聖書の人物・新約編

49  ダビデ(3)

イエスさまの系図の中に
                             Uサムエル 12:7−14
                             マタイ  1:1,6,16
T ダビデの罪の問題を通して

 ダビデの3回目です。イスラエルの中心にと、エルサレムに首都を移して3〜4年ほど、王になっておよそ10年、ダビデは40才を少し越えていたと思われます。戦いにも行政にも実績を重ね、部下たちも育って、もう彼自ら戦いには出ていく必要がありません。王制も軌道に乗り、彼を中心に国も安定期に入り始めています。前回、契約の箱をエルサレムにかつぎ上った彼の、喜びとはしゃぎようを見ました。妻ミカルが「今日はご立派でしたこと」とあきれて軽蔑したほど、彼は「主の前で力の限り喜び踊った」のですが、そんな彼に、思わぬ落とし穴が待っていました。国がようやく安定した、そんなわずかな力が災いしたのでしょうか、今回は、彼が犯した罪の問題を取り上げたいと思います。Uサムエル11〜12章からですが、罪の問題は、イエスさまを信じる信仰の中で、まず最初に取り上げなければならない問題と思われるからです。

 「年が改まり王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍とを戦いに出した。彼はアモン人を滅ぼしラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまってた」(11:1)と事件が始まります。戦いに出る必要がない、そのおごりが落とし穴になってしまったのです。「ある夕暮れ時、ダビデは床から起きあがり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが王宮の屋上から見えた。その女は非常に美しかった」(2)とあります。妻ミカルとの間がこじれ、愛に飢えていたのでしょうか。美しい女性を見て心を引かれるのは、分からなくもありません。しかし彼は、その女性を手に入れたいとの欲望を抑えることが出来ず、「ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た」(4)という事態になってしまいます。これがまず、彼の第1の罪です。女の名はバテシェバ、夫ウリヤはヘテ人という外国人傭兵の下級兵士でした。雲の上の人とも言うべき王に言い寄られ、バテシェバも舞い上がってしまったのかも知れません。ダビデだけが問題だったわけではない。しかし、彼は王、倫理の面でも、模範とならなければならなかった筈です。……そして彼女から、「みごもりました」と聞くのです。


U 罪が罪を産んで

 ダビデの不倫の罪は、それだけでは終わりませんでした。一つの罪は、次の罪を産み出し……、彼の第2の罪です。彼女がみごもったと知って、ダビデは戦場からウリヤを呼びつけます。「ダビデはヨアブ(戦場の司令官)のところに人をやって、『ヘテ人ウリヤを私のところに送れ』と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った」(6) 7節を見ると、戦況報告のためと偽っての召喚であることが分かります。外国人傭兵が伝令につくことはまずありませんから、報告らしいことは何一つされていません。ダビデは彼に言います。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい」 つまり、バテシェバがみごもったのは、夫ウリヤによってであるという事実を作ろうとしたのです。自分の罪を覆い隠そうとしたのですが、しかし、ウリヤは、王宮の前の広場で他の同僚たちと一緒に眠り、家には帰りません。「あなたは遠征してきたのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか」「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることが出来ましょうか。私は決してそのようなことをいたしません」 それほど真面目なウリヤに対し、これはもう悪巧みとしか言いようがないのですが、ダビデの良心は麻痺していたのでしょう。しかし、罪は決して止まることがない、それが本質なのでしょう。彼はまた、第3の罪を画策し、ヨアブに手紙を書きます。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(15) 罪に大小の区別はないと思うのですが、このように見て来ますと、ダビデの罪がだんだん抜き差しならぬ重大なものになっていると感じられます。サウルとの葛藤であれほど誠実だったダビデが、この罪の誘惑に勝つことが出来ないのです。罪というものを考えるとき、決して侮ってはならないと思わされます。罪に打ち勝てるほどの力は、私たちにはないのですから。ダビデの罪を犯し続けたこの一連の出来事は、決して彼だけの問題ではなく、神さまの前における私たちのことでもあるのです。

 ヨアブはダビデの手紙の通りにし、ウリヤは戦死します。ウリヤばかりでなく、ダビデの欲望のために、その作戦でたくさんの兵士たちが死ぬのです。ヨアブはダビデへこの報告をする時、伝令にこう言っています。「もし王が、なぜそんな無謀な作戦をしたのかと怒ったなら、王にこう言いなさい。『ヘテ人ウリヤも死にました』と」(20-21) 誰も知らないと思った彼の罪を、ヨアブは知っていました。恐らく報告を持ち帰った伝令も、おかしいと感じたことでしょう。まして、神さまがこのことを知らない筈はないのです。


V イエスさまの系図の中に

 ウリヤが死んでも、ダビデに何の反省も見られません。伝令にこう言います。「このことで心配するな。剣はこちらの者もあちらの者も滅ぼすものだ。一層激しく攻撃して全滅せよ」とヨアブに言え。そして、ウリヤの喪が明けると、バテシェバを妻として迎え入れます。「彼女は男の子を産んだ」とあります。

 そんなダビデのところに、神さまは預言者ナタンを遣わされます(12章)。ナタンはダビデにこんな話をします。ある町に富む人と貧しい人がいた。富んでいる人はたくさんの羊や牛を持っていたが、貧しい人は大切に大切に育てたたった一頭の小さな子羊しか持っていなかった。あるとき、富んでいる人のところにお客さんが来た。すると彼は遇しのために自分のものを惜しみ、貧しい人の子羊を取り上げ、それを調理して客を遇したと。これを聞いてダビデは怒りました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」 しかしナタンは言います。「あなたがその男です。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした」(12:7-)と。

 この宣告には中心があります。〈あなたは主の前に罪を犯した〉と言うことです。罪は神さまに対するものであり、神さまの裁きを受けなければならないと覚えて頂きたい。ナタンは多分、ダビデとソロモンに仕えた宮廷預言者、ダビデ王家の者と言っていいのですが、その彼が、王を庇いもせず、恐れもせず、ただただその目を神さまに向けています。そのナタンの姿勢から、ダビデに神さまへの思いが回復してきます。「私は主に対して罪を犯しました」彼が言ったのはたったそれだけですが、「あなたの罪を見過ごす。あなたは死なない」と、神さまも意外なほどあっさりダビデをお赦しになります。もちろん彼への断罪もありました。生まれて来た男の子が死ぬのです。それは「ダビデではなく、どうしてその男の子が?」と私には解けない疑問ですが、きっと神さまの観点は、私たちとは違い過ぎるのでしょう。それはともかく、「主に対して罪を犯した」と原点に返るなら、多くの言葉は必要ないのです。神さまも悔い改めに長い時間を要求されません。

 預言者ナタンとダビデと神さまの言葉を繰り返してみたいのですが、「あなたがその男だ」「私は主に対して罪を犯した」「あなたを赦す」 非常に単純ですが、これこそ信仰の図式です。そして、きっとその単純な信仰があったから、神さまはダビデをご自身の救いの計画に盛り込まれたのでしょう。イエスさまの系図の中に、この罪あるダビデとバテシェバが入っています。「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」(マタイ1:6)と、それは、イエスさまのお生まれが、人間のこんなにどろどろした罪の中にあり、その罪から私たちを救い出そうと決意した、その神さまのご計画こそ十字架の赦しだったと、神さまの宣言のように聞こえて来るのです。ダビデが指摘されたように、「あなたがその男だ」と私たちも聞き、罪ある者として神さまの前に出て行かなければなりません。その時私たちは、「わたしがあなたの代わりに十字架に死んだ。だから、あなたを赦そう」と言ってくださる救い主に出会うことが出来るのです。多くの言葉を並べるのではなく、ただ十字架の主に向かって「あなたを信じます」と心から告白していきたいと思います。