聖書の人物・新約編

54  エズラ

心を注ぎ出して
                             エズラ記 9:1−15
                             Tヨハネ 1:5−10
T 捕囚から帰還して

 ここしばらく、旧約聖書の人物を見てきました。前回のヨシヤ王で11人ですが、その11人は、その時々のイスラエルの歴史を語って来ました。旧約聖書は、神さまがお選びになったイスラエルの歴史を中心に描かれていますが、それが、アダムの時には神さまの創造の出来事として、アブラハムでは神さまの約束のもとにまだ数少ない放浪民族として、モーセでは約束の地へのイスラエルが取り上げられています。それが、ダビデの時代に、栄光に輝く王国の歴史が始まったのです。そして、ずっと飛んでヨシヤ王のところで、王国の滅亡を見ました。預言者を除いてあと二人(エズラ、ネヘミヤ)でこのシリーズを終えたいのですが、その二人のところで、また別のイスラエルの歴史が展開します。そのことを含めて、今回はエズラを見ていきたいと思います。

 前回、南北に分裂したイスラエル王国が、滅亡に向かって突き進んでいく様子を見ました。残った南ユダ王国がバビロンに滅ぼされたのはBC586年ですが、そこからバビロン捕囚が始まります。しかし、そのバビロニヤ帝国がBC627〜539年とわずか88年で滅びてペルシャ帝国にバトンタッチし、捕囚の民もペルシャに引き継がれます。しかし、彼らの中のある者たちは、やがて懐かしの祖国へ帰還して来ます。実は、この捕囚の民には、神さまから告げられた希望がありました。「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたに私の幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」(エレミヤ29:10)エズラ記の最初にこうあります。「ペルシャ王クロスの第一年に、エレミヤより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた』」 エズラ記は、捕囚から帰還した祭司エズラによって記録された、神殿再建とユダヤ人の信仰復興の顛末(てんまつ)です。その彼の信仰の立ち方を見たいと思います。


U 再建神殿の礎が据えられた時に

 エズラが何をしたかは後回しにして、まず彼が記録した神殿再建の様子から考えていきましょう。ペルシャ王クロスが再建を決定し、ユダヤ人たちが帰還、そして神殿の再建が始まりますが、回りの国々の妨害者たちによりしばらく中断、神殿が完成したのはペルシャ王三代目のダリヨス王の時で、20年ほどかかっています。その最初、クロス王の決定で再建が始まった時のことですが、エズラ3章にその礎が据えられた時の様子があります。「主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で喜び叫んだ。しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた」(3:11-12) この喜びと嘆きの正体を突き止めることから始めていきたいと思います。そこに、エズラ登場の隠された意味があると思うのです。

 まず、嘆きの声からです。「だれも喜びの叫び声を民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた」(13)とあるところから、嘆きの声が喜びの声にかき消されている様子が窺えます。多分、嘆きの声はそんなに多くはなかったでしょう。それなのに、エズラはわざわざ彼らの嘆きを記録に書き留めています。これは第二神殿と呼ばれ、第一神殿より小さくて、それが彼らの嘆きになりました。ソロモンの第一神殿が破壊されたのは70年前で、それを見た者たちが鮮明に記憶しているとしたら、彼らは今、80才か90才になっています。その彼らが、神殿を神さまのお住まい、また、そこにイスラエルの栄光をと望んでいるなら、彼らは忘れているのです。前回、ヨシヤ王を見ましたが、彼は、異教の神々が祭られ、不道徳の住み家になって荒れ果てていた神殿を修理し、異教の神々を打ち壊すという宗教改革を断行しました。しかしそこに、民衆にとっては上からの通達という、形だけの信仰しか感じられないのです。神殿が荒れ果てた責任の一端は、当時、まだ若かったであろう彼ら老人たちにもあった筈です。エズラは、彼らのその涙を流す信仰に疑問を感じつつ、この記事を書き留めているような気がしてなりません。

 そして、もう一方の喜びの声ですが、バビロンで世代交替をした〈若い〉人たちなのでしょう。若いといっても、70を超えている人たちもいます。その人たちが神殿の礎を据え、ラッパやシンバルを鳴らし、神さまを賛美しながら大騒ぎしているのです。確かに詩篇には、捕囚の民たちが悩み苦しみながら涙とともに神さまに祈っている姿がありますが、残念ながらここエズラ記には、先祖たちとともに、自分たちの罪が捕囚という事態を引き起こしたという、罪の意識が記録されていません。本当の信仰とはと、自分に問い掛けながら登場してきたであろうエズラの中に、私たちを重ねがらが見てみたいのです。


V 心を注ぎ出して

 エズラの登場は7章です。「これらの出来事の後、ペルシャの王アルタシャスタの治世に、エズラという人がいた」(1) アルタシャスタは神殿完成から50年も後の王で、その治世7年目にエズラの帰還が許可されました。旧約聖書も終わり頃、最後の預言者マラキまで58年という時です。マラキ以後イエスさままで、イスラエルは中間時代と呼ばれる混乱の時代に入りますが、その時代は、メシヤ信仰の燃え上がった時代でもありました。捕囚から帰還し、神殿が再建されたからというだけではなく、エズラによる信仰覚醒があって、ようやく立ち直った民たちの希望あってのことでしょう。

 9章からです。エルサレムに着いたエズラに、指導者たちが訴えます。彼は律法に通じた学者、アロン直系の祭司で、ペルシャ王が彼をエルサレム調査のため指導者に任命し、派遣したほどの人でした。その時、彼に従って帰還したユダヤ人は1500人にも上り、エルサレム在住の指導者たちは、彼の帰還を心待ちにしていたのでしょう。「イスラエルの民や祭司やレビ人はカナン人、ヘテ人……などの忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって、彼らもその息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです」(1-2)と。エズラはこれを聞いて着物を引き裂いて祈ります。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きくて天にまで達したからです。私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日ある通りです」(5-7)

 今回の話は、少々イスラエルの歴史に拘り過ぎたかも知れません。しかし、覚えて頂きたいのですが、彼らイスラエルは、神さまがお選びになった神さまの民です。彼らに期待されたのは、世界のあらゆる国、民族に対して祭司の民となり、神さまとその人たちとの間に立ってとりなし、或いは、神さまのことが覚えられていくようにということでした。それなのに、神さまとのしっかりした関係に立たなくて、どうして他の国や民族を神さまの民に願っていくことができるでしょう。彼らの歴史のほとんどが、その関係を自ら壊すものだったと言えましょう。彼らには、神さまを裏切る罪がついて回ったのです。エズラの祈りは、その最も大切な信仰の原点に立つものでした。罪の告白こそ、神さまに近づく第一の条件なのです。

 ヨハネの言葉を聞いてみたいのですが、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます」(Tヨハネ1:9) 彼は「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と言って、イエスさまの十字架の赦しを語るのです。イエスさまを信じる信仰とは、私たちが自分の罪を認めることから始まります。エズラが神さまの前に心を注ぎ出した時、イスラエルの民たちの神さまへの信仰が生まれました。メシヤ信仰が育ち始めるのです。私たちもイスラエルと同じ執り成し手として召し出されています。心を注ぎ出して祈ることを覚えたいと思います。