新・福音と宗教


第一部 宗教散見

四章 イスラム

3、イスラムの向かうところ

(1)イスラムの近代化とその対応

 イスラム世界の近代化は、おおむね三つの型に集約される。
 第一の型は、政教分離という、西欧的近代化を推進したトルコに代表される。
 トルコは、イスラムとしての象徴的諸制度を、廃止や国家統制という方向で縮小していった。カリフ制度の廃止、イスラム神学校や聖堂やイスラム指導者を政府の管理下におき、シャーリア(イスラム法)やこれに基づく裁判所の活動等を停止、次いで一夫多妻制を公式に禁止、儀式以外に聖職者が特殊な服装を用いることを禁じ、トルコムスリムのシンボルだったトルコ帽を廃止、ラマダンの断食を個人の自由意志にゆだね、公教育体系でのイスラム教育を廃止、女性の諸権利を認め、更にイスラム暦を廃止して太陽暦の採用・・・といった具合だ。ただ、それは政府の西欧向けの姿勢だったから、民衆レベルでのイスラム社会の風習は、ほとんどそのまま残っていた・・・。

 第二の型は、インドネシアに見ることが出来る。
 オランダは、「東インド会社員」と名付けた植民地支配の官吏を送り込み、それが最上位、次いでキリスト教徒である西欧人やその他の国の人たち、次に中国人というように、階級制を敷いた。インドネシア人は最下位だったが、同じ最下位ながら、キリスト教徒は他宗教の信徒より上位にランクされ、これがインドネシア社会に大きな亀裂を生じさせた。そんな葛藤を経て、1949年、ついに勝ち取った宗主国オランダからの独立は、西欧支配脱却への民族闘争が、イスラム近代国家誕生につながった好例と言えよう。

 第三の型は、西欧化や闘争によるイスラム覚醒とは一線を画しながら近代化を目指した、イスラム共和国・パキスタンのケースである。
 パキスタンは、憲法に「社会正義に関するイスラムの原理を基礎とする民主国家」と明記された神政国家で、国家主権をアッラーフに委託されたものとし、国家のすべての原理をイスラムに求めた。
 しかし、原理主義を採るイランほど狂信的ではない。
 それなりの近代国家像が意図されているように感じられる。
 たとえばザカート(慈善)だが、これはイスラム世界で古くから貧民、困窮者、病人など弱者への救済として、ある意味で所得税なみに徴収されていた。パキスタンはこれを行政の重要な一環として取り入れ、その資金で財団を設立、国民の厚生施設や福利施設などを作っている。なぜ福祉なのかは判らないが、西欧社会化に行き詰まりを感じた中で、イスラムの教えに活路を見いだし、それを骨格に、独特のイスラム近代国家を目指したのだろう。


 そんなイスラム世界近代化という流れの中で、最も著しかった西欧化のケースを、もう少し見てみたい。エジプト、トルコ、サゥーディ・アラビア王国、インドといったイスラムの国々にその流れが見られる。
 エジプトを取り上げてみよう。
 西欧に科学時代が訪れる以前、これまですさまじい勢いで拡大・発展を遂げていたイスラム社会が緩やかな衰退への下降線をたどる中で、十八世紀後半、西欧の軍事・産業がイスラム世界を圧倒し、西欧に隣接するオスマン帝国は、否応なく西欧化への対応を余儀なくされた。それを象徴するのが、ナポレオンのエジプト遠征(1798~1801)によるイスラムの敗退である。この時イスラム軍に参戦したウラマー出身のリファーア・タフターウィーは、エジプト・イスラムの近代化・西欧化に力を注いだ。だが、この地を制圧した西欧は、エジプトの自立も勃興をも許さなかった。十九世紀後半には、エジプトの紡績産業はつぶされて、イギリス工場のための綿花生産地とされてしまった。

 そこには、西欧諸国の植民地政策が深く関与している。
 西欧諸国は圧倒的な近代的武力を背景に、宣教師を送り込んで教会を建て、キリスト教への改宗を勧めるだけでなく、改宗者には官吏や諸方面の指導者になる道を開き、反面、ムスリムに強い宗教弾圧を行なった。そのように推進された近代化は、皮肉なことに、エジプトのイスラムを、ムハンマドを生み出した原点とでもいうべきアラビア的イスラムから遠ざける方向になった。それは、西欧化されたイスラムとでも言えるのだろうか。アッラーフはもはや、アラビア的荒々しい裁きの神ではなく、西欧からやって来た、キリスト教的愛の神にまで変質していった。

 こうした時代の動きに反発するかのように、イスラム世界に復古運動が起こったのは、自然な成り行きだったろう。
 十八世紀中頃、二人のイスラム改革を叫ぶ者が現れた。一人はアラビア半島の中央部に生まれたアブダラ・ワッハーブ、もう一人は衰えつつあったムガール帝国のデリーから出たシャー・ワリーウッラーだ。
 よく知られているので、ワッハーブのことを取り上げてみよう。
 ワッハーブは、スーフィの聖者崇拝に「それは偶像崇拝ではないのか」と抗議し、やがて、スーフィを許容したイスラム神学全般をも攻撃し始める。後にワッハーブ派と呼ばれる同調者たちは、アラビア的イスラムの復古運動を展開し、コーランとハディスだけが聖典であるとして、数世紀に渡ってつくり出された一切のイスラム神学を否定した。
 その、まるで清教徒のように質素な生活をしながらコーランの戒律を厳しく守ろうとするあり方は、多くのムスリムの心を惹きつけ、アラビアの強力な一部族、イブン・サゥードが武力をもって彼らを応援するようになった。後のサゥーディ・アラビアである。彼らはシーア派の聖地カルバラーを占領、聖者崇拝のシンボルだったホセインの墓や聖堂などを破壊、更にはメッカやメジナにまで侵入し、ムハンマド廟までも破壊してしまった。
 都市を牧草地に変えてしまうのは、アラビア遊牧民の論理と言っていい。彼らはオスマン・トルコによる鎮圧までの九年間、そんな行動を取り続けた。
 武力による他者への抵抗という復古運動は、現代のムスリムたちがしばしばテロに走る原点なのかも知れない。


(2)現代のイスラム

 イスラム世界には、十七世紀まで、西欧が羨望した文化圏が三つあった。
 中東の大部分とバルカン半島を支配していたオスマン帝国、インドのムガール帝国、イランのサファヴィー朝である。いずれも世界に冠たる文化と強大な軍事力を持つ帝国だったが、十八世紀から十九世紀にかけて、イギリスの産業革命やフランス革命などを経て躍進した西欧勢力に押されて、崩壊していった。イスラムは、依然として世界に広大な分布図を持ちながら、つい最近まで、世界の片隅で忘れられた存在でしかなかった。
 それが今、アフガンやイラクのこともあって、イスラムは、騒然としている現代世界の中心に躍り出た。パレスチナ紛争の一方の主役、テロで名を馳せたイスラム過激派、イスラム世界を覚醒させるかのようなイスラム原理主義など、いくつもの舞台で彼らは主役を演じ始めた。いったい何が彼らをそのようにイスラムに拘らせ、テロに走らせているのか、現代イスラムのさまざまな問題に触れておきたい。

 エルサレムで、通りかかった街の一隅に、まるで民家のような小さなイスラム礼拝堂を見つけた。ちょうど金曜日でイスラムの聖日だったので、扉の隙間から覗いてみると、高々と上げた両手を床におろすと同時に頭を床にこすりつけてひれ伏す、まさにイスラム式礼拝の真っ最中だった。
 エルサレムの街には、ユダヤ人地区、アラブ人地区、キリスト教徒地区と三つの地区があり、何気ない平和な光景の中で、ムスリムとユダヤ人は同じ街で仲良く共存していた。筆者が見た光景は1978年、悠久の歴史から見るとつい最近のことだが、その平和な光景が一変してしまった。何度も変遷があって、今の厳しい情勢が生まれたと思われるが、当時は、まだ緩やかだったパレスティナ動静の中で平和を楽しんでいた無垢の民衆が、みるみるうちに、テロや飛び交うミサイルで無残にも血を流し始めた。

 その根っことも言うべき、ムスリムとユダヤ人が憎み殺し合う、現代イスラムの縮図、パレスチナ問題の経緯にも触れておこう。

 「パレスチナにユダヤ人国家を」、これは放浪の民・ユダヤ人の積年の夢だったが、第一次世界大戦時に、英国政府はユダヤ人に、連合国を支援すればその夢の実現させるという約束・「バルファ宣言」を出した。だが英国は、それ以前に、アラブ人側とも同様の約束「フセイン・マクマホン書簡」を交わしていた。しかし、二つとも空約束に終わり、パレスチナは英国と仏国の植民地になった。平和だったユダヤ人とアラブ人の間に大きな亀裂が生まれたのは、当然だろう。アラブ人世界に、反ユダヤ運動が起こった。
 それがヨーロッパにも波及して、激しいユダヤ人迫害が始まったのもその頃のことだ。反ユダヤ運動のピークは、アウシュビッツなどナチスによるユダヤ人大量殺害と言えよう。
 ところが皮肉なことに、その事件が世界中で報道されると、その迫害の過激さに多くの人たちは驚き、ユダヤ人への同情が高まって、反ユダヤ運動が影をひそめてしまった。そして、そんな国際世論に後押しされる形で、第二次世界大戦終結後の1948年に、イスラエル共和国が樹立される。膨大な軍事力を背景に、彼らは四回の中東戦争を勝ち抜き、かつて迫害された立場から、パレスチナ先住民であるアラブ人を迫害し始める。

 実は、現代のユダヤ人社会には、セム系と非セム系(ユダヤ教に改宗した白人系)の人たちがいて、イスラエル共和国家を形成した人たちのほとんどが、東欧・ソ連からアメリカを経由して入植した白人系ユダヤ人である。彼らは、先住民のセム系アラブ人とは考え方も生活習慣も違い、伝統的にアラブ社会を敵視してきた人たちだったと指摘されている。パレスチナ問題は、「アラブ人VSユダヤ人」よりむしろ、「アラブ人(セム系先住民族)対白人(非セム系)」という対立構造と言えるだろう。強気な姿勢を崩さないイスラエル、そこにアーリア人至上主義を振りかざす西欧諸国のエゴーが顔を覗かせていることは否めない。アーリア人は、もともとは中央アジアにいた遊牧民なのだ・・・
 西欧人がアーリア人の子孫であると、まるで神話のような話が信じられるようになった背景は、ゾロアスター教のところで触れた。
 そんな白人社会のイスラエルに向けて、アラブ人は、自爆テロという命をかけて、居場所を主張しているのだろうか。今、その自爆テロがアフガニスタンなどイスラム圏全体に増え広がっている。2001・9・11の事件後、米国は、アルカイダの温床としてタリバーンを掃討すべく、アフガニスタンへの開戦を強行、続いてフセイン政権のイラクをもテロ政権であるとして攻撃するのだが、あくまでも徹底抗戦を主張するイスラム過激派の指導者たちが、弱者の有効な戦術として、一般民衆に呼びかけた自爆テロが頻発するようになった。
 最近では、「イスラム国」を名乗るテロリストたちが、シリアやイラク国内に自分たちの国土を打ち建て、西欧社会にも軍事的挑戦状を突き付けている。今はその国土も奪回され、彼らはちりぢりにされてしまったが、アフガニスタンのタリバーンのように、地下に潜ったり、西欧社会にじわっとシンパを増やすなど、拡散の動きを見せている。
 それは、欧米という近代的文化体系に抵抗して生き延びようとする、異文化の主張のように聞こえる。
 だからと言って、過激な暴力に訴えるテロリズムを可とはしない。だが、原理主義という過激なイスラムが広がってきたのは、少なくとも欧米とは別の生き方があるという、メッセージなのかも知れないと思われる。

 イスラムについて、かなりしつこく取り上げてきた。
 終わりに、現代イスラムを読み解く鍵の一つ、「イスラム原理主義」に触れておこう。
 それは1979年、アメリカの傀儡政権ではないかと言われていたイランのパーレビ王政が倒壊し、革命政権が発足する中で始まった。
 この革命は、やがて、ホメイニ師を最高指導者とするイスラム法学者一派による、民主化勢力や左翼勢力という反対派への激しい弾圧によって、革新とはほど遠い、反共的保守系イスラムに固定化されていくが、その固定化される過程で、イランには、「イスラム原理主義」と呼ばれる現代のイスラム体系が形成されたと言えよう。
 原理主義とは英語で言うファンダメンタリズムあり、キリスト教世界では聖書の無謬説を信じる人たちを指しているが、中にはそれを狂信的「根本主義」と言う人さえいる。
 イスラム法(シャリーア)による統治の復活を叫ぶムスリムたちの運動を指して呼ばれる「イスラム原理主義」は、コーランの無謬を字義どおり厳密に信じ、預言者ムハンマド時代のイスラム共同体を復興させようとするもので、コーランに基づくイスラム法的政治・国家・社会のあり方の実現を目指すイスラム主義運動、宗教的・政治的急進派、過激派を指している。
 もともとどんな宗教にも、それが誕生した「原点」のようなところがあるが、そこには所帯が大きくなると必ず起こって来る分派の対立や混乱があり、そうした中で原点に返ろうとする動きが見られる。イスラムも例外ではない。しかし、原理主義のムスリムたちには、世界の進歩や発展から取り残された焦燥感があり、それが独自の原点に向かわせた動機ではないかと言うなら、言い過ぎだろうか。そうした動きはイラン以外のところにも広がり、最近の「政府の転覆を図る狂信者」「宗教テロリスト」のイメージに繋がったのではないか・・・

 今、IS等の戦闘員は、西欧のイスラム系移民の青年たちに広がっている。彼らは西欧諸国の価値観に馴染めず、西欧人の排外主義の中で職を失い、次第に孤立している。キリスト教に執拗な敵対心を持つのは、そんなところに原因があるのかも知れない。彼らは、「すべての出口がふさがれている」という閉塞感を持っていて、ISやアルカイダのような組識に思いを託さざるを得ないほど追いつめられている、と理解しなければならないのではないか。
 確かに、西欧の植民地政策、アメリカ式民主主義の押し売りなど、欧米の横暴は、後進国の発展を一世紀以上押しとどめて来た。
 しかし、それに反抗したからと、彼らに「原理主義」「テロリスト」のレッテルを貼ることは簡単だが、だから叩かなければならないと、短絡的に武力で封じ込めようとすることには疑問が残る。

 トルコのように、欧米文化との融合を目指すイスラム諸国が依然、多数派なのだろう。そのイスラム世界が、少しづつではあるが、イスラム独自の世界観を軸にする方向に傾いているように見受けられる。イスラム原理主義は、そんなムスリムたちを引きつけているのではないか。
 今、「西洋の没落」が囁かれている。そこに符帳を合わせてなのか。
 イランのシーア派で誕生した原理主義が、対立するスンニ派でも「原理主義への回帰」の声が聞かれるようになっている。コーラン信仰への回帰ということなのだろう。西欧文化圏の私たちには「過激」と見えるが、彼らは、それこそイスラム本来の姿なのだと、本気になってその信仰に立とうとしているのではないか。ジハードも自爆テロも、そしてフランスで騒がれているムスリム女子生徒のベール着用問題も、そうした信仰から生まれていると理解すると納得できる。その信仰が、預言者ムハンマドを神格化させていることに問題を感じないのかとは思うが・・・
 恐らく彼らは、イスラムはキリスト教に次ぐ多数派の世界宗教なのに、欧米の文化や経済に圧倒されて、追い詰められていると感じているのだろう。アフガニスタンやイラクで欧米の仕掛けた戦争が、さらに彼らを追い詰めている。そして、彼ら自身の中にもさまざまな対立があるようだ。今、イスラム諸国は孤立化と諸問題の堆積する中で、イスラム世界の連帯を手探りしているのかも知れない。その連帯感は、原点であるコーラン信仰にあったが、イスラム原理主義とは、その原点である信仰への回帰を求める、さまざまな模索の過程なのだろうか。
 そうだとするなら、キリスト教も含めて世界の諸宗教は、その模索に習うところがあるのではないか。


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