聖書の人物・新約編

35 アブラハム(2)

神さまの怒りと愛の中に

                               創世記 22:1−18
                               へブル 11:17−19
T 神さまとあなただけで

 前回、アブラハムの信仰を、彼の神さまに対する期待と神さまご自身が彼の中に始められた良い業という2つの面から考えてみました。神さまへの期待ということも、彼の中に注ぎ込まれた神さまへの思いが、次第に大きく膨れ上がったということで、信仰の始まりもその課程も、決して私たち自身に属するものではないのです。それは神さまが私たちの魂に植え、育ててくださるものであって、私たちの為し得ることは、神さまのなさることを見つめ、信じ任せていくことだと思います。アブラハムの信仰は、そのような信仰であったと感じられます。

 今回、アブラハムのもう一つの出来事を見てみたいのですが、ここで彼は、断固自分一人だけで神さまの前に立ち続けます。その信仰の確かさという、彼のもう一つの面を考えてみたいのです。


U 一人息子のいのちを

 創世記22章です。1節に神さまとアブラハムの会話があります。「アブラハムよ」「はい。ここにおります」 カナンで過ごした30年ほどの年月は、彼と神さまとの間にそんな親しい関係を作り上げていました。ところが、その神さまが突然言われます。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」 〈ささげなさい〉というのは祭壇の上でイサクを殺し、神さまへの礼拝の供えものとしなさいという意味ですが、イサクはアブラハムが100才近い高齢で授かった一人息子でした。実際には、サラが自分の女奴隷ハガルをアブラハムの側女として与え、10年ほど前に生まれた男子イシマエルがいたのですが、神さまがアブラハムに「この地に満ちるようになる」と言われた時、それはサラに生まれる息子を通してという約束でした。その意味でイサクはアブラハムの唯一の跡継ぎであり、一人息子だったと言えましょう。何よりもイサクは、神さまの約束の子どもでした。

 それが、「全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい」と、神さまはイサクのいのちを要求します。今までに何人もの方の死に立ち会ったことがありますが、その時々に聞いたご家族の慟哭を忘れることが出来ません。不慮の出来事だった場合は尚更です。愛している息子を自分の手で殺さなければならないと、その時のアブラハムの苦悩がどんなであったかと思うのですが、驚いたことに、彼は翌朝早くにモリヤに向かって出立します。母サラに一言もなく……。

 モリヤというのは当時は山だけでしたが、後にエルサレムの神殿が建つところです。その時、彼は滞在していた南方のベエルシェバから三日もかけてやって来ます。それほどの道のりとは思えませんから、道々彼は悩み考え抜いたのでしょう。そして、そこに着くと彼はもう迷いません。「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはそこに祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた」(22:9)とあります。息子イサクに何の説明もなく、イサクもまた従順に父のすることを受け入れています。そして、今まさにイサクに刀を振るおうとしたその時、神さまが声をかけます。「アブラハム。アブラハム」「はい。ここにおります」「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」 そしてそこに、イサクの代わりになる一頭の雄羊を見つけます。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」(22:8)と彼がイサクに語った通りに……。この記事で際立って光るものがあります。一つは、神さまは愛するものに最高のことをして下さるという、彼アブラハムの神さまへの絶対の信頼、そしてもう一つ、イサクの、神さまに信頼している父親への信頼です。彼らの信仰と言葉を置き換えてもよいでしょう。その中心点に踏み入ってみたいと思うのです。


V 神さまの怒りと愛の中に

 2つのことを考えてみたいのですが、第1のことは、アブラハムが悩み、苦しんで到達した神さまへの思いです。一人息子のいのちというとてつもなく重い問題を抱え、彼は翌朝早く出立します。どうしてそのようなことが? と、何回もこの箇所を読んで考えました。24章に、イサクのお嫁さんを「カナン人の娘の中からめとってはならない」と彼の強い意思が記されていますが、今までこれを聖書の純粋種魏と思っていました。律法には厳しい偶像崇拝禁止の項があります。しかしそれは、異教の神々は断じて神と呼べるものではありませんから、ご自分が唯一・真の神という主張を押し通すための律法ではなく、異教の神々礼拝にはびこる、人間の罪への怒りこそ、その厳しい定めの理由ではなかったかと感じられます。巫女が神殿で売春をし、神のお告げだとして人を殺すことなど珍しいことではありませんでした。その中に、子どもを人身御供にという風習もあったでしょう。カナン人もそうでした。神さまはそれを憎まれたのです。アブラハムは苦悩の果てに、神さまのその思に辿り着いたのではないでしょうか。イサクのいのちをという要求は、アブラハムに、その罪の中で、人々の悲しみと不条理への怒りを共有して欲しかったと感じられてならないのです。それは何より神さまご自身の怒りであり、悲しみだったのでしょう。〈あなたが神を恐れることがわかった〉とあるその恐れは、畏怖という意味ですが、イサクを差し出すことで、彼がそんな神さまの怒りを痛いほどに感じていることを、神さまが受け止めて下さったということではないかと思われるのです。それは彼の信仰の更に奥深い中心でした。

 もう一つのことですが、へブル書11:19に「信仰によって……彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」とあります。イサクの死とよみがえりは、イエスさまの福音の出来事のシンボルと考えられたのです。きっとその中にアブラハム自身も含まれているでしょう。神さまの救いのメッセージを伝えようと、そのために神さまはアブラハムをカルデヤのウルから呼び出されました。ですから、神さまがソドムとゴモラを滅ぼそうとされた時、彼は「もしそこに50人の正しい人がいるなら、それでも滅ぼされるのか」と食い下がります。もし40人ならば……と、それが10人になるまで彼は執り成しをやめようとはしません。そして神さまもまた彼の執り成しを受け入れるのです(創世記18章)。残念ながら、そこに10人の義人はいませんでした。現代という時代もきっと同じでしょう。しかし、信仰の父と呼ばれたアブラハムがいます。その信仰を受け継ぎ、私たちもまた現代の罪や悪に囚われて苦しむ人たちの執り成し手になることができるのです。イサク以上に、ご自分を十字架につけて私たちの罪の贖いとなってくださり、アブラハム以上に、私たちの執り成し手となってくださったイエスさまがいらっしゃるからです。アブラハムを見ていくことは、イエスさまを見ていくことです。神さまの怒りと愛の中に召し出されたアブラハムを、その意味での信仰の父と覚えたいのです。