5 ベタニヤのマリヤ

ナルドの香油を

                                ヨハネ 12:1−8
                                詩編  45:6−9
T ベタニヤのマリヤ

 女性が聖書の中に占める位置は、目立ちませんがとても大きなものです。今回はその一人、ベタニヤのマリヤを取り上げましょう。彼女の信仰姿勢から学んでみたいと思います。

 マリヤは、モーセの姉ミリアムと同じ名前で、ユダヤ人女性に非常に多い名前です。「ベタニヤ」は、エルサレムから東にエリコ街道をほんの少し出たところにある小さな村で、らい病人シモンという人の家があり、そこにマルタ、マリヤ、ラザロという3人の姉弟がいました。ここにあげられるマリヤは、そのマリヤのことです。シモンのことは他のどこにも記事がないのですが、「らい病人」とわざわざ記していますので、イエスさまにその病を直してもらった人なのかも知れません。そんな縁があり、エルサレムに来られると、イエスさまはたびたびその家に泊まられました。今回見ようとするのも、そんな時のことです。

 ベタニヤから一日路のところにおられたイエスさまのもとに、ベタニヤから使いが来ます。「ラザロが危篤です」 しかしイエスさまはなおそこに二日留まられ、その間にラザロは亡くなってしまいます。「もしここに居てくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と彼女たちは嘆きますが、イエスさまは、彼が死ぬのを待っておられたかのような印象を受けます。その通り、イエスさまはラザロを通してひとつの重大なことを教えようとされたようです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。このことを信じますか」(11:25-26) とあります。教えとはそのことだったのでしょう。

 ここにマリヤの記事が3つあります。「マリヤは家ですわっていた」(20)「マリヤはそれを聞くと、すぐに立ち上がってイエスのところに行った」(29)「マリヤはイエスのおられた所に来て、お目にかかるとその足もとにひれ伏し」(32) もしかしたら使いの者はヨハネ自身で、彼が見たままを記録したのかも知れません。ここにはマリヤの深い悲しみとイエスさまへの厚い信頼が溢れているようです。ひれ伏したのは尋常ではないお方への信頼と、そのお方だから彼女の悲しみを率直に申し上げたということなのでしょう。信仰とは、こんなぎりぎりのところに立ってなお、愛してくださる主の前に、自分のありったけをさらけ出すことから始まるものなのかと考えさせられます。


U ナルドの香油

 ラザロの出来事から多分、一週間後、過越の祭り6日前の土曜日(ユダヤ人の安息日)に、イエスさまはもう一度エルサレムに来られ、ベタニヤにお泊まりになります。イエスさまが来られたと聞いた村の人たちが、生き返ったラザロを見たいこともあって、大勢集まって来ます。そして、イエスさまをもてなす盛大な宴会が催されました。マルタは忙しく立ち働いていましたが、「マルタは給仕をしていた」(12:2)とあり、その言い方は恐らく、マリヤは忙しくしてはいなかったというヨハネの観察でした。それよりだいぶ前のことと思われますが、ルカは、イエスさまのそばに座ってただお話しを聞いているマリヤに腹を立てているマルタのことを記しています。マルタとマリヤの生活姿勢を見事に捕らえた記事ですが、イエスさまは言われます。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、1つだけです。マリヤはそのよい方を選んだのです」(ルカ10:38-42)

  宴もたけなわになった頃、マリヤは非常に高価で純粋なナルドの香油300gを持って来て、イエスさまの足に注ぎかけます。そして、彼女の髪の毛でその足をぬぐうのです。「家は香油のかおりでいっぱいになった」とあります。300デナリもする高価な香油、1デナリが労働者の1日分の賃金でしたから、非常に高価なものです。単純に換算はできませんが、今の日本円にして100〜200万円にもなるでしょう。中央アジヤのネパールやチベットのナルドというおみなえし科の草から採れるもので、300gくらいの量を石膏のつぼに密封した状態で、はるばるシルクロードを通って運ばれてきたものでした。マリヤはそのまだ封も切っていない香油のつぼの細長い口を折って、中の香油全部をイエスさまに注いだのでしょう。 100万円もする香水全部を一度にと思うと、私などふるえてしまいますが、マリヤはそうではありませんでした。マリヤの信仰が、一番大切なものをイエスさまのためにと願ったのでしょう。詩篇45:6-9に「神よ。あなたの神は喜びの油を……」(7)とありますが、神よとここを救い主への呼び掛けと理解したら、このところがよくお分かりでしょう。マリヤの信仰は、まさにイエスさまが私の救い主であるとする故の油注ぎであり、何もかも献げていこうとする彼女の献身でした。イエスさまを信じるとは、そんな自分のありったけを主にという献身につながるものなのでしょう。


V マリヤの信仰から

 12章のこの「マリヤの香油注ぎ」の記事自体は、3節だけと意外に短かいのですが、注意深く見ますと、その他のことも、マリヤのこの香油注ぎを軸に語られています。ヨハネがこれを中心に据えて語ろうとしているメッセージは、一体何なのでしょう。それは、マリヤの何が中心かということです。マタイとマルコには「この女のした事は、全世界のどこでも福音が宣べ伝えられる所に、記念として語り伝えられる」とあり、ヨハネはそれを、マリヤの行くところ「家は香油の香りでいっぱいになった」と表現しています。香りが家から外にまで広がっていくのです。

 イスカリオテのユダは「何故この香油を300デナリに売って貧しい人々に施さなかったのか」と非難しました。その理由をヨハネは、ユダが管理していた弟子団のお金を横領していたからと記しますが、その時点ではまだ分かっていません。ユダに同調して、ほとんどの弟子たちが、たぶんヨハネ自身も、口々に「もったいない」と言い始めます。しかしイエスさまは言われました。「そのままにしておきなさい、マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしたのです」(12:7)

 きっとマリヤは、イエスさまに襲いかかる危険など、考えたくもなかったでしょう。しかし、それから数日後の金曜日、イエスさまは十字架にかけられるのです。少し考えてみたいのですが、マリヤはイエスさま葬りを意識して香油を注いだのではなかったかということです。マリヤはイエスさまの足に香油を塗りました。マタイやマルコには「イエスさまの頭に」とあります。彼女はもちろん頭に注いだのでしょう。その香油が全身をつたって足にまで流れてきたのです。300gもの大量の香油を全身にというと、これは単なる儀礼的挨拶ではなく、はっきりとした目的があったと感じられます。まさに葬りの備えでした。イエスさまに刻々と近づいている死を意識して……。ラザロのことでベタニヤに行こうとした時、トマスが言いました。「私たちも行って主といっしょに死のうではないか」 マリヤにもそんな覚悟があったのではと感じられます。兄弟ラザロを死から救って頂いたマリヤ、イエスさまのそばに座ってずっとお話しを聞いていたマリヤ、高価なナルドの香油を全部注いでしまうマリヤ、その香油をぬぐうために、人前で髪の毛をといてしまうような激しさを持ったマリヤ……。ヨハネはマリヤの意識を書き留めてはいませんが、イエスさまのことばをもってマリヤの信仰の記念碑にしているようです。彼女がイエスさまに注いだナルドの香油、それは彼女の信仰でした。その信仰は彼女の家いっぱいに、そして世界中にまで、かぐわしい信仰の香りとして広がっていきました。十字架の主に、そんな信仰を献げたいですね。