聖書の人物・新約編

45  サムエル(1)

主が呼んでおられる
                              Tサムエル 1:9−18
                              黙示録 1:2−3
T イスラエルの歴史、折り返し点

 旧約聖書の人物8人目です。士師時代の延長とも考えられますが、イスラエル史の中で王制時代にさしかかる、折り返し点と言える時代でしょう。祭司サムエルに入ります。

 ちょっとした計算をしてみたいのですが、旧約聖書だけをつまむと、第1サムエル1章は創世記から3分の1ほどのところにあります。残りは3分の2、これをイスラエルの歴史で考えますと、アブラハムがおよそBC2000年、最後のマラキがBC400年、そして、このサムエルがBC1100年頃ですから、これまでに3分の2の時間が過ぎたことになります。時間にして残る歴史は3分の1ですが、聖書の残る分量は3分の2以上に及びます。ここから、旧約聖書はイスラエルの歴史後半に比重を置いていると、明らかになってくるでしょう。

 さてサムエルですが、今回は彼の登場から見てみたいと思います。「エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。その人はエロハムの子、順司さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった」(1:1)と始まります。エルカナについては1〜2章にわずかに出てくるだけで、主役は彼ではなく妻のハンナです。それなのに、彼の系図が4代もさかのぼって記録されています。第1歴代誌6章に彼のよりくわしい系図が記されていますが、それによると、彼はレビ族の出です。サムエル記にエフライム人(1:1)とあるのは、エフライムに住んでいたという意味でしょう。当時、エフライムはカナン中央部にあって、イスラエルの主要な舞台でした。そこのシロには神殿もあって、ここに神さまに仕えるレビ族の集団が住んでいたということは、少しも不思議ではありません。そしてここに、レビ族のエルカナが登場して来るのです。それは、これから後半が始まろうとするイスラエルの歴史に、神さまが介入されるのだという記者の証言と思われます。


U 祈りの中から

 サムエルの登場には、母親ハンナの祈りと信仰が必要でした。「彼はハンナを愛していたが、主がハンナの胎を閉ざしておられた」と、子どものいない彼女の苦悩から始まったのです。シロの神殿で「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って激しく泣いた」(1:10)とあります。祈りは、時には涙を流しながらのものであると教えられます。彼女は神さまに一つの誓願を立てました。「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません」(11) 頭にかみそりを当てないというのは、民数記6章にあるナジル人の誓願のことです。ナージールは〈献げられた者〉という意味の言葉ですが、神さまに自分を献げた者の、当時の特別な言い方でした。その年に彼女がこのように請願を立ててまで子どもを願ったのは、きっと彼女の悩みが負い切れないほど深くなっていたからでしょう。祭司エリは彼女が祈っている様子を見て、ハンナが酔っていると思いました。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。お酒を飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです」「安心して行きなさい。イスラエルの神があなたの願ったその願をかなえてくださるように」 そして彼女は主の宮から帰って行くのですが、〈彼女の顔は、もはや以前のようではなかった〉(18)とあります。信仰ということの重要な一面でしょう。エリが〈彼女は酔っぱらっている〉と誤解するほどに、彼女は心を注ぎだして祈っていました。エリの言葉から神さまのあわれみを感じ取ったのでしょうか、ハンナは心に平安が与えられました。赤ちゃんができるかどうかまだ分からなかったのに……。

 信仰のことを考えてみたいのですが、病気が直ったとか、面倒な問題が解決したと言うことで信仰に入ることが案外と多いのですが、信じるとは、その結果を見てからではなく、神さまが最善をしてくださると、結果を一切、神さまに委ねることです。〈信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです〉〈へブル11:1〉とあります。そして、それほど望みながら、信じていない部分をいつもどこかに持っている私たちですが、そんな私たちでも主のあわれみが頂けると、ただ恩寵の神さまの前に出て行く、これこそ信仰の最も深い中身であると覚えて頂きたいのです。もう一つ、祈りには献身が伴うと覚えたいのです。ハンナは神さまに請願を立て、「生まれてくる子どもの一生を主に献げよう」と決心しました。献身とは、痛みを伴う決心でしょう。献げるということでは、神さまは独り子イエスさまを、十字架につけるまでして私たちに献げてくださったことを、忘れてはなりません。その十字架の出来事があって、イエスさまの執り成しによって、私たちの祈りが神さまに届いていくのです。


V 主が呼んでおられる

 そして、彼女が願った通りに男の子が生まれ、「私はこの子を主に願ったから」と言って、その子をサムエルと名づけました。サムエルとは「彼の名はエル〈神さま〉」という意味ですが、神さまが一緒に居てくださるようにと、願いをこめての命名だったのでしょう。神さまはハンナの祈りに応えてくださいました。そして、彼女もまた神さまのあわれみに応えたのです。サムエルが乳離れした時、彼をツロの神殿に連れて行き、祭司エリに預けます。かつて誓ったように、主に差し出したのです。乳離れというから、まだ2〜3才だったのでしょう。神殿には、そこで神さまに仕える女たちもいましたから、彼女たちが幼いサムエルの世話をしたのでしょうか。何よりも、神さまが彼のことを気にかけてくださいました。ですから、母のもとを離れて寂しかった幼な子も、すくすくと成長し、「主にも人にも愛された」(2:26)とあります。

 サムエルに一つの事件が起きます。多分10才頃のことと思われますが、夜、神殿の至聖所に近いところで、何かの勤めについていたのでしょうか、一人で寝ているサムエルに神さまが名前を呼ばれます(3章)。何と呼ばれたのか記されていませんが、多分、名前を呼ばれたのでしょう。「サムエル、サムエル」 彼はエリが呼んだのだろうと思い、エリのところに走って行って答えます。「はい。ここにおります」 エリには何のことか分からず、「私は呼ばない。帰っておやすみ」と言います。もう一度そんなことがあって、「サムエルはまだ主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかったからである」(7)とあり、これは後年のサムエル自身の証言だったと思われますが、もう一度、3度目に同じことがあって、さすがにエリは神さまがサムエルと呼んでおられると分かりました。「行っておやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」(9)そして4度目に呼び掛けられたとき、幼いサムエルはエリに教えられた通り、聞く姿勢を取ります。神さまからのメッセージは、よこしまで罪を犯し続けるエリの3人の息子たちへの断罪でした。「わたしは彼の家を永遠にさばく」(13)幼いサムエルにも、いくらかそれが分かったのでしょう。最初はそのことをエリに話すのをためらいましたが、強いられてすべてを話します。エリもまた、そのことばを受け入れました。まだ幼かったけれども、預言者サムエルの誕生です。

 サムエルは祭司でした。しかし、彼は神殿で宗教的儀式を執り行なうことより、神さまのことばに聞き従う預言者としての一生を送ったのです。「サムエルは成長し、主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った」(19)とあります。信仰ということをもう一度考えてみたいのですが、私たちの信仰は、イエスさまの十字架の愛の中から生まれたものです。その愛の中で私たちがどう生きていこうとするのか、信仰とはその生き方のことではないでしょうか。「神のことばとイエスのあかしのゆえに」とある黙示録の言葉は、使徒ヨハネの生き方でした。これは私たちの神学校のシンボルとするものですが、20:4にはそのために殉教した人たちのことが記されています。十字架の救いへの招きに、まず、神さまが呼んでおられます。その招きに、献身をもって応答していきたいと願います。幼いサムエルほどにも役立たない者かも知れませんが……。