6 イスカリオテのユダ

主を裏切った者
マタイ 26:14−16
ゼカリヤ 11:11−13
T イスカリオテのユダ

 イエスさまの十字架をめぐって、避けることのできない人がいます。イスカリオテのユダです。彼はわずか銀30枚でイエスさまをユダヤ人たちに売り渡した者として、極悪人のように言われていますが、そんな彼を擁護する人たちもいないわけではありません。重要人物にしてはその記事は少なく、余り知られていないのですが、まるで血の通っていない機械のように彼がイエスさまを裏切ったとは、どうしても思えないのです。それなりの理由があって苦しんだのではないかと、同じ視点に立てないまでも、その苦しみをいくらかでも理解することができればと思いました。不十分な点はご勘弁頂きたいのですが、まずはイエスさま十字架の発端となった彼の記事から見ていくことに致ししましょう。

 イスカリオテとはカリオテの人という意味で、イスラエル南部の地方都市と言われています。カリオテとは大都会という意味です。彼の父がイスカリオテのシモン(ヨハネ6:71)と呼ばれていますから、恐らく、代々都会人として生活してきたのでしょう。それが、その町を離れたところで、イエスさまにお会いしたのです。いつ、どこでイエスさまの弟子になったかは不明ですが、この人のもとでこそ自分の力を発揮することが出来ると思ったのでしょうか。他の弟子たちほとんどがガリラヤ出身の田舎者だった中で、都会で培った会計管理の才能があったのか、彼は12使徒の一人に加えられ、弟子団の財務担当者になっていました。かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物と言えそうです。その彼が、極悪人・悪魔の化身などと言われるのは、何かの間違いではないかと思うほどですが、間違いなく彼は、イエスさまをユダヤ人たちに売り渡し、イエスさま十字架の発端となっていくのです。


U ユダの苦悩は

 朝早く、徹夜で終末を弟子たちに教えられたイエスさまが、オリ−ブ山を降りて来られます。「2日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます」(26:2)これはイエスさま最後の一週間、水曜日のことですが、この日のイエスさまの記事はこれだけです。ところが、イエスさまが十字架の予告をされている同じ時に、大祭司カヤパの家に祭司長や長老たちが集まり、イエスさまを捕らえ殺す相談をしています。そんな相談は多分、何度もしていたのでしょうが、このときはユダヤの最高議会サンヒドリンの議員たちが相談をまとめたということで、恐らく彼らの最終決定だったのでしょう。そこにユダがやって来ます。「『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか』すると彼らは銀貨30枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた」(26:15-16) 銀貨30枚は牛一頭、奴隷一人の値段と言われます。単純に換算はできませんが、現在の日本円で70〜80万円くらいの見当でしょうか。ちょっと比較してみたのですが、ベタニヤのマリヤがイエスさまに注いだ香油が 300デナリで、銀貨約75枚になります。マリヤのこの行為に、ユダは本当に腹が立ったのでしょう。「この香油を売って貧しい人に施すことができたのに」 しかし彼は、その半分にも満たない銀貨をもってイエスさまを裏切ります。自分の価値を認めて貰えない悲哀を感じ……、もっと大きなことができると、自分の能力を信じて疑わない部分があったのでしょうか。

 銀貨30枚とは、旧約聖書ゼカリヤ書の預言でしょう。しかしここで、銀貨30枚を受け取る者が、なぜか預言と逆転しています。もしかしたらこれはパラドックスで、罪の問題に触れようとしているのかも知れません。ゼカリヤ書では、イスラエル指導者たち(羊の商人)から羊を守る賃金として銀貨30枚を受け取った牧者は預言者でした。しかし羊たちは、利己的な羊の商人たちと同じように、牧者のことばを聞くまいと耳をふさぎ、心をダイヤモンドのように堅くして(7:12)好き勝手な道に走り、自己中心で、互いに傷つけ合い、罪に走っていきます。羊とはイスラエル、牧者は預言者ゼカリヤを通して、恐らく主ご自身を指しているのでしょう。彼は羊を牧することに失望して彼らを見捨て、銀貨30枚を神殿に投げ入れてしまいます。神さまは、イスラエルに注いだ慈愛(11:10)を彼らから取り上げてしまいます。「罪を犯した者は死ななければならない」という神さまのル−ル通りに、主の羊である彼らイスラエルは滅びに定められて……。その預言は後のイスラエルの苦難の歴史に実現されていくのですが、もうひとつ、もっと具体的に、彼ユダにおいて再現されるのです。その様子を見ていきたいと思います。


V 主を裏切った者は

 想像ですが、彼はユダヤ最大の都会エルサレムに来ていました。自分の理想を実現することができる町と思ったのでしょうか。その町で、ガリラヤに行かれる前のイエスさまにお会いしたのでしょう。ガリラヤ人でない彼が、イエスさまの弟子に加わった状況はこんなところかと思われます。イエスさまの弟子にとは、彼の場合、何もかも捨ててイエスさまに従ったペテロやヨハネのようにではなく、自分の目的実現のためについていくといった思惑が感じられ、イエスさまの中に、反乱軍指導者の力を見たからついていったと見る人たちもいるようです。彼自身にもよくは分からなかったでしょうが、才能も自信もある都会人の価値観が見え隠れしているような気がします。弟子団の中でその能力を発揮しているのは彼だけで、他の者たちは、能力があってもそれが用いられた形跡はないのです。彼だけが弟子団の「財布を預かる」というポジションを持っていて、もしかしたら、自分から望んで引き受けたのかも知れません。

 彼はイエスさまの弟子になりました。牧者であり主ご自身であったイエスさまのそばで、イエスさまの声を聞きながら充実していた筈でした。ところが、逆に彼の失望が深くなっているようです。彼は、自分がイエスさまに求めたものは、今ここにあるものとは違うと感じ始めているようで、その苦悩が伝わってきます。祭司長、長老など、イスラエル指導者たちへの権力羨望があったのでしょうか。彼はゼカリヤ書に言われている羊のように、飼い主の声に逆らい、心を頑なにしていくのです。彼の顔が、心病む人のように、次第に鉄面皮になっていきます。「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切ります」「先生。まさか私のことではないでしょう」(26:25) ゲッセマネの園で、キスをして、これがイエスさまだとユダヤ人たちに知らせたなど、その最たるものではありませんか。

 ユダを「誠実で優秀な求道者」と感じるような印象で言って来ましたが、実はマタイは、そのような彼を暗示させる記事をすべて削除し、ただ彼の裏切りだけに的を絞っています。今朝選んだテキストの26:14-16はマタイだけのもので、他にも彼は幾つか彼だけの記事を記録していますが、恐らくマタイは、ユダに弁解の余地はないと、彼の気持ちをここで現したかったのでしょう。出来心からではなく、練りに練った計画の裏切りであり、その責任は彼自身にあると聞こえてきます。ユダはついに主を裏切り、もともと主のものであった銀貨30枚を自分のものとして、自分の牧者である方抹殺の発端となってしまいました。それは彼が、イエスさまに従いながら、その実、自分自身を捨てることがなかったことに起因していると感じられます。イエスさまの弟子になるのに、何かの能力が必要ということはありません。むしろ、パウロのように、「キリストのゆえにすべてのものを糞土のように思っている」(ピリピ 3:8)と、イエスさまに従い尽くす信仰を求めていきたいと思わされます。

 彼は「12使徒のひとりであるイスカリオテのユダ」と言われました。そんな彼が、イエスさまを裏切った者というレッテルを貼られています。イエスさまが彼を赦されたかどうかは分かりません。しかし、裏切り者ユダは、私たち自身でもあると覚えなければならないでしょう。そして、ペテロが言うように「堅く信仰に立ってこの悪魔に立ち向かう」(Tペテロ 5:9)者でありたいと願います。