるが、元来、それは像としての形を持たず、素朴な祠に祀られた石や木片などに象徴される精霊を「われわれの神」とするものであった。ローマのヌメンやラオスのピーにも似たものだったのであろう。恐らく、しばしば氾濫する両大河のほとりに小さな石を立てて、精霊である神々に「怒りを静めたまえ」と祈った原始宗教、そんな素朴なアニミズム的形態が始まりだった。
 バビロニヤに伝わる有名な洪水伝説はそんな痕跡も残しているようである。
 それが壮麗な神殿を持つようになったのは、幾多の神々との争いを勝ち抜き、強力な神であるとして、近隣の弱小民族を従え、神々の頂上に躍り出たからに他ならない。メソポタミヤだけでなく、古代社会の神々には、そのようにしてのし上がって来たケースが多い。
 そこには、アニミズムに特有のエクスタシーが伴っていた。
 現代にも残る未開の地の諸宗教には、シャーマンを中心に、太鼓を叩きながら歌い踊り狂う素朴な姿が確認されている。エクスタシーこそ、原始宗教の姿を現代に伝える本質的な部分なのである。メソポタミヤの神殿宗教は、そのようなエクスタシー的要素で人々を魅了していたのであろう。

 古代エペソの町にあった「アルテミス神殿」に置かれていたご神体・「アルテミス女神」には、胸から腹にかけてたくさんの乳房がある。まるで乳房で覆われた女神なのである。これは、豊穣信仰を具現化した典型的な事例であろう。もっとも、時代が下ってくると、これがアフロディテかと見まがうほど優美な女神になるのであるが・・・。エペソの人たちは、その神殿を「偉大なるかな。アルテミスは」と賛美していたと、新約聖書・使徒行伝19章34節にそんな記述がある。それは町の人たちの暴動にまで発展するのだが、何万という人たちが声を揃えて「偉大なるかな。アルテミスは」と何時間も叫ぶさまは、まさにエクスタシーそのものではないか。

 メソポタミヤに栄えたマルドゥク神やイシュタル女神の神殿は、土や川への祈りから出た精霊へのエクスタシー的豊穣信仰を引き継いだものなのだろう。
 そこには、神殿巫女による売春がついて回っていた。
 ペルシャ時代のことであるが、マルドゥク神殿では、民の女性たちが、一生に一度、必ず神殿に入り、そこに参拝に来る男性と数刻をともにするという習慣がほぼ義務化されていたそうである。暗やみの中で行われるその性交渉は、一度限りのもので、相手の顔も見ず、名前も知らないままに行われたようであるから、きっと、神々への聖なる供物といった程度の意識だったのだろう。
 これは巫女売春の変形と言えよう。
 男ども(いや、その社会全体)は、そんな女性たちを介して神々の恩恵を思ったのではないだろうか。その神聖な営みは、ギリシャやローマにも伝わり、たちまちのうちに「神聖な」という部分がなくなって、ただの欲望に変わっていった。まるで、素朴な精霊信仰が中身を失って、神殿崇拝という宗教に堕していった、そんな経過を見るようではないか。

 そんな土から生え出たような神殿を中心とする宗教形態に次いで、やがて、人々の生活空間を網羅する新しい宗教が興る。
 ゾロアスター教である。

 ゾロアスターは、紀元前千年頃に中央アジヤの西端部に位置するイラン北東部の高原で生まれたゾロアスター教の始祖で、ザラスシュトゥラである。ゾロアスターは英語読みだが、ドイツ語ではツアラトゥストラだから、ニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」という哲学命題のこともあって(実在のゾロアスターとは全く関係ない)、欧米では広く知られている。
 ゾロアスターは、それまで大地に根ざしていた豊穣宗教の世界に、極めて高度な宗教を提唱し、メソポタミヤの宗教改革者と呼ばれる。

 ゾロアスターが提唱したゾロアスター教の最高神に、「アフラ・マズダー」という神がいる。
 これはゾロアスターの創作神であろうと言われるのだが・・・
 ゾロアスター教には、主神アフラ・マズダーの他にアムシャ・スプンタ(補佐神)、スプンタ・マンユ(聖霊・人類の守護神)、ウォフ・マナフ(善なる意思、主神のことばを伝達する神)、アシャ・ワヒシュタ(聖なる火の守護神)などなど、結構たくさんの神々がいる。それは、このアフラ・マズダーの七つの属性を、七つの天使という神々として実存化させ、その神々に対抗する七つの悪神も誕生・・・と、神々(精霊)の数が増えて来たためである。
 これは恐らく、中央アジヤに住んでいた牧畜民族で、インドやイラン北東の高地に移動して来た古代アーリア人の神名を引き継いだものなのだろう。ゾロアスター自身も、アーリア人の血を引き継いでいた。
 もともとは、多神教と言っていいであろう。
 しかし、ゾロアスター教成立時の神は「アフラ・マズダー」だけだったので、一般に「世界最古の一神教」と言われている。

 「神の文化事典」はゾロアスター教をこう説明している。
 「アフラ・マズダーは光輪フワルナフを創造した。光輪フワルナフは北極星、太陽、月、星へと下降して、最後にゾーイシュ家のかまどの火に下り、その火から、まだ生まれていなかったゾーイシュ家の娘の体内に入った。そしてこの娘が生まれた時、その体内から光が溢れ、天地を満たした。光輪フワルナフは王者・救世主の印である。その娘が結婚してゾロアスターを産むと、太陽が出現したかに見えた。ゾロアスターは光輪に満ちて誕生した。その後、彼は宗教者となり、独創的な倫理的善悪二元論を唱え、布教を続けた。」(「神の文化事典」ザラスシュトゥラの項、白水社2013)

 日本では「拝火教」と言われ、火を拝む妖しげな密儀宗教と思われているが、豊穣信仰という神々の権威をもって人々を支配する古い神殿宗教(精霊信仰)を引き継ぎながら、土から出た豊穣の神々を上回る力を持ったアフラ・マズダーの力を帯びた光輪フワルナフを背景に、ゾロアスターの教えは、メソポタミヤの宗教界に光りをもたらしたのである。
 もっとも彼らは、原始宗教固有の占術信仰をも持ち合わせていたのだが。
 ゾロアスターは、アフラ・マズダーの啓示を伝える預言者として登場した。

 その教えは、七つの善神と七つの悪神を対立させる善悪二元論をもって、人々が陥っていた不品行など悪しき精霊のもたらす倫理観に鋭く切り込み、光(善なる精霊)の象徴である聖火を崇めるなど、精霊信仰の要素が色濃くにじみ出ているが、光は必ず勝つのだとする教義をもって悪を退け、人の徳を重んじる高い倫理と高度な宗教観に溢れていると言えよう。特に、「善悪二元論」は、大河地方で発生したマニ教(グノーシス主義)に引き継がれ、プラトン哲学とも結びついて、高度な宗教思想となって行く。
 その主要な教義は、主神アフラ・マズダー率いる善神の一団と対抗神アンラ・マンユ率いる悪神の一団が相争って終末にもつれ込み、ついに善神たちが勝利を収めるというものである。悪神たちが滅ぼされた後の新世界では、最後の審判が行われ、善なる信徒たちは救世主によって永遠の命が与えられる。

 繰り返すが、彼は、土の下から這い出たようなどろどろした精霊信仰を、からっとした明るい光のもとに引き出し、人々の生活空間に高度な倫理観をもたらす宗教を、人間の手に引き戻したと言えるのではなかろうか。

 イラン北東部高原に移住した古代アーリア人の宗教として誕生した時には、数ある宗教の一つとみなされ、ゾロアスター自身も原始教団の魔術師の一人としか見られていなかったのだが、後世の人々から「ゾロアスター教」と呼ばれるようになったペルシャ帝国のこの国家宗教は、シリヤのセレウコス王朝衰退後の紀元前三世紀に、イラン高原北東部に誕生したサーサーン王朝において華開く。
 ちなみに、ペルシャ帝国と言う時、アケメネス王朝とサーサン王朝を指すことが多い。この両王朝の間には、イラン北東部の高原で誕生したパルティア王国と呼ばれるアルサケス朝が入るが、サーサン王朝との戦いで衰退した。
 このサーサン王朝は、特に始祖アルダフシール(アルダシールⅠ世)自身がゾロアスター教の神官階層から出現したこともあって、ゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国であった。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標としたが、果たせなかった。以後ペルシャ帝国は細々と生きながらえるが、イスラムとの戦いに敗れて消滅した。
 ゾロアスター教は、このサーサン王朝において、教団の公式教義や聖典「アヴェスター」(21巻)の文書化等が整えられ、遠くインドや中国にまで広がって行き、後の世界宗教イスラムやキリスト教にまで大きな影響を与えたと評価されるほど栄えたと伝えられる。
 特筆すべきは、イスラム文化では禁止された絵画が、ゾロアスター教では高い文化とされ、音楽や肉・酒類の飲食文化とともにそれらを受容し、楽しんでいたことである。イスラムにその座を明け渡さなければ、現代の世界構造は大きく変わっていただろうと思うと、複雑な思いがする。

 しかし、これも帝国没落に歩調を合わせるかのように力を失って、現代、ほんの一握りの小さな群れになってしまった。現代では、世界中の信徒を合わせても約十万人とされる。
 高い倫理と歴史観、高度な神学を持つゾロアスター教は、ローマ・ギリシャ世界に多大な影響をもたらしたグノーシス主義的宗教誕生の母体となった。

 蛇足ながら、つけ加えておこう。
 ゾロアスター教は何段階もの変遷を遂げて来た。始祖ゾロアスター時代の原始教団時代とサーサン王朝時代の聖典「アヴェスター」を擁したゾロアスター教には断絶があったし、ニーチェの死後出版された「ツアラトゥストラはかく語りき」に見られる神の死、永劫回帰、超人、権力への意志、善悪の彼岸といった彼の実存哲学を代弁するツアラトゥストラは、ゾロアスター教始祖ツアラトゥストラとは全く関係なく、欧州に新しい批評文化をもたらした。
 また、ドイツのナチズムだけに見られる現象であるが、アドルフ・ヒットラーは、ゲルマン民族や北欧民族を指すものとして「アーリア民族至上主義」を打ち出して、第二次世界大戦へと世界を巻き込んで行った。それは明らかに虚構であったが、欧米には未だに白人至上主義とともに受け入れられている。だが、古代アーリヤ人が白人であったという証拠はどこにもない。


5、グノーシス主義

(1)マニ教

 現代の宗教学において、「グノーシス主義」という名で一括りにされるいくつもの宗教教団がある。
 このグノーシス主義については次項で探っていこう。
 初めからグノーシス主義と呼ばれる宗教教団があったわけではないが、そのグノーシス主義最古の宗教教団と目されるものに「マニ教」がある。

 マニ教は、初期キリスト教界最大の神学者・アウグスティヌスが若い頃夢中になっていた宗教だが、彼ほどの人が夢中になったのだから、きっと魅力のある宗教だったのだろう。
 これは紀元216年生まれのペルシャ人マニの説いた教えのことで、彼のカリスマ的とも言える宗教感覚に負っている。世界的な広がりを持っていたが、ローマを中心とした西方世界でのピークは4世紀頃までであって、デオクレティアヌス帝に始まる歴代のローマ皇帝による迫害で、急速に衰退して行った。以後、メソポタミア以東、中央アジアに移っていって14世紀頃まで生き延び、消滅してした。
 ところが、マニ教はグノーシス主義を代表する一派であることが、近年の研究者によって明らかにされた。

 グノーシス主義は、まだその名称さえなく、そこに立つ教団もなかったのだが、マニ教よりずっと以前に、それらしいものが見られるのである。「グノーシス」(認識)、「グノースティコイ」(認識者)、あるはただ単に「グノーシス者」と呼ばれ、初期キリスト教にも潜り込んでいた。異邦人の使徒と呼ばれたパウロは、その異端的グノーシスと戦い、その痕跡はパウロ書簡に散りばめられている。
 研究者たちによれば、その「グノーシス」を引き継ぎ、プラトンのイディア論などと結びついて発展させたマニ教の思想体系は、キリスト教、ユダヤ教、仏教を包括するものであると指摘されている。その広範な思想体系は、世界宗教の一つに数えて良いと言う人もいるほどである。
 グノーシス主義などという宗教教団が存在しない時代のことなので、今はまだ「グノーシス」と呼ぶことにしよう。

 マニ教は、マニの六十年の生涯に三度の「大啓示」を経験したことに始まったと言われている。
 彼は、幼少の頃から父が属していたキリスト教の一派で、雑種的洗礼教団と呼ばれるエルカサイ派の信仰によって育てられた。雑種的洗礼教団とは、さまざまな教派の教理を混ぜ合わせたものらしい。四世紀初頭に執筆されたエウセビオスの「教会史」には、いくつもの異端のことが紹介されているが、エルカサイ派もそのような得体の知れない教団の一つだったのであろう。そんな教団の信仰に疑問を感じていたのであろうか。最初の「大啓示」以来、彼は教団の宗教改革を志し、異端者として教団から追放されている。しかし、それが却って新しい教団を形成する契機となった。
 マニ教の誕生である。
 その教義を少しだけ紹介しよう。
 その教えは光Vs闇、善Vs悪という自然的二元論であって、光も闇も混在している現実の世界からの救済を最終目的に掲げた、救済宗教と言っていいかと思われる。ある人たちは、キリスト教に代わって世界宗教になり得たと言っている。
 そこでマニは救済者でもあり、導き手でもあるのだが、信徒たちに無条件に救いを与える恩寵者ではない。彼らは光の国を目指して、ひたすら愛、信、誠、敬、智、順、覚、秘、察という救済者マニの定めた十徳や五戒(正直、純潔、無所有など)の精進を心がけ、やがて救いに至るというものである。何となくキリスト教の匂いが漂って来るではないか。それも、贖罪者を欠いた律法主義的匂いが・・・。いや、マニ自身、どこかでキリスト教と接触していたのであろう。そこにイエス・キリストの名を欠いているのは、自分自身がその座に坐るためだったのだろうか。

 善悪二元論は、人間の肉体と魂を分離し、「霊肉二元論」として扱う、グノーシスの特徴である。つまり霊=善、肉=悪なのである。マニ教は、その善悪二元論を基軸に人間の救済神学を構想していった。
 グノーシスとはギリシャ語の「智」(知識、認識)を意味している。
 その「智」が魂を悪としての肉体から救い出す。
 つまり、マニ教にとって人間の肉体は悪しき物体であるが、その悪に囚われている光を智の力で解放して行く。その光というのは人間が持っている魂なのである。「智(グノーシス)」は人間の持つ善の部分で、それが神々の光に呼応して、その解放が行われる。よくは分からないのだが、グノーシスの内在する魂の光とは別に、救済に力を貸す他者としての神々が一段上の光として登場して来るところが、マニの工夫なのかも知れない。恐らくミトラス教やゾロアスター教など他宗教の影響があるのだろう。マニ教もミトラス教も2~4世紀ころのローマで栄えた。
 ともあれ、精神と物質の内面的な闘争があって、ついに善が悪をうち破るところに救いが完成するというグノーシスの典型的なパターンが見られ、マニ教はグノーシス宗教の代表格に数えられている。

 マニ教は、人間が肉体という悪の物質に囚われた罪の存在であると考えた。
 肉体という物質に支配される精神の中で、罪を感じつつ人間の欲望というものを鋭く見つめていたと言えそうである。世界の宗教の中で、罪を問題にしているものはとても少ないと思われるが、確かに、マニ教はその点で優れた宗教に数えられるのかも知れない。ただ、罪の意識がマニの接触したキリスト教からの借り物でなければ・・・ではあるが。

 マニ教が霊肉二元論を骨幹とするグノーシスの影響下にあることを見て来たが、実は、このマニ教は、グノーシスの枠内に留まってはいなかった。
 どんなに優れた宗教の、どんなに立派な信仰を持っていたとしても、救われた後に一転して放縦へと堕落の道を辿る危険性をその中に内包していたのだろう。それがグノーシスの欠点になっていた。彼らは到達したグノーシスに従って生きる(光への到達と考えていい)のだが、救われた後にも再び罪を犯す、その転落の危険性にはほとんど注意を払っていない。彼らにとってグノーシスは完全であり、そこに至る自己認識、自力達成こそ最終到達点だったのである。それはグノーシスを最高とすることへの過信であり、傲りだったのではないだろうか。
 マニ教もこの点を警戒していたようである。
 マニ教は、グノーシスの到達点を信仰の出発点と考え、絶えず転落の可能性に注意を怠らなかった。だから彼らは、救われた後にもう一度罪を犯すと、どんな善行も魂から取り去られ、罪の赦しは二度と認められることはないとしている。彼らの救いは、到達したグノーシスによって生き、二度と罪を犯さないという条件下においてのみ適用された。
 極めて律法主義的ではあるが、グノーシスからの脱却と見ていい。
 マニ教教理は、ほんの少し聞いただけでも首を傾げたくなるほど難解なので、それ以上あれこれ詮索することは私たちには不要であろう。ただ、失われてはしまったが、マニ教が極めて知的で己れを律することの厳しい宗教であったということで、現代に伝えられても、相当高度な世界宗教の一つに数えられるのではなかろうか。かつて、ローマ世界で隆盛を極めていたのも、恐らくそのような自己律によるのではと思われる。方向性はともかくとしても、見習いたいところではある。

 しかし、不思議なことに、同じように迫害されたキリスト教は生き延びて世界宗教になったのに、なぜマニ教が消滅への道を辿ることになったのか。その辺りのことは、キリスト教ということを考える上でも、重要な点ではないかと思われる。もちろん、コンスタンティヌス大帝の政策が絡んでのことだが・・・
 彼らが西方から東方へとその活動の場を移していったのも、異端のレッテルを貼られた多くのキリスト教諸派と同じ道筋だった。もしかしたら、異端の辿る道筋を整える役割を担ったのかも知れない。
 東方キリスト教やネストリウス派(中国においては「景教」と呼ばれる)などとの関わりも、興味を惹くところである。
 と同時に、この滅び去った小さな宗教が、奇妙なことに、キリスト教が捨てようとしている「信仰継承」を踏襲しようとしていたのである。


(2)グノーシス主義

 初期キリスト教に入り込んだ異端の中には、律法主義に肩を並べるほど、多くのクリスチャンがその罠に捕らえられたグノーシス主義がある。
 律法主義がユダヤ人による異端であるなら、グノーシス主義はギリシャ文化、異邦人文化による異端と言うことが出来るであろう。

 しかし、メソポタミヤの大河地方で誕生したグノーシス主義と目されるマニ教は、当初、教団の体も為しておらず、グノーシス主義という呼称もなく、そのほとんどが、後年の紀元1~2世紀頃に著された使徒後教父たちのキリスト教異端反駁文書中に散見される、わずかな資料の中で浮かび上がって来た異端思想である。
 もっとも、ベルリン国立博物館による、1902年から1914年に、中国の新疆ウィグル自治区のオアシス「トゥルファン」遠征発掘で見つかった、およそ4000点にもおよぶ断片のマニ教文献や、1946年から1980年にかけてエジプトで発見された、コプト語のグノーシス主義の古い文書「ナグ・ハマディ文書」(岩波書店・全四巻の邦訳)があるのだが・・・。その他にも、ヘルメス文書などいくつものグノーシス文書が近代になって発見されている。
 グノーシス主義異端を取り上げた使徒後教父たちの「異端反駁論」が、資料として、その評価とともに掲載されている。また、他には、C・マルクシース「グノーシス」(土井健司訳、教文館)、「グノーシスの神話」(大貫隆一九九九年岩波書店)など、現代のグノーシス主義研究書にはほぼ例外なく資料集が収められている。

 おもなものを一部抜き出してみよう。
 殉教者ユスティノス「アナロギア(弁明書)」
 リヨンのエイレナイオス「偽りのグノーシスの暴露と反駁」
 ローマのヒッポリュトス「全異端反駁」
 サラミスのエピファニオス「異端者に対する薬箱」
 アレクサンドリアのクレメンス「真の哲学を視野に収めた認識に関わる叙述の絨毯」
 同 「テオドトスならびにヴァレンティノスの時代におけるいわゆる東方の教理からの抜粋」
 テルトゥリアヌス「ヴァレンティノス派反駁」
    同    「マルキオン反駁」

 これら教父たちの文書の大半は散逸し、教父たちの殉教とともに失われてしまったが、別の教父文書に転載されるなどして遺され、一部ではあるが、邦訳された「キリスト教教父著作集」(教文館)で読むことが出来る。

 グノーシス主義研究は、「グノーシス」(知識の意)という特定の認識者たちのグループ研究も含め、使徒後教父たちが異端反駁論を著した時期と同じくらい古いが、それも四世紀半ば頃から影を潜め、近代までの長い時代、光があてられず、空白になっていた。
 それが、近代もごく最近の19世紀に入って、主としてドイツの歴史家たちが冷静な目をもって取り上げ始め、アドルフ・フォン・ハルナックが「グノーシス主義キリスト教のギリシャ化(Hellenization thesis)」を提題したところから、「グノーシス主義」がキリスト教異端研究の主流になった。

 「グノーシス主義」は、発生当初からの呼名だったわけではない。
 この呼名が宗教史上に定着したのは、近代の1966年4月、イタリヤ・シチリア島のメッシーナ大学で、それまではばらばらだったグノーシス主義的諸宗教を研究する者たちの国際シンポジウムが開催され、そこで学術的な提案がなされて、「グノーシス主義」という共通認識が生まれたことによる。これは「メッシーナ提案」と呼ばれ、以後、「グノーシス主義」が、広く世界の宗教界で共有される呼名となった。

 だが、メッシーナ提案で「グノーシス主義」が表舞台に現れると、別の問題が浮かび上がって来た。
 初期キリスト教時代、「グノーシス」(認識)という、特にプラトンによる哲学的命題のもとで、「グノースティコイ」(グノーシス者=認識者)と呼ばれる、複数の認識者集団が誕生していたことである。
 それは、「神的認識」を求めるエリート集団によって次第に宗教的性格を帯びるようになり、使徒後教父の時代になると、「真のグノーシス者こそ真のクリスチャン」と主張する者たちが乱立し、もともとキリスト教とは無関係だった異端的グノースティコイたちの中には、そのようなキリスト教的グノーシスが主流を占めることになる。そして、キリスト教の側からもこれに同調する動きが出て来た。パウロの書簡(コリント第一、第二書)には、そのような動きがあったことが随所に暗示されている。
 ドイツの実存主義哲学者、近代グノーシス主義研究者として第一人者とされるハンス・ヨナスによると、これはキリスト教のギリシャ化であって、一種のシンクレティズム(宗教混合)ではないかと言われている。つまり、「グノースティコイ(グノーシス者・認識者たち)」は、創造者たる神さまの正体をあれこれと想像し、三一の神さまをめぐる新しい神話を造り上げるなど、聖書が語らない部分を埋めながらキリスト教一派を名乗っていたのである。
 「メッシーナ提案」は、そのような複雑な背景を無視、あるいは排除するかのように、「グノーシス主義」という呼名を共通の認識にしようではないかと提案した。その結果、古代における「認識」には一致した見解などなかったのだが、そのことは無視され、「キリスト教グノーシス」などと、あたかもそれがキリスト教内部の運動でもあるかのように、キリスト教異端の統一的核心部分として取り扱われてしまった。

 ところが、マニ教文書やナグ・ハマディ文書が発見され、グノーシス主義の研究が進むにつれて、次々と新しい事実が浮かび上がって来た。
 一つは、グノーシス神話の発生源はゾロアスター教とされてきたが、マニ教の古い賛歌に由来すると判った時点で、ゾロアスター教由来説を放棄せざるを得なくなったことである。もっとも、マニは当時の世界三大宗教であるキリスト教、ゾロアスター教、仏教という背景を持った人たちに宣教活動を行なっていたために、それらの影響を受けたことも否定出来ないのだが・・・
 もう一つは、幼い頃から母モニカの影響を受けてキリスト教徒だった初期キリスト教最大の神学者・アウグスティヌスが、一時期マニ教徒となったことを通して言えることだが、彼はキリスト教徒として留まり続けながら、同時にマニ教徒になっていたという点で、マニ教というグノーシス主義体系が、既成の宗教に適合する歩み方をしていたことが分かってきた。
 「グノーシス主義」は、潜在的に宗教的寄生性を持っていたのである。
 それゆえ、現代におけるキリスト教異端研究は、グノーシス主義中心に偏り始めていると言えよう。もっとも、グノーシス主義という異端に光を当てることで、本来の正統的キリスト教が浮かび上がったという面も否定出来ないのだが。

 パウロ書簡に出て来るグノーシスを取り上げてみたい。
 パウロ文書は、もちろん「グノーシス主義」という呼称を用いてはいないが、第一コリント書一章で、「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです」(5)と、グノーシス主義的神学に踏み込んでいる。さらにそこには、「あなたがたはそれぞれに、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』と言っているとのことです」(12)とあって、コリント教会の人たちがグノースティコイ(認識)に巻き込まれている様子が窺える。だが、「キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」(13)とあるように、パウロは断固グノースティコイたちの動きを批判しているので、彼らと同一タッグを組んでいたとは思われない。
 以下、パウロの意図したところを見てみよう。
 「ロゴス」(ことば)と「グノーシス」(知識)、これは、哲学思想(フィロソフィア)というギリシャ文化に根ざした重要な用語である。ロゴスは賢人たちの「教え」を指し、グノーシスはギリシャ人の好む「知識」を意味するが、そこに「霊の働きによる神認識」とする宗教的人格を与えたのは、恐らく、メソポタミヤの大河地方で生まれ、ギリシャ世界に入り込んで古来の神々と融和して市民権を獲得した、宗教思想だったのだろう。その宗教思想は、キリスト教会がギリシャ世界に建てられると、その奥深くまで入り込んで行った。「グノースティコイ(認識者たち)」とは、そのようなキリスト教異端としての宗教思想ではなかったかと思われる。
 パウロの言う「ロゴス」「グノーシス」は、そこからの借り物であろうと言われて来た。それほど単純とは思わないが、その用語はギリシャ思想に由来していると見ていい。アテネやアレクサンドリアと並んで、東の学都と呼ばれたキリキヤのタルソで、パリサイ派の名門の家に生まれたユダヤ人パウロにとって、ギリシャ語は母国語だったし、ギリシャ文化にも精通していたからである。
 だが、そこには、ギリシャの賢人たちの教えと結びつきながら教会に入り込んで来た異端思想に対抗するかのように、「最初から在り、万物より先に生まれ、すべての人類から礼拝を受けるにふさわしい」(山谷省吾「パウロの神学」)と、イエス・キリストが世界と万物を創造されたとする、グノーシス主義者とは全く異質の「イエス・キリストの福音」を構築するパウロ神学があった(参考・コロサイ1:15-16)と見なければならない。当然、パウロが用いたロゴスもグノーシスも、同じ用語ながら、その内容は、グノーシス主義的異端思想とはかけ離れていたのである。
 そればかりか、パウロは、彼らに傾倒する者たちを、イエス・キリストの福音に押し止めようとしていたと聞かなければなるまい。

 グノースティコイと呼ばれた認識集団は、「グノーシス主義」と名づけた「メッシーナ提案」によって、いくつかの独立した教派に分かれる。
 認識としての「グノーシス」が人々の意識に上り始めた頃から、その発端は、サマリヤの魔術師シモン(使徒行伝8:9-24)であると言われて来た。
 初期グノーシス主義は、メナンドロス、サトゥルニヌス、バシリデスといった主導者のもとで諸派が形成された。そして少し時代が経つと、「マルキオン派」「ヴァレンティノス派」「バルベロ派」といった諸派が誕生する。だが、最も重要な区分を言うならば、善悪とか霊肉といった二元論に立つマニ教を中心とする西方グノーシス主義の「イラン・マニ教型」と、一元論の「シリヤ・エジプト型」と呼ばれる東方グノーシス主義とを上げなければなるまい。が、こういった区分は便宜上にすぎず、依然としてグノーシス主義に数えられる諸派は多様で、その主張は複雑怪奇である。それはキリスト教内部に及んでいるだけでなく、ユダヤ教にまでも入り込んでいたようだ。

 まず「イラン・マニ教型」グノーシス主義から見て行こう。
 マニ教については前項で取り上げたので、ここでは簡単に済ませたい。
 紀元216年生まれのマニによって、ペルシャ帝国末期にユーフラテス大河地方の南部で誕生したのだが、それ以前に、母体となる多数の宗教教団が存在していたと見ていい。マニは幼い頃から父が属していたキリスト教の一派で、雑種的洗礼教団と呼ばれるエルカサイ派の信仰によって育てられた。それが、グノーシス主義をキリスト教に近づける要因になったのであろうか。
 共通認識として一般的に認められるものに、地上の生の悲惨さはこの宇宙が「悪の根源」であるところから生じるとして、反宇宙論に傾いて行ったことと、あらゆる物質は悪であって、人は「悪」なる肉体と「善」なる精神を持つ存在であるとして、その「イディア」の中で、善悪を対立させる二元論を基本とする宗教思想を構築したことが上げられよう。
 この二つは互いに絡み合って、正確には「反宇宙的二元論」と呼ぶべきものである。二元論は多くの哲学、たとえばプラトン、アリストテレス、スコラ学など、いくつもの宗教(汎神論、ゾロアスター教、仏教など)にも見られるが、マニ教が拘ったのは、善と悪、霊と肉体、真の神と偽の神、イデアと物質などであって、肉体はすべて悪、見えるものもすべてを悪とする。
 近代の学者たちは否定するが、恐らく、ゾロアスター教から借用した二元論を、プラトンの優れた二元論・イデア論で補強したものと思われる。
 それゆえ、人の子としてお生まれになったキリストも、肉体を持つがゆえに「悪」であるとして否定するし、創造者なる神さまをも彼らの宇宙論の中で否定することになる。造られたものが善なるものではあり得ないのだ。
 宇宙も例外ではないから、反宇宙ということになる。
 このマニ教がキリスト教に急接近したのだが、もともと全くの異教であったものが、キリスト教に入り込むことで、福音を包み込む形で異端となっていった。その経緯は、アレクサンドリヤのユダヤ教教師フィロンに由来する部分が大きい。つまり、ユダヤ教のギリシャ化という過程を辿ったその教えを、ローマ・ギリシャ世界のキリスト教会に持ち込んだのが、フィロンのユダヤ・アカディメイアを巣立った巡回伝道者たちだったのである。すでに諸教会内には、「グノースティコイ」たちが入り込んでいたから、ユダヤ教の律法主義とも結びついて、「真のキリスト者は真のグノースティコイ」という主題が生まれた。
 彼らは、聖書の記事を埋めるように、創造神より上位に別の最高神を造り出し、救い主キリストにも別の顔を提供した。本当のキリストは、十字架につけられて死に、葬られて朽ちてしまったのではなく―彼らはもちろんキリストの十字架と復活を否定する―、永遠に私たちとともにあるアイオーン(永遠という意味のギリシャ語)であるとして、異端への道を走り出した。アイオーンという概念は、ゾロアスター教など、ペルシャの宗教に見られる星辰信仰から入って来たのだろう。
 ペルシャと言うと、天空の星々を観察した「占星術」の発達―高度な科学としての天文学―で知られるが、そのペルシャ世界に芽生え育ったグノーシス主義の思索は、大地から生え出た神殿を舞台とする豊穣信仰から、人間が営んでいる生活空間を舞台としたゾロアスター教を経由して、天空の星々の舞台へと昇華していく。グノーシス主義は星々をアイオーンと呼んだが、これは永遠の輝きを放つ神々であって、正確には、土から生え出た精霊という概念をランクアップしながら引き継いだものである。
 こう見て来ると、これも大地から生活空間へ、そして、さらに天空へと舞台が上昇志向していくが、依然として人間との関わりにおける「精霊信仰」を基本とするペルシャ宗教なのである。それはペルシャ宗教だけではなく、世のあらゆる宗教の帰結するところではないだろうか。それは、ラオスの「ピー」やローマの「ヌメン」等の延長であり、日本の八百万の神々も同じと言えよう。「精霊」は、どんなに優れた知恵や力など立派な甲冑で纏われていても、所詮、天地万物の創造者、全知全能にして恵みと愛に富みたもう唯一の神さまには届かない、有限にして滅びるしかない人間が考え、造り出したものでしかない。

 次ぎは「シリヤ・エジプト型グノーシス主義」である。
 先に、グノーシス主義に関する、ナグ・ハマディ文書と命名された大量のコプト語文献が発見されたことに触れた。これはキリスト教文書の形式を踏襲してはいるが、キリスト教とは相容れない異端文書である。コプト語とは、四世紀以降に東ローマ帝国の公用語であったギリシア語の影響を強く受けた古エジプト語を指し、エジプトにはコプト教会というのがある。
 このナグ・ハマディ文書はおおむね「シリヤ・エジプト型」グノーシス主義を指向している。先に「イラン・マニ教型グノーシス主義」に触れ、それは、善悪(霊肉)二元論に立つと見てきたが、それは彼らの宇宙論からすると、「光と闇」という対立軸を持つ二元論でもあった。ところが「シリヤ・エジプト型」では、光そのものの中に破れが生じ、それが原因となって、闇の領域の中に「造物神」(デミウルゴス)が生成するのである。彼は宇宙万物を創造するが、その中には、心魂と肉体とから成る人間も造られる。が、人間は光の破れ口を修復しようと、善なる生活を志し、肉体の死後、造物神の支配する領域を突破して、その彼方の光の世界へ回帰する「救い」を渇望する。この型は、二世紀半ば、アレキサンドリヤのヴァレンティノス派によって提題された。

 前述のハンス・ヨナスが著した「グノーシスの宗教」から紹介する。
 彼らの至高神は、しばしば否定神学―グノーシス主義の特徴の一つ―で、「存在しない神」と言われるが、これは「異邦のもの」「遠くの神」「隠れた者」などと呼ばれる未知の神を指し、「一切の創造の業の上に立つ」「第一の命」などという象徴言語で表現されている。だれも知らない彼方(恐らく宇宙の外)から来たとされるところから、こう呼ばれたのであろう。
 この至高神は、幾層にも隔てられた複数の天界の、それぞれの守護者として輝く星々の永遠の光アイオーンとされる七もしくは十二の下位の神々(アルコーン・支配者と呼ばれる)を産み出した。アルコーンたちは人間とその世界とを創造して彼らを管理し、肉体という悪の世界に閉じ込められていた彼らの魂が、自分たちの守護範囲である天界に上って来るのを阻止しようとする。肉体に汚された人間の魂は、死後、聖なる世界である上を目指して上って来るからである。アルコーンたちの天界は非常に多く、人間はそこを経巡りながら究極の光を目指すが、アルコーンたちに阻まれて、最下位の天界にさえも入ることが出来ないのである。
 そこに、「外からの呼び声」が響き渡った。「それはマンダ・ダイエーの呼び声である。彼は諸世界の外縁に立ち、世界のなかへ問いかける」「彼は世界のなかへ呼び声を遣わした」とハンス・ヨナスは語る。それは、暗闇で道を見失った者に光を照らす命の呼び声であった。
 グノーシス主義者は、その「呼び声」をイエス・キリストに重ね合わせようとしているのだろう。いや、イエスさまの福音が表舞台に登場しつつあったから、それに対抗するように、異端神話が跋扈して来たということなのだろう。彼らは、これをキリスト教における「信仰継承」で一括りにしたいようだが、そんな動きを容認してはなるまい。


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