新・福音と宗教


第一部 宗教散見

四章 イスラム


 世界的に注目されているイスラムに入っていこう。
 イスラムとは、「平和であること」「神に帰依すること」という幅広いアラビア語だが、もっとイスラム的な言い方では、「唯一・至高の神に絶対的に服従する宗教」を意味する。これは恐らく、イスラム内部で検討され、採用された意味づけなのだろう。だから、イスラム教と言うと、宗教宗教と重ねた言い方であるとして近年は単にイスラムと呼ぶが、この言い方は、専門家だけではなく、一般にも広がっていると聞く。ここでもその表現に倣おう。
 現在、世界レベルの宗教で「唯一神教」はユダヤ教、キリスト教、イスラムの三つだけだが、ユダヤ教とキリスト教が、聖書(旧約・新約の違いはあるが)を信仰の規範としていることはご存じの通りだ。ユダヤ教のことは別に取り上げるが、実は、イスラムも旧約聖書の一部と福音書(新約聖書の一部)を聖典としている。イスラムも聖書に立脚しているのだから、三つの世界的宗教(ユダヤ教は信徒人口こそユダヤ人に限られているが、ユダヤ人の広がりから、世界的と言っていい)は、いづれも聖書の神さまを信じる唯一神教ということで、いわば親戚関係である。
 にもかかわらず、イスラムは独自の文化圏を構築していて、私たちにとっては、未知の宗教としか映って来ない。もっともそれは、西欧文化がキリスト教を土台に構築され、現代日本がその世界に慣れたためとも言えよう。しかし、それを割り引いても、イスラム世界のことは不明だらけだ。
 そのイスラムは、2001年9月11日に、イスラム過激派のテロリストたちが、ニューヨークの世界貿易センター高層ビル二棟にハイジャックした旅客機で突っ込み、これを倒壊させるという「同時多発テロ事件」を起こし、一躍危険な宗教として注目されるようになった。本来、イスラムは決して危険な思想ではないのだが、あまり知られていないために、誤解が膨れ上がっているようだ。この機会に、イスラムのことをいくらかでも理解していきたいと思う。


1、草創期

(1)ムハンマド

 イスラム、まず、その新教団創設者・ムハンマド(マホメットのこと。現在、アラビヤ風のムハンマドという呼び方が主流)のことから見ていこう。

 ムハンマド(フルネームはムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブで、「より誉め讃えられるべき人」の意)は、紀元570年頃、紅海に面したアラビヤ最大の商業都市・メッカの名家ハーシム家の一族に生まれた。しかし、幼い頃父母を亡くし、経済的にも恵まれない孤児として苦労して来たようだ。
 25才の頃、同じメッカの貿易商で大金持ちの未亡人・ハディージャに雇われ、貿易に優れた才能を示し、その才能と人物を見込まれてか、その未亡人と結婚することになる。彼女はムハンマド提唱のイスラム教団最初の信者になるが、新教団誕生には、彼女の懸命な支えがあったようだ。貧しく孤独だった彼の生い立ちがそうさせたのか、商用でたびたび訪れたシリヤで見聞きしたキリスト教の禁欲的修道生活の影響かも知れないが、彼は、メッカ近くにあるヒラー山の洞窟でしばしば瞑想にふけっていた。610年(40才の頃)、その洞窟に天使ガブリエルが現われ、彼はアッラー、もしくはアッラーフ(アラビア語で神の意)の預言者として招かれたと伝えられる(イスラム総括・参照)。イスラム創始者・ムハンマドの原風景だ。

 新教団の預言者などと、初めは恐れとまどっていたムハンマドだが、妻ハディージャの勧めもあって、次第に預言者としての自覚を持つようになり、新しい宗教の提唱者として立つことを決意した。召命から2年半ほど後のことである。
 ハディージャの他に親族から何人かの信者が生まれたが、大部分のメッカ市民たちは相手にせず、反対の圧力が激しくなった。
 ムハンマドがメッカ市民から迫害を受けた最大の理由は、メッカがカバラという聖石信仰の聖地(カーバ神殿)として古くから多神教の生活基盤を持っていたことであり、それはメッカ市民の経済的繁栄にもなっていた。ムハンマドがアッラーのみを信じる唯一神教を主張して、アッラーによる神政共同体という新しい政治体制の提唱者となったことは、メッカの中心体制にとって、革命的運動と映ったのだろう。

 メッカの近くにヤスリブ(メジナ)という町がある。この町を開拓したのはユダヤ人だが、五世紀末からアラビヤ人が支配するようになり、しばしば両民族間で衝突が繰り返された。加えてアラビヤ人部族間の対立もあり、その不安定を解消しようと、メジナでは彼らを統一する指導者が求められていた。そんな人たちがメッカで苦闘するムハンマドのことを聞き、市民の中には彼の説教を聞いて信者になった人たちもいて、ムハンマドを自分たちの指導者にと望むようになった。彼らの要望を受けて、メッカの厳しい捜索の手を逃れたムハンマドは、メジナにやって来た。622年9月20日、これが有名なヒジラ(聖遷)である。
 ムハンマドはメジナに拠点を移した。
 民族、部族間の対立争いに疲れはてたメジナ市民に市政を託されたムハンマドは、彼の理想である宗教共同体実現に向かって走り始め、その体制に協力するメジナ市民のもとで、イスラムという新しい教団が、政治・経済・宗教の枠を超えて確立していった。

 ムハンマドのメジナでのイスラム共同体作りは、まず、聖堂モスクの建設と各種の儀礼を作ることから始められた。次いで、メッカから脱出してきた信者たちの困窮を救うために、メジナのアラビヤ人信者と兄弟関係を結ばせた。この扶養制度はわずか一年半で廃止されたが、それは、メジナの住民全員が、必ずしも心からアッラーに帰依していたわけではなかったからだ。周囲の状況から、やむを得ずムハンマドに従ったということなのだろう。
 しかし、ムハンマドはそんな人たちをも根気よく教え、イスラム共同体は着実に進展していった。彼の優れた政治的才能によるのだろう。
 メジナでのイスラム社会構築は、順調に進んで行った。

 だが、ムハンマドにとって、より重要な問題があった。
 彼に対して敵対意識を剥き出しにしているメッカのことだ。
 ムハンマドは、アラビヤの中心的商業都市(メッカ)をイスラムの傘下に置くべく、軍隊を組織して戦いを挑んだ。624年1月、彼はわずか300の兵を護衛につけて、シリヤから荷を積んでメッカに帰ろうとするキャラバンをバドルで待ち受けて攻撃し、救援に駆けつけた約1000のメッカ軍を撃破して勝利を収め、メッカ・シリヤ間の隊商路を確保した。これが最初の聖戦だった。
 隊商路を遮断されたメッカは、次第に経済力が衰え、その後何回かの戦いを経て、メッカはついにムハンマドの軍門に下り、イスラムは自他ともに認める成立を遂げた。彼亡き後もイスラムは、揺らぐことなく立ち続けていった。


(2)イスラム以前の宗教

 順序が後先になったが、イスラムを理解するために、イスラム以前の、特にメッカの宗教事情に触れておこう。
 メッカは、カーバと呼ばれる、聖石信仰のために建てられた巨大な立方体風の神殿を中心に、聖地として栄えて来た。特殊な形の巨石が信仰対象にされるのは、古代世界で珍しいことではない。メッカの市民たちは、そんな古代人らしいアニミズム的精霊信仰を持っていたのだろう。しかし、カーバには、また、各部族の中心的神々など、別の多くの神々も祭られていたから、その汎神論的傾向は、少しづつ多神論的傾向へと移行していった。
 汎神論より多神論がより近代的という近代宗教学者の穏当な見解は、短絡的でどうかと思われるが、少なくともメッカでは、そんな推移が認められる。
 もともとメソポタミアには、多くの神々が栄えた歴史があった。
 それはメソポタミアの宗教で触れたが、ただ、メッカの神々は、古代シュメールやバビロニヤ・アッシリアの神々ではなく、ギリシャ神話から借用した神々のようだ。それでも、昔の神々が栄えた土壌に、郷愁を覚えていたのだろうか。

 カーバに祭られていた神々は三百六十体とも言われ、イスラム以前の多神教時代を彷彿とさせる。その神々の中で最高神とされていたのがアッラーフ、アッラーフに付き従っていた大地母性の神アッラート、美と愛の女神ウザー、運命の支配者マナートの三神である。これがカーバの神々を支配していた。アッラートはアッラーフの娘を意味する全能の女神だが、実は、アッラートはアッラーフの女性形だ。アッラーフの娘だから父神の名を引き継いだと言われたら、それはそうだが、アッラートを名乗らせることで権威を纏わせた、シャーマンの思惑も透けて見える。父神アッラーフは、ギリシャ神話のゼウスに匹敵する全能者・至高神である。
 アッラーフはイスラムが信仰する唯一神だが、そこに初めて現われた神ではなく、もともとはメッカの繁栄を支える守護神だった。

 ムハンマドは、カーバに祭られていた大部分の神々を破棄し(偶像に象られた神々だったから、「破棄」も可能)、こうした神々への信仰を斥けて、古いカーバの偶像としてのアッラーフではなく、新しく装われた全能者アッラーフのみが唯一最高の神であると教えた。アッラーフを偶像としてではなく、観念上の最高神としたところに、ムハンマドの優れた宗教家としての手腕がある。恐らく、ユダヤ教やキリスト教と接触したことが、そのような最高神アッラーフを産み出したのだろう。
 それは、多神教から唯一神信仰へのジャンプ・アップだった。
 私たちに馴染みあるアラーの神(アッラー)と今触れたアッラーフは同じだが、ムスリム(イスラムの人たち)はアッラーフを用いているので、私たちもそう呼ぼう。ムスリムは、ムスリム以外の人が「アッラーフ」という呼称を用いることに、拒否反応を示しているが・・・
 ちなみに、カーバは、装いを新たにしたアッラーフの神殿として、イスラム最高の聖地となり、今に栄えている。聖石は今も残っていると思われる。メッカに巡礼することは、カーバに詣でることなのだ。

 メッカばかりでなく、アラビヤ各地には、ユダヤ人たちが住み着いていた。
 バビロン捕囚後もそのまま住みついていたユダヤ人たち、また、70年のエルサレム陥落後、海外に逃れたユダヤ人たちだ。先に、メジナがユダヤ人の開拓から始まったと触れたが、寄留の外国人だった彼らは、農業や商業を生業として大きな勢力になっていた。彼らの唯一神信仰がイスラムに与えた影響は、計り知れないほど大きかった。
 そしてもう一つ、イスラムに大きな影響を与えたものに、キリスト教がある。
 キリスト教は、東ローマ帝国のコンスタンティヌス二世が、356年に派遣した伝道団の活躍によって、アラビヤに定着した。しばしば、先に進出していたユダヤ教徒との間に、血なまぐさい闘争が繰り返されたが、それはかえって、アラビヤでのユダヤ教やキリスト教の活動を活発化させた。

 ムハンマドは、イスラムの神、アッラーフの誕生に、古い民族宗教の神名だけを残し、その唯一神の実態を、ユダヤ教とキリスト教から借用したと思われる。彼ほどの知性があれば、キリスト教がユダヤ教を母体として発生したことを知っていたとしてもおかしくはない。
 しかし、アッラーフをユダヤ教やキリスト教のエロヒーム(神)の呼名・ヤハウェ(主)と同一としたばかりか、その神学を相当部分イスラムに取り入れたのも、両宗教との友好を願ってのことではないか。
 アッラーフは、こうしてイスラムの最高神として誕生した。
 コーランにはこうある。
 「まことに信仰ある人々(ムスリム)、ユダヤ教を奉ずる人々、キリスト教徒、それにサバ教徒(一部の秘儀的キリスト教?)など、誰であれアッラーフを信仰し、最後の日を信じ、正しいことを行う者、そのような者は、やがて主から御褒美を頂戴するであろう・・・」


(3)聖典

 イスラムの聖典は聖書、コーラン、ハディスの三つだが、それぞれの内容とともに、その関係を考えて見なければならない。

 最初に挙げたのは聖書だが、ムハンマドは旧約聖書の律法と詩篇と福音書を、アッラーフの特別啓示として受け入れている。
 ムハンマドは自分のことを、「最後の預言者」と位置づけた。コーランに登場する預言者はアダム、ノア、アブラハム・・・と二十五人いるが、ほとんどは旧約聖書に出てくる預言者で、二十四番目にイエス・キリスト、最後の二十五番目をムハンマド自身としている。どういうことかと言うと、ムハンマドは、自分を「最後の預言者」と宣言することで、自分に啓示されたコーランを聖書の上位に置いたのだ。つまり、旧約聖書は福音書に抵触しないかぎり有効で、抵触した場合には、後の啓示である福音書が優先する。同様に、福音書がコーランと抵触した時には、コーランが優先すると言う順序だ。ムハンマドの言行録・ハディスは後に取り上げるが、コーランの上位に来るものではない。ムハンマドは自分を「最後の預言者」とすることで、巧みにコーランを最高の啓示とした。
 旧約聖書と福音書を特別啓示としたのは、ムハンマドがユダヤ教やキリスト教と接触して影響を受けたことによるのだろうが、それを彼の教えの権威づけに利用したと言えなくもない。事実、現在では、コーランがアッラーフ最高権威の言葉として定着している。

 「コーラン」(アラビア語ではクルアーン)は、最後の預言者ムハンマドに啓示された、アッラーフの言葉であると信じられている。
 もっとも、これは二〇年という歳月をかけて、少しづつ断片的に啓示されたものとして、ムハンマドが語り、それを筆記、暗唱する者がいたりと、一部は文字に記録され、一部は伝承として伝えられた。ムハンマドは文字を読んだり書いたり出来なかったらしく、最初から書物(書物にされたコーランはムスハフと呼ばれる)にされたのではない。しかも、ごく初期に記録されたものは、すでに失われてしまった。

 そのコーランが現代に伝えられた次第はこうである。
 導師(イスラム教師)イマムは、コーランを多く暗唱している者だった。コーランはアラビア語で書かれているが、それは朗唱を目的に実に美しいアラビア語で、暗唱に適していたのだろう。以前、パキスタンのカラチで、あるムスリムに頼み、コーランを読み上げてもらったことがある。とても美しい響きだった。
 しかし、ムハンマドの死後、暗唱していた人も減り、次第にその記憶も怪しげになってきた。コーランは、ムハンマドを通して、アラブ人にアラビア語で伝えられたアッラーフの言葉だが、アッラーフに由来する、定められたアラビヤ語しか認めなかった。イスラム共同体は、統一文字を持たなかったため、理解にいろいろな違いが出てきて混乱を重ね、経典としてまとめようという動きが出てきた。コーランの結集(けつじゅう)である。
 第二代カリフ・ウマルと第三代カリフ・ウスマーンの時に、二回の結集が行われたが、651年に完成した二回目のものが、今日に伝えられるコーランの原典となった。カリフとは、ムハンマドの後継者で、イスラム共同体の長を指すが、ウスマーンは二回目に結集したものを公式のコーランとし、「ウスマーン版」以外のムスハフを焼却してしまった。そのため、ウスマーン版を除くムスハフは今のところ見つかっておらず、偽典や外典のたぐいも存在してはならないとされる。
 公式コーランの制定は、異なる国、異なる民族をもイスラムとする、強烈な兄弟意識を育てる根本的要素になった。イラン・イラク戦争などに見られるように、彼らも決して一枚岩ではないのだが、イスラム以外の攻撃に対しては、見事なスクラムを組む。
 現代世界で急激に重みを増しているイスラムの、その辺りを理解しておく必要があるだろう。

 少し、その内容に触れておこう。
 コーランは、ムハンマドに啓示された回数に従って、一度の啓示を一つのスーラ(章)とし、全部で114のスーラがあるが、その順序は啓示された順序とは異なっているようだ。
 イスラム学者(ウラマー)たちによると、コーランは啓示された順序に従って三期に区分されている。第一期のものは比較的短く、初期の啓示であるためか、アッラーフの権威に関するものが多く、アッラーフの創造と世界の終末が厳かに語られている。第二期のものは80スーラあり、メッカでの迫害が厳しくなった中で、大衆への伝道が進んだ時期だったためか、説話風のものが多く、新しい信者たちのためにイスラムの正当性が主張されている。第三期のものは、ムハンマドが迫害が厳しくなったメッカを逃れてメジナに移ってからのもので、一つ一つのアッラーフの啓示も長く、内容も法制的、政治的で、イスラム社会の規律が取り上げられている。イスラム共同体の成熟時期に当たっているからだろう。
 一章は開扉(以下スーラは章とする)、二章は牝牛、三章はイスラーン一家、四章は女、五章は食卓・・・と続くが、百十四章もあるので、ムスリム(イスラム教徒)たちの信仰と生活の微に入り細にわたる細かな内容が並び、イスラム世界は法政社会だと思わせられる。
 イスラムの宗教と社会は、律法のもとで成立しているのだろう。
 四五章・腰抜けども、五八章・言いがかりをつける女、六四章・騙し合い、八三章・量りを誤魔化す人々、一一一章・腐ってしまえ・・・など、想像もつかない主題も多くあって、イスラム社会の多様ぶりが見られる。

 ところで、《コーランは二十年の年月をかけて、何度もムハンマドに啓示された》と言ったが、そんな時間経過の中で、「イスラムの枠組み」とでも言える法制度が形成された。コーランの根本理解に関わると思われるので、その辺りのことを見ておきたい。
 この二十年は、十年づつ前期と後期に分けられる。
 前期は、イスラム新教団草創期のメッカ期である。
 この時期は、一介の商人に過ぎなかったムハンマドが、突然、アッラーフの啓示を受け(610年)、その使徒、預言者となり、伝道に着手した期間だ。故郷メッカの人々は、その教えを危険な体制批判と見て拒否し、誕生したばかりの教団を激しく迫害したが、まだ数人しかいなかった教団は、そんな迫害にも屈せず、強烈なアッラーフへの実存信仰を育てていった。
 この時期のコーランは、個々人が実在する唯一の全知全能の神・アッラーフの前に立ち、人格的関係を結ぶ(信じることと、信仰者の生き方をアッラーフにゆだねる)ことに集中している。いわゆるイスラムという宗教の、根本部分が立ち上げられた時期と言えよう。
 面白いことに、ムハンマドは、その人格関係を、すぐれた商人感覚で、「契約を結ぶ」と捉えている。聖書の契約概念は神さまの恩寵でそれとは全く違うが、アッラーフへの信仰を「神と人との契約」としたのは、恐らくユダヤ人の影響があってのことだろう。それは、近代的とも言える極めて実存的信仰だが、彼のハイレベルな宗教観が浮かび上がってくる。
 後期は、ムハンマドがメジナに移った622年から632年に亡くなるまでの10年間で、イスラムが宗教と政治という総合的共同体を目指し、確立していった時期であり、メジナ期と呼ばれる。この時期にイスラムは、栄光のイスラム帝国に向かって歩み始めた。

 メッカ期のコーランは、現世より来世を重視している。それは、ムハンマドの信仰が終末に傾いていたためと思われる。厳しい迫害の中で、現世の希望を見つめることが出来なかったのかも知れない。
 しかし、メジナ期になると、信仰の在り方が現世重視に変わってくる。もっともそれは、メッカ期に確立した、来世の幸せを確保するために現世の生き方が大切という現世主義であるが・・・
 それは、メッカ期の「アッラーフを恐れる」倫理的信仰から、慈悲深いアッラーフへの感謝が信仰と同義語になるほど、イスラム信仰が社会的積極性を持ってきたことを意味する。現実を肯定した、「現世主義」とでも呼べる生き方と言っていいだろう。
 アッラーフと人格関係を結ぶメッカ期の「契約」に触れたが、その契約が、メジナ期では、人間同士のものへと変わっていく。
 アッラーフと契約を結び、アッラーフと倫理的関係に入った者たちが、今度はお互いの間に倫理的関係を打ち立てる。つまり、人間同士の倫理契約が信仰者の義務・責任として浮上してきた。アッラーフは信義の神だから、人は互いに信義を守らなければならない。同様に、彼らが親切や赦しや約束を大切にし、嘘を最大の悪徳の一つに数えるのも、アッラーフと契約を結んだ信仰者たちの社会的倫理的責任なのだ。
 言い換えれば、それまでのアラビヤの人たちは、個々人や家族という単位でしかものごとを考えなかった。彼らの社会は、広がりを認めても、せいぜい部族単位だったから、そんな者たちの意識が、アッラーフという至上神を得て、自分たちが所属する、より広い場所を見い出したということなのだろう。ムハンマド最大の功績である。
 メジナ期のイスラム信仰が、社会に対してより積極的性格を持つようになったことについて、コーランにはこうある。
 「今日この日、ここにわし(アッラーフ)は汝らのために汝らの宗教を建立し終わった。わしは汝らの上にわが恩寵をそそぎ、かつ汝らのための宗教としてイスラムを承認した。」
 ここで言われる宗教とは、教義的に組織された、社会機構としての共同体宗教を意味しているのだろう。イスラムは、宗教であると同時に、国家という社会的制度を指すようになっていた。もちろん、コーランの教えを実現しようとする、信仰共同体としての国家だが・・・
 当然、市民たちの関心は、政治に向いていった。
 そして、預言者ムハンマドは、政治的指導者としてもその手腕を発揮し始める。
 コーランはこう言っている。
 「(信徒たちに)こう言うがよい。『お前たちが、もし本当にアッラーフを愛しておるなら、このわし(ムハンマド)についてこい。そうすればアッラーフもお前たちを愛し、お前たちの罪を赦して下さろう』と。またこう言うがよい。『アッラーフと、その遣わし給うたこの使徒の言いつけに従え』と。だが、もし彼らが背を向けるなら、アッラーフは信仰なき者どもを好まれぬことを知れ。」
 この時期ムハンマドは、アッラーフと並ぶ絶対者となり、イスラム社会の君主として共同体に君臨し始めた。
 こう見てくると、コーランは、全能者アッラーフの啓示である前に、絶対的君主ムハンマドの言葉そのものではないかと、素朴な疑問を感じてしまうのだが・・・
 言い過ぎなら、ご容赦頂きたい。

 ところで、どの宗教にとっても聖典は「神の啓示」だから、ミステリーな部分があって当然だろう。コーランは極めて単純で合理的だが、それでもミステリーな部分がある。しかも、コーランで使われている言葉は、ムハンマドが属していたクライッシュというメッカ名門部族の一種の方言で、アッラーフのミステリーというより、日常語なのにクライッシュ族以外の人たちには分からない、意味不明で曖昧な言葉が多い。
 そこで、いろいろな解釈が生まれてきた。イスラムの歴史は、コーランの解釈によって変遷したとも言えるだろう。およそイスラム的とされるあらゆる文化・生活は、コーランの解釈によって成り立っている。学問も道徳も政治も法律も芸術も・・・と、イスラム世界では、聖と俗の区別がなく、あらゆるものがコーランを土台に、宗教に直結している。

 そして現代、脚光を浴びているイスラムの二教派、アラブ人に多いスンニ派とイランが正統としているシーア派には、これが同じイスラムかと言いたくなるほどの違いがあるが、その違いは、ムハンマドの後継者争いから生まれたと言われる。更に大きな見地から言うなら、コーランの解釈から生まれてきたと言っていいだろう。解釈の違いから争いが起こり、時には血を血で洗う悲惨な状況が生まれた。それはイスラムだけではなく、聖書解釈の長い歴史を持つキリスト教にも当て嵌まるが、「神さまのことばに聞く」ことなのに、自派に有利な解釈を求め、ウラマーたちは反目し合っている。そもそも、宗教というものは、自分たちに都合の良い理解を求めて、分派に分派を重ねて来たのかも知れない。そこに争いがあるのは当然だろう。

 次に、コーランに次ぐ重要なイスラム聖典、「ハディス」である。
 これは預言者ムハンマドの言行禄だが、彼の死後、何百年もかけて編纂された。
 ムハンマドは宗教家として、また政治家として優れていたが、それだけではなく、多方面で人に抜きん出たすぐれた能力を持っていた。彼は、構築されつつあるイスラムの統制と組織に、その多才ぶりを発揮している。コーランはイスラム信仰の基準としてばかりでなく、信者の現実問題にもメスを入れて快刀乱麻を断つ優れた判断を下してきたが、そのコーランをもっても処理し切れない問題は、彼の一言でみごとに解決された。
 ところが、彼の死後、こうした事情が一変する。
 ムハンマドの精力的働きの甲斐あって、彼亡き後もイスラム圏は国境を越えて拡大の一途を辿ったが、それと共にいろいろな問題も膨れ上がり、それが絡み合って複雑になると、コーランだけでは対処しきれなくなった。後継者カリフは、ムハンマドのような「アッラーフの啓示を伝える預言者」ではなく、単なる教団の指導者だったから、彼らがイスラム教団の指導者であるためには、上からの権威ある言葉が必要だった。そんな状況下で、コーランの補助的役割を担うものとして、ハディスが必然的に生まれてきた。
 だが、ハディスの誕生には多くの問題があって、長い時間が費やされた。もともとその大部分は口伝だったから、時々の情勢に合わせて修飾され、新しく創作されたものまで加えられて、誰もがこれはムハンマドのことばではないと気付いた。しかし、権威あるムハンマドの名をもって、ハディスは世に出されなければならなかった。
 その混乱に終止符が打たれたのは、ムハンマド死後200年経った九世紀のことである。ブハーリーとムスリムという二人のハディス研究家によって、二種の「サヒーフ」(確実なもの)と四種の確実性のやや劣るものとからなる六種のハディスが編纂された。ハディスはその後も幾多の要望に応えて変化を重ねていくが、その変化は、イスラム路線を柔軟にし、他宗教や他民族文化との融合を可能にするクッションになった。

 イスラムの柔軟性とは、ハディスが持つ幅の広さなのだろうか。「変化」とは修正もしくは改竄のことだが、その変化に加え、コーランと同じように、その解釈によって時代に対応し、イスラム圏の更なる拡大に寄与したという一面を持っている。
 ところが、奇妙なことに、ハディスが整えられた九世紀中頃、特に法律に関するコーランとハディスの聖典解釈は絶対にしてはならないと、聖典解釈の自由が禁止されてしまった。その禁止は現在まで続いている。
 恐らくそれはイスラム社会の建前と思われるが、建前にせよ何にせよ、この解釈禁止条項は、イスラムにとって、自由論議の門が閉ざされてしまったことを意味する。大きくなって幅も広がったイスラム世界の、原点に戻ろうとする方向転換だったのかも知れない。
 個人が自由に聖典を解釈して法的判断を下すことを、イスラム法学では「イジュティハード」(努力)という専門用語で表現されるが、そのイジュティハードは昔の権威ある人たちがすべてやってくれたから、それに従って判断すべきということなのだろう。それは、イスラムがアナーキイ(無政府状態、無秩序)という混乱に陥ることを回避したが、大きくなったイスラムには、そんな心配の声があったのかも知れない。イスラムの純粋性を守るための禁止条項と考えられる。
 だが、その反面、イジュティハード禁止は、イスラム法を固定化させ、その文化生命を枯渇させ、イスラム世界の発展を西欧に立ち遅らせる一因となったとも言えるのではないか。
 近年、「イジュティハードの門」を再び開かなければという声(イスラムのルネサンス)が、内部で上がっているようだ。期待したい。


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