新・福音と宗教


第一部 宗教散見

四章 イスラム


2、発展期

(1)イスラム法

 イスラムの中心はイスラム法である。
 イスラム解明に、イスラム法の理解を欠くことは出来ない。イスラム法とは、共同体イスラムの宗教的形態に他ならない。

 イスラム法の成立は八世紀から九世紀にかけてのことだが、恐らく、ムハンマド没直後から始まったハディスの編集と解釈の延長線上で、その模索が始まったと思われる。イスラム法とは、イスラム共同体の中で、人がどのように正しく生きていくかを規定した法体系と言えよう。その「正しさ」は、アッラーフの意志に照らして判断される。イスラム法は、アッラーフの命令と禁止という形で成立してきたと言えよう。
 たとえば、「盗んではならない」という禁止事項がある。これは、盗みという行為が、人間の理性や社会状況に照らして「悪い」と決定されるのではなく、アッラーフが「悪い」と決定したから「悪い」のだ。
 この考え方は日本人には馴染みの薄いものかも知れないが、これはキリスト教文化のもとで西欧社会が培ってきた感覚基準である。ムハンマドは、持ち前の優れた政治感覚から、その感覚基準に倣ったのかも知れない。
 ただ、そのアッラーフの意志のもとで、こんなにもと驚くほど、イスラム法という細かな規定が造り上げられた。恐らくムハンマドが、アッラーフへの畏怖を、イスラム社会の中心に据えたからなのだろう。

 井筒俊彦著「イスラーム文化」から紹介しよう。
 「イスラム法を叙述した書物を開いてみますと、まず最初に出てくるのは、宗教的儀礼の規則、たとえば、メッカ巡礼のやり方とか、ラマダーン月の断食の仕方、それから日に五回の礼拝の仕方、礼拝に臨む場合の身の清め方、ーどういう種類の水をどう使って、体のどの部分をどういう順序で洗うか。水がない場合には水の代わりに砂を使うのが昔の習慣でしたが、どんな砂をどう使ったらいいのか。すぐその次には我々なら民法、親族法として取り扱うはずの家族的身分関係を律する細かい規則が出てきます。結婚、離婚、再婚、持参金、遺産相続、扶養義務などです。次は刑法的規定で、窃盗、殺人、姦通、詐欺、偽証など。そうかと思うと、食物や飲み物、衣服、装身具、薬品の飲み方、香料の使い方、挨拶の仕方、女性と同席し会話する時の男性の礼儀、老人に対する思いやりの表わし方、孤児の世話の仕方、召使いの取り扱い、はては食事のあとのつま楊枝の使い方、トイレットの作法まである。
 これほどまでに決めなくともと、思いたくなるほど社会生活から家庭生活の細部に及んで詳細に規定されているのです。
 人が、第一にアッラーフに対して、次に隣人、同胞に対して、そして最後には結局自分自身に対してなすべきこと、なさなければならないこと、そして、してはならないこと、してもしなくても構わないことなどが、少なくともイスラム的に、つまりイスラム的コンテキストで、考えられる限り細大もらさず命令と禁止という形で規定されているのです。」
 こんなにも細かな規定を、信仰者たちは厳格に守ろうとしている。
 背信者にならないために・・・
 もし、背信者とレッテルが貼られたら、それだけでイスラム社会では生きていけなくなる。
 そして、一日五回の礼拝の仕方から箸の上げ下ろしまで、細かな規定がぎっしり詰まったイスラム法が神聖な法体系として制定されると、次はこれを護持していかなくてはならない。
 この法体系を守ろうと、ウラマー(法学者)が誕生した。
 それはきっと、イスラム社会自体が未整備状態の中で混沌としていたからなのだろう。法体系をどのようなものとするのか、その運営方法を巡って多くのウラマー学派が登場してきた。多くの異民族を抱えたアッバス朝には、現実の国家組織に適用出来る法組織を目指す法学派ウラマーと、あくまでも理想の神聖な法体系を追求しようとする神学派ウラマーに分裂して、激しく論争した時期もあったが、イスラム法は、表面的には神聖な神学を土台としながらも、結局、民衆を拘束する実践的律法主義的性格を持つ法制度となった。
 しかし、メソポタミヤ文化にはハンムラビ法典という世界屈指の優れた法制度があったのに、なぜこのような律法主義的法制度に堕落してしまったのだろうか。
 ウラマーたちは、イスラム法の管理と執行を国の統治機構から独立させ、アッラーフの名のもとで超権力体系として築き上げていたから、国家権力とは言え、その法体系を犯すことは出来なかったのだ。
 近代国家形態である立法、司法、行政の三権について言えば、行政権だけは国家が、他の二権はウラマーたちが確保していた。実は、これがイスラムを超国家的宗教共同体として存続させた最大の理由だ。現代のイランなど、イスラム原理主義と呼ばれる国では、三権ともウラマーが握る傾向にある。そんな世界では、国家はウラマーたちの手先でしかない。イスラムは、ウラマーたちが鍵を握るイスラム法学の世界であると言っても過言ではない。


(2)カリフ

 イスラム君主カリフはムハンマドのハリーファ(後継者)だが、その歴史に簡単に触れておこう。
 第一代と第二代カリフの時代はわずか十二年だったが、その間は、カリフを中心にイスラムが一つにまとまった平和な時代だった。
 ところが、第三代カリフにメッカの名族ウマイヤ家の長老ウスマーンが就任し、あからさまなウマイヤ家中心の政策が展開され始めると、激しい反発がわき起こった。カリフをめぐる争いの始まりだ。ウマイヤ家は、ムハンマドがメッカで新しい宗教イスラムを伝え始めた時、その教えを体制批判であると迫害した人たちだ。その反発の中で、メジナで生まれた一派は、カリフはムハンマドの一族でなければならないとウスマーンを暗殺、ムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファティマと結婚したアリーを第四代カリフに担ぎ上げた。
 そのメジナの新派が、シーア派(分派)と呼ばれるようになった。
 ところが、早くからシリヤに進出して太守になっていたウマイヤ家のムァイアが、自らカリフを名のるようになった。そして、いつの間にかアリーを斥けて(小派閥による暗殺か)カリフを世襲性と定め、共同体だった筈のイスラムに、君主国家とも言えるムァイヤ朝が成立する。続いてバクダードを首都として栄えたアッバス朝(750~1258)が興る。イスラム最高の繁栄時代、イスラム帝国である。
 このイスラム帝国には、サラセン帝国と呼ばれた時代がある。十字軍時代のことだが、この「サラセン」と言う呼び名は、西欧人が蛮族と呼ぶ遊牧系アラブ人を指す蔑称(西欧中心史観)だとして、現在は「イスラム帝国」に統一されている。イスラム世界の世界情勢に占める比重が重くなって来たためだろう。だが、石油に依存する経済的文化的後進の国々として、種々の問題を抱え、今後、どこへ行くかが注目される。

 アッバス朝以後のカリフの舞台は、非アラブ世界に移る。
 中でもトルコへの移行は、注目しなくてはならない。
 豪華な陳列品がところ狭しと飾られ、現在は博物館になっているイスタンブールのトプカピ宮殿の主として知られるスレイマン大王は、アッバス朝最後のカリフから相続者として指名を受け、政治的統治者・スルタンと宗教的代表者・カリフを兼ねる、大権力者になった。オスマン帝国として知られる。
 以後、カリフはトルコ皇帝の世襲となり、二十世紀まで続いたが、1924年、イスラムを国教とすることを否決した革命トルコによって、カリフは国外に追放された。
 カリフを正統と認め続けてきた人たち、全イスラムの90%を占める多数派、これが現在のスンニ派である。先に見てきた法学中心の組織的、実践的イスラムは、このスンニ派イスラムである。


(3)シーア派

 第四代カリフ・アリーをもって、正統のイマム(イスラム指導者)とするシーア派が、メジナに生まれた。自分たちを正統派とするスンニ派は、彼らを異端と呼んで迫害し、反目しあう両者は激しく対立し続けている。
 シーア派の特徴は、イスラム世界の異邦人という意識に彩られている。そんなシーア派を象徴するモハラム(イスラム暦一月)の行事を紹介しよう。
 暗殺されたアリーには二人の息子がいた。そして、後継者になった兄のハサンも暗殺され、その後、一族の再起を願う弟のホセインは、わずかな軍を率いて680年10月10日、ウマイヤ朝第二代カリフ、ヤズイードの大軍とカルバラーで戦うが全滅してしまう。これは「カルバラーの悲劇」と呼ばれ、シーア派最大の年中行事・殉教祭(アーシューラー)として今も続いている。ホセインの無念を思ってか、人々は黒い喪服に身を包み、鎖の束で自らの胸や背を打って傷つけ、悲しみの叫び声を上げながら街中を練り歩く。ホセインに異邦人シーア派の姿をだぶらせているのだろう。シーア派と言えばイランがその代表格だが、アラビア語のイスラム世界では、ペルシャ語のイランは異邦人でしかない。ペルシャ語の文字はアラビア文字だが・・・

 イランでは、自分たちのことを十二イマム派と呼んでいる。
 シーア派の宗教指導者はイマムである。彼らは第四代カリフのアリーを初代に、ムハンマドの娘ファティマの血を受け継ぐ十二人のイマムだけを数え、ムハンマドの血統を重んじ、アリーをアッラーフの具現化とまで言うようになった。十三番目のイマムはいない。なぜなら、十二人目のイマムはわずか四~五才の幼児だったが、突如その行方が知れなくなり、それはアッラーフの意志によるとされて、ついに彼の再臨すら信じられるようになった。この再臨派が勢力を拡大して、十六世紀、オスマン帝国に対抗するようにサファビー朝を立て、以後、イランはシーア派を国教とする王国として近年の革命が起こるまで続いた。特に十二イマム派は、そのイマムが途絶えたことから一層神秘的神学へと進まざるを得なくなり、最後のイマムにいろいろと神的修飾を加え、メシアとしての再臨説まで持ち上がっている。


(4)神秘主義

 ムハンマドの血を引くアリーの血統を重んじ、十二人のイマムを仰いだシーア派は、その血脈の中においてこそアッラーフの神意が明らかにされると、次第に神秘主義に陥っていく。
 特に十二代目イマムが突然いなくなってしまったことを、スンニ派の人たちや現代のイスラム研究者たちは「暗殺された」と見るのだが、シーア派の人たちは、「アッラーフが隠した」と受け止めている。そして、この十二代目イマムは、隠れたところから我々を支配しているとさえ言うようになった。先に触れた彼の再臨説は、その延長線上にあると言えよう。ムハンマドですら「市場を歩き回り、ものを食う」ただの人間にすぎなかったのに、イマムを失って、彼らはアッラーフの権威を纏う神的存在を慕うようになったのだろう。

 やがてその流れは、スーフィズム(イスラム神秘主義)を生み出す。スーフィと呼ばれる人たちは、断食と瞑想という禁欲的生活を通して、アッラーフを体験するようになる。断食と瞑想に明け暮れた、キリスト教修道院の影響があったのかも知れない。そのスーフィのある人たちは、後世「聖人」と呼ばれるようになった。
 今でもイラン各地に見られる、聖人崇拝の発生である。

 シーア派で生まれたスーフィズムは、その体験的神秘主義傾向が東方諸民族に受け入れられやすいと知るや、各地で土着の民俗信仰を大幅に取り入れるようになった。それはイスラムの拡大につながったが、反面、イスラムを大きく変容させることになった。インドのイスラムは、次第にヒンズー文化と結合し、東南アジヤ一帯にわたる変則的イスラム世界を生み出していった。
 それは、もともと一神教のイスラムにはあり得なかったアニミズムやシャーマニズム、呪術崇拝、聖者崇拝といった民俗信仰と手を握った、一種のシンクレティズム(宗教混合)なのだろう。

 もっとも、彼らスーフィたちが一様に信仰堕落の道を辿ったかと言うと、そうとは限らない。
 ムスリムの中には、最高義務の一つ、メッカ巡礼をしなかった人たちがいた。スーフィである。彼らは「なぜメッカ巡礼をしないのか」と尋ねられると、大胆にも、「一軒の石の家(メッカの聖地カーバ)を訪問するために苦労して歩いて、一体何になるというのか。本当の神人はじっと自分の家に座っているだけでいい。すると天上のカーバ神殿が向こうからやって来てくれる」と答えたと言う。
 これほどの信仰を継承してきたから、変容しつつも、イスラムは一つの世界を共有出来たのではないだろうか。シーア派は、幅の広さと純粋さ、寛容と非寛容の両方を手に入れた、イスラムと言えるのかも知れない。


(5)イスラム圏の広がり

 イスラムは、メッカ、メジナを中心に、アラビアで発生した地域限定の宗教だった。しかし現在は、世界中に十一億人の信者を抱える、世界第二位の宗教(世界人口比20%)と数えられる。すさまじい勢いで増加するムスリムが、世界の宗教人口図を塗り替えつつあるのは確かだろう。ムスリム最多の国はインドネシアで、意外にもアラビアではない。イスラムはアフリカ北部、南アジア、東南アジアなどの地域に広がり、更に西欧諸国で今、ムスリムが増え続けている。二十年後には世界人口比30%を超えるだろうと予測する人もいるほど、イスラムは激しく動いている。
 そのイスラムの広がりを、少し見ていこう。

 まずインドである。
 イスラムのインド進出は八世紀初頭だが、仏教さえヒンドゥー教に取り込んでしまったインドを、イスラム圏に取り込むことはそう簡単なことではなかった。イスラムのインド進出は、商人たちや幾多のムスリムたちによって何度も繰り返し挑戦されたが、いずれも失敗。トルコ系ムガール朝の軍事的遠征によって、十六世紀ようやく実現した。
 インドは言うまでもなく、ヒンドゥー教の国である。
 そんなヒンドゥー教国で、ムガール朝は、宗教上の寛容政策を採り、結婚、死者儀礼、相続法、呪術などの古来から伝わる民俗習慣、土着の神々に対する祈りや供物、更にはカースト制までそのまま残す政策を取り続けた。結果、インドは極めて変則的なイスラム社会になったが、これは、東南アジアにおけるイスラム全体がその傾向にあることを示している。軍事的にではあったが、こうした他宗教に寛容な面を育てたイスラムだったからこそ、拡大していったのではないだろうか。
 イスラムの海外進出は、ほとんどが軍事(聖戦)を伴っていた。

 しかし、もう一つのパターンがある。
 最大のムスリム人口を抱えるインドネシアのケースである。
 インドネシアは、八世紀ころ盛んに交流していたアラビアやペルシャの商人を通して、平和のうちにイスラム化していった。それはヒンドゥー文化を大幅に残したままの、シンクレティズムとしてのイスラム化である。インドネシアでは、ムスリムが一億七千万人を超え、世界最大のムスリム人口を抱える国家となっている。2014年の政府統計によると、イスラムは87.2%だそうだ。ちなみに、ヒンドゥー教はわずか1.6%だが、これは数字以上の影響力を持っていると思われる。
 インドネシアは世俗主義を標榜し、信仰の自由を認めているので、シャリーア(イスラム法)による統治を受け入れるイスラム国家ではないが、無神論は違法であり、公言すると逮捕される可能性もある。さらに、届け出はムスリムとなっていても、実際には、昔ながらのシャーマンによるアニミズムを信仰している民族もあると聞く。
 そんな宗教事情の中で、恐らく、イスラム文化の受容は、ヒンドゥー教との融合によるのだろう。ヒンドゥー教の宗教的寛容さは、インドにおいても知られている。インドネシアの民族的傾向は、イスラム固有の組織に編入されてイスラムの宗教協同体への参加という道を拒否し、独自のイスラム信仰を構築していったことにある。それは、アラビアとの直接交流に始まり、スンニ派的正統信仰の体系が移植される十七世紀以降まで続いた。

 イスラムは、インド、インドネシアに続き、マラッカやフィリピンなど、東南アジア各地にも進出した。一時期の隆盛は、マラッカは小メッカと言われるほどだったが、ヨーロッパの植民地政策の波が押し寄せて、スペイン、ポルトガルなどのカトリックがこれに代わった。

 イスラムの広がりには、エジプトを中心とする、もう一つ大きな地域を上げなくてはならない。イベリア半島とアフリカである。
 エジプトはすでに十一世紀の中頃、シーア派ファティマ朝の勢力拡大に伴ってイスラムとの接触があったが、ファティマ朝を滅ぼしたクルド人のサラディンがエジプトにスンニ派のアイユーブ朝を興し、そのアイユーブ朝を倒したマムルーク朝が地中海・インド洋貿易を推進し、首都カイロに美しいモスクや学院を建て、アフリカ・イスラムの中心として繁栄した。
 また、七世紀、ウマイヤ朝に征服されてイスラム化したマラッカを中心に、北アフリカからイベリア半島、内陸アフリカへとイスラム圏が拡大していった。これらは軍事的進出と商人たちの貿易による平和的進出が巧みに組み合わされたもののようだが、十字軍時代のことでもあって、キリスト教の反撃に遭い、イスラム化したのにあえなく撤退というケースも目立つ。イベリア半島・グラナダに残る美しいアルハンブラ宮殿は、その好例と言えよう。

 更にイスラムは、シルクロードを通って中国西部に入っていったことも忘れてはならない。パキスタンやアフガニスタンや中国西部、更にモンゴルのイスラム化は、中央アジアで勢力を広げたトルコに端を発しているのだが、トルコがオスマン・トルコとして小アジアに移った後は、アラビアとの貿易交流によるところも大きかったと思われる。中央アジアにスンニ派が多いのは、トルコ・イスラムの影響による。現代トルコ共和国のアジア地域は、十世紀までキリスト教東方教会の世界だった。それが、十一世紀にセルジュク朝のトルコ人が移住してきて、トルコ化と同時にイスラム化したようだ。やがてセルジュク朝が衰え、いくつも群立した小君主国からオスマン・トルコが誕生。勢力を伸ばしてローマ帝国の首都・コンスタンチノープルにまで侵入してこれを陥落、イスタンブールと呼んで、その地にオスマン帝国を確立した。それは地中海の東半分を領有し、西欧諸国のキリスト教と反目し合うようになる。

 アラビアに始まったイスラム圏の広がりを大雑把に見てきたが、一つはインドを筆頭とする軍事力によるイスラム進出であり、もう一つはイスラム商人によるインドネシアを中心とする東南アジアへの進出である。更にもう一つは、その二つを組み合わせたもので、中央アジアの遊牧民トルコ民族によって、西アジア、パキスタン、アフガニスタンから中国西部にかけての進出だった。そして、中央アジア北部モンゴルへの進出だが、そのイスラム化には、十字軍時代にモンゴル自身が西アジアに進出してイスラムと接触したことも、大きな契機になったと思われる。
 いずれにせよ、多様性に富んだイスラム圏の広がりは、時間をかけて現代に実を結びつつある。