聖書の人物・新約編

32 アダム(2)

あなたは今どこに

                               創世記 3:1−15
                               Tペテロ5:7−10
T 神さまのもとでT 神さまに造られて

 前回、アダムが神さまに造られ、いのちの息を頂いたと見てきました。いのちの息、それは神さまの最高のもの、神さまご自身であり、きっとアダムも、愛のある、平和な人に造られたのでしょう。しかし、考えてみたいのですが、現代の私たちの中に、そんな神さまのかたちがまだ残っているでしょうか。私自身の中でもそれは、年々希薄になっていると感じています。今回はそこに焦点を合わせながら、アダムのもう一つのことを考えてみたいのです。

 娘がペルシャ語などと言う言葉を専攻して何回もイランに行くものですから、その付近のことが私にとっても身近になってきました。イランのすぐ近くを流れるユーフラテス川流域にあったエデンの園もそうです。アダムとエバは、そこで神さまと共に住み、神さまの平安を満喫していました。これが創世記2章の記事です。エバはアダムの助け手として、「人から取ったあばら骨をひとりの女に作り上げ」と、神さまが同じように心を込めて造られた彼の妻でした。エデンとは喜びという意味で、私たちがやがて神さまに招かれていくパラダイス、天国の型と言って良いでしょう。黙示録にその情景が描かれています。「神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものはもはや過ぎ去ったからである」(21:4)と。彼らは神さまに愛され、お互いに愛し合う喜びを感じていました。そこには、現代の私たちのような、苦悩も怒りも涙もありませんでした。エデンの園というパラダイスは、アダムとエバのことでしたが、現代の私たちにとっても、神さまを信じることで、そのような祝福に満ちたところに招き出される幸があるのです。


U 罪に問われて

 ところが、彼らの喜びと幸が、あるとき音を立てて崩れます。彼らの中に重大な問題が生じるのです。
 「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか』」(3:1)と3章が始まります。この蛇はサタンのことです(黙示録20:2)。聖書には「神さまへの敵対者」、「誘惑する者」又「罪の告発者」として登場して来ますが、彼は今も私たちを罪に陥れようと、その機会を虎視眈々と狙っているのです。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。固く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(Tペテロ5:8)とあるように、神さま抜きでは決して対抗することの出来ない存在です。

 その彼がエバのところにやって来ます。「あなたがたはどんな木からも……」と神さまが本当に言われたのですか? この問いかけは、エバのさまざまな内面の意識を刺激しました。「私たちは園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたはそれを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました」(2-3) この答えにある3つの問題点を考えてみたいのですが、第1に園の中央にある木のことです。そこには〈いのちの木〉と〈善悪の知識の木〉がありました。それなのにエバは、〈園の中央にある(一本の)木〉と単数の言い方をしています。彼女には〈善悪の知識の木〉しか念頭にないのです。それは神さまがその木の実を食べてはいけないと言われたからでしょうが、もう1本の木のことを思い出す余裕が感じられません。きっと、いけないと言われたことへの好奇心、確かめてみたいという欲望が芽生え、それが〈善悪の知識の木〉だけに囚われてしまった彼女の問題の中心ではなかったかと思われます。第2は〈それに触れてはならない〉と答えているところですが、神さまは〈触れてはいけない〉とは言われなかったのです。しかし、彼らは食べてはいけないと言われたことで、触ることさえ禁止されたと感じています。そこに、好奇心と共に、かすかではありますが、不満が芽生えているような気がしてなりません。第3に彼女は、〈死ぬといけないから〉と嘘をつきます。けれども神さまは、〈必ず死ぬ〉と言われた(2:17)のです。その死という出来事を、彼らは動物や植物の世話をしながら経験していたのでしょう。 いのちを失うということへの疑問が、欲望や不満という苛立ちの中で、恐怖に変わっていったとしても不思議ありません。若い頃、死と向き合った時に、いのちにも向き合わされました。胃が痛くなるほど悩んで、生活のリズムが狂ってしまうほどの苛立ちを覚えたのです。ですから、彼らの苛立ちが、遂に嘘という信頼の基本を破る内面の問題にまで発展したことを、ささやかな自己主張と同情するところもあります。しかし、それは自分の中に育ててしまった欲望と不満の結果であり、神さまの前におけるそのような自己主張自体、罪であると覚えなければならないでしょう。


V あなたは今どこに?

 ところで、実り豊かなエデンの園で、たった1本の木の実を食べてはいけないと、神さまはどうしてそんなルールをお定めになったのでしょう。それさえなければ、罪などという厄介な問題が私たちの中に入り込むことはなかったのです。神さまは、丹誠を込めて作り上げたご自分の似姿・人間を、こともあろうに罠にかけるようなことを、どうしてなさったのでしょう。時々そんな質問をされることがあります。アダムとエバは、彼らを愛してくださる神さまと共にいる幸いの中に浸っていた筈です。どうして、その彼らの幸せを、神さまみずから壊そうとされたのでしょうか。誘惑者サタンを彼らに近づけないことくらい、神さまに出来なかったわけではないでしょう……と、次々に疑問が沸いて来ます。一生懸命考えてみました。きっとそのルールは、神さまへの全幅の信頼の証として求められたのでしょう。ところが彼らは、ほんの少し芽生えた欲望や不満や自己主張のために、神さまから目を離してしまったのです。食べてはいけないと言われたことに心が捕われた、ほんの少しのことでした。それを悪いと、どうして言うことが出来るでしょう。しかし聖書の中で、不信仰の筆頭にあげられることに偶像崇拝がありますが、その問題の中心点は、実にそこなのです。ほんの少しだけの間違いを、私たちも自分に赦してしまうところがあります。しかし、エデンの園を放棄しなければならなかったそれは、そんなふうに神さまとの信頼関係を破壊する〈罪〉の中にあると覚えたいのです。

 6節「夫も食べた」とあります。アダムは「エバが勧めたので食べた」と弁解しますが、その罪の責任は彼が負うことなります。欲望も不満も偽りも自己主張も、エバ同様、彼自身の問題でした。ここにある責任転化という醜い出来事に、罪が罪を生み出すという、罪の恐ろしさを覚えさせられます。罪の問題は格別に今の私たちの重大な問題でもあります。大昔のアダムとエバに起こった出来事と簡単に済ますことは出来ない、それこそ、創世記3章が聖書に加えられた目的だったのでしょう。

 彼らはエデンの園を追放されます。実り豊かな幸せの土地から、荒れ地に出て耕し始めなければなりませんでした。彼らと私たちの苦難がここから始まったのです。しかし、神さまは依然として彼らを愛しておられ、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(21)とあります。エデンの園の外は寒く、危険が一杯だったでしょう。ここで皮を得るために、神さまご自身の手で血が流されたことを覚えて頂きたいのです。15節に「彼はお前の頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」とありますが、彼とはイエスさまのことで、ここにも十字架の救いが聞こえてきます。そこにイエスさまが居られなかったから、彼らは神さまの顔を恐れ、木々の間に身を隠しました。現在の私たちも、科学や文明、財産、仕事、趣味といった神さまのいないところに隠れているのではないでしょうか。「あなたはは今どこに?」と問われているのは、アダムだけではないのです。増大するばかりの罪に囲まれ、破滅に向かって一直線に突き進んでいるようなこの時代、私たちはどうしても答えなければならないのです。イエスさまこそ私の神、私の主ですと告白して神さまの救いのもとに駆け付けるか、それとも、昔と同じ破滅に向かおうとするのか、考えてみたいのです。