新・福音と宗教

第一部 宗教散見

五章 宗教の行方

3、宗教に潜むもの

 先に少しだけ触れたが、前項の終わりで取り上げた、霊能と霊媒の「本物の」という問題を取り上げたい。宗教というものの本質に迫るだろうこの問題を、筆者なりに考えてみたいと思うからだ。

 さて、宗教ということを、「霊能と霊媒」のところまで巻き戻すようだが、両者ともに、現代人的思考で、説明のつく範囲内で考えてきた。宗教は人類の文化や文明の営みの中にある、とするのは宗教学者の言い分だが、宗教にはもっと本質的な、別の問題が残っていると思われる。この霊能と霊媒が本物であったならという、ある意味で、「仮定」の問題ではあるが・・・
 それは恐らく、占いや霊能だけでなく、他のあらゆる宗教にも関わる問題だろう。もし本物であるなら、コールド・リーディングやホット・リーディングを持ち出すまでもなく、霊能者も霊媒者も占い師も・・・、彼らは、彼らが踏み込んでいる世界に君臨する神々の代理人に過ぎなくなるという問題だ。諸宗教にしても、崇拝対象の神々が「教祖」や「シャーマン」に啓示した・・・と、それを認めればいいだけの話ということになる。
 そして、さまざまな宗教が、消えても消えても新たな装いを纏って出て来るという実態だ。さらに、出て来るだけでなく、まともな宗教に入り込んでそれをねじ曲げ、異端やカルト教団などに姿を変え、直接的、間接的に人を囲い込んで攻撃してやまないという事態である。まるで宗教が恋人か仇敵ででもあるかのように。神々が諸宗教の真ん中に居座っているのだろうか。それとも神々に匹敵する何者かが・・・と、その根本理由を探ってみたい。

 最初に、本物の霊能、霊媒、占いがあるかということだが、これは、宗教というものの本質に関わる問題である。
 今まで、宗教を、自然発生型と人間創唱型の二点から見て来たが、それらの宗教は、いずれも、その宗教と対峙する者、その宗教に聞く私たち受け手側の意識の中で「宗教化」されて来たのではないか。つまり、教団(個体であろうと大小は問わない)を成立させたのは、私たち人間の意識ではないのか。
 さらに明確に言うなら、教団となった宗教は、人間の思考の産物ではないかということだ。おとぎ話や神話の部分を、「それは本物か」などと問うことはせずに、権威の裏付けにしているケースが極めて多いからだ。
 創唱宗教の場合、その痕跡は比較的明瞭に残されているようだ。自然宗教のケースでは、発生段階でもそのような説明が出来ないのかも知れない。しかし、より高度な宗教体制(多神教や唯一神教)へ発達していく過程で、それが形成される思考内(神学や教義学)に、人間の痕跡を見つけ出すことは可能だろう。非常に簡単で単純な方法だが、恐山のイタコにその様子を見てきた。
 しかし、だからと言って、それらの宗教を人間がコントロール出来たかと言うと、教団なら「出来た」「している」と答えることが出来ても、果たして、それら教団の背後に潜む「宗教」が人間の手の内にあるかと問われると、「ある」とはとても言い難い。「宗教」には、人間が造り上げた教団とは違う何かが、それ自体が一人歩きする何かが、奥深いところに潜んでいると言えそうだ。
 なぜなら、宗教というものは、一旦造り出されると、造った人間(教祖であっても)の手を離れ、人間を支配するからである。オーム真理教を持ち出すまでもなく、そんな例は、注意深く見るなら、そこら中に転がっている。しかも、その宗教は、決して善なる方向に一人歩きすることはなく、造った人間たちを良い方向に導いた例は、歴史の中で探し出すのに苦労する。宗教は、戦争を引き起こし、人々を争いに駆り立て、しばしば「善」なる名をもって人を告発し、裁き、断罪してきた。宗教は、まるで人間を悪い方向へ悪い方向へと連れて行くために働いているかのようだ。
 キリスト教を嫌う人たちからよく言われることがある。中世の魔女狩りやユダヤ人虐殺のアウシュビュッツなど、キリスト教は多くの人たちを苦しめてきたのに、なぜそんなことはなかったように、平和と愛の宗教などと言っていられるのかと。全くその通りで、いささかも反論できない。しかし、それでも人は、キリスト教が愛ある、善意溢れるものであると疑わないだろう。個々のクリスチャンたちは、洋の東西を問わず、そのほとんどがイエスさまのためだからと、損得なしに隣人のために良いことを願ってきた。それなのに、教会はしばしば、悪魔がするようなことに手を染めてきた。それは隠しようもない事実である。それは恐らく、個人レベルでも起こり得ることだろう。
 キリスト教でさえと、思い上がりで言っているのではない。イエスさまの教えは、他のどんな宗教にも勝って愛に満ちていると、誰もが思っているのではないか。そんなキリスト教でさえ、歴史を突きつけられると、悪い方向へ、悪い方向へと走り出した過去を持っている。宗教としてのキリスト教は・・・
 いや、教団は人間が動かしているのだから、悪いことをしでかすのは、人間(国家も含め)そのものなのだろう。しかし、教団を動かしているのは、果たして人間なのだろうか。教団を宗教教団たらしめる宗教そのものが・・・、と考えることは出来ないだろうか。

 歯切れの悪いことばかり言って来たが、思い切って一歩踏み込んでみよう。
 現代という時代に非科学的なことにを言うようで、筆者自身にも抵抗はあるが、人間の内部か外部のどこかに巣くう何者かが、宗教という住処を得て働き始めるとこうなる。その「何者か」がという議論を肯定すると、宗教の一人歩きも論理的に説明がつくように思われる。
 実は、聖書は、神さまに敵対する者、サタンとその配下・悪霊の存在を肯定している。神さまが実在のお方なら、敵対する者も実在すると言ってもおかしくはない。
 その悪い力が宗教を住処にしているのではないかと、筆者は密かにそんな危惧を抱いている。

 霊能も霊媒も占いも、そして、宗教そのものが悪霊の住処になっていると、その可能性を肯定するなら、霊能も霊媒も占いも「本物」と言える可能性が出て来るのではないか。聖書は、サタンや悪霊が天使の装いを纏っていると言っている。彼らが天使なのかそれともサタンなのかを、私たち人間が指摘することは出来ないが・・・
 だが、いずれにしても、その知恵は人間以上のものであり、その能力も力も、人間をはるかに超えていると認めざるを得ないのではないか。
 デルフォイ神殿の託宣が、いかに迷信に囚われた古代社会のことであったとしても、国々を巻き込んで壮絶な戦いに人間を駆り立てて行ったのは、とてもギリシャ神話のアポロンの為せる業ではない。
 しかし、そこにサタンや悪霊が絡んでいたとしたら、それは非常に分かりやすい構図ではないか。なぜなら、サタンとその配下たちは、神さまと、神さまが愛する人間に、徹底的に敵対しようとしているからだ。恐らく、神さまに敵対して勝ち目がない分、その憎しみは人間に向かっていると想像する。
 いや、視点を変えれば、彼らは、神さまに愛されている人間が羨ましいのかも知れない。人間の存在理由は創造者たる神さまにあるのだが、その根本的な部分を横取りして、「おまえたちのあるじは神さまではない。おれたちだ」と、人間の支配者・「主」であることを主張するために、人間の故郷にも似た内面の中心部・宗教を占拠したとさえ思われてくる。
 現代の進化論者たちは、人間は、猿から人間に進化していく過程のどこかで、嘘をついたり悪知恵をもって互いを陥れたりと、そんな「文明?」を身に着けたと推測しているが・・・

 「悪霊」の存在を仮定するなら、「善霊」の存在をも仮定しなければならないと言われそうだ。しかし、サタンとその仲間の悪霊が敵対する対象は唯一全能の神さまであって、彼らが宗教を住処として攻撃するのは、神さまがコーディネートされる「福音」である。「福音と宗教」を主題とする本書では、「善霊」の存在を仮定する領域はどこにもない。

 果たしてそうなのかどうか、結論が出せるなどとはとても思われない。
 しかし、この問題、宗教学の重要な命題として取り上げられる日が来ることを願うが、宗教学の先生方はどのようにお考えだろうか。


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