新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教


8、仏教総括

 仏教を大まかに見てきたが、素人ではあり、それほど沢山の資料や文献を読んだのでもなく、足りないところばかりだが、最初に仏教の中心に踏み込んでみたいと願ったところは、少ないなりに果たし得たのではないかと思う。これは、興味ある方たちが修正し、つけ加え、構成し直していくための、たたき台と思って頂けるなら幸いである。

 最後に、仏教が現代に遺したものが何であるかを、考えてみたい。そして、仏教が未来社会にどのような役割を担おうとしているのか、仏教自体が意図していなかったとしても、何らかの役割があるのではないかと期待しつつ、その辺りのことを覗いてみたいと思う。

 何度も読み返しながら、重要と思われるところをピックアップしてみた。
 第一は、悟りを開いたゴータマ・ブッダが人々に提供した教えからである。
 ブッダが人々に最初から教えたことは、「法」という、人々が目指すべき真理の道だった。それは、人々に欲望や執着心を自制を取り上げた四聖諦や八正道などに見られるが、そこには、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」とか、「頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、道の人ではない。」「この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ托鉢僧と呼ばれる。」などと平易なことばで伝えられている。
 こう見て来ると、仰々しく四聖諦とか八正道などと言わなくても、ごく普通の感覚で人間として当たり前と聞こえるのだが、それをわざわざ「教え」などと言ったのは、インドの宗教界を司っていたヒンドゥー教が、常識離れしていたからだろう。その意味で、ゴータマ・ブッダが当然の社会常識を取り戻したと言えるのかも知れない。そして、それをさも大切な教えのように、「真理の道」と位置づけた仏教各宗派もまた、人のあるべき姿を欠いていたのではないか。後代(現代)の諸宗派が、仏教哲学などに走ってしまったのも、おかしなことだ。現代日本の仏教が、葬式仏教に走ってしまったのも、それなりに原因はあるが、仏教内部に人々に語り掛ける中身が乏しかったのではないか。いや、その中身を煮詰める方向が、違っていたのではないかと思わされる。

 二番目は、部派仏教の自利に対抗するように、「他利」を求めて、大乗仏教が台頭したことだ。
 そもそも仏教は、ゴータマ・シッダールタが欲望と執着心を捨てたいと願って、一切のまとわりつく栄華を振り払って辿り着いた悟りであり、人の目指し得る真理の道だった。それは、あくまでも自利の道だったが、他の人たちにもその輝くばかりの道を示したいと願ったところから、多くの信徒を得て、多数の宗派が誕生するまでに膨らんだ。他利の道を志し、大乗仏教が台頭したことは、自然の流れだったと言えよう。その歩みは、必然的に、浄土宗や浄土真宗の「他力本願」に達する。その「他力本願」の真髄を端的に著したものに、浄土宗宗祖・法然(源空)が遺した「一枚起請文」がある。短いものなので、その全文を紹介しよう。
 「もろこし我朝(わがちょう)にもろもろの智者たちのさたし申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず。唯往生ごくらくのためには南無阿弥陀仏と申てうたがひなく往生するぞとおもひとりて申外には別のしさい候はず。ただし、三心四修(さんじんししゅ)と申事の候はみな決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもふううちにこもり候なり。此ほかにおくふかきことを存ぜば二尊のあはれみにはづれ本願にもれ候べし。念仏を信ぜん人はたとひ一代の法をよくよく学すとも一文不知の愚鈍の身になして尼入道の無知のともがらに同して智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし。為証以両手印(しょうのためにりょうしゅいんをもってす)。浄土宗の安心起行(あんじんきぎょう)此一紙に至極(しごく)せり。源空が所存此ほかに全く別義を存ぜず。滅後の邪気をふせがんがために所存をしるし畢(おわんぬ)。建暦二年正月二十三日 源空」
 この他力本願は、親鸞の弟子が著した「歎異抄」により、さらに煮詰められた。
 いづれも、「往生する」という本願が、自己の修業では行き着かず、他者(恐らく絶対他者)への信仰によって実現するのだという確信に満ちているのだが、それが「ただ念仏申さば往生すべし」とする単純な帰依(信仰)に結実する。それは仏教本来の教えにはないもので、どこかで絶対他者信仰を持つ宗教(恐らく東方キリスト教)との接触が推察される。それは、貧しく非力な庶民たちにとって、この上ない福音に聞こえたのだろう。

 第三に、仏教は、どんな宗派や他宗教教団の教理や儀礼方式や、本来はいなかった筈の「神や神々」までなにもかも受け入れて、シンクレティズムに陥ってしまったことである。
 特に近代日本では、神仏習合の歴史もあって、神道が培って来た原始宗教的「精霊」という部分を受け入れ、それが中国経由の密儀仏教の「密儀」部分に結実したのだが、神秘主義思想は、どの宗教でも併せ持つとはいえ、本来「法」という欲望や執着心からの脱却を目指す修業に合理的、理論的だった仏教が、曖昧模糊とした人間の部分を、精霊という神や神々と結びつけ、それに「ホトケ」という名をかぶせて、わけの判らない宗教に変身してしまったことである。
 それは、神仏習合という歴史的通過点を持つ近代日本だけでなく、キリスト教を中心とする欧米やイスラム世界にも見られる現象だが・・・
 これは仏教の巾の広さであると、聞き方によっては優れた点に数えられるが、それはあくまで変身した仏教側の言い訳に過ぎず、古くから諸宗教が繰り返してきたシンクレティズムである。

 しかも現代、雨後の筍のように誕生したカルト宗教のこともあって、諸宗教乱立気味の時代でもあるが、乱立する諸宗教が仲良く手を取り合って・・・などと、「世界平和」を語り合っている。仏教教団は、宗派を問わず、その中心メンバーになってしまった。もちろん、僧侶や牧師など個々人の関心もあってのことだが、教団ぐるみでその仲間に加わるなど、一人前の宗教として市民権を得たと錯覚しているのではないか。
 だが、仏教にとって、シンクレティズムに走るより、単純なブッダの教えに立つほうが、遥かに現代社会に寄与出来ると思うのだが・・・


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