新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教

4、中国仏教

 現代仏教には、紀元前三世紀以降、スリランカを中心に東南アジア諸地域に広まった南方仏教、紀元一世紀以降、中国、朝鮮半島、日本およびベトナムに広まった漢語仏教、七世紀以降チベットや蒙古に定着したチベット系仏教の三系統が上げられる。南方仏教とチベット系仏教は上座部仏教だが、漢語仏教は主に大乗仏教だった。
 漢語仏教とは、中国において整備された仏教を指す。漢語をもって中国仏教は、インド仏教とは異なる独自の仏教として発展していった。


(1)歴史

 中国への仏教伝来は紀元一世紀頃、後漢の時代と推定される。
 ガンダーラからシルクロードの西域諸国を経由したが、そこには長い距離とカラコルム山脈やタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠という厳しい自然環境が立ちはだかり、更に道教や儒教という独自の宗教文化が成立していたことから、中華思想というプライドもあって、仏教が定着にするまでに数百年かかった。
 しかし恐らく、紀元前何百年も前から、シルクロードを往来する外国人商人が仏像を持ち込み、中国民衆の間に徐々に仏教が浸透していった。当初は、交易に従事した隊商や帰化人が帰依していたが、一世紀中頃以後、中央の貴族・知識階層にも熱心な信者が誕生した。恐らく、高度な宗教文化としての仏教は、次第に多くの人の心を捕らえていったのだろう。

 中国で大きな比重を占める、「漢民族」に触れておきたい。
 語族の分類ではシナ・チベット語族に属し、黄河や長江の流域で農耕文明を形成したと言われるが、「漢民族」という単一民族があったわけではない。「漢王朝」に由来するが、北方からの匈奴、鮮卑、モンゴルなどの遊牧民、女真族などの狩猟民からの侵攻や交易によって、周辺民族と混交を重ね、また、遼、金、元、清など異民族王朝が長く続いて、その間、民族混合ばかりか、文化の混合も行われた。現代もそうである。「漢民族」が順調に中国何千年もの支配者だったわけではない。貪欲に異文化を取り入れながら、執拗に自己主張を繰り返す彼らの資質は中国の特徴でもあるが、それは、異民族や異文化の混合が重ねられた歴史によるのかも知れない。

 仏教が中国で生き延びるために、道教や儒教の類縁であるかのように装う、「格義仏教」という過程を経なければならなかった。これは仏教の中国化だが、経典を中国古来固有の思想、とりわけ、老荘思想の用語を用いて漢訳したところから成立したと言われる。この格義仏教は、四世紀の東晋の頃まで非常に栄えた。
 しかし四世紀後半、北朝では、西方から渡来した高僧・仏図澄とその弟子・道安が、格義仏教を継承しながらも、批判者となっていく。仏教思想を正しく理解するには、仏教本来の解釈によらなければ・・・という主張である。その主張に同調する者は多く、更に、その頃長安に来朝した西域僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)がもたらした大量の訳経と相まって、格義仏教は次第に衰微していった。
 そして五世紀には、孝文帝のもとで都が洛陽に移されて仏教の中心地となり、華厳経、法華経、涅槃経など代表的大乗仏典が次々と伝来し漢訳されて、浄土宗が誕生した。東アジア独特の〇〇による〇〇宗といった開祖仏教は、この時から始まった。少し後代になるが、天台宗や華厳宗、日本人によく知られている、達磨大師による禅宗も開祖仏教の一つだ。
 一方、南朝でも仏教は盛んで、都の建康は、北朝の洛陽同様、仏寺が建ち並ぶ都市だった。
 しかし、南北両朝に栄えた仏教は、北朝の東西分裂や侯景の乱による南朝・梁の滅亡とともに、混乱の時代を迎える。仏教衰微を決定づけたのが、574年の北周・武帝による廃仏である。彼は道教と仏教をともに廃止した。寺院等を破壊し、その財産を没収したが、これは、税を逃れる目的で僧籍に入る者を還俗させて税を取るなど、国の財政改善を狙ったもののようだ。そして、仏教・道教の研究機関として通道観を設置し、120名の通道観学士を選任しているから、華美に堕した寺院や僧たちの堕落を防ぐ意味も込められていたのだろう。仏教も道教も国の手厚い保護を受けて、国の財政を圧迫し、かつ、貧しい民衆からかけ離れた存在になりつつあったからだ。似たようなことがこの後も繰り返されているから、中国仏教は、すぐに国家権力と結びつく体質をもっていたのかも知れない。
 これは、当時広まり始めていた末法思想もあって、学問的講教中心の仏教を反省する契機となり、中国仏教分岐点の一つとなった。

 その反省もあって、中国仏教は浮沈を繰り返すが、南北両朝時代末期から隋・唐の時代にかけて、最盛期を迎える。
 北周・武帝の覇業を継承した隋の文帝は、西晋以来の中国統一を成し遂げた。
 彼は仏教を中心に据えた宗教政策を展開し、新たに造成された都・大興は仏教の中心地となって、次の唐代における中国仏教の隆盛期到来への基礎となった。文帝はその晩年、中国全土の要地に仏舎利塔を建立して各地の信仰の中心としたが、これが日本の国分寺の起源と言われている。
 唐の時代になると、次々と仏教宗派が生まれ、中でも天台宗と禅宗は、教団色を持つ宗派として注目された。西遊記で知られる玄奘三蔵が経典を求めてインドに大旅行を決行したのも、この時代のことである。彼が持ち帰った経典は、後世の東アジア仏教の基盤となった。また、紀元八世紀には、不空が密教を大成。ここから、空海によって真言密教(東密)、最澄によって天台密教(台密)が日本に伝えられた。
 中国仏教は、この唐代に最絶頂期にあったと言えよう。
 ところが、唐代も末期になると、武宗の仏教弾圧事件(九世紀)を契機に、仏教の勢力は急速に衰えた。ただそれは、武宗の治世だけだったから、皇帝が変わるとすぐに仏教は復興するが、この時期、唐朝自体が地方勢力伸張によって中央集権的求心力を失い、往年の繁栄を取り戻すことはなかった。やがて黄巣の乱を契機として、唐朝は一気に衰亡への道を辿り始める。そして仏教も・・・
 五代十国時代は、唐朝末期を入れても約90年という短い期間に、黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)が興亡した時代である。これは唐朝の衰退とともに始まった、混乱の時代と言えよう。仏教はおおむね保護され、隆盛していたが、この時代末期には、国が僧侶の租税と兵役を免除、寺院の財政援助をしていたことから、安易な動機による出家や堕落した僧侶が増えて、寺院や僧侶が国家財政を圧迫し、3300もの寺院が廃寺となる大規模な廃仏事件が起きた。
 中国における四大法難と言われる、最後の激しい法難である。
 この法難以後、民心は難解な学問体系を持つ宗派から離れたが、具体的で分かりやすい禅宗や浄土念仏宗、或いは現世的利益を説く観音信仰などは、広く民衆の支持を得て復興、中国仏教の主流となった。そして、宋の太祖・趙匡胤(ちょう きょういん)は、廃仏を中止して仏教保護へと政策を転換するが、一方、寺院資産の課税による寺院統制、やがて五山十刹制度として、寺院を国家統制下に置いて管理することに成功した。

 中国仏教の繰り返される浮沈は、国や民族が抱えた国家と宗教という問題として、浮き彫りにされた。それは他の宗教も例外ではない。宗教が社会に埋没している現代、考えさせられる。

 五代十国から宋の時代にかけて、大衆受けする禅宗や浄土宗が栄えたが、他方、儒教・仏教・道教の三教が融合する傾向も見られる。この時代は、インド起源の仏教が次第に本来のインド的特色を失い、中国的宗教へと変貌を遂げる時期でもあった。その傾向は、元や明や清の時代に一層強まった。国家による仏教保護政策は、一部の地域を除いてほとんど見られなくなり、宗派間の論争や教学といった出家僧侶の華々しい活動の場がなくなった。宗派が統合や再編成を繰り返しながら生き延びる道を模索する中で、中国仏教は、出家僧侶の手から在家居士を中心とする仏教へと変わっていく。
 在家居士とは家庭において修行を行う仏教信者のことだが、彼らは仏教学の知識・実践において僧侶に匹敵する力量を持つようになり、清代には、衰退した出家教団に代わって仏教復興運動を展開するなど、仏教発展の一角を担った。

 仏教教団の再編成が繰り返されただけでなく、中国最後の王朝「清」の滅亡とともに、「中国」という国自体が新しい時代へと変貌し、中華民国を経て、第二次世界大戦後、共産党による現代の「中華人民共和国」が成立した。
 中国という呼名は、その略式名称である。
 ご承知のように共産主義は一切の宗教を認めず、「宗教は麻薬」と称して排除しようとしてきた。共産主義国家として新生した中国も、宗教を嫌い、仏教やキリスト教を弾圧したが、特に1960年代の文化大革命では極端な弾圧と破壊が行われ、五代十国以後、禅宗と浄土宗に絞られながら居士仏教として細々と生き延びてきた仏教は、存亡の危機に直面した。

 ところが21世紀現在、中国政府は文化大革命の非を認め、抑圧政策を方向転換したのだ。荒れ果てていた仏教寺院は、日本の寺院や華僑の援助もあって、少しづつ復興している。中国仏教は、憲法が信仰の自由を認めたこともあって、徐々にではあるが、回復に向かっていると言えよう。もっともそれは、政府に正式登録された宗教団体に限ってのことだが。その登録宗教は、仏教、道教、キリスト教など九つで、現在の中国仏教は、公認の中国仏教協会の下にまとめられ、その統制のもとで宗教活動が認められていると言っていい。なお、1993年の統計で、仏教の信徒数は約485万6000人だそうだ。

 単に仏教だけの問題ではないが、中国では宗教と貧しい農民とが結びついて暴動を起こし、いくつもの王朝が滅亡した歴史がある。現在の政権は、宗教を徹底的に政府の管理下に置こうとして、それぞれの教理にまで口を挟み、またもや仏教は存亡の危機を迎えつつある。しかし、それ以上に、政権を揺るがす何らかの騒動が起こる可能性に言及する人たちが出て来た。宗教と農民が結びついてどうのということではないが、中国発の戦乱が世界に波及する時代を迎えなければいいが・・・


(2)形態

 これまで極めて大雑把に、中国仏教が繰り返してきた繁栄や衰退、また経典と真摯に向き合うさまを見てきた。そこからもお分かりのように、中国仏教は、インドで発生した仏教とはかなり違ったものになっている。その違いも含め、中国仏教の形態を見ていきたい。

 インドでは、ヒンドゥー教の昔から、出家僧や修行者に食物などを布施する習慣があり、それによって仏教教団は経済的に支えられてきた。布施者は社会全体のあらゆる階層に広がっていて、そこには金持ちの商人も含まれていた。
 しかし、中国文化にそんな習慣はない。仏教伝来の初期には、恐らく、少数の敬虔な仏教信者の純粋な寄付行為に支えられていたと思われるが、経典の読経を基本とする外来文化の仏教には、しばしば極めて高度化された宗教観が詰まっていて、現世的宗教である儒教や神仙の神秘的生命力を求める道教にはない、魅力あるものと映った各時代の王朝が、仏教保護に傾き、国家財政が仏教教団を経済的に支える方向に動くことになった。皇帝はその威信をかけて立派な寺院を幾つも建立し、僧侶の生活まで手厚く優遇するといった具合に。石窟寺院など、まさにその典型だろう。
 ところが、それが国家財政を逼迫し、無能な僧侶でも食うに困らないところから、僧侶の質の低下や堕落が目立つようになり、そんな僧侶たちが庇護者である皇帝たちを失望させたことは、仏教の大きな不幸だった。これが、何回も繰り返された廃仏の大きな要因である。初期の頃はともかく、中国仏教は総じて国家権力の保護と反発の中を歩み続け、そして、その国の盛衰とともに浮沈を繰り返して来た。
 中国には、まず上座部仏教と初期大乗仏教が同時期に伝わり、次に中期大乗仏教、遅れて密教が伝わった。それは、道教や儒教などの文化風土もあって、四世紀頃までは、老荘の用語を用いた漢訳仏典を中心に、仏教を道教や儒教の中に紛れ込ませる格義仏教として栄え、伝えられたインド仏教を取捨選択した、偽経(400もの中国撰述経典)を含む漢訳仏典が中国仏教を支えた。
 そして、漢訳仏典の経典研究と教相解釈という体系付けが行われるようになると、多くの学派が生まれ、中国独自の宗派が生まれた。いずれも、古来の中国思想を重んじるところから、衆生のみならず草木まで成仏出来るという、『本覚思想』を特徴とする中国仏教が展開された。これは仏教に限らず、宗教全般に言えることだが、時代を経るにつれて、仏教が仏教でなくなる歴史を重ねて来たようだ。まして、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、チベット高原、タクマラカン砂漠などで地理的に区切られ、距離的にも文化的にも遠い中国にもたらされた仏教は、その教義や形態に変遷があって自然だったのだろう。
 もしかしたら、長い歴史の中で多くの文化を育んで来た中国には、それら文化形成自体にも取捨選択があり、彼らの意に添うものだけが残ったのかも知れない。そして、その経緯は日本においても再現された。仏教だけでなく、すべての方面に渡って・・・
 中国では、仏教は文化として中国人の生活に大きな影響を与えた。ゾロアスター教(松教)、キリスト教(景教)、マニ教(摩尼教)なども流入したが、それらとは比較にならないほど、仏教の存在感は大きかったようだ。

 隋朝の頃、新しい宗派が誕生した。その一部を簡単に見てみよう。
 一切皆成仏という理想と平等を主張し、学問仏教として中国仏教を代表した二大教学である。法華経を最上の教えと信じる天台宗と、華厳経を重んじる華厳宗だ。また、密教経典と言われる金剛経や大日経を取り入れて真言宗も誕生、以後、中国仏教では、密教が盛んになった。どこかに、神仙を慕う道教の伝統が息づいていたのかも知れない。だが、インドに旅して多くの経典を持ち帰ったことで知られる玄奘三蔵の弟子たちは、理想主義の学問仏教を批判、汚れを滅却する瞑想行を重んじ、現実・実践主義の法相宗を興した。

 朝廷の庇護を受けて唐代に栄えた仏教諸派は、度重なる廃仏によって急激に衰退した。
 しかし、朝廷保護の埒外にいた浄土宗と禅宗は独立宗派とはならなかったが、民衆の宗教として現代まで生き延びた。阿弥陀浄土を信じ、小難しい理屈には見向きもせず、ひたすら念仏を唱えながら阿弥陀仏を礼拝する浄土宗と、520年頃に達摩大師によって伝えられた、経典を用いず、ただひたすらに座禅することで、本来の淨らかな自己の本性を覚醒しようと、食事作法や作務など生活全般に重きを置くことでも知られる禅宗の二つの宗派は、そうした単純明快な姿勢が民衆に支持され、中国が生んだ最も中国的仏教として評価されている。
 これは日本に伝わって、独自の発展を遂げた。


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