30 アクラとプリスキラ

主に用いられる器に
                               
                               使徒 18:1-5,24-27
                               詩篇 134:1−3
T クリスチャン・ネットワ−クの中で

 今回は、初代教会の中で大きな存在であった、コリント、エペソの二つの教会に深く関わった、アクラとプリスキラという夫婦のことです。二人一組で取り上げられていますので、一緒に見ていきましょう。

 最初に教会がエルサレムに建てられてから20年ほど経った紀元50年頃のこと、ロ−マのクラウディア帝が「すべてのユダヤ人はロ−マから退去するように」という勅令を出しました。これは当時、世界の最大都市ロ−マに続々と入り込んで街のあちこちにスラムを作る、貧しい東方からの外国人追放を意図したものだったと思われます。中でもユダヤ人は唯一の神さまを信じ、その選民であると主張して、度々多神教の他民族と争いを起こすことが多かったので、退去命令の直接のタ−ゲットになったようです。

 そのロ−マを退去してギリシャのコリントにやって来た人たちの中に、アクラとプリスキラ夫婦がいました。彼らがコリントに住みついて間もなくのことと思われますが、2回目の伝道旅行でヨ−ロッパに足を踏み入れたパウロたち一行が、ピリピ、テサロニケ、アテネと回ってコリントにやって来ました。「そこで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った」(18:2)とあります。〈パウロは二人のところに行き〉と、直ぐに彼らを訪れていますが、恐らく、彼らはロ−マでイエスさまを信じていましたが、退去命令が出された時、ロ−マの教会は彼らの牧師としてパウロを適任者と考え、彼らのことを「宜しく」と頼んだのではないかと推察されます。現代のように電話やインタ−ネットがあったわけではありませんが、クリスチャンたちが世界中に、一種のネットワ−クを張りめぐらしていたのは驚きです。当時のクリスチャン・ネットワ−クは、イエスさまを信じる者たちが一つ家族のように、そのつながりを大切にしていたことの現われだったのでしょう。たとえ初対面でも、同じ信仰をもつ兄弟姉妹が親しみを覚えるのは現代も変わりません。以前、エルサレムで、園の墓の礼拝に遅れて締め出された時、居合わせたアメリカ人青年と一緒に道端で小さな礼拝を守ったことがありました。お互いにクリスチャンと分かっただけで、心が通い合ったものです。世界中どこででもハレルヤ、ア−メンと通じるなら、それだけで信仰のコミュニケイションが出来ると言われますが、全くその通りでしょう。同じ兄弟姉妹だから、ロ−マのクリスチャンたちはアクラ夫婦を心配し、世界的伝道者として知られるパウロに、彼らのことを依頼したのではないかと思うのです。


U パウロの働きを助けて

 パウロはアクラの家に住むことになりました。天幕作りの同業者だったからです。初対面でしたが、一緒に仕事をするところから、コリントでの伝道活動を開始するのです。天幕作りは、山羊の毛などで織物を作る人、その布からテントを作る人、皮細工も含め、いろいろと巾広い仕事でしたが、パウロとアクラ夫婦は皮細工にたずさわっていたようです。パウロは職人でしたが、或る人はアクラ夫婦は皮細工の店を持つ企業人だったろうと指摘しています。退去命令が出たのを良い機会に、彼らはロ−マの店を他の人に委ね、コリントという当時第1級の商業都市に支店を出すために移住して来たと言えなくもありません。彼らはパウロの働きを支え、その仕事の合間に、パウロからイエスさまを信じる信仰を系統立てて学び、パウロを生涯の師としたのではないかと想像します。

 パウロが天幕作りの職人だったということで、教えられることがあります。ユダヤ人たちは、神殿に仕える祭司やレビ族を別にして、パリサイ人や律法学者たちは民衆を教える時、報酬を得るのは適当ではないと考えていました。ですから、実際には教えることに専念したのでしょうが、それとは別に、名目だけだったとしても、「これが私の職業です」と言える羊飼いや漁師や天幕作り、大工といった労働、一番尊いとされる土地から産物を得る仕事を本業としていたのです。パウロがその仕事をプロの技術者として誇り、自分の生活費や活動費に当てていたのは、それが彼の働きの自由を支えると感じたからでしょう。「あなたがたが知っている通り、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも働いてきた」(使徒 20:34)と語っています。これは私自身に言うことばですが、伝道者は、神さまのみことばを託されているという誇りの中で、サラリ−マン化してはならないと自戒します。

 パウロとアクラ夫婦は、多分、シラス、テモテ、ルカの一行がマケドニヤから到着するまでの数週間を一つ家で一緒に仕事をしながら、信仰の同労者としての交わりを深めていったようです。シラスたちはピリピ教会からの献金をパウロに届けたようで、それまで週一回、安息日だけユダヤ人会堂に出掛けてイエスさまのことを伝えていたパウロが、以後、伝道の働きに専念するようになります。ピリピからの贈り物が、彼ら伝道者の生活を支えました。しかし、アクラとプリスキラもまたその働きを支えるために、企業人としての能力を主に献げ、それだからこそ、コリント教会はその地方第1の教会となるまでに成長していったのでしょう。


V 主に用いられる器に

 パウロたちのコリントでの働きは、1年半にも及びます。この伝道旅行が4年位ですから、パウロのこの地への力の入れ方は相当なものでした。教会は、ユダヤ人会堂の隣にあったテテオ・ユストという人の家でしたが、アクラ夫婦の家もそのように提供されていたのでしょう。教会はまだ自分たちの建物を持っておらず、いくつもの〈家〉が集会場所になって、全体で一つの◯◯教会と呼ばれていたのです。この時、コリント教会がどれくらいの教会になったか記されていませんが、ユダヤ人の反抗が騒動に発展しているところを見ますと(18:12-17)、無視出来ないほど大きくなっていたのでしょう。わずか1年半です。しかし、その騒動が引き金になったものと思われますが、なお数か月をそこに留まった後、パウロたちはシリヤ・エルサレムに向けて、コリントの港から出帆し、第2回伝道旅行を終えます。

 ところが、アクラとプリスキラもそれに同行してコリントを離れます。彼らの舞台が変わるのですが、エ−ゲ海対岸に位置する小アジヤの、その地方最大の都市エペソで一行と別れ、そこに留まります。第3の支店を出そうとしたと推測されていますが、それより、パウロに勧められ、エペソに新しい教会をと願ったのではないでしょうか。間もなく一度ロ−マに戻っていますが、パウロがロ−マで殉教する頃、再びエペソに来ています。パウロ最後の書簡テモテ第2の手紙の中に、「プリスカとアクラによろしく」(4:19)とあります。その頃テモテはエペソ教会の牧師でした。30才そこそこで牧会に悩んでいる若い牧師テモテを、一生懸命支えていたのでしょう。彼らの家が教会になっています(Tコリント16:19)。そして、そこが彼らの終生の場所になったのではと想像します。

 エペソ教会にはAD90年代になってから、使徒ヨハネも牧師として活動していますが、エペソ教会が当時の指導教会の一つとなっていたことは間違いないことでしょう。伝道者アポロがやって来たとき、彼はまだヨハネのバプテスマしか知らなかったことから、アクラたちは彼を招いて神の道をもっと正確に説明しました(18:26)。パウロに師事したことが、実を結んだのです。そのアポロがアカヤに渡りたいと願った時、彼らはコリント教会に手紙を送り、アポロをよろしくと紹介しています。当時コリント教会はかなり問題の教会になっていましたが、それでもアクラたちは、痛みを持って祈り続けていたのでしょう。アクラとプリスキラの記事はそれで終わり、劇的なあれこれをしたということではありませんが、彼らはその忠実な信仰をもってパウロを支え、教会に仕えたのです。何回かプリスキラの名前が先に挙げられていますが、彼女はロ−マの名門出身だったようで、それが貴族社会の贅沢を捨て、ユダヤ人アクラと結婚しているのですが、そんな彼女への尊敬だったのかもしれません。主に用いられる器とは、そういうことなのでしょう。私たちもアクラとプリスキラに習い、導かれる方向をしっかりと見定め、地味な歩みかもしれませんが、忠実に主に従っていきたいと願います。