聖書の人物・新約編

37 モーセ(2)

主、汝とともに

                           出エジプト 3:13−15
                           マタイ 16:13−16
T 主に従うために

 モーセのことですが、少し前回を繰り返しておきましょう。神さまは彼を、その誕生からずっと守り支え、イスラエルをエジプトから連れ出す指導者として訓練されました。ナイル川に流されたモーセをパロの娘に拾わせて王子として育てたことも、40年間シナイの荒野で羊飼いとして暮らしたことも、その訓練のためでした。そして神さまの時が満ち、モーセは召し出されます。「今行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」 しかし彼は、これを拒みます。

 「わたしはあなたとともにいる」だから恐れないで行きなさいというのが、神さまのモーセに対する心配りでした。しかしモーセはなお慎重に神さまに交渉します。今回のところです。できればその任につきたくないというのが、彼の偽らない気持ちでした。どうしても行かなければならないのなら「行きます」という気持ちだったとは思いますが、その前に彼は、いくつかのことを解決しておかなければなりませんでした。3-4章にそのことが記されています。まず神さまご自身のことです。指導者に選ばれようとしているこの自分でさえ、この神さまがどのようなお方かよく知らないのです。ただただ恐ろしかっただけです。そして、自分には、彼らを従わせるだけの力がない、80才にもなって、羊を飼うことしか能のない者に、どうしてそのようなことが出来ましょう。また今の自分は、40年前の王子として知的訓練を受けていた時の自分ではない。人に話すことが極端に苦手になっていたのです。そんなことを、神さまはご存知なのだろうか。彼はここで、この問題を解決しないでは、遣わされることは出来ないと腹を決めたのです。

 そして彼は神さまに問い掛けます。他の2つは、神さまがそれをご存知で、それでも召し出されるのなら、後は召し出された神さまの責任です。実際、神さまは必ず責任を負ってくださる方であり、彼自身がどうあっても問題ではないでしょう。しかしこの出エジプト記3章の問題は、これまでにも何回も触れてきたことですが、いい機会なので突っ込んで考えてみたいと思います。


U あなたはどなたですか

 彼の第1の質問は、今彼の前に現われた神さまの名前は何か? ということでした。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私は彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』いえば、彼らはその名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか」

 きっとイスラエルはエジプトにいる間も、アブラハム、イサク、ヤコブ以来のイスラエルの神のことを聞いていたでしょう。しかし、エジプトに来て430年という長い年月が経っています。その信仰が、かなり風化していたと考えてもいいでしょう。さすがにモーセは、イスラエルの神信仰の在り方が、アブラハムたち族長時代のようではないことを知っていましたから、その質問が第1のものとなりました。「アブラハム、イサク、ヤコブの神が私を導いてくださった」といっても、彼らは信用しないでしょう。「その神はどんな神か、本当に私たちの先祖の神なのか」と疑うに違いないと考えたのです。そしてそれは、モーセ自身の問い掛けでもあったようです。彼自身の信仰を確立しないでは、事は始まらなかったのです。

 名前を聞いたのは、神さまに向かって「あなたはどなたですか」と、その正体をはっきりさせたかったからでしょう。神さまを信じる時、まず、その神さまがどのようなお方かを知らなければなりません。信仰は、神さまの全人格が込められた名を呼ぶことから始まるのですから。イスラエルはエジプトで、たくさんの神々を拝んでいました。ややもすれば、彼らはすぐその神々へと傾いてしまうのです。少し後に彼らは金の子牛像を作り、それに向かって彼らをエジプトから導き出した神さまの名を呼ぶという過ちを犯しています。ここで彼らは、正しく神さまを覚える必要がありました。モーセはそれを確立したかったのでしょう。

 イエスさまが、ピリポ・カイザリヤへの道で弟子たちに尋ねられたことを思い出して欲しいのですが、最初にこう尋ねられました。「人々はわたしのことを誰と言っているか」 弟子たちが口々に答えました。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています」(マタイ16:14) いろいろと見方が分かれていますが、現代も同じでしょう。それでは「あなたがたはわたしのことを誰と言うか」とイエスさまに聞かれ、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白することが出来るかと問われているのです。十字架のイエスさまこそ私たちの罪を赦してくださる救い主・神さまご自身であると、そのことを私たちの中に確立させておきたいのです。


V 主、汝とともに

 神さまは答えられました。「わたしは、『わたしはある』という者である」「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主……。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である」(15)〈わたしはある〉というのはハヤー、これは欧米の言語でbe動詞と同じ存在を現わすことばで、主〈ヤーウエ〉はそれから来たと考えられています。ここは、聖書全巻を通してその存在を当然のこととしておられる神さまが、唯一ご自分の存在をはっきりと主張されたところと覚えて頂きたいのです。

 少々面倒な言い方で申し訳けありませんが、もう少し考えてみたいと思います。神さまはその名を告げることで、ご自分の存在を啓示されました。ヤーウエ、主というと聞こえがいいですが、それは『存在』という奇妙な名前です。実は神さまは、唯一の神として存在するのであって、他の神々と競合しているのではないから、その個性を主張するための名前など全く必要ないのですが、ただ、私たちが神さまを呼ぶ時のために、ヤーウエと名乗られたのでしょう。イスラエルは救いを求めつつ、その神さまの名を呼んだのです。決して「存在」などという一般的な名前ではありませんでした。そしてこのヤーウエが、「わたしはあなたとともにいる」という宣言の保証とされたのでしょう。彼らはこのヤーウエを彼らの神さまとし、自分たちをその聖なる神さまの聖なる選民として、他民族との間に一線を引きました。聖とは区別するという意味です。そして、聖書全体に渡る一つの確信が生まれました。「主の御名を呼びも止める者は誰でも救われる」というものです(ヨエル2:32、ロマ10:13)。

 しかし彼らイスラエルは、主の名を呼ぶことを忘れてしまいました。十戒に「主の名をみだりの唱えてはならない」とあることから、彼らはこの単語をただ「聖なる4文字」と言い、いつの間にか発音が分からなくなってしまったのです。ちなみに、この4文字をエホバと呼んだ時代がありますが、現在では多分、ヤーウエが正しいと考えられています。いずれにしても、彼らは選民であるという誇りだけに囚われて、メシヤ信仰も膨れ上がったのですが、未だにその救い主を待ち続けています。イエスさまがいらっしゃったのに、彼らは受け入れようとはせず、十字架につけてしまったのです。

 イエスさまはご自分のことを「わたしはぶどうの木である」「わたしは羊飼いである」「わたしは道である」など、いろいろと言っておられますが、中身はその時々で違っていても、「わたしは〜である」と言う言い方は変わりません。そして、それがこの「わたしはある」というヤーウエ宣言と同じものであり、それこそイエスさまの主張の中心でした。その名に向かって「このお方以外に救いはない。この御名のほかに……」(使徒4:12)とペテロは告白しています。その告白とともに私たちも、「あなたこそ私の神・主です」と告白していきたいのです。神さまの御名を呼ぶことは、イエスさまを救い主として受け入れることなのです。神さまの恵みの宣言は、十字架におかかりになり、私たちの罪を赦して下さったイエスさまにおいてはっきりしたのです。イエスさまは「見よ。わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と約束しておられます。