聖書の人物・新約編

47  ダビデ(1)

主の選びの民として
                             Tサムエル 16:1−13
                             へブル 12:1−12
T ダビデの登場

 以前、旧約の人物を始めるところで、旧約聖書の構造を理解していくために、まず3人の人物をピックアップし、その間を何人かの人たちで繋いでいくと旧約聖書の大筋は分かってくると、大変大雑把なことを言いました。その3人の人物は、アブラハム、モーセ、ダビデですが、今回からそのダビデに入ります。

 イスラエル初代の王はサウルでした。そのサウルが南方の遊牧民アマレク人との戦いで、神さまからすべてを断ち切れと命じられたのに、「アガグ(アマレクの王)とそれに肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、ただ、値打ちのないものだけを聖絶した」(15:9)という過ちを犯してしまいます。自分の財産を残そうと、それが原因となって、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けた」(26)と、彼は王位から退けられてしまいます。そこでダビデの登場(16章)となり、「主はサムエルに仰せられた。『いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中にわたしのために王を見つけたから」(1)と始まります。エッサイの名前はルツ記に出て来たので思い出して欲しいのですが、エッサイには8人の息子たちがおり、ダビデはその末息子でした。サムエルは息子たち次々と面接し、ダビデの時に神さまが言われます。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ」 そしてサムエルは角の油を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注ぎました。「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(13)とあります。そして、サムエルはラマに帰りました。

 ダビデはユダ族の出ですが、創世記49章に族長ヤコブが12人の息子たちを祝福するところがあり、ユダについて彼の預言がこうあります。「ユダは獅子の子。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」(10) サムエルに油を注がれたとはいえ、ダビデはまだ王になったわけではなく、サムエルは、この油注ぎが王への任職であるとは、一言も言っていないのです。しかし今、ヤコブの預言が成就しようとしています。


U 神さまからの時を

 私の悪いくせですが、聖書の記事を理解するために、少し推量を交えながら年代などの計算をするのです。ちょっとだけ我慢して頂きたいのですが、。ダビデが王位についたのは30才の時です(Uサムエル5:4)。そして、「ダビデがイスラエルの王であった期間は40年であった。ヘブロンで7年治め、エルサレムで33年治めた」(U列王2:11)とあります。それはサウルが死んで、ヘブロンにいたダビデのところにユダの人々がやって来て「彼に油を注いでユダの王とした」(Uサムエル2:4)ところから数えてのことでした。ところが彼は、既に少年の頃にサムエルから油を注がれています。その時、彼は「羊の番をしていた」とありますが、羊の世話をするのがその辺りの少年たちの普通の仕事だったことや、ペリシテの勇者ゴリアテと戦うことになった時には(Tサムエル17章)従軍しておらず(20才前)、王子ヨナタンが自分のよろい、かぶとを着けさせようとしたことなどから、18〜19才ではなかったかと思います。すると、サムエルが彼に油を注いで実際に王となるまで、11〜12年の時間が経っているのです。その間、ダビデが何をしていたかというと、サウル王の側で初め立琴をひく者として、その後いくらかの家来を与えられて戦場に出て行く士官として、更に戦功が認められて一軍の司令官として……、それが多分4〜5年あったでしょう。しかし、戦いに功績を上げる度に民衆の人気が高まり、サウル王の妬みを買います。遂にサウルは彼を殺そうと画策し始め、ダビデの逃亡生活が始まるのですが、6年ほどの間、彼は他民族の間にかくまってもらったり、時には人里離れた荒野の洞窟に隠れ潜み、ざっと数えただけでも12〜13の場所を転々とし、サウル王の手から逃げ回っています。神さまから油注ぎを受けたとはいえ、ダビデが実際に王となるためには、十分に整えられた者となる必要がありました。宮廷で、戦場で、また荒野での時間は、神さまから頂いたものだったのでしょう。

 神さまはサウルを王位から退けたのですが、それは神さまとサムエルと当のサウルだけしか知らないことでした。そして神さまもサムエルも、サウル退陣ということには直接介入せず、依然サウルが王であることを黙認しています。そしてサウルも、神さまから捨てられたと悩みながら、〈面目のために〉〈Tサムエル15:30〉12年間王位に留まるのです。民衆にとって彼は強力な王であり、大きな指導力を保っていたのでしょう。ダビデが王となるためには、そのサウルを超えなければならなかったのです。


V 主の選びの器として

 苦労を重ねている間に、ダビデは多くのことを学んだと思います。どんなに小さな積み重ねも、王への道にとって無駄になることはありませんでした。竹の節は、一時成長が止まったかのように見えますが、竹そのものを丈夫にするために必要であると聞きました。ダビデの苦労の期間も、きっとそうだったのでしょう。私たちにとっても、悲しい出来事が起こる時、本当にそれが悪いことかどうか、分からないことがあります。悲しみを重ねることは、他の人の不幸を思いやることにもなるからです。もし今、不幸を味わっておられるなら、その不幸を、十字架におかかりになった主が一緒に負っていてくださると聞いて頂きたいのです。きっと、今よりもっと希望ある者に変えられていく筈です。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18)とある証言の通りです。

 ダビデの積み重ねを、ここで全部取り上げるわけにはいきませんが、一つだけ紹介したいと思います。Tサムエル24章からですが、死海西側に、エン・ゲデと言う場所があります。乾期になるとたちまちあらゆる生き物を拒否してしまう荒野の中で、そこだけが美しい泉のオアシスになっているのだそうです。サウルの手を逃れてダビデがそこにいたとき、それを聞いてサウルが追撃してきます。そして、「サウルは用をたすためのその中に入った。その時、ダビデとその部下は、その洞穴の奧のほうにすわっていた」とあります。部下が「今がサウルをやっつけるチャンスです」と言い、彼は近づいて、こっそり王の上着の裾を切り取りました。そして、洞窟の外から呼びかけます。「王よ。どうか私の手にあるあなたの上着の裾をよくご覧ください。私は切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。……どうか主が、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から救ってくださいますように」(8-15)そしてサウルは、その時からダビデを追い掛けることをやめるのです。「あなたは私より正しい。あなたは私によいことをしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。……あなたは必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った」(17-21) 今まで王を恐れて逃げ回っていたダビデが、赦し愛するという点で、サウルを超えたのです。「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」(ヘブル12:12)と、主の訓練を受けて変わったのでしょう。より大きな者となるために、神さまはそのようなチャンスをお与えになった、それは信仰者の生き方でしょう。

 ダビデは王として油注がれた者でした。油注ぎは、王、大祭司、預言者の3つの職務への任職として行われましたが、後にそれら3つの職務を合わせ持つ方を、イスラエル回復の救い主としてメシヤと呼び、そのメシヤ待望の信仰が燃え上がっていくのです。そして、油を注がれたダビデの家系から、イエスさまがお生まれになり、彼はイエスさまの型だったのでしょう。私たちもまた、神さまの選びの器として、何かの勤めが託されているのです。しかし、その器として立つために、その立ち方が問われるのでしょう。訓練は時には苦しく悲しいものですが、神さまが私たちを愛されるが故のものであり、神さまに役立つ者とするためのご配慮であると受け止めたいのです。