8 ニコデモ

なおも神さまが
                               ヨハネ 19:39−40
                               詩篇  45:6−9
T イエスさまの埋葬を

 十字架をめぐる人たちということで、聖書の人物を何人か見てきました。イエスさまは十字架にかかり、その上で息を引き取られるのですが、そこからよみがえりという新しい出来事が始まります。しかし、その新しい出来事までに、埋葬が行われ、それに関わった人たちがいます。今回からその人たちのことを見ていきましょう。

 私たちは礼拝で信仰告白として使徒信条を唱和していますが、これは2世紀の後半にすでに教会の信仰告白として用いられていたと言われていますから、教会初期の時代から同じ信仰が現代にまで継承されてきたわけです。その中に「主は死にて葬られ…」とあります。小さな記事ですが、大切にされてきたと言えましょう。これは四福音書に記録されており、パウロも第1コリント書に〈最も大切な〉こととして挙げています(15:4)。アリマタヤのヨセフと彼に協力を申し出たニコデモ、そして、それを目撃していた女性たち、そんな葬りの証人たちのことを考えていきたいのですが、同時にイエスさま埋葬の意味を探ることができたらと思います。

 今回はニコデモです。「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜたものをおよそ30キログラムばかり持ってやって来た。そこで彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料をいっしょに亜麻布で巻いた」(ヨハネ19:40-41) ニコデモの記事はたったこれだけです。イエスさまの埋葬には、まず最初に、サンヒドリンの議員であるアリマタヤのヨセフが動くのですが、そのことを聞きつけたニコデモがこれに加わってきました。


U イエスさまとの出会い

 ニコデモの名前は新約聖書中、いづれもヨハネの福音書に3回、3、7、19章に出てくるだけです。最初はイエスさまが公生涯に入られて間もなくのことでした。エルサレムで、夜ひそかにイエスさまを訪ねて来ます。3章からその会話を辿ってみましょう。「先生。私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」「まことにあなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか」「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません」  彼はイスラエルの指導者とも教師とも呼ばれていますから、律法学者かサンヒドリンの議員で、聖書のことも、ユダヤの古くからの言い伝えのことも良く知っていました。しかし「新しく生まれる」がどういうことか分からないのです。新規一転ということではなく、文字通り新しくという意味ですが、彼は〈母の胎内に入ってもう一度などとは不可能なことでしょう〉と言います。水と霊によってとは、バプテスマを意味していると思われますが、イエスさまを信じて洗礼を受けることです。よく考えますと、罪のとりこになっている私たちにとって、これもまさに不可能なことと言えるでしょう。しかし、その不可能な信仰への道を、イエスさまが開いてくださったのです。イエスさまはこう言われました。「モ−セが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」 十字架のことが言われたのでしょう。十字架ということまではともかく、〈信じる者は永遠のいのちを持つ〉と聞いて、ニコデモはイエスさまを信じたのではないかと想像されます。7章のヨハネの記録で、ニコデモは同僚のパリサイ人に対してイエスさまの弁護をしています。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか」(7:51) 彼はイエスさまの隠れた弟子になっていただろうと考えられています。しかし、ユダヤ人指導者たちの仲間から抜け出すことは、極めてむつかしいことでした。夜の闇に乗じてという弱さを、彼はこの葬りまでずっと引きずってきたと思われます。そんな彼が、イエスさまを信じる者として何とか立ちたいと願っています。これらニコデモの記事が、ヨハネにしかないことから、ヨハネだけが彼と交わりを持ち、隠れキリシタンのような彼をずっと励ましていたのかも知れません。ひそかにでしたが、誠実な彼の求めが、「葬り」という土壇場で吹き出してきたのでしょうか。


V なおも神さまが

 息を引き取られたイエスさまの遺体を葬ろうと、アリマタヤのヨセフが動き出しました。そこでニコデモも何かの役に立ちたいと申し出て、イエスさま埋葬の記事はそのようにして始まります。きっと彼は、十字架のすぐ近くにいて、その成り行きを見ていたのでしょう。30sもの没薬とアロエを混ぜ合わせたものを用意して、ヨセフに合流します。没薬とアロエ、先にベタニヤのマリヤのところで「神よ。あなたの王座は限りなく……」と、これがイエスさまに向けられたものであると詩篇45篇を見ましたが、そこにはナルドの香油よりも、没薬とアロエが一層神さま(イエスさま)を喜ばせるものであるかのように語られています。それを用意したのは、イエスさま葬りのためだったのでしょうが、そこには明らかに彼のイエスさまへの「神よ。あなたの王座は……」という信仰が息づいていると感じられます。イエスさま葬りの時になって、夜こっそりと訪ねてきたあのニコデモが、その信仰をもはや隠そうとはしません。イエスさまを葬ることは、そのお方への信仰の今後をどうするかという、彼にとってぎりぎりのどたん場だったのでしょう。ずっと隠れた弟子であり続けたとしても、彼にとって不都合はなかったでしょう。けれども彼は、自分の立場も何もかも捨てなければならないと、覚悟して出て来るのです。「私も弟子のひとりです」と。

 葬られようとするイエスさまはもはや何も語られませんが、その沈黙の中でニコデモに出会い、ニコデモを励ましているようです。ニコデモは教師・指導者でした。彼がなぜイエスさまを訪ねていったのか、その動機は明らかにされていませんが、恐らく、彼が属するユダヤ人世界に、神さまへの信仰の動脈硬化が起こっており、そこに疑問を感じ始めていたのではないかと思われます。ヨハネ7章にある彼のイエスさま弁護の言葉にも、信じた信じないに関わらず、彼のそういった疑問があるように聞こえます。イエスさまにお会いして、いよいよその疑問を深めたのではと思われますが、そんな状況を何とかしたいと願いながら、ひとりだけではどうしようもない。しかし、保身のためではなく、指導者たちの中にいるからこそ何か出来るのではないかと考えたとしても、不思議ありません。隠れキリシタンのようだったのは、そんな理由ではないかと思うのです。その彼が旗色を鮮明にしたのは、イエスさまの十字架に接してからでした。今は沈黙しておられるイエスさま、その沈黙の中で、「立ちなさい」との招きを聞いているように感じられてなりません。

 このニコデモに、現代の私たちを重ねてみましょう。現代は神さまが沈黙している時代、もっと極端に、神さまが死んだ時代と言われています。神さまの声が聞こえないのですね。しかし、神さまの声は非常に小さいのです。耳を澄ませてでなければ、決して聞こえることはありません。きっとニコデモは、沈黙するイエスさまの前で、内なる魂に語りかけるかすかな声に心の耳を澄ませ、「信仰者として立ちなさい」とイエスさまの声を聞いたのでしょう。人間の声だけが大きく響いてくるこの時代に、沈黙しているかに見える神さまの、そのかすかな声を聞き、それを魂で受け止める者でありたいと願おうではありませんか。ニコデモのように、信仰の耳を澄ませ、十字架の赦しを語り掛けてやまない神さまのかすかな声を聞いて頂きたいのです。