4 ペテロ
                          
あなたを愛している

                               マルコ 14:66−72
                               イザヤ 43:4
T イエスさまを愛したペテロ

 十字架をめぐる人々の今回は、イエスさまの一番弟子と言われるペテロです。しばらく前から興味を持ち、大好きになっている人物です。

 「あなたを人間を漁る漁師にしてあげよう。わたしについてきなさい」と声をかけられてからずっと、すぐそばでイエスさまを見てきたペテロでした。姑の病気を直して頂いて以来、ガリラヤ湖の波打ち際にあった多分姑のものだった家を、イエスさまのお働きのため、また、休息の場所として提供してきました。今そこに「家の教会」と呼ばれる小さな会堂が建っています。ピリポ・カイザリヤでイエスさまに向かい、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と、キリスト教の記念碑ともいうべき信仰告白をしたペテロでした。ペテロについてはたくさんの記事がありますが、今回は十字架をめぐることに絞って、彼の信仰を見てみたいと思います。マルコ14章からです。

 エルサレム東側の小さな羊の門を出たすぐそこに、ゲッセマネの園があります。オリ−ブの木々や花々の美しい庭園で、樹令2000年というオリ−ブの古木もありました。イエスさまと弟子たちがしばしば夜を徹して祈られたところですが、そんなイエスさまを見ていた木でしょうか、そこに、イエスさまを捕らえ殺そうとユダヤ人たちが大勢やって来ました。その時、ペテロはイエスさまを守ろうと剣を抜いて切りかかり、大祭司の僕マルコスの片耳を切り落としました。その直前のことですが、イエスさまは弟子たちに言われました。「あなたがたはわたしにつまづきます」 しかし、ペテロは答えました。「たとい全部の者がつまづいても、私は決してつまづきません」「あなたのためならいのちも捨てます」 そんなペテロが、自分でもどうしてか分からなかったと思うのですが、三度もイエスさまを知らないと否んでしまうのです。私たちにもきっと同じところがあると感じるのですが、ペテロのそのところを見てみたいと思います。


U 主を否んだペテロ

 ゲッセマネの園でイエスさまが捕らえられると、弟子たちはみな、あの勇敢だったペテロもまた、逃げ出してしまいました。ところが、ここがペテロを大好きになった理由の一つですが、逃げ出しながら彼は、大祭司のところに連行されるイエスさまのあとを、少し離れて、こっそりついて行きます。何かの算段があったわけではない、ただイエスさまのそばを離れたくなかった。イエスさまを失うなど、彼には考えられないことでした。それほどイエスさまに愛され、イエスさまを愛したペテロでした。

 どさくさにまぎれ、ヨハネの手引きで、彼は大祭司の内庭に潜り込みました。そして、イエスさまの声が聞こえるほどそばまで近づいて、祭司長、長老たちが緊急のサンヒドリン大法廷を開き、遂にイエスさまに死刑の判決を下すのを目撃しました。彼らはイエスさまにつばきをかけ、こぶしで叩き、こずいたりとなぶり者にして……、寒い時期だったのでしょう、たき火のそばで息をひそめ、はらはらしながら見ているペテロでした。そんな彼の様子を注意して見ていたのでしょうか、門番をしていた女(女中とあるから女奴隷だったかもしれません)が、ペテロに詰問します。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね」 夜中のゲッセマネに彼女が行く筈もありません。ペテロを目撃したような言い方は推測に過ぎなかったのでしょうが、ペテロには、雷が落ちたように感じられました。思わず、「何を言っているのか分からない。見当もつかない」と言ってしまいます。言ってしまうともう止まりません。もう一度「この人はあの仲間です」と言われ、再び「そんな人は知らない」と打ち消し、更に三度目に「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから」と断定されると、冷静に考えたら憶測で言われていると分かる筈なのに、「私はあなたがたの話しているその人を知りません」と否定してしまうのです。一度裏切り、悪いことに手を染めてしまうと、悲しい人間の性でしょうか、行き着くところまで行かなければ終わることがありません。そうじゃない、そうじゃないと口をふさぎ、手を引っ込めようとしても、自分ではないかのように、口が、手が勝手に悪いことをしてしまうのです。パウロも「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)と嘆いていますが、神さまの前で私たちは、そんな弱さや罪があることを認め、打ち砕かれていく必要があるでしょう。


V あなたを愛している

 三度知らないと打ち消した時、ペテロは二度目に鳴く鶏の声を聞きました。夜が明けかかっていて、彼はイエスさまのことばを思い出しました。「鶏が二度鳴く前に、あなたはわたしを知らないと三度言います」 ゲッセマネの園に行く途中、「私はつまづかない」と大見えを切ったペテロに、イエスさまが言われたことばです。「彼は外に出て行って激しく泣いた」とマタイは記しています。

 イエスさまを愛するあまり敵に切りかかったペテロ、後年、全教会の指導者として、誰からも愛され、信頼されたペテロは、イエスさまの十字架という土壇場で、そんな痛い思いをしなければなりませんでした。きっとそれは、後年の大使徒が整えられる備えだったのでしょう。イエスさまが朝9時から午後の3時まで6時間、十字架上で苦しまれるそこに、ペテロの名前は一度もありません。イエスさまを知らないと三度も否んでしまったペロは、どんなに自己嫌悪、自己不信に陥って悲しみ、苦しみ抜いたことでしょう。しかし彼は立ち上がりました。年老いて殉教直前に記した彼の手紙にこうあります。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわちあなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(Tペテロ5:8-10)

 ペテロの戦いは、彼自身の信仰の戦いだったのでしょう。そんな戦いを私たちはしたことがあるでしょうか。ヘブル書の記者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」(12:4)と言っています。よみがえりのイエスさまから「あなたはわたしを愛しますか」と3度も聞かれ、心を痛めながらペテロは、イエスさまが尋ねられた愛(アガペー)とは別のことば、(フィレオー)を用いて答えています。「主よ。私があなたを愛していることはあなたがご存じです」(ヨハネ21:15-17) 彼はイエスさまを愛し、イエスさまのためならいのちも投げ出す覚悟でした。それなのに、イエスさまを知らないと言ってしまったのです。しかし本当は、イエスさまがそのペテロを愛し、その悲しみも苦悩も知って、彼のために自分のいのちを十字架にかけてくださったのです。信仰の戦いを戦い抜いて、ペテロはそのことに気づいたのでしょう。「わたしの目には、あなたは尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と旧約聖書にありますが、剣を抜いて切りかかったとき、彼はまだそのことを知りませんでした。私たちも同じです。イエスさまを信じる信仰は、そんな自分との戦いを通して、「あなたを愛している」という十字架の主の小さな声を聞き取っていくことだと思います。