新・福音と宗教


第一部 宗教散見

三章 仏 教

2、仏教の発生と拡散

(1)起源

 紀元前六世紀、インド北端に近いヒマラヤ山麓を拠点とした小さな部族国家・釈迦族に、マーヤを母として王子ゴータマ・シッダールタが誕生した。彼は感受性が強く、多感な青年時代を王子として過ごした後、父王や妻子を捨て、王位継承権を弟ナンダに移譲して出家した。

 出家とは、インド古来のヒンドゥー教の修業者になること指す。
 先に述べたように、ヒンドゥー教にはカースト制があり、そのカースト制のもとで、貧しい人たちはどんなに努力しても、その貧しいカーストから抜け出すことはできない。
 ゴータマ・シッダールタは、そんな人々の苦しみを自分の苦しみとしたのだろうか。
 釈迦族の王子の身分を捨てて出家した、彼の軌跡を辿ってみよう。
 夜半、愛馬カンタカに乗って宮殿を抜け出したゴータマは、頭髪を剃り、修行僧となってガンジス川近くのマガダ王国でヨーガを学んだ。上達が早く教師の誘いを受けたが、そこに解脱の希望を見出すことが出来ず、西のナイランジャナー河のほとりで苦行を始めた。一心不乱に苦行に打ち込んだ彼は、やせ細って死に直面するが、それでも解脱することは出来なかった。
 解脱とは、悩みや迷いなどあらゆる煩悩の束縛から解き放たれ、自由の境地に到達することで、「悟り」とも言われる。

 修業の壁に突き当たったゴータマのところに、一人の村娘が一椀の乳粥を持って来た。日に日にやせ細って行くゴータマを見て、心配したのだろうか。河で身を清め、その椀を受けた彼は、河のほとりにあった菩提樹の木の下で坐禅を組み、ついに解脱に到達し、ブッダを名乗ったと伝えられる。
 ブッダ(仏陀)とは、「真理、本質、実相を悟った人」の意味だ。
 彼が苦行を放棄して村娘の差し出した乳粥を受け取った時、それは堕落であるとして、彼を仲間に迎えることを拒否した五人の修行者たちがいた。
 悟りを得たゴータマは彼らのところに近づいて言った。
 「修行者たちよ。聞け。私は不死を悟ったのだ。それを教えてあげよう。」
 不死とは、解脱のことである。人の道の真理を見通す「法」のことで、たとえ肉体は滅びても、その魂は永遠に生きるという悟りのことである。
 初めは彼の申し出を拒否していた五人の修行者たちも、彼が「教えてあげよう」と何度も繰り返すので、彼の言葉に耳を傾け始めた。
 彼は、愛欲におぼれた王子時代の経験と、また、苦行の時代に死と向き合うところまで突っ走った経験を、二つの極端の道であるとして排斥し、到達した解脱の道、中庸の道を説いた。
 「これはわれわれの心の眼を開き、われわれの知恵を進めて、心の平静と完全な悟りの境地に到達させるのだ」と。

 これは当時、巷に溢れていた修業者たちが、在家信者だった時に陥った人の愛を求める道と、修業者となった彼らが苦行による解脱の道を目指して、そこでも求めることが多かったことを意味する。「ゴータマが愛欲におぼれていた」とあるのは、その愛を求める道を指すのだろう。それは、どちらも解脱には到達しないと、その極端な相対する道を否定し、その上に絶対を認識する、これは当時のインド宗教界に流行していたウパニシャッドの哲学に見られる思考形式のようだが、ゴータマは、典型的な修業者であった五人の対話相手が理解しやすいように、当時最先端のその考え方を採りながら、彼が到達した「解脱=法の道」を教えたのだろう。それは、僧侶階級バラモンを中心に、煩雑な祭儀主義に堕していたヒンドゥー教の教えを否定し、当時最先端のリベラルな宗教思想を超える教えだった。
 仏教の教えは複雑怪奇で、多岐に渡る。ゴータマの教えも、後世の無数に分かれた○○宗派を形成する人たちの経典から組み上げた「教理」がほとんどで、それも多岐に渡る。だから、それがゴータマに由来するという断定には無理がある。最初期の経典すら、ゴータマ自身によるものではない。

 だが、仏教を彩る教えの中心に、「法」(ダルマ)というものがある。
 仏教において「法」が教えの中心となったのは、ブッダの悟りが「法」の自覚だったからである。従って、布教も「法」の伝達となって行く。
 そのゴータマが到達した悟りである「法」は、人が極めたいと願う道の真理と言っていいだろう。「法」は普遍の真理である。悟りに到達して「ブッダ」となったゴータマは、かつて自分がそうだったように、愛に悩み、悟りに苦しむ人々に、普遍の真理である「法」をもって、その悩みと苦しみから抜け出して欲しいと願った。

 ただ、そのダルマを、後世の人たちが「法」と解し、それを単なる形而上学的課題でないとしたところに、心優しい戒律が生まれた。四聖諦とか八正道といった欲望や執着を克服する教えだ。その教えは、「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。」とか、「頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、道の人ではない。」「この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ托鉢僧と呼ばれる。」など、平易なことばで伝えられている。
 欲望を愛の道と捉え、戒律を人にかける優しさと捉えると、ブッダの教えが平易なものとして伝わって来る。
 この四聖諦や八正道は、やがて仏教の根本的教えとして種々の経典に組み込まれた。
 もっとも、戒律即真理とは言い難いが、人の欲望も苦悩も戒律から派生して来たことを考えると―「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためである」(ロマ書5:20)と、パウロが言っていることに重なるが―、中庸の教えと言いながら、ブッダは「法」を悟らせるために戒律を教えたのだ。そのどれもが、極めて単純で短い、まるで一片の詩のようにきらきらと輝く教えだった。彼自身が愛に苦しみ、死の淵をさまよいながら到達しただけに、彼の教える戒律には愛の力があった。
 それが、すなわち彼が悟った「法」であり、人の道の真理だった。

 その教えの魅力に惹きつけられた五人の修行者たちは、彼の弟子になった。
 こうして最初の仏教教団が始まった。


(2)原始仏教

 五人の弟子たちと共に、原始仏教の時代が始まった。部派仏教乱立までのおよそ百年がその時代に当たる。
 初期仏教教団は、ヒンドゥー教に酷似していた。
 一切を捨てて出家した者たちと在家信者たちを擁し、出家者は托鉢用の一椀と人が捨てたぼろ切れの衣服と帯、剃刀、水をこして飲むための濾過器、雨具、扇、爪楊枝、履き物だけを所有物とし、住まいは木の下、それに薬として牛の尿のみをもって生活すべしという教えや、女性の出家を認めないなど、まさにヒンドゥー教の教えそのものだった。
 ブッダは当初、新しい宗教の樹立など考えていなかった。
 当時のヒンドゥー教は、最上位階級バラモンによって極端なまでに儀礼化されていて、出家者も真理を求める修行者であることを見失っていたから、ブッダは、ヒンドゥー教本来の姿を取り戻したいと願ったのではないか。
 だが、信者が多くなるつれて、自然に新しい宗教教団となり、ブッダの入滅前に、すでに千を数える教団がインド各地に誕生していた。

 原点とも言える、ブッダ自身が目指し、到達したところを理想とする原始仏教には、厳しい修行を積んで解脱に至るという明確な目的が見られた。

 出家たちは遍歴を原則とし、在家信者たちの布施のみによって生活していた。
 それもやがて、雨期だけを避難場所とする僧院に定住するようになり、僧院を土台に安定した生活を望むように変化していくが、原始教団(サンガ)の出家たちは、いかなる生産活動にも従事せず、ひたすら解脱を目指して修行に専念し、在家信者たちは喜んで布施を行なっていた。布施をすることで、彼らもまた間接的に理想像(ブッダ)に近づくことが出来たのだ。
 そのように極めて素朴な理想に生きていたためか、原始仏教には儀礼や祭儀がほとんど見られない。恐らく、バラモンの儀式宗教に失望していたからだろう。まして、死者儀礼など、出家の関与するところではなかった。ブッダの遺骸をどう扱ったらよいかという弟子たちの質問に、ブッダは、「在家信者にまかせておくがよい」と答えている。

 だが、そんな素朴な理想に生きていた仏教教団も、時代を経るにつれて、仏舎利塔を建てるなど、有形的なことに目が向けられるようになった。それは、いずれの宗教にも見られる現象で、宗教というものの宿命なのだろうか。
 遺骨だけではなく、ブッダの遺品一切が、聖なる物として、崇拝の対象になってきた。すでに原始仏教の時代から、実に様々なものがブッダの遺品として祭られ、それにまつわるもっともらしい法話も生まれていた。遺骨については、水晶のような宝石の形をしていると信じられていた。そのような伝説は後世になるほど増大しているが、ブッダの遺骨を納めた仏舎利塔を建てることは功徳と考えられ、アショカ王が八万四千もの塔を建てたという話は有名だ。
 すでにブッダは、信仰の対象になっていた。
 宗教というものが辿る宿命なのかも知れない。


(3)部派仏教

 ブッダから約一世紀を、原始仏教の時代と位置づけてきた。
 続く時代を、部派仏教の時代と呼ぶことが出来るだろう。

 ブッダ入滅後二百年ほど経ったアショーカ王の時代までに、経典には三回の結集(けつじゅう)が行われたが、ブッダ入滅後百年ほど経った二回目の結集時に、当時の原始仏教教団(サンガ)の一部の人たちが、教団が通達していた戒律の禁止事項を緩和して欲しいと申し出た。それが教団幹部から拒否されたことで、改革案を要求した人たちは、分派して大衆部(後の大乗仏教)を名乗った。
 だが、戒律に異を唱えた人たちに反対して、伝統を守った人たちもいる。
 第二回結集は、その人たちの大同団結が提議されたものだろうと推測されている。いわゆる正統派を自認する人たちが、第三回結集時に一致団結して最大部派を誕生させ、それが上座部と呼ばれるようになった。これが現代もミャンマーやタイなど東南アジヤ諸国に伝わって、南方上座部仏教と呼ばれている。
 その頃のことである。大教団となった上座部教団に反発して、説一切有部、根本説一切有部、法蔵部、経量部など、部派仏教教団が続々と誕生した。上座部と同じような教団だが、個性を強調しての乱立と言えよう。

 仏教には大乗仏教と小乗仏教の二つの系統があることをご存じだろう。
 小乗仏教とは、自分たちを「大きな乗り物」と呼称した大乗仏教(後述)が、サンガの伝統に囚われた部派仏教を、「小さな乗り物」と揶揄した呼び名だ。しかし、勿論、部派仏教諸派は自分たちを小さな乗り物などとは考えていない。だから、近年の仏教学者たちは、小乗仏教という呼称を避け、彼らの主張を正確に、上座部仏教、部派仏教と呼んでいる。

 サンガの伝統を守って正統の仏教と自負していた上座部仏教や、部派仏教の伝統とは何なのか、その辺りを探ってみよう。
 ブッダの教えの中心に、正しい見解、正しい決意、正しい言葉、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正し思念、正しい瞑想と、「八正道」と呼ばれるものがある。サンガはそれを具体化して、殺生をしない、盗みをしない、淫らなことをしない、虚言をつかない、酒の類を飲まない、午後に食事をしない、歌舞や音楽や見世物を見ない、薫香や装飾品を用いない、贅沢な椅子、寝台を用いない、金銀を受け取らないといった様々な戒律を定め、上座部仏教や部派仏教の出家たちは、これらを厳しく守ることで自分たちを正統としていた。
 ところが、これらの戒律を守ることで彼らが目指したのは、自分個人の解脱であって、他の人たちの救済という意識はない。そんなところが「小さな乗り物」と揶揄されたのだろう。
 すでに、ブッダ入滅後、三百年という年月が経過していた。
 多くの人たちが、仏教界がよどんでいると思っても当然だったろう。
 紀元前二百年頃、インド仏教界に大きな変化期が訪れた。
 大乗仏教の誕生である。


(4)大乗仏教

 今日、上座部仏教や部派仏教は、東南アジアのいくつかの国とチベット、ネパールなどのヒマラヤ高地、モンゴルに見られるくらいで、中国や朝鮮半島など広範囲に広がった仏教は、ほとんどが大乗仏教と言っていい。その大乗仏教が中国を経て、日本にも入って来た。日本仏教の各宗派は大乗仏教の系統である。
 だが、日本人にとって親しみのある大乗仏教は、発生経路や展開も複雑で、教義には難解な仏教哲学まで取り込まれていて、さらに、発生時期、発生場所、発生経路も特定出来ていないなど、不明な部分が多い。

 まず大乗仏教の、筆者の手の届くところから始めよう。
 大乗とは《大きな乗り物》を意味する。それは部派仏教が自利(自己の解脱)を目指したのに対し、他利(他者を利する)を強調するもので、改革を要求して部派仏教の一部となった大衆部にそのような進歩的なところが見られたところから、大乗仏教は、部派仏教の異端児「大衆部」から分かれたと言われている。彼らは強大な上座部支配に飲み込まれてしまわないように、在家信者もブッダの超越的な力の恩恵に預かることが出来るという他利を主張することで、生き延びようとしたと考えられている。

 紀元前一世紀に成立した初期経典をいくつか取り上げることで、大乗仏教を探っていきたい。ほとんどの初期経典は、大乗仏教の進展とともに出来上がった。

 般若経:これは般若と名のつく経典の総称である。他利を追求する大乗仏教が重んじる六つの徳目(六波羅蜜)の中でも、特に「智慧」が大切にされた。智慧とは真理を見極め悟ることである。その智慧のサンスクリット語音読みが「般若」と言われ、大乗という言葉も般若経で初めて用いられたようだ。
 智慧とはブッダの智慧で、あらゆるものへの無執着が説かれた。そこにはブッダ自身の教えも含まれるが、それすら心にとめない。これが「空」と呼ばれる般若経の中心思想である。般若心経の中でも有名な「色即是空、空即是色」は、色や形あるものの本質は空であると説く。その本質の空が色や形あるものとして具現化していくと聞くと、プラトンの「イデア論」に似ているではないか。この空思想を体系づけた仏教哲学は、ナーガールジュナ(紀元150~250年、大乗仏教の基礎を築いた、中国、日本における八宗派の祖ともいうべき人物)の時代に、ギリシャの学術都市として栄えたアレクサンドリアと南インドが貿易交流を行なっていたので、恐らく、その影響だろうと言われている。
 大乗仏教の信仰体系そのものと思われされる。

 法華経:これは、「泥の中にも美しく咲く白蓮のように正しい法を説く経典」という意味で、『妙法蓮華経』(法華経はその略形)と名付けられた。初期大乗仏典を代表するものの一つである。
 この経典には、大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があるという一乗妙法、苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって利他の行に励むことを勧める菩薩行道、本当のブッダは永遠不滅の存在という久遠本仏などがある。
 この経典の中心思想と思われる「久遠の本仏」を見てみよう。
 ここに言われるブッダは、観念上の本仏のことで、「神」に等しい存在である。そのブッダが、絶対者信仰を生み出す「久遠の本仏」となっているところに、この経典の真骨頂が見られる。歴史上のゴータマ・ブッダは、その「本仏」が姿形を伴ってこの世に出現したと言われる。ゴータマの入滅は、久遠の本仏への一過程で、ブッダ復活の信仰も当然の帰結だろう。
 そして、もう一つの特徴は、『法華経』そのものへの信仰が説かれていることである。だからだろうか。日本でも日蓮宗の信者は、一心不乱に「南無妙法蓮華経」と唱える。「南無」とは帰依を意味するサンスクリット語で、「私はその仏さまやお経に帰依している」という信仰告白である。
 ところで、日蓮宗のものと思われているこの経典は、実は、随の時代に智顗(チギ)がこれを最高の経典として教理体系を構築して天台宗を開いたのだが、これを最澄が日本に持ち帰って、比叡山に日本の天台宗を開教した。

 華厳経:この経典は、広大無辺の仏が万物を包含し、その万物が相互に自己の中にすべての他者を包容していると説く。その有り様が、まるで薫り高い華で飾られているようだという思いを込めて「華厳経」と名付けられたらしい。仏に抱かれている者たちは、生きとし生けるものすべてを肯定し、あるがままに・・・〈合掌〉、それが仏の姿であるとする。これがこの経典のテーマだと聞くと、仏教そのものの幅の広さが見えてくる。

 大乗仏教は、誕生して間もない前二世紀頃から、その主流が中国に移管する五世紀頃まで、インドの宗教界をリードする役割を果たしてきた。その間の大乗仏教には、両手をいっぱいに広げて、何もかも包み込んでしまうゆったりとした大きさが感じられる。
 ところが、その大きさには、現実離れした空想の世界がつきまとっているように感じられる。阿弥陀仏や理想のブッダには実在の「神」が見えず、輸入された西方のキリスト教やミトラ教などの神観とインド宗教が混合された痕跡が濃厚だ。仏を限りなく神に近づけながら、それを仏の守護者としたり、奉仕者としたりと、揺れ動いている。
 大乗仏教の魅力は、そのような、宗教としての謎に包まれたファジーな部分にあるのかも知れない。次項で述べる密教(神秘主義思想)は、そのファージーな部分を肯定し、補強するものである。


(5)密教

 仏教には、部派仏教など諸派仏教と大乗仏教がある。これらは一般に公開され、広く教えられている顕教だが、それとは別に、資格を備えた特定の弟子のみに伝えられる秘教としての密教がある。密教は、西洋思想の神秘主義に該当するのだろうが、インド社会、あるいは仏教社会の中で、内面を問いかける思想と言うよりむしろ、現実に即した利益追求の中で生まれた特殊儀礼と言えよう。もっとも、顕教と密教は排除し合う関係ではなく、諸派仏教徒や大乗仏教徒の中に、密教の修法を行う人たちがいたということで、密教が顕教とは別の教団組織を形成していたということではない。日本では、天台宗と真言宗に正統な密教が継承され、台密、東密として現代に伝えられている。

 密教の紀元は、インド古来のヒンドゥー教にある。
 古代インドの聖典ヴェーダを奉じたヒンドゥー教最上位を占める僧侶階級にちなんで、バラモン教と言われるヒンドゥー教の有力な一派・「ヴェーダの宗教」には、繁栄、健康、長寿、家畜の繁殖、男子の子孫を得るなど、神々から利益を得るために、呪文を唱えながら供儀を行うという部分があった。恋敵を呪ったり、仇敵の破滅を願う呪術もあったらしい。
 密教のルーツと見ていいのではないか。
 それは、火祠(護摩)を焚きながら呪文を唱えるというもので、そのような祈祷やまじないのたぐいは、インド人の中に民間信仰として深く根付いていて、初期仏教教団は、民衆の要求するそんな宗教儀礼を一概に否定することは出来なかったのだろう。原始仏教時代に、すでに密教的要素が見られるそうだ。
 興味深いのだが、密教仏教の呪術的宗教儀礼が確立するに伴って、梵天・帝釈を初め、ヒンドゥー教の神々や鬼霊が仏教の中に入り込んできた。
 たとえば、孔雀明王という女性神が登場して来るが、彼女を心に念じるだけで恐怖や厄難を逃れることが出来るのだ。それは、密教がこのインド特有の現世利益追求型宗教を土台に成立してきたからだろう。ヒンドゥー教の神々に見られるアニミズム的まじないや呪術は、密教仏教に結実していった。
 更に、そうした古来の神々以外にも、密教仏教には独自の菩薩や仏が数多く見られる。大日や菩薩などだが、前者は密教の理論的な面(教相)を強調し、後者はその実際的な面(事相)を強調している。そのいずれも系統的に配列され、それぞれの色彩、乗り物、表象物、印の形などが細かく規定されているが、これを絵図にしたものが曼陀羅で、密教仏教独特の礼拝対象になっている。菩薩を礼拝し、大乗経典を読経するのが大乗仏教の徒であるとすれば、曼陀羅を掲げ、護摩壇を設けて呪文を唱えながら修法(秘教的儀礼)を行なうのが密教仏教の徒であると言えよう。その両者は、一人の僧侶、一つの寺院の中で融合している。仏教ではそんなことが可能なのだ。

 日本でも、社会不安の時代に多くの密教型新興仏教が現われたが、それらは病気治癒、富の獲得、厄払いなどに密教儀礼を乱用した。それは古代社会のシャーマニズムと同じである。そして恐らく、教相と事相のバランスを大切にする正統密教も根は同じだろう。不安という人間の本能につけ込んだ宗教形態であり、現代の諸宗教も・・・と言ったら言い過ぎだろうか。
 仏像の中には、千手観音とか十一面観音、或いは馬の頭を持った馬頭観音など奇妙な形の観音像や菩薩が見られるが、それらは現世利益の信仰と結びつき、利益の多様性に応じて生まれた変化身なのだろう。それらのほとんどは、密教初期の信心から生まれた。

 密教は大きく初期、中期、後期の三つの時代に区分される。
 初期密教では、その信仰形態が仏像に現われているのに対し、中、後期密教では、曼陀羅が用いられるようになった。初期の頃、密教は大乗仏教の一部でしかなかったが、中、後期の密教は、曼荼羅を用いる独自の信仰形態(密教文化)をもって、大乗仏教の中核を占めるようになった。仏教がインドで消滅した遠因は、仏教のヒンドゥー教化と言われている。大乗仏教がヒンドゥー教や民間信仰を摂取して密教になっていったと考えていい。特に後期密教は、ヒンドゥー教とほとんど違いがないとさえ言われている。
 やがて密教は中国の唐で栄えたが、それも唐の衰微とともに消滅し、その正統は日本の真言(東密)と天台(台密)にのみ伝えられていると言われる。


(6)死者儀礼

 仰々しい仏教の死者儀礼は、現代仏教が葬式仏教と揶揄されるほどである。

 初期の仏教教団は純粋な修行者たちの集団で、生死吉凶に際しての儀式や呪術といった宗教儀礼には、一切関係していなかった。しかし、時代を経るにつれ、女性僧侶・比丘たちによる死者儀礼が行われるようになって、それは、民衆の要望により、ヒンドゥー教のバラモン僧やインド古来の民俗宗教が行なっていた習慣を取り入れたものと言えよう。

 ところが、バラモンにしても比丘にしても、彼らは宗教儀礼を行うことで何ら報酬を受け取っていない。インドの社会通念として、出家への布施は在家信者の当然の行為だったから、出家たちは、殊更に収入を得るための方策を考える必要はなかった。インド仏教で、謝礼を想定しての死者儀礼等が認められるようになったのは、密教化が進んだ後世のことで、死者儀礼が仏教本来の職務として広く認知されるようになったのは、為政者が仏教僧侶を保護した見返りに、呪術や豪華絢爛な葬儀などを行なった中国や東アジヤにおいてであった。布施の習慣がなかった中国では、仏教教団の貴重な収入源になった。中国仏教については次項で取り上げるが、その傾向は一般民衆にも普及していく。
 彼らはいくばくかの賃金を支払って、仏教寺院に死者儀礼を依頼するようになった。それは、仏教が、民俗宗教の素朴な風習とは比べものにならないほど、外観も思想も高度なものなっていたからだろう。
 やがて、さまざまな宗教儀礼をするための仏教寺院が発生し、その儀礼はますます荘厳華美になり、民衆の心を魅了していった。
 特に日本では、そうした宗教儀礼の中でも、一段と密接に死者儀礼が民衆と結びついたが、日本の仏教については、別項で取り上げる。

 仏教による死者儀礼には、いくつもの方式や独特の習慣が出来たが、日本に定着した馴染み深いものをいくつか取り上げてみよう。
 仏壇:仏教が身近に感じられる、道具立ての一つに仏壇がある。これは位牌を置く場所として江戸時代に一般化したものだが、元来は阿弥陀仏を祭るところだった。これが江戸時代に一般家庭に普及したのは、キリシタン禁教政策を推進する役割を果たしたためと思われる。
 墓石:ブッダの遺骨を納める仏舎利塔が、仏教式死者儀礼における墓石の原型になっている。しかし日本では、弥生時代から死者を葬った場所に土を盛り、そこに石を置いて標識とする習慣があり、それが石塔という立派な形になったのが仏教の伝来と結びついたのだろう。現代の墓石は、それが簡素化されたものと言われる。日本独自の風習が息づいているようで興味深い。
 ほとけ:日本では死者をほとけと呼んでいるが、これはブッダ(仏陀)のことである。しかし、仏教では、全ての死者が仏陀になるとは教えておらず、死者がある期間を経て祖霊になるという、日本の原始宗教から来たものと思われる。原始宗教で祖霊はカミ、それが仏教伝来後ほとけと言い換えられた。言葉は仏教でも内容は民俗信仰そのものと考えていい。


(7)仏教における神の問題

 大乗仏教の一つの大きな特徴を紹介しよう。
 「神、または神々」という問題である。
 これまでにも、ブッダへの信仰や、他者の救いで浮上した「神や神々」に触れてきたが、そこには、「何となく」というニュアンスがつきまとっていた。だが、「何となく」では、神や神々の登場に意味はなくなる。それゆえ、真っ正面から扱う必要がある。
 なぜなら、大乗仏教は、他者の救いを真正面から見つめようとしていたからである。「仏の慈悲」などと、お茶をにごして済ませることは出来ない。ヒンドゥー教受け売りの慈悲(カーナ)ではもはや説明がつかず、必然的に、「神や神々」の問題が大乗仏教の中心事となる。

 もともとブッダの教えに神はいない。
 ところが、部派仏教はブッダを理想像と見るようになり、それが次第にブッダの超人化へと変化していく。いわゆるブッダ信仰だが、そのブッダの超人化が大乗仏教で急激に展開し始めた。ブッダは超自然的創造によって、この人間界に現われ(応身)、入滅は現世を超越して神の領域に入った(報身)とされる。
 もともと大乗仏教には、宇宙のすべてに、それを成仏させる原因があるという教えがあった。その原因とは、真実、永遠、不変、超越の存在、つまり絶対者だが、ブッダをこの絶対者と融合する「法身」と見るのだ。
 この応身、報身、法身という三つの教えこそ、ブッダを神に祭り上げた大乗仏教の根本思想と思われる。それは、仏教が無神論的性格を捨て、有神論(一神論的)に変化して行ったことを意味している。
 ちなみに、多数の「仏」には、大乗仏教の有神論展開といった側面があるようだが、これら多数の「仏」は、ほとんど名のみの存在で、これに付随する神話も認められない。ヒンドゥー教にはあったらしいが。

 にもかかわらず、これら諸仏の中で、ひときわ光彩を放つものがある。
 大乗仏教の中でも重要な仏として知られる、「阿弥陀仏」である。
 もともと、「阿弥陀」は、「如来」、つまり解脱したブッダを指していたが、大乗仏教ではブッダ信仰が強調されて、「如来」より神格化されたブッダという意味で、「阿弥陀仏」に変化したと思われる。
 阿弥陀仏は、測り知れない光明を持つ者・無量光という意味でのアミターバと、測り知れない寿命を持つ者・無量寿という意味でのアミターユという、二つのサンスクリット語の原名を持つ仏である。歴史上のゴータマ・ブッダをランクアップさせたとみていい。

 もう少し踏み込んでみよう。
 大乗仏教徒たちは、すでに入滅したゴータマ・ブッダの教え(法)を直接聞くことが出来ないため、他のブッダ(仏)から聞くことを望んだ。都合の良いことに、極楽浄土にいる阿弥陀仏は無量の寿命を持つブッダなので、信者が極楽に行けば、そこで迎えてくれる存在である。極楽という言葉は、サンスクリット語の阿弥陀経の題名を翻訳したもので、「幸福を持つ者」という意味である。「念仏を唱える者は誰でも阿弥陀仏の本願によって救われ、この極楽に成仏する」という浄土宗の教えをご存じと思うが、有名な他力本願である。ここにも、仏教本来の教えにはなかった、絶対神への信仰が見られる。

 ところで、光背をつけた仏像を見たことがあるだろう。その多くは阿弥陀仏だが、阿弥陀仏は光明そのものという神的存在である。
 それは一体、何に由来しているのだろうか。
 複雑なので筆者には難しく、詳しい議論は出来ないが、インドでは神が光明をもって表象されることはなく、本来、光明的存在を意識することはなかったようだ。その起源は未だ明らかにされていないが、多くの学者たちは、西アジヤの宗教がその起源ではないかと推測している。日本で極楽とは「西方浄土」と呼ばれ、それはインドを指しているが、実は、インドでも、極楽は十万億の仏国土を越えた西方にあると信じられている。
 恐らく、革新仏教としての大乗仏教は、シルクロードを介して、西方の新しい宗教と接触したのだろう。
 大乗仏教で未来仏とされる弥勒菩薩の原名は「ミトラに関係のある」という意味だそうだが、ミトラは言うまでもなくペルシャで栄えたミトラス教のことで、ペルシャには光明の神を擁するゾロアスター教が栄えていた。
 更に、他力本願という阿弥陀仏信仰の中核思想には、キリスト教の影響が認められると言われる。キリスト教との接触がどこでどのように行われたかは不明だが、接触があったことは確かだろう。中国には「景教」と名づけられる東方のキリスト教が入っていたし、使徒トマスのインド伝道伝説はインドの教会で信じられていて、「聖トマス教会」は今でもインド・キリスト教の主流を占めている。シルクロードにある数多くの遺跡にも、仏教とキリスト教がどこかで接触した痕跡が残っている。
 大乗仏教は、シンクレティズム(宗教混合)である。それこそ仏教の真の姿であると、日本の高名な仏教学者が結論づけていた。
 大乗仏教が誕生した契機には、神、または神々への信仰がなければ他者(自分も含めて)の救いは実現しないと、見極めたからではないか。ブッダが神格化されたのも、偶然ではない。
 だが、いくらブッダを神格化しても、ブッダは真の神ではないから、神や神々を求めて右往左往することになる。後述するが、他力本願に走った浄土宗や浄土真宗には、実のところ、他力とする実体の神は不在である。だから、密教などという神秘思想に走らざるを得なかった。つまり、聖書のような「神からの啓示」を持たない大乗仏教は、想像する以外に神や神々に近づく手段を持たないのである。

 もう一つの中心問題がある。
 ゴータマ・ブッダを神格化したとしても、彼を信じる信仰が目指すところは一体どこか、という問題である。
 恐らくそれは、彼が到達したという「解脱」であり、悟りなのだろう。
 だが、その「解脱」がどのような内容を含んでいるのか、そこは極めて曖昧で、恐らくそれは、後世の日本の浄土宗などで、「念仏申さば救わるべし」とした、他力本願に通じるのだろう。つまり、ゴータマ・ブッダが到達したところは神や神々の世界で、神か神々になったブッダの恩恵に与ることが救いであると言っているのだ。しかし、人間に過ぎない者がいくら「解脱」したと主張しても、その解脱が他者の救いに決定的に関与することが出来るだろうか。いやそれは、プラトンのイデア論に通じる、「思考」中心の架空の救いではないのか。
 その救いには実体がない。
 恐らく、仏教と接触する以前のインド人の宗教理解には、中央アジヤからインドやイラン北東部に移動した古代アーリア人の救いの願望があったのだろう。
 イラン北東部に移動したアーリア人たちは、そこでゾロアスター教という新しい神々の世界を構築するが、そんなアーリア人たちがどこかで出会ったのが、古代ギリシャのプラトンのイディア論である。そこから生まれたのが、グノーシス主義を根幹とする宗教の近代化だが、大乗仏教にも、かすかながらその痕跡が認められる。

 仏教を取り上げてきたが、その中身の多くが、実はヒンズー教化であったり、地域に根ざした古い民俗信仰であったりということが、だいぶはっきりしてきた。恐らく、キリスト教も宗教という枠で見るなら、同じ傾向が数多く浮かび上がってくるのではないか。宗教の重要な要素はシンクレティズムだが、それはシャーマニズムという原始宗教まで遡るのかも知れない。
 しかし、一面では、グノーシス主義と接触するなど、高度な宗教思想に変身して行く過程のようなものを感じる。少なくとも、中国を経て、日本に入って来た大乗仏教には、啓示の神々を求め、キリストに似た菩薩像に行き当たった歴史がある。それはある意味で、仏教の形而上学化かも知れないが、仏教にはそんな傾向が色濃く認められる。
 但し、そこから先に進めなかったのも事実だが・・・


Home