聖書の人物・新約編

31 アダム(1)

新しきいのちに

                               創世記 2:7−8
                               Uコリント5:17−18
T 神さまに造られて

 聖書の人物を新約聖書から見てきましたが、これから、旧約聖書の中から何人かの人物を取り上げていきたいと思います。最初は創世記からアダム、その1回目です。

 創世記2章からですが、7節「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。この〈人〉は原語でアダです。そして〈土地のちりで〉とあるこれがアダマー、アダムの女性形です。ややこしい言い方ですが〈アダマーでアダムを型造り〉となります。いろいろと諸説ありますが、恐らくアダムとは「土で造られた者」という意味で、後にこの最初に造られた人を指す名前として用いられるようになり、彼を代表させることで、人間そのものを指したと考えて良いでしょう。つまり、アダムは現代の私たち自身でもあるのです。

 アダムについて最初に考えなければならないことは、彼が神さまに創造された者であるということです。アダマーからアダムが、この創造には1:24で「地は、その種類にしたがって生き物、家畜やはうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ」と言われた、動物の創造と同じ素材が使われています。ただこの箇所を読みますと、神さまは人間を他の動物よりもずっと丁寧に、ひとつひとつの体の機能についても細かく精密な設計図を引き、ご自分の手でそのひとつひとつを精巧にお造りになったという印象を受けます。1章24節では、神さまが言われてそのようになったと、神さまご自身のことばによって動物が創造されています。それが丁寧でなかったと言うのではありませんが、人間創造の記事は、それよりもっと手間を掛けていると感じられます。それは人間創造のもうひとつの記事、1:26-27でも強く感じられることです。ここで断っておきたいのですが、創世記1〜2章の創造物語は、現代人向けの科学の教科書として書かれたものではなく、「神さまが天地万物を創造された」という宣言であるということです。そして、人間創造の記事を、1章ばかりでなく2章にもう一度繰り返しているのは、違う口伝があったからで、アダムの出来事こそ神さまの創造の中心であるとの宣言と思われます。つまり、最初の創造(アダムから始まる人間の出来事)とイエスさまを通してなされる新しい創造が、聖書の中心テーマであるという主張です。


U 神さまのいのちを

 神さまがアダムをお造りになったということは、私たちにとって第1の中心です。私たちは神さまに創造された者なのです。そして第2のことですが、2章7節に「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあるこれは、「生きるものとなった」と言った方がよいでしょう。この生きるものとは、単に心臓が動いて、食べたり飲んだり出来る動物的生命力を言っているのではありません。恐らく、そのような生命力は〈土地のちりで人を形造り〉とある段階のもので、そのような生命力を持つ動物は既に誕生していました。しかし、神さまはそれとは全く違う存在を望んで、アダムを創造されたのです。1章26-27節に、「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう』と仰せられた。神はこのように人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とあります。〈われわれ〉とあるのは、神という言葉が尊敬と驚異を含む複数形だからですが、もしかしたら、神さまの中に広がる大きさをも含んでいるかも知れません。神さまはアダムを、そのようなご自分に似た者、ご自分のかたちとして創造されたのです。神さまの何に? これまでそれは、愛や聖や正義など、神さまのご性質を受け継ぐ者とされたと聞いてきたことでしょう。しかし、改めて考えてみたのですが、創世記1:2に「神の霊が水の上を動いていた」とあります。〈いのちの息〉はその〈霊〉を指していると思われますが、それは神さまご自身のことでしょう。この〈いのちの息〉は、神さまご自身が持っておられるいのちであり、そのいのちは、本来、私たちの所有ではないのです。神さまのいのちの息を頂いたから、私たちは神さまに似た者となったのであり、それは神さまの一部ではなく、神さまだけが持っておられる最高のもの、愛も聖も義もひっくるめて、神さまのいのちのありったけが注がれたのです。そして私たちは、「あなたがたに触れる者はわたしのひとみに触れる者だ」と言われるほど、神さまにとって特別な存在になったのです。

 そんな神さまの愛を、私たちはまだ奥深く、どこか内に秘めているのでしょう。有限な者の筈なのに、未だ、永遠を思う思いや神さまと天国への憧れを持っています。極めて淡い思いであったとしても、愛も聖も義も平和を願う心も優しさも、どこかに、神さまのいのちを頂いた痕跡として残っているのではないかと感じられます。男と女とに創造されたことも、土くれで造られた欠けだらけの私たちが、男と女というカップルになることで、補い合いながら神さまの愛を実践出来るということなのでしょう。


V 新しきいのちに

 2:7に、「そこで人は、生きるものとなった」と言う続きがあります。第3にこれを考えてみたいのですが、アダム、そして私たちも、神さまの最高の〈いのちの息〉を頂きました。しかしそれならば、頂いたそのいのちがどのような意味を持つのか、考えなければならないことでしょう。「そこで人は生きるものとなった」とは、その意味の問いかけが始まったということです。神さまから頂いたいのちをどのように用いようとしているのか、それは自分自身への問いかけであると同時に、神さまからの問い掛けでもあります。

 「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた」(8)とあります。このエデンの園は、神さまがアダムにお与えになった、生きることの舞台です。14節にユーフラテス川の名前がありますので、多分それはメソポタミヤ地方のチグリス・ユーフラテス川流域のどこかにあったのでしょう。最古の古代文明として栄えた地域ですが、農業文化発祥の地とも考えられているところです。15節に、神さまは「人をエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」とありますから、彼は懸命に働いていたのでしょう。しかしそれは、彼が食べるという目的のためではなかったようです。食べるということでは、そこは非常に豊かな土地であり、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい」(16)と言われていたからです。動物や草木を管理し、手入れをして、そこが平和に調和して繁栄していくように、それが仕事だったのでしょう。その時点で彼は、自分のためではなく、他者のためという存在意義を持っていたのです。宗教改革時代に、イギリス清教徒たちによって制定されたウエストミンスター小教理問答書の第1問に、「人の主な目的は何であるか」「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」とありますが、信仰の先輩たちが、そのように生きたいと願った信仰告白です。神さまのためにとの思いが溢れて、他者のための自分になっていくのです。「受けるよりも与えるほうが幸である」(使徒20:35)とある生き方を、アダムが志していたと覚えたいのです。

 しかし残念なことに、アダムはその生き方を続けることが出来ませんでした。創世記3章では、罪の問題が生じます。彼は神さまから離れ、自分の欲望のために生きることを選んでしまうのです。そしてそのような罪ある生き方は、現代の私たちの中にも、まるでそれが人間性だと思われるほど根づいています。そして現代、自分のためにというそんな生き方は膨らむばかりです。神さまに頂いたいのちの息吹は、十字架の赦しという、イエスさまの出来事に引き継がれなければならなかったのです。古いいのちは、イエスさまによる新しいいのちへと更新される必要があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Uコリント5:17)とありますが、その新しいいのちに生かされ、神さまの前で輝く者でありたいと願わされます。