24 ステパノ(3)

約束の時まで
                                
                                使徒  7:8−19
                                創世記 45:4−8
T 現代の私たちに

 聖書の人物、ステパノの3回目です。前回、7:2-53というステパノの長い説教が、旧約聖書の、ユダヤ人たちが良く知っている事柄を、ほとんどそのまま話していると言いました。本当はその中に、イエスさまの福音が伏線として隠されているのですが、注意深く聞いていかなければ、それは聞こえてきません。頑固なユダヤ人が相手だっただけに、彼は慎重に話しを進めていたのでしょう。彼らは、それが自分たちが神さまの選びの民であるというプライドに関わるものであったから、喜んで聞いたのでしょうが、しかし、ステパノの説教がこんなにも長い本当の理由に触れていきたいと思います。それは現代の私たちにも関わって来ると思われますから。

 ステパノはユダヤ人たちに向かって話しているのですが、ルカがこれを記録したとき、その読者はロ−マ人やギリシャ人といった他国の人たちでした。必要がなければ、彼はこれを編集し、いくらでも短くすることができた筈です。しかしルカは、旧約聖書の出来事を、ここで一度きっちり記録しておく必要があると判断したのでしょう。当時、教会は世界各地に建てられ、その数もだいぶ多くなってきたようです。そんな中で、旧約聖書の、イエスさまのずっと以前から続いて来た神さまのご計画を、全く知らない人たちが増えていました。現代の私たちに関わるというのは、そのところです。その時代も現代も状況は同じでしょう。それはイスラエルという民族の、歴史の部分でした。どうしても一度は、アブラハム、ヨセフ、モ−セ、ダビデといった、ユダヤの歴史の中での神信仰の理解を、話しておかなければならないという思いが、使徒行伝の記者ルカの中に生まれたのでしょう。ですからルカは、ステパノの説教のこの部分を、省略しないで書き留めました。彼はステパノの説教を記録しながら、神さまの救いの約束を、現代の私たちにまで語り掛けているのです。それが、ほとんど省略もされず、非常に丁寧に記録されているステパノの説教の、こんなにも長くなった一番の理由と思われます。


U 中心は神さま

 ステパノの説教に戻りますが、ここで彼が取り上げるのはヨセフです。8節に「また神は、アブラハムに割礼の契約をお与えになりました。こうして、彼にイサクが生まれました。彼は八日目にイサクに割礼を施しました。それから、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブに12人の族長が生まれました」とあります。割礼は神さまの選びの民ユダヤ人として登録されるという意味を持ちます。その選民がアブラハム、イサク、ヤコブと続き、ヨセフはヤコブの11番目の息子でした。「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました」(9)と、創世記のヨセフ物語からステパノの説教が続きます。ヨセフがヤコブの愛したラケルの息子だったから、ヤコブは他の息子とは比べものにならないほどヨセフを溺愛し、「イスラエル(ヤコブ)は彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。それはヨセフが彼の年寄り子であったからである。それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた」(創世記37:3)とあります。袖つきの長服、これは王とか貴族が着る高貴な服のことですが、それが他の兄弟たちのヨセフへの妬みを引き起こし、その妬みがヨセフをエジプトに奴隷として売ってしまうのです。

 ヨセフ物語は旧約聖書の中でも最も面白いものの一つですが、奴隷としてエジプトに売られたヨセフが、王の夢を通して神さまが啓示された飢饉到来の夢解きをしたことから、その知恵を認められ、総理大臣に任命されます。そして、やがてやって来た飢饉という緊張状況の中で兄弟たちと再会しますが、これは実にわくわくするところです。「しかし、神が彼とともにおられ、あらゆる災難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。ところがエジプトとカナンの全地にききんが起こり、大きな災難が襲って来たので、私たちの先祖たちには食物がなくなりました。……」(11〜)とステパノは続けます。ヨセフがエジプトに奴隷として売られたのは、彼とその兄弟たちイスラエル12部族が、深刻な飢饉の中で、神の民として存続するための、神さまのご計画だったのです。創世記45:5-8にこうあります。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この2年の間、国中にききんがあったが、まだあと5年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。……」と、非常に面白いヨセフ物語ですが、ステパノは、ヨセフを通してイスラエルの歴史を語ることが目的だったのではなく、神さまの、イスラエルという信仰の民へのご介入を話したかったのです。ですから彼は、17節に「神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中に増え広がり」と言います。彼の説教の中心は神さまの約束であり、その約束へのステパノたち初代教会の信仰が語られているのです。


V約束の時まで

 このヨセフ物語は、イスラエルのエジプト脱出における指導者モ−セの出来事に続いていきます。

 ヨセフとモ−セの間に、エジプトでの 430年にも渡る、イスラエル奴隷の歴史があります。彼らはその長い期間、最初から奴隷だったわけではなく、ヨセフにつながる寄留の民として優遇され、肥沃なデルタ地帯に住んで豊かなナイルの恩恵を受け、エジプトの文化にも神々にもたっぷり漬かり、神さまを忘れてしまいました。奴隷とは、その中で起こった悲惨です。同じことが、現代の日本人にも言えるのではないでしょうか。

 ヨセフの悲惨は、彼らイスラエルの奴隷としての悲惨につながっているのです。しかし、神さまはアブラハム、ヨセフに、「彼らを救う」と約束されました。きっと、その長い期間は、彼らが神さまのことを思い出すのを待っておられた、神さまの長い忍耐の期間ではなかったかと思います。私たちの忍耐と神さまの忍耐がどんなに違うか知らされる思いですが、そのような神さまの忍耐があって、私たちのイエスさまを信じる信仰の救いが実現したのでしょう。ヨセフ物語は創世記の終わりまで続き、 430年の空白の時代を経て出エジプト記につながっていきます。出エジプト記は、奴隷としてエジプト人から苦しめられた、彼らイスラエルの神さまへの叫びから始まっていますが、その叫びが神さまに届きます。「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。……今行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ』」(出エジプト 3:7)とあります。モ−セの登場は、「救う」と約束された神さまのご計画が実現するための登場でした。そして、忍耐の神さまは、こんなにどうしようもなく悪くなって来た現代に生きる私たちの悲しみも苦しみもご存じであり、祈りを聞いていると言われるのです。繰り返しておきたいのですが、ヨセフやイスラエルの悲惨は、現代の私たちのものに重なってきます。兄弟同士の揉めごと、両親の離婚、家庭内暴力と、家庭崩壊が増え続けています。家庭崩壊ばかりでなく、重大犯罪に関わる低年齢化が年々深刻になってきています。ヨセフの場合もそうであったように、愛の喪失こそ、その一番大きな原因ではないかと思われます。

 イエスさまは「(終末の時には)愛が冷えていく」と言われました。今がその時代かと思われますが、本当に愛がどんどん失われています。今こそ、愛の中心たる神さまが求められなければならない時でしょう。イエスさまの十字架を見つめて頂きたいのです。イエスさまは、私たちを罪から解放しようと、ご自分が身代わりとなり、十字架に死んでくださいました。そこに神さまの愛、神さまの約束の実現があるのです。私たちが神さまに近づいていくのを、神さまがどれほど忍耐して待っておられるか、その忍耐と愛の神さまに、私たちの心を向けましょう。