新・福音と宗教


序 信仰継承
1、信仰継承

 まず「福音と宗教」の、信仰継承というところから始めたい。

 厳密に言うなら、担ぎ上げた神々や教祖への信仰が確立したと言えるかどうか未知数の新興教団や、(あるとすれば)救いと信仰を求めるわずかな教団を別にすれば、すでに宗教文化と化してしまった仏教など大半の宗教教団に、「信仰継承」はない。
 それは日本独特の神道にも言えることだが、いまだにアニミズムであり続ける類似する諸宗教教団の形態は世界各地に広がっているが、ある意味でそれは、宗教文化の域にも達していないのではないか。文化形態としても、宗教が絡むと、途端に時間が止まってしまった観がある。
 それら「諸宗教」は、本書で扱おうとする「信仰継承」から除外する。
 信仰継承と宗教文化継承とは違うものと思われるからである。

 では、「信仰継承」はここで、何を対象にするのか。
 それは、ただ一点、今回テーマとして掲げた「福音と宗教」がターゲットとする、「キリスト教」をにらみながらのことである。
 ただ、つい近年まで、宗教文化継承を信仰継承と勘違いているのはキリスト教も同様であった。つまり、ローマ帝国と一緒に歩んで来たキリスト教にも言えることだが、ローマ・カトリック教会が世界の国々や民族を掌握したことも、植民地政策競争に陥った欧米諸国のもとで世界のキリスト教人口が大幅に増加したことについても、恐らく、今、イスラムがそんなキリスト教の後を追いかけているように思われる。

 そんな傾向が、二十世紀に入り一気に変わった。
 1914~1918年の第一次世界大戦と1939~1945年の第二次世界大戦という「二つの世界大戦」は、現代世界の文化潮流の方向を決定的に変えてしまった。それは、近代に至るまで、世界のあらゆる文化とその方向性を牽引して来た欧米人の価値観の変化と捉えられよう。
 少しだけ、その歴史を変革させた二十世紀のファクトを並べてみたい。
 世界各地に展開された欧米による植民地政策の破綻は、白人主義と帝国主義そのものを破綻させてしまった。また、「社会主義」ないし「共産主義」という新しい枠組みの発生や、相次ぐ独立によって行き詰った植民地政策は、アフリカを中心とする深刻な「南北の経済と文化の格差」という問題を生み出してしまったのである。
 今、そこに、新たな文化価値観を提供しようと図るイスラムが絡み始めている。
 が、恐らく、それはすでに彼らの手に負える段階ではあるまい。
 いや、政治的社会的要因だけではない。
 それは1980年以後バブルの泡のように集中し始めるが、医療、通信、輸送機器など生活に関わる科学と技術の変革はすさまじい勢いで全方向を目指し、地球科学のツールは、一気に宇宙までを視野に入れ始めた。
 その結果、地球環境はいびつな方向へと進んで、海洋や極点にまで、地球と宇宙規模の問題を引き起こしつつある・・・

 そして、その枠組みの発端を提供した欧米の自由主義という社会構造そのものが、今、欧州の政治的社会的固定化で停滞してしまっている。英国の離脱騒動もあって、EUへの期待度は減少の一途を辿っているし、米国ファストという掛け声も、さて、いつまでもつのか。ソ連の没落と中国の台頭が世界の潮流を変えるとみる向きもないではないが、これは未知数であり、否定的方向が強い。
 特に、それまで世界に冠たる価値観を提供して来た欧米を巻き込んで、それまで「絶対的価値観」だった欧米のキリスト教優位の時代が、宗教文化としてではなく、「信仰継承の失敗」の問題として浮上して来たのである。
 今、世界中の教会が衰退し始めている。
 これが、我々の中心的関心事である。

 この問題、つまり「キリスト教における信仰継承」という漠然とした実態を、「統計」という数字で確かめてみたい。
 統計などというものは、恐らく、単体では何の役にも立たない。いくつかの異なる数字を並べ替え、その組み替えによって目的の「宝物」に行き着くのであろう。
 その手の専門家がいることに気づいた。
 図書館等で毎日、本や資料とにらめっこしている「司書」である。
 幸いなことに、近くに兵庫県立図書館があった。近くにあるいくつかの大学の図書館よりもはるかに貴重な本を多数購入し、膨大な書籍が立ち入り禁止の「書庫」に並んでいることは検索済である。

 兵庫県立図書館の前川範江司書に相談し、教文館書店1986年発行の「世界キリスト教資料事典」の記事に行き当たった。ソースの出典が明らかでないところもあって、いまいち使い勝手に欠けるが、指摘されたことは妥当であろう。
 そこにはこうあった。
 「1980年初頭の時点で、あらゆる種類のキリスト教徒の総数は14億3268万6500人であって、これは世界人口の32%に当たる。キリスト教徒の占める割合は、1815年から1914年までの『偉大な世紀』において、10年当たり1.2%の高率で増えたのであるが、1914年以後は、10年当たり0.4%の率で破局的な減少に転じ、1980年には10年当たり1.0%の高率で減少している。それにもかかわらず、キリスト教徒の絶対数は一年当たり2160万人ずつ増加した。」
 奇妙なことだが、恐らく、いびつになってしまった南北問題が大きな陰を落としているのであろう。
 それよりも、キリスト教会は、もはやあらゆる方面において影響力を失ってしまったと言わざるを得ないのではないか。

 これは、現代、多くの人たちの教会離れが続いているという指摘に重なる。
 日本だけではない。それは、世界的傾向なのだろう。
 はっきり言うなら、教会に躓く人たちが続出しているという現状がある。
 「キリスト教会」という歴史のただ中に建てられ、存続して来たイエスさまの共同体は、イエスさまの言われた「エクレシア」という意味を、失ってしまったのだろうか。イエスさまは、「わたしはこの岩の上に、わたしのエクレシアを建てる」と言われたのである。その持つところの意味を、私たちはいささかなりとも減じてはならないと覚えておきたい。
 「エクレシア」とは、「呼び出された者の群れ」という意味である。
 「どこから、どこに。だれによって」なのか。
 「この世から、神さまの御国へ。イエスさまによって」なのである。
 何よりも私たちは、イエスさまの贖罪(十字架の死)によって、イエスさまのものへと呼び出された者であることを忘れてはならないであろう。
 信仰継承は、そのところで行われる。
 この一事を中心に置くなら、「教会離脱」が意味するところを見失うことはないと思われる。今、神さまは、かつてのノアの時代のように、私たちを創造されたことを悔いておられるのかも知れない。昨今の「教会離脱」は、そんなところで起こっている出来事かも知れないとの疑念が消えない。
 もう一度、守り抜いて来た日曜日ごとに行われる礼拝に思いを馳せようではないか。それが、イエスさまに見出された私たちの原点なのだから。


2、終焉期の宗教

 この小論、「福音と宗教」における福音と宗教の、一応の定義を説明しておかなければならない。
 まず、ことばの由来からである。
 「福音」は英米語でevangelだが、ドイツ語、フランス語、スペイン語など欧米語でも同じであって、これはギリシャ語ευαγγελιον(ユーアンゲリオン)を引き継いだラテン語evangeliumに由来している。これは、古くヘレニズム世界の世俗的用法では、「戦勝の知らせ」や「良き知らせに対する褒美」を指していたが、キリスト教世界となった欧米を中心に、キリスト教用語として新約聖書で用いられる、「神に関する、あるいは神から来る知らせ」を指すのが主流になったと聞いていいだろう。
 その、神に関する「知らせ」が、古英語ではgodspel、現代英語ではgospelとなった。godはGod、神のことで、spellは魔力のことだから、「神さまの力」を指しているのであろう。これは、もっと砕けたアメリカ流で言うとgood news、文字通り「良きおとづれ」のことであると、キリスト教文化圏ならではの言い方である。それは、キリスト教世界だけに通用するもので、ある意味でそれは、安っぽい福音=キリスト教という意識となった。

 次ぎは「宗教」である。
 ごく一般的な説明であるが、インターネット百科事典ウィキペディアが要領よくまとめているので、そこから紹介していく。
 「日本語の宗教という語は、仏教学者の中村元によると、仏教に由来している。仏教において、『宗の教え』、つまり、究極の原理や真理を意味する『宗』に関する『教え』を意味しており、仏教の下位概念として宗教が存在していた。幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう『宗教』一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。宗教は、キリスト教をイメージする用語として受容され、日本人の宗教のイメージに大きな影響を及ぼしていた。欧米語のreligionはラテン語のreligioに派生し、『ふたたび』という意味の接頭辞reと『結びつける』という意味のligareの組み合わせで、『再び結びつける』を意味し、そこから、『神と人を再び結びつけること』と理解されて来た。」
 英語、フランス語、ドイツ語、イタリヤ語、ロシア語などの「宗教」を意味する欧米語はいづれも同じラテン語religioから派生しており、ギリシャ語ではθρησεια(スレーセイア=神を畏れる、信心深い)だが、この「神」は、欧米ではGod、つまり、キリスト教文化という文脈で言うところの絶対神を指す。欧米語の文化圏は、ギリシャ語(ラテン語はその補足。ただし、中世のローマ・カトリック教会時代には主要な言語となった)が世界語として用いられていたローマ帝国の時代から、キリスト教とともに形成されて来たのである。

 そういった「宗教学」の名のもとで、もともと曖昧模糊とした諸宗教が次第に分類化され、集結化され始めた。これは宗教学が近代化されて行く一つの過程とみられており、事実、宗教学は科学のまな板に上った。
 意味があるかどうかは不明だが、宗教をいくつかのジャンルごとに分類するのは「近代的宗教学」では一般的であって、分類方法自体が非常に多く、ある意味でそれは、宗教学を混乱させている原因とも言えよう。しかし、それに代わるものはないので、一応、先駆者である欧米の学会で広く認められたいくつかの分類を紹介しておこう。あるものは文中に時どき顔を覗かせるので、覚えて頂けると便利かと思う。
①一神教、多神教、汎神論
②民族宗教、世界宗教
③伝統宗教(既成宗教)、新宗教(新興宗教)
④自然宗教、創唱宗教
⑤アニミズム、アニマティズム、シャーマニズム、トーテミズム
 但し、本書では一部を除いてこれらの分類には拘らない。

 現代宗教学における宗教の起源には、上に述べた分類にある自然宗教(自然発生説)と創唱宗教(創唱説)が重宝され、本書でも準拠するところが多いのだが―これには、アニミズムやアニマティズムやシャーマニズムやトーテミズムも関係し、汎神論、多神教、一神教と変遷していった変遷過程も考慮されなければならない―、本書では、特にイラン北東高原とメソポタミヤのティグリス・ユーフラテス両大河地方で発生・変遷していった宗教の行方を見据えながら俯瞰していきたいと思う。その地方の宗教的変遷が、「宗教」というものの変化や発達のサンプル的な様相を提供してくれると思うからである。

 しかしながら、忘れてならないことがある。
 いづれの「宗教」も、長い時間をかけて出来上がった歴史を有しているということである。そこにかけられた長い時間には、「人が生きる」中で生じたあらゆる葛藤や苦闘が共有されており、その実績は宗教的文化慣習となって、後代である現代、「信仰継承」と称されて礼拝等に顔を覗かせているのである。
 最近、一部であろうが、キリスト教会の礼拝から「優しさが失われたのではないか」という声が聞こえて来る。確かに、傷ついた者同士がその傷を舐め合うような礼拝風景の様子が耳に届いて来る。牧師が高齢になって、牧会を退いて後に生まれた空白の出来事なのだろうか。
 それは、何もキリスト教会に限ったことではない。
 大方の既成教団が踏襲している「伝統」は、まさに「伝統」であるところに価値があると言わんばかりに、伝統のみに焦点を定めて宗教儀礼を行使し始めているようである。たとえば、「題名のない音楽会」で青森の「ねぶた」は灯籠流しが保存された代表例と紹介されていたが、日本だけでなく世界各地で繰り広げられる祭を彩る「笛の音」や「「太鼓の素朴な響き」、また、「ねぶた」のような洗練された祭の風景には、保存されつつある「伝統の音」や「映像」が一点を見つめて洗練された「神秘的なまでに高められた音や映像」に育てられているのに、もはや、それらの宗教が生まれ育った原点からは遠く離れてしまっているのである。その傾向は年々大きくなっているようである。もはや、宗教としてではなく、地域に根付いた宗教文化としての価値観が増加しているのであろう。きっと、一つ一つの保存されて来た「伝統」には、何らかの意味での「信仰継承」であったろうし、それは実質、「信仰継承」という意識だったのだろうと思うのだが・・・
 だが、そこで繰り広げられる「礼拝」は、もはや礼拝ではないことに気がつかなければならない。なにしろ、「伝統」のみを積み重ねて、長いものでは千年以上もの拝礼行為を、ただ保存されたという意識だけで繰り返して来たのだから。

 宗教は、宗教そのものの保存時代に入ったのであろうか。
 あるいは、信仰継承を、意味を為さないものと見極めたのであろうか。

 終焉を迎えたのであろう、とは言え、宗教が一人歩きしていた時代は長く続いた。原始宗教とでも言うべきアニミズムや汎神論だけでなく、少し高度になった多神論、そして唯一神論でさえも、人間が造り出したと言っていい部分を共有しているのだが、その宗教が人間に支配された歴史は恐らく一度もなく、造り出された瞬間にそれは一人歩きを始め、それを造った人間をリードするようになった。極論するなら、宗教が人間を造って来た部分を有すると言ってもいいのではないだろうか。そして、今、宗教の終焉の時代を迎えて、その古い宗教が、再び人間・現代人に宗教文化として関わり始めている。
 キリスト教とて例外ではない。今後、その関わりがどうなって行くのか注目したいところである。

 そしてもう一つ、諸宗教には共通の重なる部分がある。
 兵庫県立美術館で行われた「アレキサンダー大王展」に行って来た。古代ギリシャ彫像と西アジアの古い仏像をたくさん見たが、そこには共通する要素が見られ、東西諸宗教がシルクロード線上で接触した「共有」の痕跡を色濃く感じた。諸宗教とキリスト教の重なる部分、それは、必ずしも排除しなければならないところばかりではない。たとえば仏教の密教など(東密や天台密、そして恐らく他力本願の念仏専修である浄土信仰も)、そこにキリスト教神秘主義の影響があるのではないかと囁かれている。何も仏教とキリスト教がシルクロードのどこかで接触し融合したと、そんな単純なことではない。たとえば、中央アジヤの遊牧民古代アーリヤ人が何らかの理由で移動を開始し、一部はイラン北東部の高原地帯に向かい、そこで新しい宗教を打ち建てた。ゾロアスター教である。そして、一部はインドに向かい、仏教以前の宗教であるヒンドゥー教原点の一つになったという歴史がある。そんな流れの中で、仏教とキリスト教が接触しているのである。

 その影響というものは、決して一方通行ではない。
 キリスト教という本来「宗教」ではないものが、宗教を纏って来た歴史を、無視してはならないであろう。


3、教会・その後・・・

 「福音」と「キリスト教」は、区別しなければならないものであろう。「キリスト教」という意識は、非常に古く、二世紀というごく初期の使徒後教父たちの書物に認められるのだが。

 ある意味で、「キリスト教」という言い方は、非常に曖昧な言い方である。
 欧米ではchristianity(英語)で、他の宗教は~ismと区別されているのだが、そのことに何らかの意味が込められて来たのであろうか。ともあれ、歴史の中で成立してきた部分が大きいキリスト教と、神さまの一方的な関与に比重がかかる福音は、同一視点で論じられるものではなかろう。ただ、すべての「教会」を包括するために、「キリスト教」という呼名が用いられて来た形跡が濃厚ではあるのだが・・・
 そう聞くと、福音を担い、福音の重要部分を大切にして来た教会の目指すところが、果たして、今後とも福音そのものなのかという疑問が頭をよぎる人たちは多いと思われる。ただ、教会自身がその動向に関心を持つかどうかは、今後の立ち方による。「信仰継承」の失敗を真摯に受け止め、改善の動きが出て来て欲しいものである。

 「福音」については、宗教という枠組からは除外した。
 宗教のことを詳しく知りたいと願ったのは、何よりも、私たちキリスト者の中に、福音そのものがはっきりしてくるようにという思いからである。本書の目的もそこにあって、単に宗教の知識を増やすことが目的ではない。筆者自身としては、キリスト教信者であるよりも、イエスさまの福音のしもべであり続けたいと願っている。

 諸宗教を散見するときに、仏さまの前で手を合わせる人たちのような謙遜さを欠くことがないようにしたいが、これがなかなか難しい。ご勘弁願いたい。


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