新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教


3、中国における諸宗教

 中国仏教に入る前に、仏教と並んで中国三大宗教に数えられた道教と儒教を見ていくことにする。
 概略ながら、古代中国の文化風土を頭の隅に入れておきたい。

 便宜のため、東周時代から現代までの時代区分を網羅しておこう。
  東周      前770~249年
  後漢      前202~後220年
  南北朝     220~589年 (魏、蜀、呉→東晋と西晋に統合)
                (北朝は小さな分裂王国時代を経て北魏に)
  隋       581~619年
  唐       618~907年
  五代十国    907~960年
  宋       960~1279年
  元       1271~1368年
  明       1368~1644年
  清       1616~1912年
  中華民国    1912~1949年
  中華人民共和国 1949年~現在に至る


(1)道教

 道教は中国三大宗教の一つで、道家、道学とも言う。
 古代から伝わる不老不死という神仙方術的(仙人)信仰や、巫術や道術といったシャーマンを通して民衆が培って来た、一種の精霊信仰による治病などを母体に、不老長生や現世利益を主たる目的とし、自然発生的に生まれた原始宗教である。中国独特のアニミズムが根底にあるのだろう。
 中心概念の道(タオ)は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。人はこの道に到達し、道と一体となることを目指して修行に励む。つまり、仙人となることを究極の理想として、不老不死の霊薬・丹を錬る。

 これに陰陽五行説や古くからの道家思想を加え、さらに儒教や仏教の影響も受けて組織化され、漢代には黄帝と老子の思想が加わり、おおむね後漢末から六朝時代にかけて形成されたようだ。
 後漢末 (二世紀末)に、張陵や張角によって創始された五斗米道や太平道などと呼ばれた古道教教団は、呪術的治病を中心として民衆に信仰されたが、六朝時代になると、仏教との抗争を通じて、上記各種の思想をその体系内に組入れて教義を確立し、貴族間にも信仰されるようになった。五世紀、北魏の寇謙之の新天師道に至って教団組織が確立され、儒仏二教に対抗して、「道教」ということばが成立した。唐代には王室と結んで栄え、やがて新道教も誕生した。
 それは、教団教理や信仰儀礼ばかりか、社会思想や職業技術や訓練など、社会を構成する種々の要素を内包する、文化複合体でもあった。それはまた、中国の歴史や風土や地域に付随するもろもろの条件が交錯する中で、政治や社会、文化などと関連しながら展開された、生活文化を基礎とするものでもある。
 いわば中国民族固有の宗教文化と言えよう。
 同じような発展形式をもつものに、儒教がある。
 しかし両者の差は、儒教が中国の社会、国家の秩序、および学問技術を統治者の立場から究明しようとしたのに対し、道教は宗教的要素を中心に、社会の秩序および学問技術を民衆の立場から究めようとしたところにある。従ってそこには、儒教が退けた迷信や魑魅魍魎(ちみもうりょう)、変怪鬼物など、巫祝的鬼神信仰(シャーマニズム)も含まれる。
 道教の概念は、「民衆道教」と「教会道教」(成立道教)の二つに大別することが出来る。民衆道教とは、農民や民衆一般の信仰、生活信条およびそれによって組織される集団や結社を指すが、これは特に、宋代以降、庶民社会の発展に対応するように、儒教や仏教との共同下で展開されたものである。
 一方、教会道教は、国家や王朝によって公認された道教の教団教派であり、五世紀の寇謙之(こうけんし)の「新天師道」が最初である。天師道は後漢末に起こった農民を主とする初期の民衆道教だが、魏・晋の政権下では、王朝の公認によって教会道教となった。

 現在でも台湾や東南アジアの中国人社会では、かなり根強く信仰されている。中国では文化大革命によって道教は壊滅的打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいている。現在、共産党政権下でも徐々に宗教活動が許され、その宗教観の修復が始まっているようだ。


(2)儒教

 儒教は、古代中国人の精神生活を彩った教えである。
 それは、中国から日本や韓国を含む東アジア諸国に流出し、その国々の思想や生活に大きな影響を与えて来た。しかし、これはどうも、文化思想体系、政治体系を目指したもののようだ。江戸時代の武士道に色濃く現れる礼節を重んじる日本人気質は、仁義礼智信を中心思想とする儒教の影響と言えよう。

 儒教は、春秋時代末期に魯の孔子によって体系化された。彼と弟子たちは周の治世を理想とし、君主の臣下となって国を治めつつその理想を再現しようと試みたが、その政治的野望は実現に至らず、彼らは生活の糧を葬儀業に頼っていたと言われる。
 ところが、前漢時代、武帝が董仲舒の建言をいれて儒教を国教に定め、官吏登用試験の必須科目にしたことから、儒教は全盛期を迎えた。以降、中国は、二千年にわたり、儒教を中心とする官吏国家という特徴を持つことになる。
 しかし、儒教に基づく官吏任用制度(特に隋以降の「科挙」)が中国社会に与えた影響は、「士大夫」という文化の担い手としても重要な階級を生み出したが、反面、この制度に反発した人や制度から落ちこぼれた人たちを中心に、隠者的文化・思想潮流を生み出したとも言えよう。その潮流は一つの大きな文化に育っていき、やがてそれは日本にも入って来て、日本の主要な文化のひとつとなった。芭蕉や吉田兼好などはその代表格とされている。

 儒教は社会の組織維持・管理には力を発揮したが、飢饉や戦乱時など混乱社会には、適切かつ十分な対処が出来なかった。漢の滅亡後、儒教が形式化し停滞していったのは、そんなもともとの体質によるのだろう。ところが、北宋時代には、女真族の侵略に対する政治意識の高まりや仏教哲学への対抗上、新しく宋学(新儒教)という形で再び活性化した。
 これは、道教や仏教からの教義を取り入れたもののようだ。
 南宋の朱子は、宋学を朱子学にまとめ、同時代の陸象山や明の王陽明は陽明学を興している。朱子学は、南宋の政治抗争の中で一時「偽学」として迫害されたが、元代に入り、科挙のテキストに採用され、官学として認められるようになったが、明末になると、その勢いも衰え、ほとんど歴史学と区別のつかないものになった。陽明学は仏教・道教と融合する方向へと進み、こうしてほぼ二千年に及んだ儒教の影響力は次第に弱まり、清の滅亡とともに政治・宗教思想としての儒教は姿を消した。
 以後、宗教思想や学問形態ということではなく、「仁義礼智信」のように、生活に密着した教えとして民衆の中に根づいたと言えよう。そのような意味で儒教は、日本を含む近隣諸国、とりわけ韓国に定着し、現代人の血の中に脈々と受け継がれ息づいている。

 少しだけその中味に触れてみよう。
 弟子の編集による孔子の言行録「論語」に、「子曰く、学びて時にこれを習う、また、よろこばしからずや」とある。孔子は教育家として秀でていて、その門下からたくさんの優れた弟子を輩出し、儒家思想はそれら弟子たちによって大成された。師弟関係ばかりでなく、親子や労使や先輩後輩など人間社会における上下関係が濃密なのは、儒教が人間中心の思想だからと言えよう。「長幼の順」を、「孝を尊ぶべし」という儒教で最も高い徳に裏打ちされた儀礼として捕らえている。
 その徳の中で最も重要なものが仁、その具体化が礼である。もともと宗教儀礼でのタブーや伝統的習慣・制度を意味していたが、後に、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。儒教が儀礼に終始していることが伺われる。
 孔子は、実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末に、周初への復古を理想として、身分制秩序の再編と仁道政治を掲げたのだろう。
 しかし、礼による社会秩序の回復・維持を説くことから、極めて保守的・権威主義的傾向をもっていると言えよう。ピューリタニズムのモラルと似通うところが感じられる。
 余談だが、「仁」には女性形がある。
 「佞(ねい)」だが、これは「へつらう」「おもねる」など非常に暗いイメージで、儒教の裏側を覗く思いがする。


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