聖書の人物・新約編

51  ソロモン(1)

まず神の国とその義とを
                             T列王記 3:3−14
                             マタイ  6:28−34
T あなたに何を与えようか。願え!

 前回、イスラエルの王に即位したソロモンに、ダビデが遺言とも言えるはなむけのことばを贈ったと見ました。まだ24-5才の若者だったソロモンは、「主のおきてと、命令と、定めと、さとしを守って主の道を歩むように」(T列王記2:3)と教えられたのです。そしてダビデは死にます。2章の以下の記事は、王の名乗りを上げた王子アドニヤの残りの問題と、ダビデの遺言にあった将軍ヨアブとゲラの子シムイの問題を解決する、いわば先王から引き継いだ残務整理です。

 そして今回、3章に入ります。残務整理を終え、いよいよ実質的な治世を迎えたソロモンは、王としてどのようにその責務を果たしたらよいのか、その方針、在り方を決めなければならないと感じたようで、彼はエルサレムから北へ10qほど離れたギブオンに行きます(4)。そこは多分、サウル時代からイスラエルの神さまを礼拝する中心地、祭壇のある聖地でした。ここには何の記事もないのではっきりしませんが、王としての基本的方針をどうしたらいいのかと考え、彼はまず、それを神さまから聞こうとしたのではないかと思われます。何よりも彼は、神さまに礼拝をささげます。「ソロモンはそこの祭壇の上に1千頭の全焼のいけにえをささげた」とあります。そしてその夜、ギブオンに泊まったソロモンの夢のうちに、神さまが現れるのです。「あなたに何を与えようか。願え」(5)

 何年か前に亡くなられた老牧師・恩師と言っていい方が、「人の価値は、何を求めたかによる」と言っておられた言葉を思い出します。20代前半に聞いて以来、ずっと心に残ってきました。余り結果が出たとは言えず、本当に求めるものを見つめてきたかと問われると唸ってしまうのですが、ソロモンだけではありません。私たちも神さまの前に立ち、〈あなたに何を与えようか。願え〉と言われていることを覚えなければならないでしょう。現代はどうも結果ばかりを気にするところがあるようですが、それは神さまのことであり、大切なのはその過程における生き方でしょう。ソロモンが欲しかったものを考えてみたいのです。後年、戦争のために大量の馬を輸入しているところを見ると、当面、彼の欲しいものは軍事力ではなかったかと思うのですが、彼は礼拝をささげながら、それ以上に大切なものを見つけていったと感じるのです。


U 智恵の心を

 「我が神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。その上、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれにこのおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか」(3:7-9) 夢の中に現れた神さまとの会話なので、「願え!」「ハイ。聞き分ける心が欲しいです」と、いとも簡単に答えているように見えますが、きっとこれはギブオンに行く前からずっと彼が悩み、考えながら到達した願いではなかったでしょうか。

 〈聞き分ける心〉、11~12節に「自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、わたしはあなたに智恵の心の判断する心とを与える」と神さまのことばがありますが、口語訳では「智恵を求めたので、賢い、英明な心を与える」となっています。彼は智恵を求めたのです。その内容を考えてみたいのですが、今、イスラエルはカナンに彼らの国を建て、回りの国々から注目されるほど大きな強い存在になりつつあります。それは、彼らの神さまがその時々に彼らの先頭に立って彼らを助け、回りの国々に敵対していかれたからでしょう。しかしそれは、他民族との戦いにおいてでした。カナン侵入の時に、せき止められたヨルダン川を10万人もの軍隊が渡ったことも、エリコを攻略したときも、神さまの助けがありました。カナン侵入の時から、ヨシュア、士師、サムエルの時代に併せて400年近くの年月が経っていますが、その戦いの日々を、神さまに助けて頂いて、イスラエルは勝ち抜いてくることが出来たのです。しかしそのことを、彼らイスラエルより、他民族の方がずっと良く知っていました。彼らが所有していた神々が到底成し得ない不思議を、ヤーヴェなる神さまは数え切れないほど行ってご自分の民を支えて来られたことを、羨望のまなざしをもって見つめてきたのです。けれども、肝心のイスラエルは、ともすればそれを忘れがちでした。2節に「民はただ、高き所でいけにえをささげ、香をたいていた」とありますが、これは祭壇のある場所のことを言っており、回りの他民族が行なっている宗教形式と良く似ていました。多分、その様式を取り入れたのでしょう。そこではしばしば、異教の神々礼拝も行われる可能性があったということです。イスラエルが回りの国々と共存し始め、神礼拝も次第にシンクレティズム(宗教混合)化されていったのかも知れません。そのような状況の中で、まだ他民族との摩擦は続いていましたが、外敵との戦いより、ソロモンはそんなイスラエルの問題点に目を向け、彼の王としての目標を内政に定め、智恵の心を神さまに求めたのです。


V まず神の国とその義とを

 ソロモンが王に即位してまだほんの数ヶ月、賢い人でしたが、まだ若者に過ぎません。自分は小さな者であると、王になってよくよく感じたのではないでしょうか。前回見た通りに、もしかしたら、イスラエルの指導者や民衆に人気のあった兄のアドニヤが王になるところでした。1節に「ソロモンはエジプトの王パロと互いに縁を結び、パロの娘をめとった」とありますが、落ち目になっていたとはいえ、まだ強大な国であったエジプトと同盟を結んだのは、彼が悩み、考えた末の王としての決断だったと思います。それは当時の情勢から見て、確かに正しい選択だったかも知れません。しかし、彼の思いはそれだけに留まらず、主に礼拝をささげ、主に求めることを最も大切なこととして選択するのです。その時点で外敵に向いていた目を、イスラエル国内に転じました。今、本当に必要なものは、イスラエルの民が神さまへの信頼を取り戻すことなのです。その要に王は自分が立たされていると、痛感したのでしょう。彼が求めた知恵の心は、イスラエルの人たちに、彼らが神さまに信頼し、そのみことばに聞き従うなら、神さまがともにいてくださるとはっきりさせることでした。だからこそ神さまは、その求めを聞き入れてくださったのです。「あなたが、自分のために長寿を求めず、富を求めず、敵のいのちを求めなかったので……賢い、英明な心とを与える」

 今までも、イスラエルの神として彼らを守り支えて来られた神さまですが、今まで以上に力を込めて、神さまのお働きが始められます。以後、ソロモンの晩年まで、外敵との戦争は完全に途絶えました。ソロモン時代のイスラエルの国土は、以前よりもずっと大きくなり、以後その広さを上回った時代は一度もなかったのです。戦いなしに彼は大きな国土を手に入れ、その名声は世界中に及び、自由貿易による富をも手中にしたのです。

 現代の私たちが求めるべきものを、ソロモンに重ね合わせながら考えてみたいのですが、イエスさまの山上の垂訓の中に、ソロモンの名前が出てきます。「野の百合がどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。今日あっても、明日はろに投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに良くしてくださらないわけがありましょうか。だから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って心配するのはやめなさい……」「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:28-34) ソロモンが求めたものは、実にこのことだったのです。今の私たちにとって、こうお話しになったご自身が十字架にかかり、私たちの罪を赦してくださった、そのイエスさまと出会うことです。神の国とその義とは、イエスさまを信じる信仰の中に隠されているのです。その信仰に立つことで、物事を見つめる目が違って来るでしょう。激動の時代を迎えていますが、この時代を恵みの神さまとともに歩んでいきましょう。