29 ピリピの看守

救いの信仰に

                               使徒 16:16−34
                               イザヤ 62:10−12
T 出会いの発端

 先回、ピリピ教会の、多分創設者であったろう紫布の商人ルデヤを見ました。ルデヤのことと言うよりも、神さまがお働きになるところに、イエスさまを信じる信仰が生まれ育っていくと学んだのです。ピリピ教会はヨ−ロッパ最初の教会でしたが、神さまはその最初のクリスチャンとしてルデヤを招き、その信仰をピリピ教会誕生に繋げていったのです。ピリピ教会もまた、神さまのお働きがあって建てられたものであると、私たちの前にいつも先行する、神さまのご計画を覚えさせられます。

 そのピリピ教会誕生に、もうひとり深く関わった人物がいます。何故か名前が分かりませんが、ピリピの看守と呼ばれています。パウロたち(パウロ、シラス、テモテ、ルカの4人と思われる)は、ルデヤとの出会いの後、何日間かピリピで伝道していましたが、ルデヤと出会った川岸の祈り場(礼拝場所)をずっと活動の拠点にしていたようです。「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った」(16)と次の記事が始まります。

 この女は〈占いの霊につかれていた〉とあります。占いの霊、パウロたちはそれを悪霊と考えていたようです。悪霊と聞くと、現代の私たちは一言で迷信と片づけてしまいがちですが、悪霊の存在を聖書は語っており、それを神さまに反抗するサタンの手下であると断じています。この世の財宝をその手に握り、彼につく者にそれを与えようと言えるほどの実力を持つ実在者です(マタイ4:8-9)。占いの霊が、金儲けに力を貸していたとしても不思議ありません。だからでしょうか、彼女の占いは良く当たり、主人たちにたくさん儲けさせていたようです。そんな彼女はパウロを鋭く見抜き、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と、彼らのあとについて、叫んでやみません。幾日もそんなことが続くので、パウロは彼女についている霊に向かって「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と命じました。するとたちまち彼女から霊が出て行き、彼女に占いをする力が無くなってしまいます。彼女のその後について何の記事もありませんが、彼女がイエスさまを信じたのではないかと想像するのは楽しいことです。彼女の主人たちはパウロとシラスを当局に告訴し、ピリピの長官たち(通常二人の行政長官が連帯で市政を担当していた)は彼らを逮捕し、何の取り調べもせず、むち打ちの罰を加えた後、牢に入れてしまいます。この時、パウロたちを預かって牢に入れた看守が出てきます〈ピリピの看守〉が、彼がパウロに出会い、イエスさまを信じる者となった出来事を通して、神さまのお働きをみたいと思います。


U 獄舎に繋がれて

 ピリピ在任のロ−マの長官たちは、この事件を軽く考えていたのでしょう。ロ−マの規則では、二人以上の看守が見張りをする筈でしたが、ここに記される看守はいずれも単数形です。恐らく長官は、不起訴の段階でもあったし、この事件は裁判にもならないと考えていたようです。ですから、刑の確定も待たずにむちで打ち、告訴した者たちの気が済むよう配慮したのでしょう。翌朝早く彼らを釈放しようとしていますから、そう考えて間違いないでしょう。記者ルカは投獄こそされませんでしたが、同行者としてパウロの近くにいたわけですから、彼自身の目で確かめてこのように記録したのです。

 長官たちがそんな軽い気持ちでしたから、牢番は一人しかつけなかったのです。〈厳重に番をするように命じた〉とありますが、これはロ−マ軍人である看守へのごく普通の注意、告訴した者たちへの配慮と考えて良いでしょう。そのような状況でしたから、看守の気持ちが緩んでいたとしても当然です。彼はパウロたちを奥の牢に入れ、足に枷を掛け、見張り番の位置を離れ、普段のように眠ってしまいます。奥の牢は、鍵のかかった扉をいくつも通る、重罪犯人用の留置所だったのでしょう。足枷とは、大きな板に半円の穴を開けたものを2枚用意し、穴が丸くなるところに足首を入れて2枚を合わせて鍵で固定し、それを鎖で石の壁に繋いでおくのです。地震が起きた時、「みなの鎖が解けてしまった」とあるその鎖のことです。彼はパウロとシラスを奥の牢に入れ、両足に枷を掛けて鎖に繋ぎ、安心して当直室?で眠りについたのでしょう。

 ところが、「突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった」(26)のです。目をさました看守は、牢の扉があいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。家族がいるところを見ると、退役軍人だったのでしょうが、規律を徹底的に叩き込まれた根っからのロ−マ軍人にとって、これは当然死をもって償わなければならないものでした。自殺でなくても、死を免れることはできなかったのです。


V 救いの信仰に

 そこにパウロが声をかけます。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」 彼は剣を抜いて、今まさに胸に突き刺そうとしていました。見張りの自分が眠り込んでいる絶好のチャンスに、むちで叩かれ、牢に入れられ、足枷までつけられて、夜が明けてどのような運命が待っているか、不安に眠れない囚人をたくさん見て来た彼でした。ロ−マの法律はそれほど残酷ではありませんが、非常に厳格であると誇りをもって知っていた彼でしたから、そのロ−マ法に裁かれる彼らの恐れを予想していました。すでに死刑の宣告を受けた者もいたでしょう。それが、こんな機会に、彼らは逃げ出さなかったのです。しかも全員! 彼は、何故囚人たちが逃げ出さなかったのか、その理由を知りたいと思いました。彼が自殺を思い留まった第1の理由は、それに尽きるようです。

 25節に「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」とあります。看守も当然彼らの賛美を聞いていたのでしょう。明日にはきっと何らかの刑罰が言い渡されるパウロたちが、まるで牢獄の中にいるようには見えません。その平安を囚人たちも感じ、それが彼らに逃げ出すチャンスを捨てさせたのでしょう。看守も同じ思いだったに違いありません。パウロたちの平安は、彼らの祈りと賛美の中にありました。ロ−マ軍人という当時最高の権力を持ちながら、なお上の権力に縛られている自分、ところが、パウロたちの生き方の中に、どのような神さまか分かりませんが、彼らのその神さまへの信仰が感じられます。彼は自殺を中止し、パウロのもとにひれ伏しました。自らのいのちの重さより、パウロの信じている神さまへの信仰の重さを感じたと言ってよいでしょう。「先生がた。救われるためには何をしなければなりませんか」「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」 そして、彼と彼の家族全員がイエスさまを信じ、バプテスマを受けました。〈十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です〉(Tコリント1:18)とありますが、彼はイエスさまを信じる信仰の中に、最高の救いを見い出したのです。魂の底までロ−マ軍人だった看守を尋ね求め、ご自分のものとしてくださったのは神さまでした。ピリピ書の中に〈カイザルの家の人々がよろしくと言っています〉と、これはロ−マ教会に加わった軍人たちのことと思われますが、実はこの看守がピリピ教会にまだ健在で、彼を思いつつ、パウロはこのように記したのではないかと想像します。〈全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ〉と言う彼らの喜びを、私たちも自分たちのものとしていきたいと願います。