新・福音と宗教


第二部 福音と宗教

六章 キリスト教
3、日本のキリスト教

 日本に最初にキリスト教が伝来したのは、「キリスト教」という明確な形ではなく、飛鳥・奈良時代に渡来した、仏教諸派の教説にキリスト教の影響ではと思われるもの(浄土思想の「ただ念仏申さば救わるべし」とあるその中に、恩寵の神さまの影が見えるなど)があったが、恐らくそれは、中国に入ったキリスト教(景教、ネストリウス派・キリスト教異端として西方教会から退けられた)一派の教えか、それとも、シルクロードのどこかで仏教と接触した「東方キリスト教」の片鱗ではないかと想像される。

 しかし、そのような痕跡はキリスト教信仰としては認識されず、日本人の宗教文化の中に吸収、消化されてしまった。日本人はこのような吸収、消化が得意な民族だ。それは、一時期脚光を浴びたイザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」に見られる日本的キリスト教で、「日本教」ではないかという提題に凝縮される。「日本人Vsキリスト教」という問題提起は、現代に至るまで日本人の中に変わらず存在し続けている。
 しかし、キリスト教の日本伝来は、そのようなキリスト教的幻の断片ではなく、1549年にフランシスコ・ザビエルによってもたらされたキリシタンという、歴史に刻まれた日本最初のキリスト教である。
 ともあれ、「日本人の宗教としてのキリスト教」を見ていこう。

(1)キリシタン時代

 史実に見る日本最初のキリスト教は、十六世紀戦国時代末期の1549年に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来日したことに始まる。
 いわゆるキリシタン時代である。
 この時から、ローマ・カトリック教会を国教とする西欧諸国は、植民地政策の競争もあり、多くの宣教師を日本に送り込んで来た。
 東方キリスト教はずっと遅く、ロシア正教が東京・お茶の水にニコライ堂を建てただけで、他は確認されていない。
 ザビエルの日本滞在はわずか二年余りだったが、上陸した鹿児島から各地を巡回した後、京都に上り、多くの人たちをキリスト教に導いた。だが彼は、日本人の優秀さに驚嘆し、日本人を獲得するにはそのルーツ中国を知らねばならないと、中国に渡るためにマラッカで中国伝道の準備をしていたが、熱病のため亡くなった。
 だが、ザビエルの日本伝道報告はポルトガルやスペインで大きな反響を呼び、多くの宣教師たちが日本伝道を志して渡来した。彼らは九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得し、ザビエル以降約40年は「布教の時代」と呼ばれる。その頃のキリシタン人口は約二十万人と伝えられるが、全国の総人口が二千万人の時代に、驚くべき数字である。
 当時の覇者・織田信長は、西欧文明をもたらす者として、彼らを南蛮寺(教会)やセミナリオ(神学校)を作って優遇した。また、九州のキリシタン大名たちは、伊藤祐益ら13~14歳の七人の少年使節をバチカンに派遣し、彼らはローマ教皇に謁見後、ポルトガル、スペイン、イタリアなどヨーロッパ各地を歴訪し、行く先々で非常な歓迎を受けた。
 世界の仲間入りをと願う、当時のキリシタンの熱い思いが伝わって来るではないか。
 ところが、1687年に豊臣秀吉が突如発動したキリシタン宣教師追放令によって、その活動期は暗転する。
 もっとも、宣教師たちが修道士服を脱ぎ捨て、公然たる活動を遠慮するなどが好感を持たれたのか、この禁教令はさほど実害をもたらさなかった。
 なぜこの禁教令が出されたか、その経緯を説明しよう。
 従来の日本伝道は、教皇グレゴリウス十三世により、イエズス会(ポルトガル)に限るとされていたが、スペインのフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが使節として来日して秀吉から好遇を得て、宣教師増派を求めて京阪で公開伝道を開始した。それに危機感を募らせたイエズス会の宣教師たちが、「国禁を犯すもの」としてフランシスコ会に警告し、両派の反目がポルトガル、スペイン両国の利害対立にまで及んだ。その抗争に秀吉の怒りが爆発し、フランシスコ会員26人を捕らえ、長崎郊外の立山で十字架刑に処した。
 世に知られる26聖人の殉教である。
 以後、キリシタン禁教は、日本の国策として徳川幕府に引き継がれ、キリスト教に対する民衆の偏見が、現代にまで定着している。
 一人の宣教師の思慮の足りなさが、これほどの結果を生んだ。植民地政策という国策が宣教師の判断を狂わせたとしたら、それはもうイエスさまの福音ではなく、キリスト教も宗教のレベルでしかない。
 しかし、秀吉のキリシタン禁教政策は、厳しいところもあったが、総じて部分的・限定的なものだった。だが、秀吉後の徳川幕府は、国をあげて徹底的にキリシタン弾圧をし、多くの信徒や聖職者が殉教していった。
 江戸幕府が採用したキリシタン撲滅作戦は、全国民を仏教寺院の檀家として登録させる、「寺請制度」という極めて巧妙なもので、寺院活用を思いついたのは、家康が熱心な仏教徒(浄土宗)だったからだろう。
 檀家制度にはもちろんキリシタンも含まれるから、キリシタンたちは寺院の証明書がなければ、葬儀も旅行も町内会の行事参加も・・・と、市民生活が出来なくなった。しかも、幕府は報奨金を出してキリシタン訴人を奨励し、踏み絵まで考え出した。かつて手に取った踏み絵は、多くの人たちに踏まれて、黒ずんで薄汚れていた。
 そのような下地を整えながら、家康は1614年(慶長19)にキリシタン大追放令を発布した。全国から長崎に集められた外人宣教師と信徒400余人が、マカオとマニラに追放され、さらに京阪の信徒71人が津軽に流罪された。
 この大追放令後、キリシタンたちは地下に潜伏するようになった。いわゆる隠れキリシタンである。表向きは仏教徒だが、密かに倉などに集まり、マリヤ像などを囲んで礼拝を行なっていた。灯籠に火を入れると、ある角度でマリヤの姿が壁に映し出される、そんな石灯籠を倉敷で見たことがある。古い庄屋屋敷千坪を、岡山のある教団が教会のために購入したものだった・・・
 倉には逃走用の隠し扉まであった。

 何が秀吉や家康をそれほどまでキリシタン嫌いにしたのだろうか。
 秀吉の場合には、ポルトガルとスペインの熾烈な争いが日本国内に持ち込まれたことで、外国人たちが自国を土足で踏み荒らしたことに対する怒りだったと想像はつくが、家康の場合は、そんな単純なことではない。家康の執拗で用意周到なキリシタン迫害には、潔癖な仏教徒が他宗教を嫌う以上の原因があったと思われる。それは、キリシタン放置は日本統治に恐ろしい障害をもたらすという、恐怖ではなかったか。
 ここまで家康を追い込んだキリシタンへの恐怖意識は、恐らく、その時期は欧州各国がアフリカやアジヤや南米に植民地獲得を競っていた最初期で、ポルトガルとスペインの植民地政策がもろに顔を出したことによるのだろう。キリスト教は当時、欧州白人第一主義の先兵になっていた。詳しいことは避けるが、欧州の白人たちは、有色人種にかなりひどいことをやっていて、宣教師たちも、知らず知らずにその片棒を担いでいたのだろう。
 そんな世界情報が為政者・秀吉や家康に届いていたとしたら、その植民地政策阻止は当然だったろう。
 欧州から見て東端にある小さな島国にも、そんな情報はかなり正確に届いていた。
 彼ら為政者たちが、欧州の白人たちの鋭い牙に食い荒らされないように警戒したとしても、不思議ではない。彼らの主君・織田信長は、宣教師たちからそんな世界情報を仕入れていたのだから・・・

 だが、彼らは、キリシタンたちの誠実で豊かな愛に触れることはなかった。
 もし彼らの信仰と愛に触れ、真の神さまを覚えていたなら、全く違った状況になっていたのではないか。残念と言わざるを得ない。
 そして、宣教師と名がつくほどの者なら、こうしたことの善悪を判断する知恵と教養は身につけておきたいと思わされる。それは、キリスト者全員に課された課題ではないか。

 ずいぶん前のことだが、山陰地方のキリシタン遺跡巡りをしたことがある。多くは寺院所領墓地の一角にある彼ら葬りの場所だが、長く差別されていたからか、奥まったところに、他とは別の墓地が朽ち果てるように放置されていた。よく見ると、戒名の墓石にかすかに十字が刻まれて、キリシタンの痕跡が残っていた。迫害の中で信仰を守り抜き、従容として殉教していった人たちに、キリシタン墓地に葬られた人たちが重なって来る。そのほとんどが、貧しい農民だった。彼らは、領主より「でうす」(天主)や「さんたまりや」を重んじたのである。虐げられて貧しく、失うものを何一つ持たなかったからだろうが、そんな人たちの中に、純粋なキリシタン信仰が育っていた。
 それほど人を惹きつける宗教は、日本には存在していなかった。日本古来の宗教とされる神道には、それがアニミズムだったとしても、神々への誠実な信仰を培った昔日の面影はなく、仏教からも、民衆に先駆けて悟りを開こうとする魅力は失われていた。神道も仏教も、すでに貧しい民衆からは乖離しており、しばしば発生する新興宗教も、最初の頃の魅力は時間とともに色あせていた。唯一、キリシタンの信仰のみが輝いていたから、為政者たちがその輝きを恐れたのではないかと強く感じた。

 キリシタン史の中で驚嘆すべきことは、彼らの殉教だけではない。
 度重なる殉教と追放にも日本伝道をあきらめず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会・・・が送り込んだ宣教師たちは、何度も日本潜伏を図り、実際に潜伏して平均4~5年を伝道のために働き、ついに発覚して殉教、というケースが非常に多かったと報告されている。彼らはひそかに各地の隠れキリシタンを巡回し、そこで新しい受洗者を・・・という働きをしていたから、地下にもぐった隠れキリシタンには、細々ながら、密かな連絡網があったのだろう。貧しくて無学な者たちの内にある信仰の力強い生命力に、驚嘆させられる。

 禁教令から約250年後の幕末1865年3月に、出来上がったばかりの長崎・大浦天主堂で、フランス人ベルナール・プティジャン神父の元に、隠れキリシタンたちが現われて信仰告白を行い、その後続々と隠れキリシタンたちが現われた。「信徒発見」のニュースが、彼らが祈りと洗礼と種々の典礼暦を守っていたことと合わせて、欧米でセンセーショナルに伝えられた。
 生き残った隠れキリシタンの多くは、カトリック教会に合流したが(その数およそ一万人)、まだ禁教令が解かれたわけではなかった。明治維新政府も禁教令を継続し、依然として投獄や拷問や流刑など、キリシタン弾圧は全国規模で行われていた。


(2)プロテスタント史

1、夜明け


 明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは、1873(明治6)年、欧米諸国から猛烈な抗議を受けてのことである。
 キリシタン禁教札が撤去されたと伝わると、欧米から、プロテスタント諸派の宣教師たちが大挙渡来した。
 日本がキリスト教の挑戦にどう応えるか、もう一度のチャンスを神さまから突きつけられたと見る教会史家がいるが、まさにその通りだろう。
 日本の近代化に深い影響力を及ぼしたキリスト教は、おもにプロテスタントだった。以後、それに留意しながら見ていくことにする。
 神戸にいる筆者にはとても惹かれる逸話だが、吉野丈夫著「神戸と基督教」に載っているので、まずそれを紹介しよう。
 米国ボストンの町に、ウイリアム・ローブスというクリスチャン実業家がいた。彼は自宅を開放して月一度の「世界伝道祈祷会」を行なっていたが、ある日の集会で、祈りの後に献金を募ることになり、何げなく手許にあった竹籠で献金が集められたが、その時献げられた27ドル8セントの献金を「どの国の伝道に用いようか」との問いに、竹籠が日本製だったことから、「日本のために」と提案され、以後、献金はすべて日本伝道のために積み立てられ、総額4000ドル以上になったと言われる。やがて、宣教団体「アメリカン・ボード」が、神戸最初のプロテスタント宣教師として若きD.C.グリーン夫妻を送り出すことになり(明治3年)、その献金が彼らを支えるために献げられた。彼らの祈りが始まったのは、グリーン夫妻が遣わされる40前のことだった。

 明治三年といえば、日本はまだキリスト教禁止の真っ最中だった。
 しかし、ペリー提督来日による横浜、神戸、函館の三港開港以後、欧米諸国は多くの宣教師を日本に送り込んで、着々と日本人伝道に備えていた。

 明治六年のキリスト教禁教高札撤去以前に日本にやって来たプロテスタント宣教師は、ヘボン、ブラウン、フルベッキ、バラ、ゴーブル、グリーンなどである。彼らはおもに横浜に定められた居留地に住みながら、日本語習得に力を注ぐかたわら、聖書の和訳や、診療所を開いて西洋医学による治療を行ない、洋学塾を開いて教育に力を注ぐなど、間もなく来るであろうキリスト教禁止令解除を待っていた。
 特筆すべきことがある。
 居留地には日本人も自由に出入りすることが出来たから、多くの若者が宣教師たちに接触して英語などを習っていたが、何人もの若者たちが宣教師たちが伝えるイエスさまの福音を信じた。洗礼こそ行われなかったが、日本伝道はすでに始まっていた。

 中でも宣教師たちが力を注いだのは、「聖書の和訳」だった。
 キリシタン時代には、残念ながら、聖書和訳の動きは確認されていない。
 記録に残る和訳で最も古いのは、「はじめに極楽ござる」で始まるヨハネ福音書だが、これはマカオ滞在の英国商務庁通訳ギュツラフが、1837年にシンガポールで出版したものだ。日本在住の宣教師訳としては、ゴーブル訳やブラウン訳、ヘボン訳など個人訳がいくつか出版されているが、いずれもすぐれた内容ながら、福音書など一部に留まっている。

 聖書の和訳を志した宣教師たちには、旧新両約聖書の全訳で、日本人教会で共通して用いられるものをという思いがあった。

 明治5年の第一回宣教師会議(横浜)で、米国聖書協会の事業として、各派合同の新約聖書和訳が満場一致で可決され、ブラウン、ヘボン、グリーンの三宣教師と奥野昌綱、松山高吉の日本人2人を加えた5人の委員会で、総勢22名の翻訳者を得て明治七年翻訳に着手、13年に完成出版した。これに明治9年から17年までかかって完成した旧約聖書を加え、公認の委員会訳として用いられるようになったのが、明治元訳である。後に新約聖書は大正訳と呼ばれる新版に改訳されるが、日本聖書協会が設立され、それは旧約聖書の明治訳とともに旧新両訳聖書(文語訳)として引き継がれ、新しい事業として着手された昭和訳(口語訳)の完成まで、委員会訳として用いられた。この委員会訳の明治元訳は、米国聖書協会からの出版だった。日本聖書協会訳は、新共同訳(1987年)、聖書協会共同訳(2018年)に引き継がれ、また、日本聖書協会とは別に、米国のロックマン財団の資金援助を受けて、福音主義陣営による新改訳刊行会が設立され、「逐語訳」を目指して1971年に「新改訳」を、2017年にはその大幅な改訂版「新改訳2017」が出版された。
 なお、神戸のグリーン博士は、宣教師としてはただ一人、明治訳と大正訳の二つの翻訳に関わっている

 キリスト教解禁直前の明治五年一月に、
 横浜在住の宣教師と日本人信徒たちは、バラを中心に初週祈祷会を開いた。
 参会者約三十名のこの祈り会は、予定の一週間を大きく延びて数十日にも及んだという。何人もの人たちが洗礼を受けて、ついに、バラ宣教師を仮牧師に日本基督公会(横浜公会)を設立した。
 これが日本最初のプロテスタント教会である。
 彼らは、翌明治六年に、禁教令が撤去されるのを見越していたのだろう。
 この後、本多庸一、伊深梶之助、植村正久等、やがて日本のキリスト教をリードする人材が続々と仲間に加わり、これが「横浜バンド」と呼ばれる、日本人を中心とする教会連携体制誕生につながっていく。
 横浜バンドだけではない。期せずして全国各地にキリスト者が誕生し、多くの教会が産声を上げたが、ある意味でそれは、教派誕生でもあった。日本に宣教師たちを送り込んだ母体がすでに教派中心主義だったから・・・

 横浜バンドをはじめ、日本キリスト教史には、「〇〇バンド」と呼ばれる日本人によるキリスト教形成運動のいくつかの流れがある。バンドとは「連帯意識」のことで、何を中心にしたかはそれぞれ違うが、近代化に向けて走り始めた日本の、「自分たちがその将来を担う」という強烈な意識が、キリスト教に入信した若者たちにあったのだろう。期せずして明治初期の同じ頃、熊本バンド(同9年)、札幌バンド(同9年)、横浜バンド(同10年)と、三つのバンドが生まれた。日本のキリスト教を見ていく中で、このバンド結成の動きは注目に値する。
 他に、明治三十八年とかなり遅くなるが、ある人たちは、B.F.バックストンとパゼット・ウィルクスの影響下にあるきよめ派の流れを、神戸バンドと呼んでいる。しかし、これは、バンドというより、乱立する教派の流れをさらに加速したものだろう。大部分の教会史家たちは、これをバンドとは数えていない。

2、日本におけるキリスト教形成運動

(1)横浜バンド

 日本におけるキリスト教形成運動、「○○バンド」を紹介しよう。
 最初に横浜バンドを取り上げる。これは明治十年と、三つのバンド中では一番遅い誕生だが、影響力という点では、群を抜いている。

 横浜バンドは、バラとブラウン二人の宣教師の感化を受けて入信した青年たちにつけられた通称だが、青年たちは宣教師の手を離れ、次第に日本人独自の働きを展開するようになった。最初に洗礼を受けたのは、バラに日本語を教えていた矢野元隆だが、その他、ブラウンやバラから洗礼を授けられた島田三郎、植村正久、井深梶之助、本多庸一、押川方義、篠崎桂之助といった十一名が、バラを仮牧師として日本基督公会=横浜公会を設立、日本人教会の第一号となった。これは、横浜海岸教会として今に残っている。
 横浜における公会の創立は東京にも波及し、六年築地に東京基督公会を樹立、以後各地に公会(教会)が建てられた。これら公会は、初めは無教派主義を標榜していたが、長老教会の宣教師が二派に別れ、教派を主張する者たちが「日本長老教会」を設立した(後述)。
 彼らはやがて、日本長老教会、スコットランド長老教会(計九教会・信徒数623名)に教派合同を呼びかけ、「日本基督一致教会」を組織。一致神学校も新設され、邦人伝道者による全国的働きが本格化していった。後に南長老教会など幾つかの教派やミッションが加わったが、宣教師は補佐役に終始していたようだ。
 このバンドは最初から教会形成を活動の中心とし、長老教会として広がっていったが、このバンドがそれぞれの教派を主張することはなく、初期の頃ではあったが、超教派主義を標榜していたことは特筆に値する。
 長老教会とは、スイス・ジュネーブで改革に取り組んだ、カルヴァンのもとで成立した「改革派教会」が、英国に飛び火して立ち上がった教会のことである。以来、長老教会は、改革派教会と同じカルヴァン主義神学を表明しながらも、改革派教会とは一線を画して来た。英国が大陸の欧州と与したがらなかったためと思われる。

 しかし、やがて熊本で誕生し、京都に移って、新島襄指導のもとで形成された組合教会との合同の気運が生まれ、合同素案まで作られたが、最終段階で組合教会から反対が起こり、合同を断念。日本組合基督教会、日本聖公会、日本浸礼教会、日本メソジスト教会など、諸教派が誕生する。

 日本基督一致教会は、第二次世界大戦直前の昭和十四年に、宗教団体法によって、政府主導のもとでほとんどの教派が日本基督教団としてまとめられるまで続く、日本基督教会となった。現代の教会史家はこれを「旧日基」と略称する。なぜなら、現在、長老教会が日本基督教会としてまとめられ、「新日基」と呼ばれているから。
 なお、この日本基督教団に加わらなかった小さな教派は、戦時中、スパイ容疑で多くの牧師たちが拘束、投獄された。小教派ほど、欧米の宣教団体の援助に頼っていたからだ。若い頃可愛がって頂いた老牧師の著書に、「巣鴨短大入学記」という題がつけられていた。戦時中、投獄を余儀なくされたのである。東京・巣鴨には刑務所があった。戦後、宗教団体法の廃止にともなって日本基督教団は解体したが、現在の日本基督教団は長老教会だけでなく、他教派も含めながらその流れを引き継ぎ、教会合同というエキュメニカル運動の中心に居続けていると言っていいだろう。

(2)熊本バンド

 熊本藩は、中央政権を独占した薩長両藩に追いつこうと、県内の英才教育機関として、熊本洋学校を開校した。
 開校に尽力した横井大平(幕末の政治家で思想家・横井小楠の甥)は、長崎の宣教師フルベッキの紹介で、南北戦争に従軍した北軍将校L.L.ジェーンズを校長として推薦した。
 ジェーンズは、明治四年、妻と幼い二人の子どもを伴って熊本に赴任。
 三十四歳の理想に燃える優れた教育者だった。

 ジェーンズ大尉は、熱心なキリスト者だったが、それには一言も触れず、自らが学んだ米国北軍士官学校のカリキュラムを取り入れ、教育に専念した。その教育は、立身出世に偏りがちな生徒たちに、実学の大切さを教え、質素な市民社会的職業倫理を説くものだった。
 しかしながら、赴任後三年を経て自宅を開放、聖書を講じ始めた。出席者は次第に増え、日曜礼拝まで行なわれるようになった。

 明治九年、有志生徒35名が熊本市郊外の花岡山に登り、そこで「奉教趣意書」を読み上げて信仰誓約の署名を行なった。宮川経輝、金森通倫、海老名弾正、横井時雄といった、後世の優れた教育家や指導者たちが名を連ねた。
 熊本バンドの誕生である。
 しかし、この熊本バンドは、生徒たちが「キリシタン」になったということで、両親や親族と学校関係者の間で問題となり、ジェーンズはわずか五年で学校を追われ、洋学校そのものが閉鎖に追い込まれた。
 ジェーンズは35名の行く末を案じ、米国留学を終えて京都に組合系学校・同志社英学校を創設(明治八年)した新島襄に彼らを託し、熊本を去っていった。
 組合系とは、英国国教会を離脱し、ピュウリタンとなって米国に飛び火した会衆制教会のことである。いくつかの教派が連合したことで「コングリゲーショナル・チャーチ」と呼ばれ、それが組合教会と訳された(後述)。

 以後、同志社がこの熊本バンドの伝統を引き継ぐことになる。
 その伝統は実学であり、人に仕える信仰者の基本姿勢を大切にすることだった。そこから多くの伝道者や実業家が育ったのは、伝統が生きた証だろう。
 同志社大学神学部はその伝統のもとで創設され、教会ばかりか、経済界や政治界で活躍する多くの人材を輩出したが、次第に縮小され、現代は神学部そのものの存続まで問題にされているのは悲しいことである。

(3)札幌バンド

 1876(明治9)年、北海道開拓のために設立されたばかりの札幌農学校(現北大)に、初代校長として、米国マサチューセッツ州立農科大学第三代学長ウイリアム・クラーク博士が招聘された。教え子だった新島襄の推薦と聞く。
 マサチューセッツ州には名門のハーバード大学があるが、ハーバード大学の神学部が自由主義神学に傾いたために、アメリカ伝統の福音主義神学を土台にマサチューセッツ州立農科大学が設立されたという経緯があったようだ。現在は「マサチューセッツ大学」と名を変え、「私立マサチューセッツ工科大学」ほどではないが、アメリカ有数の名門校となっている。クラーク博士は、札幌農学校にマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま移植し、諸科学を統合した全人的言語中心のカリキュラムを導入、規律及び諸活動に厳格かつ高度な標準を作り出し、学生の自律的学習を促した。

 クラーク博士は招聘を受けて、一年間の休暇をとって札幌に赴任した。
 来日直前に米国聖書会社を訪れ、英語聖書五十冊をトランクに詰めて札幌に向かったと伝えられている。
 聖書を教えることに、並々ならぬ決意をもって赴任したのだろう。
 彼は、北海道に渡る玄武丸の船中で、自分を招聘した同行の開拓使長官・黒田清輝に、学校で聖書を教えることを強く訴え、初めは反対していた長官もついに折れたと伝えられる。それがクラーク博士の教育理念だったのだろう。彼は米国伝統のピューリタン信仰に立つ、敬虔なクリスチャンだった。
 彼は着任するとすぐ、聖書を修身と文学の教科書に定め、毎朝授業の始まる前に聖書を教え、校則を「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」の一条のみとして、人格教育に全力を注いだ。
 在職はわずか八ヶ月だったが、大きな足跡を残した。
 クラーク博士は札幌を去る前に、「イエスを信ずる者の誓約」を学生らに提示、聖書教育を受けた一期生十六名全員がこれに署名した。博士が去った後、この署名に内村鑑三、新渡戸稲造など二期生も加わって、その一期生と二期生が中心になって札幌バンドが始まった。
 これは、クラーク博士終生の誇りだったようだ。
 臨終を迎えたクラーク自身の言葉に、
 「今、自分の一生を回想するに、誇るに足るような事は何もなかった。ただ、日本の札幌において、数ヶ月間日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、いささか心を安んずるに足る。」とある。
 そんなにも熱い思いをもって教えたから、学生たちはその信仰を継承していったのだろう。
 札幌を去る時、学生たちに残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志を抱け)」は、あまりにも有名である。これには、「フォー・クライスト」のことばが加えられていたと伝えられるが、現北大のキャンパスには、台座にその言葉が刻まれたクラーク博士の胸像が立っている。
 残念なことに、「イエスを信ずる者の誓約」に署名した者の半数は、その後信仰から離れるが、半数はその教えを堅く守り、明治十四年に、外国の教派とは関係しない札幌独立教会(現・クラーク記念教会)を設立した。寄宿舎で学生のみの礼拝を守っていたが、クラーク博士の教えが実を結んだものと思われる。
 教派によらない独立教会の形成、それが、札幌バンドの特徴だった。
 その特徴が良く現われる逸話が残っている。
 札幌独立教会初代牧師の大島正健が按手礼を受けないまま聖礼典(洗礼、聖餐)を執行していると非難を浴び、新島襄が仲介し、いずれの教派にも属さないという約束で、植村正久、井深梶之助、小崎弘道等各派を代表する人たちが立ち会い、大島牧師は按手礼を受けた。この逸話には、まさしく独立心旺盛な気風が感じられるではないか。
 その特徴は、卒業後、学生たちが群れをなさず、散り散りになっていろいろな分野に進出し、優れた業績を残したことにも現われている。

 札幌バンドを語る時、内村鑑三を中心にした無教会キリスト教に触れないわけにはいかない。札幌バンドは「無教会主義」であるという風評が生まれていたからである。だが、前述した「散り散りになった卒業生たち」の中には、新渡戸稲造など、忠実な教会生活を送った人たちも多数いる。

 内村が主催した無教会の集会は、極めて日本的と評価されている。
 無教会は、旺盛な独立心という札幌バンドの特徴を、もっとも良く現わしていると言えよう。
 無教会という言葉は、内村の処女作『基督信徒のなぐさめ』で初めて用いられたが、その後、彼は「無教会」という名の雑誌を創刊し、教会から離れ、所属する教会のない者同士の交流の場を設けようとした。
 内村の盟友によると、彼は教会や宣教師から「はなはだ不快な」仕打ちを何度も受けたようだ。そんなことから、教会から離れた人たちの交わりが必要と考えたのだろう。
 当時、すでに多くの人たちが教会から離れていた。

 しかし、これは教会主義(或いは教条主義)を否定するもので、イエスさまの教会や福音そのものを否定してはいない。「交わり」は初期キリスト教会の重要な特質の一つでもある。会堂を持たず、牧師制を取らず、聖礼典を行なわないが、決してそれらを否定しているのではない。だから無教会は、「反教会」ではない。もっとも、内村以後の無教会の教師たちの中には、内村の弟子だった塚本虎二など、反教会の旗印を掲げる人たちもいたようだが・・・
 「集会」では聖書講義と称する説教があり、讃美歌が歌われ、礼拝が行われていた。ただ、組織化を意識して避けたということなのだろう。本部を持たず、宗教法人ではない集会が大多数を占めていたようだ。そんな原始キリスト教教会時代に似た形態を執る「無教会」は、今も各地に点在している。
 それも一つの教会観ではないか。
 ただ、主の命令により行われてきた聖礼典(バプテスマと聖餐式)を執行しないのは、教会として問題と思われるが・・・

 以上三バンドは日本の教会の主流となったが、来日する宣教師が多様化するにつれ、次第に教派色の強い教会が多くなっていった。以下、明治期におけるプロテスタント教会のおもな教派をあげておこう。

 日本基督教会:もともと日本の教会は、超教派を目指した「日本基督一致教会」として始まった。主導した長老教会から組合教会に声がかけられて合同の機運が生まれ、合同基礎案まで作成されたが、組合教会内部から反対が噴出し、合同は沙汰止みとなった。そこで、長老教会だけで組織化されたのが「日本基督教会」である。大戦後、日本基督教団を脱退した長老教会が新しい「日本基督教会」を結成したことから、以前の日本基督教会は「旧日基」と呼ばれるようになった。
 日本組合基督教会:十六世紀に、R・ブラウンを中心とする人たちは、教会の自治は各個教会の会衆が行うべきとして英国国教会から離脱し、会衆派教会と呼ばれた。同じ国教会から離脱した長老教会とは一線を画すという意識なのだろう。「組合」とは、会衆派教会の「コングリゲーショナル・チャーチ」を「組合教会」と訳したことによる。
 アナバプテストとの関連も取り沙汰されているが、これはピュウリタンとなって米国に渡り(ピリグリム・ファーザーズ)、米国の政治社会思想や制度組織に大きな影響を与えた。日本における組合教会の流れは、新島襄による同志社英学校設立に始まるが、そこに熊本バンドの人たちが加わってより加速した。しかし、日本基督教団に組み込まれ、消滅した。
 日本美以教会:ジョン・ウエスレー主導によって英国国教会から分離・離脱したメソジスト運動に始まる。日本基督教団成立以前の、日本プロテスタント教会三大教派の一つである。メソジスト系教会の日本宣教開始は明治六年だが、同四十年アメリカメソジスト監督教会・アメリカ南メソジスト監督教会・カナダメソジスト教会の三派合同により成立した。監督制をとり、初代監督は本多庸一。青山学院、関西学院、東洋英和学校(麻布中学)、東洋英和女学院などを設立し、学校教育に力を注いだ。日本基督教会、日本組合基督教会とともに初期日本プロテスタント教会の三大教派に数えられる。
 日本聖公会:「聖公会」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とする英国国教会から誕生したが、ローマ・カトリックとプロテスタントに大別される中で、「聖公会」は両者の持つ要素を兼ね備え、その中間に位置する教派と位置づけられて来た。日本では、明治二十年、米国プロテスタント監督教会、英国の低派と高派二つの聖公会の三つのミッションが合同、日本聖公会となった。
 日本浸礼教会:アナバプテストの系統を引き継いで英国に誕生したバプテスト教会は、分離派の会衆派教会としてコングリゲーショナル・チャーチに数えられるが、それとは別に、独自に日本に進出した。
 明治六年、米国のバプテスト宣教連合(後の北部バプテスト)から派遣されて来日したゴーブルとネイサン・ブラウンは横浜第一浸礼教会を設立した。これは現在の日本バプテスト同盟である。 また、米国南部バプテスト連盟は明治二十二年にマッコーラム、ブランソンの二宣教師を派遣、九州を中心に宣教した。このミッションは大正五年に西南学院を設立、現在の日本バプテスト連盟となる。

 その他、小教派では日本福音教会、日本美普教会、自由メソジスト教会、福音ルーテル教会などがある。英国から宣教師として来日したバークレイ・バックストンとパゼット・ウィルクスは、明治三十七年、神戸で日本伝道隊を創設。ここから、後に聖霊派と呼ばれる諸派が誕生する。

(4)戦中、戦後の教会

 明治初期から中期にかけての草創期を、日本の各プロテスタント教会は、無教会主義を含め、日本人教会という道を歩き始めた。欧米から派遣された宣教師たちも、一部の人たちを除いて、ほとんどが好意をもってバックアップしていたようだ。そして、時には大リバイバル現象も起こしながら、多くの人たちを招き入れ、明治末期までの安定期を迎えた。・・・と、ここまではすこぶる順調な成長と見ることが出来る。

 ところが、秀吉や家康以来のキリスト教拒否という日本の風土は、延々と日本の国策の中に息づいていた。
 そんな空気が徐々に表に出始め、巷のそんな意識にキリスト教界も振り回されるようになった。
 明治維新以後の日本政府は、近代文明の進んだ欧米に追いつこうと、富国強兵策を取り入れていたが、明治二十七年(1894)の日清戦争に勝利したためか、明治三十七年(1904)の日露戦争には、軍国主義者のみか、一般国民の大半までが主戦論に浮かれ始めた。そんな世相に教会も巻き込まれていった。
 そして、主戦論がキリスト教教界内の大勢を占めるようになっていった。
 もちろん教会には、信仰者の良心ともいうべき非戦論も根強く残っていたが、欧米から来たキリスト教は国賊であると敵視され、浅草、下谷など東京の十数もの教会が暴徒によって次々と焼き討ちされた。

 やがて、主戦論という国の方針に妥協し始めた日本の教会は、戦勝のために大挙神社に参拝し、祈祷会では日本の戦勝を祈るという愚を繰り返すようになった。太平洋戦争時のことである。神さまの目より人間の目を気にする、宗教に堕した教会の姿が見られるではないか。
 昭和六年(1931)の満州事変を契機に、日本は国をあげて神道イデオロギーによる愛国運動が盛んになり、教会は反国家主義と見なされ、激しい迫害が再燃した。やり玉の最初はカトリック教会に向けられ、軍部、在郷軍人団、青年団による奄美大島各地の教会等への焼打ち事件などが頻発した。そのため、大島の信徒は潜伏キリシタンと同じ状態に追い込まれたようである。
 昭和十年、カトリック全国教区長会議は、ついに日本の国粋主義への転向を決意、そして、この頃からプロテスタント教会も国粋色を濃厚にしていく。政府からの強い要望(強制)を受けて、牧師が信徒を引き連れて神社に団体参拝するようになったのも、この頃からである。

 昭和十四年(1939)、宗教諸派の国家統制を目指した宗教団体法が国会を通過し、カトリック教会と信徒数五千名以下の小教派を除くプロテスタント各教派は、一括して「日本基督教団」に組み入れられた。小教派が除外されたのは、外国ミッション依存度が高いと見なされたからだろう。
 除外された小教派はにわかに各派代表の懇談会を開くなど合同を模索し、皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会で、全基督教会合同実現の決意を表明した。そのように教会の大半が国家権力に屈したことは、現今の私たちにとっても、目をそらしてはならないことだろう。

 敗戦を迎えて混迷を深める日本の教会に、強力な援護者がやって来た。
 占領軍総司令官・ダグラス・マッカーサーである。
 彼は、来日するとすぐに、宗教団体法を撤廃し、天皇の神性や神社の国教的特権を剥奪して、宗教の自由を高々と歌い上げた。
 戦争時に政府主導のもとで強制加盟されていた日本基督教団内の旧教派は、これを機に次々と脱会、新らしい日本基督教会(長老教会、新日基、現日本キリスト教会)など、教派教団を再興し始めた。
 さらにマッカーサーは、米本国の教会に大量の宣教師派遣を要請、やがて若い宣教師たちが大挙日本にやって来た。大半は敗戦の日本に駐留していた軍人で、日本が好きになった人たちだった。
 彼らは本国での教役者経験はなく、大半が短期の宣教師養成学校を出た若者だったが、来日後、懸命に福音を伝え、たくさんの人たちを教会に招いた。彼らが本国に送ったレポートによると、当時の日本人クリスチャン数は、総人口を上回っていた。
 当時若者だった人から「私も洗礼を受けたよ」と、思いがけない言葉を聞いた方もあるのではないか。もっとも、大半の人たちは、ほどなく教会を卒業してしまったが・・・

 その頃、中国が共産党に支配されるようになり、宣教師排除を国策とした。
 中国で活動していたアメリカの約三十の教派ミッションが、追われるように中国を離れ、日本に拠点を移すことになった。その宣教師たちは、知的面からも経験からも優れた人たちだった。元軍人の若い宣教師たちと熟練の宣教師たちは、水を得た魚のように伝道に邁進し、米国本土の教会から多額の資金援助もあって、たくさんの新しい教会が建てられた。
 日本の教会がアメリカナイズされて、まるで外国領のようになっていった背景がお分かり頂けるだろう。戦争責任の反省を欠いた日本基督教団とともに、現代教会が抱える問題の多くは、そこに遠因があると指摘されている。
 しかし、そのような「問題」を多く抱えながらも、宣教師たちは、敗戦で希望と目標を失った日本人に、新しい価値観、新しい生き方を教えてくれた。それは、日本人には見知らぬ新しい文化だったかも知れないが、ともかく新しい世界があることを示してくれた。その功績は、少々割り引いたとしても、決して消えるものではない。
 米国の好意に、心からの感謝を持ち続けたいと思う。

 そして、現代教会が抱えたもう一つの問題がある。
 それは、日本ばかりではないが、現代、クリスチャンが聖書を読まなくなったと嘆く声が、世界中から聞こえて来る。
 それは牧師、伝道者にも当てはまるだろう。
 牧師が聖書を読まなくなったというのではない。教会で語られるメッセージが、ドイツを中心に台頭した近代神学に毒されてしまったのだ。それは、聖書が神さまのことばであるという伝統的教会神学の否定だった。
 聖書のメッセージに育てられない教会の人たちが多くなったらどうなるか、説明は不要だろう。
 「福音主義」とは、別名「聖書主義」であって、プロテスタントにつけられた誇りある呼び名だが、それは、宗教改革者たちの緻密な神さまのことば・聖書の学びから来ている。
 現代、「福音派」と呼ばれるいくつかの教派がある。ルーツは多く上げられるが、その一つは、キリスト教史で異端と呼ばれた、アナバプテストに行き着く。そんな異端と呼ばれた群れでさえ、宗教改革者たちの緻密な聖書の学びを受け継いで、自分たちの群れを建て上げようとしたことを忘れてはならない。彼らは急進的改革者と呼ばれ、国家教会となったプロテスタント諸派から迫害され、小さな群れのままではあったが・・・

 日本のキリスト教会における著しい特徴とでも言うべき、もう一つのことに触れておかなければならない。
 第二次世界大戦前の日本のプロテスタント諸派は、日本人による日本人のための教会という、いわゆる国民教会を志向していたが、その流れに逆らうかのように、大戦後は米国主導のもとで新しい合同教会を目指す動きが活発になった。
 昭和二十三年(1948)に日本基督教協議会(NCC)が誕生した。これは、米国で主流派だったエキュメニカル運動に後押しされたものである。エキュメニカル運動とは、教会合同運動というもので、教会はもともと一つなのだから、とにかくまず合同しようではないかと、信仰一致はそっちのけで、「教会一致」という組織化に力を注ぐものだった。
 ところが、日本基督教団を中心とするNCCという新しい合同教会結成には極めて批判的な流れがあった。1950年、教団内の旧日本基督教会(長老教会・旧日基と呼ばれる)の人たちが、教団を離脱して新しい日本基督教会(新日基)を立ち上げ、以後、旧教派の多くが教団を離脱して教派教団に戻っていった。
 これは日本の教会の方向性を選択する問題で、合同教会派と国民教会派との反目が、その後の日本の教会にしこりとして残ったと言えるだろう。
 しかし、合同教会派と国民教会派、どちらも米国内の対立軸がそのまま日本に移って来たというだけで、戦後日本の教会は、米国依存の体質を脱却しないまま今日に及んでいる、と指摘する人たちもいる。そして、多数の外国人宣教師を抱えたローマ・カトリック教会も、同じ問題を抱えている。今のところ、合同教会派より従来の教派依存の国民教会派が圧倒的に多く、災害時の協力も、教派単位になっているようだ。
 いずれにしても、筆者には、神さまの座である教会が、人間に占領された観が否めない。
 こういう対立そのものが、キリスト教が大切にしなければならない、「福音」の宗教化ではないかと気にかかる。


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