9 アリマタヤのヨセフ

赦し給うお方に

                               マタイ 27:57−66
                               詩篇 49:14−15
T もうひとりの弟子

 今回の聖書の人物は、イエスさま埋葬に関わったもう一人、アリマタヤのヨセフです。アリマタヤは、ユダヤとガリラヤの境にある山中の小さな町ですが、彼は、イエスさまのために豪華な庭園付きの新しい墓を提供したほどですから、多分、大金持ちだったのでしょう。そこから中央エルサレムに出て、サンヒドリン議会の議員になっています。エルサレムに来てから長い年月が経っていたようですが、それでもまだ「アリマタヤの」と呼ばれるのは、エルサレムの同僚たちの妙な都会人ぶりに反感を持っていたためでしょうか。サンヒドリン議員の大多数はユダヤ教のサドカイ派出身であり、都会人、進歩的自由主義者であって、パリサイ派の人々のように厳格な宗教生活を守ろうとはしませんでした。小数派ですが議席を多数擁していたのは、大金持ちだったり、地方の有力者だったりというところからと思われます。彼もそんなひとりでした。しかし、その彼についてルカは、「立派な正しい人で、議員たちの計画や行動には同意していなかった」と言っています。〈立派で正しい人〉という言い方は、ユダヤ教徒として保守的ということでしょうか。その信仰は、昔ながらのアブラハム、モ−セ、預言者たちの信仰を引き継いだ、伝統的なものだったのでしょう。そんな彼がイエスさまに惹かれていったのは、ごく自然なことであり、マタイは「彼もイエスの弟子になっていた」と証言しています。

 そのヨセフが、イエスさまの遺体を引き取って埋葬したいと、総督ピラトのもとに願い出ました。


U 心を痛めながら、しかし

 ニコデモ同様、彼もまたイエスさまの隠れた弟子でした。「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」(ヨハネ19:38)とあります。そのヨセフが、勇気を出して、イエスさまの遺体引き取りを申し出ます。十字架にかけられてわずか6時間、「夕方になって」(57)とあるのは、午後3時頃のことと思われますが、イエスさまが息を引き取られたその時間、彼は多分、十字架のすぐ近くで、心痛めながらその一部始終を見つめていたのでしょう。そして、そのイエスさまが亡くなられたと感じ、たまらなくなって埋葬を名乗り出たと思われます。ユダヤでは、「木にかけられた者は呪われる」(申命記21:23)と言われ、処刑された者であっても、〈死んだ〉まま木に掛けられ翌日に持ち越すことはありませんでした。〈立派で正しい〉人ヨセフでしたから、聖書のことばに照らし、そのような行動をとったのでしょう。ただでさえ、十字架という極悪人の処刑場にイエスさまを晒しておくことは出来ませんでした。情けないことに、表立った弟子たちは誰ひとりそこにいませんでした。彼は、前日の夜中に、大祭司カヤパのもとで行われたサンヒドリン大法廷(彼は、多分、参加していないと思われますが)で、イエスさまの有罪判決が決まったその時からずっと、はらはらしながらことの成り行きを見守っていたのでしょう。また彼は、その過程で、イエスさまの弟子であることをはっきりさせようと決心したものと思われます。彼もその一員である議会(大法廷というのは70人全員)で決定したイエスさまの処刑に、ここで自分がその弟子であると判明したら、議員の職を失うことになるだろう。それでも彼は名乗り出ました。そして「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた」のです。ヨハネはそこが庭園だったことを明らかにしていますが、庭付きの洞窟になった墓、それは王の墓の情景でした。しかも、〈まだ誰も使ったことのない〉墓は、地上の王にまさる諸王の王たる神さまご自身に献げたものでした。ヨセフは、旧約聖書が王と呼んだそのお方・救い主を葬ったのであり、そこに彼の信仰が浮かび上がって来ます。マタイはここで、埋葬されたイエスさまに献げるべきものは、信仰であると証言しているようです。


V 赦し給うお方に

 もうひとつのことですが、ここにマタイ独特の証言があります。ヨセフたちは丁寧にイエスさまの遺体を葬って、入り口に大きな石を転がし、封印をしました。その記事は他の福音書にも同じ様に記されていますが、マタイはその後に「帰った」と付け加えています。これは61節の「そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた」ということばと対のように記されています。ルカは「見届けた」と言い、マルコは「よく見ていた」と表現していますが、墓に納められるのを見届けてそれから帰ったというのではありません。帰ったのはヨセフとニコデモであって、マリヤたち女性は、ずいぶん長い時間その場に座り続けているのです。大きな石が入り口をふさいでいるのでなければ、きっと墓の中に入って、イエスさまのそばに座っていただろうと言外に語っているようです。イエスさまを亡くした悲しみが女たちの中に溢れていますが、マタイは感傷だけでこのように記しているのではありません。ヨセフたちが埋葬を終えて帰り、女たちが座ってそれを見届けていたのも、大きな石を転がされ、遺体が墓の中に封じ込められたのも、イエスさまは本当に死んでしまったのだと十字架の死の確認をしているのです。ある人がこれを「葬られることによって確認され、封印された人間の死がイエスさまの場合にも起こった」と言っていますが、その通りなのでしょう。たとえ王さまのように豪華な墓に葬られても、いやそれだからこそ、一層墓に封印されてしまったイエスさまの死が目だってくると感じるのですが、マタイはこれらのすべての出来事をもって、十字架の結末はイエスさまの死であったと、その確認をしているのです。残念ながら、マタイはその先のことを語っていません。

 もう一度繰り返しますが、イエスさまの葬りは、十字架の死を確認するものでした。その確認があったからこそ、よみがえりを神さまの出来事と信じることができたのです。しかし、イエスさまの十字架の死の確認から、もうひとつ聞いておかなければなりません。パウロと共に告白するのですが、「私たちはキリストの死にあずかる」(ロマ 6:3-4)のです。イエスさまを信じる信仰は、私たちがイエスさまと共に葬られ、罪に死んだ者であると告白することであり、その信仰告白の中で、イエスさまの葬りはまた、私たち現代人にも向けられた出来事であると受け留めるのです。イエスさまが十字架に死なれたとき、私たちもその同じ十字架に死んだのであり、イエスさまが墓に葬られたとき、私たちの罪もイエスさまとともに墓の中に葬られたのです。この後、イエスさまのよみがえりが証言されていくのですが、私たちも主とともによみがえるのです。それが新しいいのちです。イエスさまは、私たちの罪を背負って十字架に死んでくださっただけではありません。その罪もろとも墓の中に捨てられたのです。神さまに徹底的に見捨てられ、私たちの罪をその墓の中に封印してくださったことを覚えてください。そして、神さまは「私たちのたましいをよみの手から買い戻される」(詩篇 49:15)ことも忘れてはなりません。ヨセフやニコデモのように、赦し給うお方に、私たちの一切を委ねていきましょう。救いはそのお方から始まっていくのですから。