新・福音と宗教


第二部 福音と宗教

六章 キリスト教

 この章では、キリスト教の歴史(日本のキリスト教史を含む)と、その歴史上で発生した異端問題を取り扱う。
 特に、何が正統で何が異端とされたのかを探っていきたい。
 初期キリスト教確立の背景には、二世紀を中心に世に出された、使徒後教父たちの異端との戦い・「異端反駁論」があるが、その中心は、異端を明らかにすることによって、正統的キリスト教とは何かを明らかにすることがあった。
 歴史上のキリスト教と福音の間には、区別しなければならない違いがある。もちろん多くの共通点もあるが、歴史を見て行くことでその共通点を、そして、異端を取り扱うことでその違いをピックアップできればと願う。

 「キリスト教」に取りかかる前に、まず「ユダヤ教」について触れておきたい。
 なぜなら、ある意味でキリスト教は、ユダヤ教の相当部分を引き継いでいるからだ。もちろん、決定的とも言える相違点はいくつもあるが、キリスト教は、ユダヤ人たちが神さま(ヤハウェ)のことばとして聞いて来た「聖なる書物」を、そのまま旧約聖書として受け入れていて、彼らの会堂・シナゴグは、キリスト教会の原型でもある。そして、聖書を読み、讃美歌を歌い、祈り、説教者からメッセージを聞くシナゴグの礼拝スタイルは、ほとんどそのまま教会の礼拝に引き継がれている。
 それは、ユダヤ人たちが拠り頼んだ神さま(ヤハウェ)が、キリスト者にとっても、数え切れない恵みを与えられる神さまであることにも見られよう。そのお方と私たちが「主」と慕うイエスさまについては、第二部で明らかにしたい。


1、ユダヤ教

(1)ユダヤ人とユダヤ教徒

 現代人の特徴だろうか、ユダヤ人でもユダヤ教信仰を踏襲しない人たちがいる。しかし、一部のそんな人たちを除いても、一応、ユダヤ人=ユダヤ教徒と言っていいだろう。もっともその場合、「ユダヤ人」をどう定義するかは問題だが・・・

 パレスティナに築き上げた国を失い、放浪の民として長い歴史を世界中の様々な国で生きてきた彼らは、古い国名「イスラエル」を引き継ぐ現イスラエル共和国内においてさえ、「ユダヤ人とは誰か」という認識は多様で、時には裁判沙汰になるほど重い議論になっている。
 現代、イスラエルの法律では、母親がユダヤ人ならその子はユダヤ人と認められている。それはもちろん血筋のことだが、ユダヤ教は家庭教育を重視していて、ユダヤ教を子供に伝える役目を母親が担っているからだろう。しかし、割礼を受けてユダヤ教に改宗すればユダヤ人になれるなど、そんなことも議論をいっそう複雑にしている。割礼とは、男子のシンボルを一部切り取ることで、それは、神さまとイスラエルの「契約のしるし」という意味をもっている。つまり、イスラエルが神さまの民とされる宗教儀礼である。それがあるから彼らは、どんな時にも「神さまの民」という意識から離れることはなかった。

 「ユダヤ」という呼名は、南北に分裂した「統一イスラエル王国」の北王国(十部族)が前722年アッシリヤ帝国によって滅ぼされて後、南王国(残り二部族)でも、少数のベニヤミン族がユダ族に吸収されて自然消滅し、そのユダ族もバビロン捕囚(前600~530年)の憂き目に遭う。その後、バビロンから覇権を引き継いだペルシャが、イスラエル王国の行政区の呼名として「ユダヤ」を用いたことから、イスラエルに帰還した後も、彼らは「ユダヤ」と言う呼称をそのまま自国の呼名にしたようだ。
 イスラエルの十二部族は、ヤコブの十二人の息子たち(次項参照)を起点とするが、時代によって脱落する部族が出るなど、かなり複雑だ。だから、「十二部族」は、正確な十二部族名というよりむしろ、イスラエルを指す伝統的呼称と考えていいだろう。

 しかし、歴史的には、ユダヤ教がユダヤ人のアイデンティティー(自覚、意識)を保ってきたと言えるだろう。彼らは、イスラエルであった時も、またユダヤ人になって放浪の民として世界中に散らされた後も、その何千年という歴史を、「神さまとの契約」の中で生きて来たからである。
 そのアイデンティティーこそ、ディアスポラのユダヤ人たちを一つ民族として結びつけ、さまざまな迫害に苦しみながらも、神さまの選民という誇りの中で生き抜く力となったのだろう。


(2)ユダヤ教の成立

 通常、バビロン捕囚以前は「古代イスラエル」と呼ばれるが、それは、シュメール人が築いて古代バビロニアに引き継がれた、カルデアのウル(ペルシャ湾の突き当たり・現イラク)からカナン にやって来た、アブラハムに始まる。
 前二千年初頭の話しである。
 古い言い方でイスラエルはヘブル人と呼ばれるが、「ヘブル」とは「川を渡って来た」という意味で、川とはティグリス・ユーフラテス川のことだが、そこは大河から運河が引かれ、流域では農業が発達していた。農業はラテン語でアグリコラエと言われ、コラエとは「カルチャー」、すなわち文明のことだ。大河地方は、世界に名だたる文明の中心地だった。アブラハムは、その文明を享受していた。だが・・・
 アブラハムは、バビロニアにいた頃から、「ヤハウェ」(「主」の意)という、後のイスラエルが神とした唯一神を崇めていた。
 神々の国であったバビロニアで、「ヤハウェ」はアブラハムに言われた。
 「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」(創世記12:1-2)と。
 ヤハウェが導かれたところはカナンの地の南部だった。カナンは紀元132年の第二次ユダヤ戦争以後、「パレスティナ」と呼ばれるようになったが、「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる中心部・十字路に当たる。
 当時、文明国バビロンから見れば、そこはいかにも辺境の地だった。しかしアブラハムは、人が造った文明より、神さまの啓示を重んじた。
 それは、アブラハム、イサク、イサクの子ヤコブ、ヤコブの十二人の子どもたちから始まるイスラエル十二部族が辿った歴史だが、それはそのまま古代イスラエル宗教の歴史に重なる。カナンでの放牧生活の後、エジプト移住とそこからの脱出、カナンへの再進入と諸民族との戦い、定住、王国建設、分裂、バビロン捕囚という苦難を背負い、それでも神さまの祝福を頂き神さまの選びの民とされるが、カナン周辺諸民族の先進的文化に毒され、次第にヤハウェから離れて行った歴史でもある。それら周辺諸民族には鉄製の武器を用いる優れた文化があり、素朴な放牧を生業とするイスラエルはその文化に憧れたのだろう。だが、その文化を取り入れることは、彼らの神々を取り入れることだった。文化は宗教と結びついていたから、彼らがヤハウェを忘れるまで、さほど時間はかからなかった。そんな彼らの歩み(前2000年初頭~南ユダ王国滅亡前586年)は、旧約聖書に詳しく描かれている。

 古代イスラエルの宗教は、モーセの律法と神殿(シロやシケムに簡素な神殿が建てられる前は移動式天幕製聖所)での祭儀を中心に、いかにも素朴なヤハウェ礼拝だった。エルサレム神殿は、ダビデ王がイスラエルを統一した後、その子ソロモンが建てたものである。

 その初期イスラエルの信仰を、ユダヤ教が引き継いだ。
 バビロンから帰還したユダヤ人たちは、エズラによって再建された第二エルサレム神殿(第一神殿はソロモンによる)で祭儀が行われるようになった後も、バビロン捕囚中に造り上げたシナゴグ(ユダヤ人会堂)での礼拝を中心に、モーセの律法を遵守する共同体を形成していった。
 初期(前期)ユダヤ教の成立である。
 彼らは、神殿崩壊と祖国喪失、バビロン捕囚という出来事を通して、その原因が神さまへの背信行為にあったと反省したのだろう。
 新しいユダヤ教は、安息日厳守など律法に則った儀式、旧約聖書に記された食物規定に加え、ラビたちによって細々と定められた日常生活の倫理綱要、断食や祈りなどを厳しく守ろうとして、それが次第に空虚な形式主義に陥っていった・・・
 時代が進んで、保守派や進歩派などいくつもの派が出現して来るが、ユダヤ教の頑固な「律法主義者」・パリサイ派は、その頃、あるいはそれ以前(バビロン捕囚中?)に発生したものらしい。そして、諸派乱立に合わせるかのように、終末思想やメシア待望思想が盛んになっていった。
 この「初期(前期)ユダヤ教」の教団としての成立はパレスティナ帰還後のことだが、その萌芽は捕囚時代にあったと言われる。バビロニヤにあったユダヤ人開拓地(ユダヤ人コロニー・他国人もいた)で、祭司、律法学者、パリサイ人たちは散逸していた聖書(旧約聖書)を編纂しながら力をつけ、彼らはコロニー内の預言者また教師として、次第にその地位を確保していった。
 当時の聖書は、パピルスのコデックス(閉じ本)もあったが、大部分は羊皮紙に書かれた大ぶりの巻物で、一つの書物が何巻もの巻物になっていた。
 バビロン捕囚100年ほど前のヨシュア王の時代に、神殿内から「律法の書」が発見された。それをきっかけに「ヨシュア王の宗教改革」が行われるが、律法の書(旧約聖書)が「発見された」ということは、すなわち、それが長い間人々の目に触れられていなかったということで、イスラエルを形成していた「神さまのことば」が、ないがしろにされていたことを意味する。
 恐らく、多くの巻物は散逸していた。バビロン捕囚時に、その散逸していた巻物を収集、編集することは、「新生ユダヤ」の急務だったに違いない。彼らは、バビロン捕囚を神さまからの「罰」と受け止め、だから新しい礼拝所・シナゴグでは、編集され、完成された聖書を読むことと、そこからメッセージを聞くことが、礼拝の中心になっていた。彼らは、異邦の地で、ヤハウェへの信仰を回復し育てていったのだ。

 繰り返そう。
 捕囚時代に生まれた礼拝と教育の場「ユダヤ人会堂」(シナゴグ)は、帰還したユダヤ人の地域共同体に引き継がれ、ヤハウェ神殿のなかった異国の地で、それに代わる聖所・礼拝所として誕生した。シナゴグ礼拝に参加する人が、神さまの選びの民であり、ユダヤ教の成員とされた。シナゴグは、エルサレム神殿とは別の、もう一つのユダヤ教の中心となった。
 初期ユダヤ教は、祭司エズラを中心に再建された第二神殿時代に重なり、紀元70年のローマとの戦い(ユダヤ戦争)で神殿が崩壊された後は、「後期ユダヤ教」と呼ばれる。
 シナゴグでの礼拝は、キリスト教会のひな型となった。


(3)放浪の民として


 ユダヤ人と言えば、国を失って世界中に散らされ、2000年にも及ぶ迫害と放浪の中を生き抜いた民族として知られるが、その放浪の歴史の概観を辿ってみよう。

 ユダヤを支配下に置いたローマとの関係は、紀元前63年に遡る。
 紀元前63年と言えばユダヤのハスモン王朝時代だが、女王サロメ・アレクサンドラの後継を巡って二人の息子が争い、弟アリストブロス二世が兄ヒュルカノス二世の軍に包囲された年だ。アリストブロスは、シリヤに駐留していたローマの将軍ポンペイウスに援軍を要請し救出されたが、後にボンペイウスは、恩を忘れた不誠実なアリストブロスを捨て、ヒュルカノスを王・大祭司として認めた。
 ポンペイウスがユリウス・カエサルに敗れると、ヒュルカノスに代わってアンティパトロスが後を継ぎ、ローマによるユダヤ支配体制の初代長官となった。だが、紀元前44年にカエサルが暗殺され、同じくアンティパトロスも殺されると、アンティパトロスの息子でイドマヤ人のヘロデが、ローマ元老院からユダヤ王と公認され、紆余曲折の末、ヘロデ王朝が始まった。
 彼は大王と呼ばれ、その末期にベツレヘムでイエスさまがお生まれになるなど、新約聖書の最初期を彩っているから、馴染みある名前だろう。

 だが、ヘロデ王朝の安泰も彼が王だった間だけで、ヘロデが死ぬと(紀元前4年頃)、たちまちローマへの不満と暴動が起きた。
 そこからは小反乱時代と呼ばれる。
 そして紀元60年代には、過激派・熱心党を中心に、ローマからの独立を目指して多くのユダヤ人が武装蜂起し、次第に大反乱時代へと向かう。64年にユダヤとローマは第一次ユダヤ戦争に突入し、時の皇帝ネロは大軍を派遣した。ネロ帝は67年に暗殺され、三人の皇帝が争った内乱時代を経て皇帝となった総司令官ヴェスパシアヌスは、エルサレムを完全制圧(70年)し、エルサレムは神殿西壁(現在は嘆きの壁と呼ばれる)を残して、徹底的に破壊された。
 この戦争にユダヤ側の司令官として参戦し、「ユダヤ戦記」を著したヨセフスによれば、ユダヤ人犠牲者は百十万人を超えたと言われる。その後、約千人のユダヤ人が死海東側にある要塞マサダに籠城し、ゲリラ戦を展開するが、ローマはこれをも陥し、二人の老婆と五人の子供を残して全員玉砕した。この事件は、ユダヤ最大級の悲劇として語り伝えられている。
 そして紀元132年、バル・コフバの反乱(第二次ユダヤ戦争)が起こった。最後のユダヤ戦争だが、敗北した彼らは国を失い、世界中に離散して行った。それが2000年に及ぶ放浪と苦難の時代の始まりだった。
 つい近年まで、いくつもの国が反ユダヤ主義を掲げ、ユダヤ人迫害者になっていた。ドイツ・ナチによるアウシュビッツでのユダヤ人虐殺など、その典型例だろう。
 ユダヤ教は、紀元70年の「ユダヤ戦争」を境に、以後、「後期ユダヤ教」と呼ばれる(後述)。これは、シナゴグ礼拝を中心とする、民衆教育を特色としている。恐らく、戦争で散逸した「聖書」の結集も行われたのだろう。

 ローマとの戦いに敗れ、離散して放浪の民(海外移住のユダヤ人=「ディアスポラ」)となったユダヤ人は、迫害と苦難の中を生き抜く道をユダヤ教に求め、唯一の神・ヤハウェを信じるユダヤ教徒として生きる必死の模索を続けた。
 この新しいディアスポラのユダヤ人たちは、恐らく、古ディアスポラの人たち(バビロン捕囚から祖国に帰国しなかった)とも結びついて、そのコロニーは多くの国々へ広がった。
 彼らは、国を失い、魂の中心であるエルサレム神殿で祭儀を行うことが出来なかった。
 彼らがその危機を乗り越えることが出来たのは、一つに、寄留した国々にコロニーを作り、そこにシナゴグを建てて礼拝を守って来たからである。彼らは、彼らの神・ヤハウェへの信仰をそこで守り通そうとした。しかし、異邦人の地でそのようなスタンスを守り続けるには、経済的にも大変な努力が必要だったろう。世界各地のユダヤ人が金持ちと言われる背景には、長い年月をかけた彼らの、たゆまぬ努力があった。
 そしてもう一つ、彼らがユダヤ人として生き延びて来た理由に、律法研究から生まれた信仰姿勢がある。律法研究は、世界各地に建てられたシナゴグを中心に「ユダヤ・アカディミイ」で行われた。これは、第一次ユダヤ戦争時に、地中海沿岸ヤブネに建てられた「ユダヤ人学校」(後述)から始まった。
 彼らは、神さまの意志としての律法を、日常生活の中で正しく実践することこそ、神さまの前に立ち得る正しい姿とした。ユダヤ戦争後、ディアスポラのユダヤ教は、「律法」と律法から引き出された生活規範としてのミツヴァ(掟)を中心に、ミシュナ(口伝だった日常生活の規範をユダヤ教規範集として二世紀頃にまとめた)やタルムードを重視する方向へと傾きはじめ、トーラ(律法)の他に、ミシュナとタルムードをユダヤ教正典に加える動きとなった。タルムードは、律法を日常生活の用語で解説したラビたちの知恵集とでも言ったらいいだろう。それは二十巻一万二千ページにも及ぶ膨大なもので、前500年~後500年の一千年間に語られたラビたちの口伝を編集したものだ。ムハンマド語録がウラマーたちによって編集されたイスラムのハディスに、どこか似ているではないか。

 神殿祭儀を、シナゴグ礼拝、律法研究、その実践に代えることによって、神殿喪失の危機を乗り越えた後期ユダヤ教は、結果として、律法主義宗教に変質していった。ユダヤ人の律法遵守は、イエスさまと律法学者との対話にも見られる(福音書参照)が、律法を厳格に守り通そうとするその在り方は、中世~近代を通じて一貫したユダヤ教の基本姿勢と言えよう。律法の徹底的遵守、これが、国を失い神殿を失って世界中に放浪の民として散らされたユダヤ人たちの、生きる力となった。バビロン捕囚時の詩篇に、「私はあなたのおきてを守ります。どうか私を見捨てないでください」(119:8)とあるが、彼らの信仰が伝わって来るではないか。

 ところが、その律法遵守は、いつの間にか律法の文字に縛られ、血の通わない律法主義に陥っていった。その傾向に拍車をかけたのが、シナゴグを中心とするユダヤ社会ではなかったか。バビロン捕囚期の初期には、指導者はいても、権力を持ってそれを振りかざすことはなく、上記詩篇に見られるように、預言者たちがそれぞれの群れをリードしていたと思われる。
 しかしながら、パレスティナ帰還後、シナゴグ構成員の出入を管理する指導者階級が生まれ、彼らが民衆の上に君臨するようになった。古くはパリサイ人やラビたちが、近世では正統派や改革派、保守派の教師たちが、それぞれのシナゴグでそれぞれの規則で構成員を管理したのだろう。その規則が、厳格な律法主義につながっていった。それは非常に細かなところまで定められていて、それを守ること自体が極めて難しかったと想像される。しかし、だからこそ、シナゴグという社会で共有しうる、価値あるものに育っていったのだろう。
 神さまの言いつけに背いたことがイスラエル崩壊を引き起こしたと、彼らは忘れていなかった。

 紀元70年のエルサレム陥落後、瓦礫の中から立ち上がったのは、パリサイ派の人たちだった。彼らは頑固な律法主義者として知られているが、意外と、事態を把握し対処する知恵を身に着けていたのだろう。そんな知恵を、彼らは律法研究の中から学んでいたのかも知れない。
 その中にヨハナン・ベン・ザカイというラビ(教師)がいた。彼はエルサレム籠城中に、このままでは民族が滅亡すると憂え、深夜、棺桶に身を隠して城を脱出し、ローマ軍の陣中に行き、「ユダヤ人にはローマとの協調を説くから、その代わりに学校をたてて宗教教育を行うことを許して欲しい」と願い出た。
 ローマ人は、服従さえすれば宗教なんかどうでもいいと考える人たちだったから、その願いを許し、やがてザカイは、地中海からエルサレム寄り内陸部に少し入ったヤブネに学校を作った。これは戦後ガリラヤ地方に移転するが、戦乱後の貧窮のどん底でも存続し、メソポタミアやギリシャなど世界中に散らされていたユダヤ人たちが、この学校に留学してきたと言われる。ザカイの建てた学校が、ユダヤ教の灯を守り通したのだ。彼はまた、一時期だが、ガリラヤ地方にユダヤ人自治区を造ることをローマに承認させたようだ。
 シナゴグは、イエスさま当時もユダヤ人子弟の教育の場になっていたが、恐らくザカイなどラビたちは、そんな伝統を残すことで、後世のユダヤ人たちが神さまの選びの民として生き延びることを期待したのだろう。今も世界一級知識人に、ユダヤ人が多いことも頷けるではないか。

 ユダヤとローマの最後の戦いは、ラビ・アキバがシモン・バル・コフバをメシヤに担ぎ上げて兵を動員し、反抗した132年のことだ。彼らは一時エルサレムを占領するがすぐに奪還され、残っていた建物も徹底的に破壊され、ついにユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止されてしまった。この時からこの地は「カナン」からシリア・パレスティネンシスと改名され、「パレスティナ」と呼ばれるようになった。この戦闘にユダヤ人キリスト教徒が加わらなかったことから、キリスト教徒のエルサレム立ち入りは例外とされ、この時から、ユダヤ教徒とキリスト教徒の身分が区別されるようになったと言われる。

 紀元392年にキリスト教がローマ国教となり、その直後から、権力者となったキリスト教徒によるユダヤ人迫害が始まった。ローマ法立法にキリスト教徒が加わり、教会が定めた教会法がローマの国家法に取り入れたのだ。
 まず、キリスト教徒がユダヤ教に改宗することは禁止され、違反者は死刑に定められた。そして、439年にはシナゴグの新しい建設と布教活動の禁止令が出され、違反者は死刑にされた。さらに、ユダヤ人がキリスト教徒と同じ家に住むことや、キリスト教徒の奴隷を使うことも禁止され、違反者は死刑にされるなど、彼らは次々と追い詰められていった。
 ユダヤ教は邪悪な宗派、悪魔の手先だから追放し、絶滅しなければならないと、つい近世まで、欧州のキリスト教各国は異端審問所を設けてユダヤ人を追放、そして、些細な理由から、多くのユダヤ人のいのちを奪った。

 1700年にも及ぶヨーロッパにおけるユダヤ人迫害は、大部分がキリスト教徒の手によって行われたと言っていい。

 迫害の第一原因は、驚くべきことに、イエス・キリストを十字架につけたのは彼らだったということである。イエスさま当時の一部のユダヤ人に限って言うなら、まさしくその通りだが、時代を経たユダヤ人全員がその責任を問われ続けるのは、実に奇妙なことではないか。まして、聖書にその信仰を学んだ人たちは、イエスさまを十字架につけたのは罪を犯したすべての者で、そこにはユダヤ人とか何々国人とかの区別はないと理解してきたが、それにもかかわらず、キリスト教徒たちは、ユダヤ人迫害者になっていった。
 その理由の一つに、ユダヤ人はローマとの確執から国を失ったが、その後も反抗し続けたことが上げられる。ローマ人は、おおむね寛容な民族だが、逆らう者には徹底して反抗の芽を摘み取ろうとする。テオドシウス帝のキリスト教国教制定(392年)以降、ローマ人=キリスト教徒となった。それまで迫害される側だったキリスト教徒たちは、公権力と結びつき、その反動として、帳尻合わせに走ってしまったのだろうか。ユダヤ人側にとっても、自分たちの分派であった筈のキリスト教徒が、一人前の顔をして権力者になっていることを、苦々しく思っていただろう。そんなユダヤ人の反感にキリスト教徒が反応し、両者の間に葛藤が生じていったと見る人たちは少なくない。

 ユダヤ人迫害は、彼らの財力に対する反感へと向かった。ユダヤ人は、長い放浪生活の中で、金儲けに類い希な才能を発揮して悪徳商人の評判を得ることになり、ユダヤ商人に対する反感が、彼らの財力を憎む反感へと育っていった。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の、強欲なユダヤ人金貸しシャイロックの物語は余りにも有名である。その財力を妬んで、その財力を我が物にと考えた者たちがいても、おかしくはない。ユダヤ人から取り上げた財産なら、さほど後ろめたくもなく通用したのだろう。

 次ぎに迫害の主原因となったのは民族主義だが、それは、西欧が民族国家を立て始めた一九世紀から二十世紀にかけてのことである。
 同一民族、同一宗教、同一言語を統一国家の基本とした西欧諸国は、近代化によって経済的にも軍事的にも力を蓄え、やがて他国への侵略や植民地支配に走るが、その陰に隠れた少数民族、立ち後れた国や民族の問題が、第一次世界大戦や第二次世界大戦を引き起こしたと言っていいだろう。
 そのような民族国家形成の最中に、ユダヤ人は異様な団結力を持ち、国家内国家とでも言える特殊な社会を作り上げていった。しかも同一宗教という点で、彼らユダヤ人は、妥協することのない自分たちの宗教を抱えていたから、民族主義国家を目指す人たちの目障りになったのは言うまでもない。第二次大戦中、神国日本にとって、キリスト教が目障りだったこととも符合する。この間にユダヤ人迫害が熾烈になり、ついに彼らは、自分たちの居場所・国家創設を夢見て、シオニズム運動を起こす。

 シオニズム運動とは、ユダヤ人が偉大な王と慕う、ダビデが築き上げたエルサレムの都を目指すことである。正確にはエルサレムにある「シオンの山」だが、そこはエルサレムの代名詞であり、パレスティナ一円に広がるかつてのイスラエル王国再建のシンボルである。
 1880年代に始まるこのシオニズム運動に火をつけたのは、オーストリアのユダヤ人で、ウイーン在住の新聞記者・テオドール・ヘルツルだが、その運動が実ってパレスティナにイスラエル共和国が独立・誕生したのは、つい近年、1948年のことだ。ついに彼らユダヤ人は長い放浪の歴史にピリオッドを打ったが、その地にはすでにパレスティナ人と呼ばれるアラブ人たちが住んでいた。ユダヤ人たちは、そこに割り込むように入って来たのだが、当然そこには、貧しいムスリムのアラブ人と世界各地に大金持ちを擁するユダヤ人との間に、紛争が起きた。これには英国が深く関わったとされるが、それは、パレスティナ地区の小競り合い以上の、世界を巻き込む火種となった。
 バビロン捕囚から数えて2500年以上経っているが、彼らは、神さまがアブラハムに約束された地に戻って来たのだ。
 イスラエルを旅行した時、アテネから飛行機がテルアビブ・ロッド空港の滑走路に着地したその時、機内に沸き上がった歓声と拍手が今も耳に残っている。乗客のほとんどは、見た目は白人だったが・・・

 しかし、彼らがパレスティナに自分たちの国を再興したからと言って、世界中のユダヤ人がそこに帰還したわけではない。むしろ、パレスティナのユダヤ人より、他国に寄留しているユダヤ人のほうがずっと多い。
 彼らはユダヤ人として、堅い絆で結ばれている。血ではなく、ユダヤ教という絆で・・・
 世界各地にはユダヤ人ブロック(コロニー)があって、一つのブロックから他のブッロクに移っても、推薦状がまわっていくとそれだけでファミリーとして迎えらられる、と聞いたことがある。また、彼らが最も大切にする過ぎ越しの祭りは、満月を観測して、ユダヤ歴による日時が慎重に決定され、連絡を受けて世界中のユダヤ人が同じ日時にその祭りを祝うようだ。


(4)展望

 ユダヤとユダヤ教については、もう少し触れておかなければならない。
 一つは、アシュケナージと呼ばれる白人系ユダヤ人の存在である。
 彼らはもともと、カスピ海付近にあったトルコ系白人・ハザール汗国と言う王国の末裔だが、七世紀末、強大なキリスト教国とイスラム教国に挟まれて苦境に立たされ、こともあろうにハザール汗国の王は、約百万人の国民全員をユダヤ教に改宗させてしまった。やがて彼らは国を失い、以後、ユダヤ人として生き続けることになる。
 現在存続しているユダヤ人の多くはユダヤ教改宗者で、そのアシュケナージが、現在のイスラエル共和国をリードしていると、そんな推測もある。これには異論もあるが、興味を惹くところだ。

 そして、今後、ユダヤ教が果たすであろう役割も忘れてはならない。
 一つは、彼らが、ヘレニズムとともに現代世界が踏襲して来た二大文化潮流の一つ、ヘブライズムの担い手であるということだ。
 ヘレニズムは冷たい知的文化の旗手であり、ヘブライズムは暖かい血が通う感性文化の旗手とされている。ヘレニズム的要素を色濃く持つ現代文化が混沌として来た中で、ヘブライ文化を読み解くことは、この先極めて重要な案件となると指摘する人もいる。その中で、現代イスラエルが受け持つ分野があるのかも知れない。なにしろ、二つの大河を渡って来たアブラハムの末裔なのだから。

 そしてもう一つは、今、盛んに取り沙汰されている終末に向けて、彼らが重要なタイムテーブルを担っているということだ。
 そのタイムテーブルの中で、イスラエルという国が再建された。終末実現への案件が、一つクリアされた。しかし、まだ実現していないタイムテーブルに、エルサレム神殿の再建がある。彼らはそれに触れようとはしないが、熱望していることは間違いない。
 その場所には、今、イスラム教のモスク「岩のドーム」が建っている。
 そこはイスラム教の特別な聖地なのだ。
 近年、欧米で、政治舞台への宗教的極右派の台頭が囁かれている。
 これは、ある意味、不気味なことである。
 トランプ大統領がテルアビブにあったアメリカ大使館をエルサレムに移したことは、その問題と深く関わるのではないか。神殿建設を視野に入れて・・・
 その動向に、注視する必要がある。


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