57 殉教直前のパウロ

義の栄冠を望みつつ
                                 Uテモテ 4:6−8
                                 イザヤ  62:1−3
T 愛情に満ちたパウロの手紙から

 先回、殉教直前のペテロを見ました。無学なガリラヤの漁師だったペテロが、イエスさまを見習って聖書に通じていき、イエスさまを信じる信仰とはみことばに基づいたものであると、迫害下にある小アジヤの教会の人たちに、神さまのみことばに立つよう勧めたのです。そのペテロと並んで今回は、殉教を直前に控えた、もう一人の伝道者パウロを取り上げたいと思います。多分AD67年秋か68年春のことと思いますが、ペテロとほとんど同時期に、皇帝ネロの迫害のもとで命を落とします。その直前、エペソ教会の牧師だった愛弟子のテモテを励まそうとテモテ第二の手紙を書きますが、これがパウロの絶筆となりました。まずこの手紙から見ていきたいと思います。ペテロの絶筆・第二ペテロと同じように、同じ頃、ロ−マで書かれたものです。前回は神さまのもとに召されようとしているペテロから、〈イエスさまの恵みと知識において成長しなさい〉と祝福のことばを聞きましたが、今回は、同じ殉教直前のパウロから、もう一つの祝福を聞きたいと願います。

 ペテロは、教会に侵入して来た〈別の福音〉に悩まされている小アジヤのクリスチャンたちに、「今は終末の時である」と教え、再臨のイエスさまにお会いするまでしっかりと信仰に立ち続けるように訴えます。パウロも同じ状況下にあり、この時期彼はロ−マの獄中にいて、そこからテモテに書き送るのですが、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる」(4:3-4)と、その辺りの事情を言ったのでしょう。小アジヤで最も大きな教会だったエペソ教会にも、教会をかき乱す気ままな振る舞いをする人たちが出始め、すでに〈正しい良心を捨てて信仰の破船に会った〉(Tテモテ1:19)人たちもいます。そのような問題に対処するには、テモテはまだ若く経験も乏しく、教会での信頼も失われていたかもしれません。牧師をやめようかとまで悩んでいたテモテに、パウロは慰めと励ましの手紙(テモテ第一)を書き送ります。そして、テモテが失望の末にエペソを去った2年後、獄中からもう一度手紙を送るのです。多分、エペソに戻るであろうと期待しながら、教会宛に!! これがテモテへの第二の手紙、愛情に満ちた慰めの手紙です。第一の手紙では「信仰による真実のわが子テモテへ」となっているところが、第二の手紙では「愛する子テモテへ」となっています。


U まず信仰の《今》を

 終末信仰、それは殉教を間近に控えたペテロとパウロの共通の意識でした。終末、その時、私たちはイエスさまにお会いすることができます。それまでは現実生活の中で、祈り、聖書を読み、信仰に堅く立っていなさいと、ペテロは《今》を大切に勧めたのです。《今》と《永遠》、そのどちらに偏っても正しい信仰とは言えません。それはパウロも同様であって、同じ勧めは彼の書簡全体に見られます。

 《今》を大切にするそれは、イエスさまを信じる現代の私たちにも、信仰の最も基本的在り方と言えましょう。ユダヤの古い格言に「明日終わりの日を迎えようとも、私は今日オリ−ブの木を植える」とありますが、これは聖書の主張でもあろうと思います。イエスさまを信じる信仰は、神さまの御国に憩う永遠の輝きを望み見ると同時に、どうしたら現在の自分を神さまに喜んで頂くことが出来るか、《今》を大切に生きるのです。ですからパウロは、この第二の手紙の中で、迫害下のテモテに「あなたはどのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(4:5)と勧めます。そしてこれが、パウロの信仰の中心でした。《今》の生き方を問うことなしに信仰云々を言うなら、欠陥信仰、否、欠陥人間になってしまうでしょう。イエスさまを信じる信仰は、信じたその瞬間から人間性が問われると覚えて頂きたいのです。イエスさまは欠陥だらけの私の罪のために十字架にかかり、死んで私たちの罪を赦してくださいました。欠陥を少しでも訂正していく生き方は、十字架に贖われた者が志していく信仰の道であり、天国への歩みであると心に刻んでいきたいのです。

 パウロはクリスチャン迫害の最中によみがえりのイエスさまにお会いし、異邦人の使徒として召され、席の暖まる暇もなく30数年、イエスさまの救いを宣べ伝えて来ました。何年もかけて、世界中を何回も旅行し、たくさんの教会を建て上げ、テモテのような伝道者を育てていったのです。小柄で病気がちだったと言われていますが、彼の姿が大きく見えてきます。それは、彼のイエスさまを信じる信仰が、病み、苦しみ、悲しんでいる人たちの慰めになりたいと願うものであり、実際に弱っている人たちを見て、その心が痛んだからでしょう。そのような信仰者になりたいと願わされます。


V 義の栄冠を望みつつ

 ところが殉教を目前に、彼はイエスさまがおられる天国に思いを駆せます。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(4:5-6)と、残り時間がないと感じているようです。それにしても、懸命に働いた30数年でした。彼は今、ロ−マの獄中に囚われ、最初の投獄とは比べものにならない厳しい監視下に置かれています。そうした事態が一層天国への思いにつながるのでしょうが、それよりずっと以前から彼は、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」(ピリピ1:23)と、《今》の問題から解放されることを望んでいました。イエスさまを信じる信仰のもう一つの中心は、そこです。繰り返しますが、《今》を大切にするのは、信仰者にとって重い課題です。しかし、《今》と《永遠》と、どちらに偏っても本物の信仰ではないと言いました。バランスを保てということではありません。私たちが神さまの国に名前を刻まれた天国の市民 (ピリピ3:20)であるなら、イエスさまの十字架に罪を赦され、御国の市民として登録されたという神さまの約束なのです。その市民として、隣人への愛を育てていく者になるのです。《今》と《永遠》は、イエスさまを信じる信仰の中で、一ことであると理解して頂きたいのです。パウロは今、確かに神さまの御国に憩う自分を見つめています。そして、その思いをテモテに伝えることで、テモテにもそんな御国に名前を連ねる者となって欲しいと願う《今》がそこに顔を覗かせています。そのことを前提にしてですが、一つのことをお勧めしたいと思います。

 時にはその《今》から解放される、それもまた信仰のエッセンスに含まれていると言えましょう。朝早く起きて聖書を開き、一人神さまと向き合う時、祈りの中でしばしば神さまの御国に召されているかのような時間を過ごすことがあります。勿論、誰かのために執り成す祈りは《今》を大切にするものでしょう。しかし、祈りは執り成しだけではありません。神さまとたった二人だけでその恵みに浸ること、それこそ祈りの中心なのです。聖書を読んで、そこに神さまのことばを聞くことも、そんな祈りの中で可能になることでしょう。そのような祈りの中でパウロは、これをテモテに書き送ろうと思ったのではないでしょうか。パウロの心は今、イエスさまの御国に飛んでいます。まるで、それが待ち遠しくてならないかのように、わくわくしながら「義の栄冠が私のために用意されている」と言うのです。彼はしばしば古代ギリシャのオリンピック競技に言及していますが(Tテモテ2:5,ピリピ3:14,Tコリント9:24-27)、その優勝者に与えられる栄光に例えて言ったのです。もしかしたら彼は、ギリシャでそんな光景を見たことがあるのかも知れません。金メダルなど縁のなかった私には、そんな気持ちはなかなか理解出来ないのですが、それはきっと、想像を遥かに超えた栄誉なのでしょう。その義の栄冠を「主の現われを慕っている者には、誰にでも授けてくださる」とパウロは証言するのです。「あなたは主の手にある輝かしい冠となる」とあるイザヤ62:3のことばを覚えて頂きたいと思います。私たち自身が神さまの栄冠であると、これは最高の祝福の約束でしょう。もしかしたら、私たちの目の黒いうちに、イエスさまにお会いする日を迎えるかも知れません。「来る」と約束された方は真実なお方です。そのお方にお会いする日を楽しみに、《今》の信仰生活を守り抜いていきたいと願います。