聖書の人物・新約編

43  ギデオン

信仰回復のために
                                士師記 7:1−8
                                ルカ 22:31−32
T 士師たちの時代

 新約聖書の人物を見た時、順番を全く気にせず、その週私が読んだ箇所から心に掛かった人たちを取り上げてきました。ここしばらく旧約聖書の人物を見ていますが、アダムに始まり、ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュアと順番に見ています。旧約聖書からバラバラに拾い出すと、そのつながりが分からなくなってしまうと思ったからです。まだ5人だけですが、もう少し旧約聖書の順番に従って何人かをピックアップしていきたいと思います。旧約聖書をいくらかでもつなげて覚えて頂けると嬉しいです。今回はヨシュア記の次にある士師記から、ヨシュアと同様に「信仰の勇者」と呼ばれたギデオンです。

 初めに士師記のことを少し説明しておきますと、BC1000年より少し前、ヨシュア直後からサムエル直前までの、約200年間の出来事が記されています。エジプトが、奴隷だったイスラエルを失い、鉄の武器を用いて北から台頭してきた海洋民族ヒッタイトにおされ、世界帝国としての力が弱体化している時です。エジプトとヒッタイトの力が均衡し、パレスチナは空白地帯になっていました。そんなところにイスラエルのカナン侵入があります。その時は全面的な神さまの助けがあってカナン侵入に成功しましたが、それで彼らの国造りがうまくいったわけではありません。依然として回りでは、イスラエル追い落としを図るいくつもの民族が隙を伺っていて、その代表格はパレスチナの語源にもなったペリシテ人ですが、ヒッタイトの鉄製武器はすでに彼らに流れ込んでいたようです。まだ王制が生まれていないイスラエルでは、部族毎のまとまりしかなく、国家としてはバラバラだったようです。そんなイスラエルに、モアブ、カナン、エモリ人といった多様な民族が戦いを挑んできます。その度にイスラエルでは、士師と呼ばれる人物が立てられ、イスラエルを一つにまとめて敵を退けていくのですが、オテニエル、エフデ、デボラなどおよそ20人くらいの人たちが、士師として名前を挙げられています。士師というのは英語で裁判官を意味し、新改訳では「さばきつかさ」となっていますが、軍隊の司令官であったり、祭司だった場合もあります。必要に応じて立てられたイスラエルの指導者、救い手、導き手だったと言えましょう。


U ギデオンの召命

 ヨシュアの後100年ほど、絶え間なくイスラエル侵略を企てる民族が現れますが、その度にイスラエルを救う者として誰かが立てられました。士師たちの時代です。その後40年ほど敵対する民族がなく穏やかな日々が続きましたが、シナイ半島の遊牧民だったと思われるミデヤン人がらくだに乗ってカナンに侵入して来ます。ミデヤンというと、非常に古くからシナイ半島とネゲブ(パレスチナの南部)で勢力を誇っていた民族ですが、かつてモーセがその仲間であったこともあって、今までイスラエルに敵対したことは一度もありません。けれども彼らは一つの民族ではなく、いくつかの部族の集合体で、それぞれの部族に王がおり、世代交替もあり、モーセのことを知らない部族がいたとしても不思議ありません。イスラエルが何度も繰り返す神さまへの不信仰を懲らしめようと、神さまはこのミデヤンを用いられます。「イスラエル人はまた主の目の前に悪を行った。そこで主は7年の間彼らをミデアン人の手に渡した」(士師6:1)とあります。そして、苦しんだイスラエルが主に向かって叫び求めたとき、主の使いが畑仕事をしていたギデオンに現れて言うのです。彼はマナセ族の中でも最も小さい氏族アビエゼルに属する若者でしたが、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。私があなたを遣わす」(6:14)ギデオンはまず、イスラエルにはびこるバアル神との戦いから始めるのです。

 イスラエルの不信仰と言いましたが、それはカナンの農業神バアルを崇拝するという偶像問題でした。ヨシュアが「外国の神々を除け」と戒めたのに、イスラエルはカナン人の農耕を学ぶと同時に、彼らの神々をも受け入れてきたのです。バアルはその代表でした。ある夜彼は、神さまに言われたように、バアルの祭壇を壊してしまいます。「誰がこんなことを?」と大騒ぎになりますが、彼は、「もしバアルが神ならば、自分の祭壇がこわされたのだから、自分で争えばよいのだ」と平然としていて、それで有名になったのでしょう。ミデヤン人たちが他の民族と連合して戦いを挑んできた時、彼は主の霊に満たされて兵を召集し、マナセ、アシュル、ゼブルンなど各地からたくさんの者たちが彼のもとに集まって来ました。真っ先に駆け付けてきたのがアビエゼル人、彼が属する氏族の人たちでした。総勢3万2千人、たくさんと言いましたが、それはヨシュアの時の軍隊からすると10分の1以下でした。その3万2千人が必死になって戦っても、恐らく十分な数ではありません。敵対する軍隊は、「ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数え切れなかった」(7:12)とあり、8:10にあるその数は総勢13万5千人、とても勝ち目はありません。


V 信仰回復のために

 彼らが集まってきた時、ギデオンは神さまに願います。「もしあなたが仰せられたように私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります」〈するとそのようになった〉(6:36-38)とあります。次の日にはその逆を願い、神さまはそれにも応えてくださいます。そんな神さまの約束のもとで敵の間近に対陣するのですが、ファイト満々の彼らに、神さまは水をさすように言われます。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え」〈すると民のうちから2万2千人が帰って行き、1万人が残った〉(7:2-3)とあります。少ない兵をなお少なくし、更に言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに行け。……」そして神さまは、口に手を当てて水を飲んだ者という奇妙な方法で、300人を選ぶのです。「手で水をなめた300人でわたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみなそれぞれ自分の家に帰らせよ」(7:4-7) たった300人、これはもう彼らの戦いではありません。

 夜の闇にまぎれ、百人づつ3隊に分かれた兵士たちが、3方から火のついたたいまつを入れたつぼを持って敵陣に近づいていきます。そして、一斉につぼを壊してたいまつを取り出し、角笛を吹き鳴らし、大声で「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶ、奇襲攻撃を仕掛けるのです。敵陣は同士打ちを始め、大混乱となり、「主がそのようにされた」と証言されています。そこでギデオンは初めてエフライムに呼びかけ、追撃選を繰り広げ、敵陣で倒れた者の数は12万人に上りました。残った者はわずか1万5千人です。

 私たちの信仰のことを考えてみたいのですが、信仰は教会の仲間たちといっしょに集まり、礼拝を守ることで支えられるものでしょう。しかし、断じて数に依り頼むものではありません。しばしば大教会に属していることが信仰の確かさと錯覚することがありますが、多くの場合、それは教会の「人間の部分」でしょう。私たちは信仰というところで、いつもあの300人にならなければなりません。それは、周りを囲んでいる無数の問題に対する、一人に等しいと言えましょう。そこに信仰が問われているのです。神さまは私たち一人一人の、ともすれば消えそうになる信仰の回復のために、いつも心を砕いておられることを忘れてはなりません。十字架にかかる直前のイエスさまがペテロに、「わたしはあなたのために祈った」と言われました。同じ祈りが私たちのためにもあるのです。弱ることの多い私たちですが、黙々と聞き従ったギデオンのように、先に立ってくださる主のおられることを思い、信仰の戦いを戦い抜いていきたいと願います。